天使の到来

 

「イギリス」

 

 日本の四角い建設物がごちゃごちゃと立ち並ぶ首都圏に比べ、広々とした解放感にあふれるイギリスの建造物は重厚で装飾的だ。
 ヒースロー空港に降り立った月を、ロンドンはやや重たそうな曇天の空で迎えた。じきに日が暮れる時間帯というのもあるだろう。
  
 ヒースロー・エクスプレスでパディントン駅まで向かったライトは、降りるころ少し後悔をしていた。地理に明るくないため一番便利がいいものをと選んだが、乗車料がやたら高かった。帰りは普通電車か地下鉄を使おうと心に決める。充分に貯めたバイト代とはいえ、予算はあまりない。
 ホームを降りてから見上げるとはるか頭上に欧米風の天井がアーチを描いており、行き交う人も空気も構内も、全てが月にここは外国なのだと認識させた。
 ヒースローからまっすぐウィンチェスターに向かってもよかったが、13時間も窮屈な飛行機の中にいたのだ。身体を伸ばしがてらロンドンで一泊するつもりだった。
 日本を発ったのは午後。イギリスは時差があるためまだ夕刻という時間帯だったが、日本時刻では未明の時間帯だ。機内ではほとんど寝られなかったので、身体を休ませ、時差に慣れておきたい。事前に予約を入れておいたホテルに向かうと、月はチェックインを済ませ、部屋に入った。
 ベッドに座ると、一気に旅の疲れが出た。
 このまま寝てしまおうかとも思ったが、先にマットに連絡しておかねばと考えなおし、渾身の気力でもう一度立ち上がる。
 携帯は国外対応のものにしていない。彼に連絡を取るなら、レセプションまでもう一度行って公衆電話を使う必要があるだろう。月は荷物から財布だけを引っ張り出すと、それを持って部屋を出た。

 木目調と金を基調としたレセプションがシャンデリアに照らされ浮かび上がっている。
 月が公衆電話の場所を聞くと、受付のものを使って構わないというので礼を言って借りることにした。覚えてはいるが、念のためメモっておいたマットの連絡先を今一度取り出すと、その通りにプッシュホンを押す。
 数回のコールの後に、聞き覚えのある声が現れた。

『Hello? This is Matt.』
「マット、覚えてる?月だよ」
『ライト? あ〜、ライト、日本の!覚えてるよ、どうした?イギリスに来る金がたまったの?』
「もう、来たよ。今ロンドンにいるんだ」
『本当に?すごいな、行動派だなライト。じゃー明日にでもこっち来るの?』
「そうしたい」
『ハウスの場所分かる?分かるよな?じゃ、午後からでいい?ウィンチェスター、ロンドンから鉄道で一時間だから』
「ああ、じゃあ午後に」
『待ってるよ、じゃ』
 会話はすぐに終わり、月は電話を置いた。
 レセプションの女性に礼を言うと、夕食がまだならホテルのレストランはどうかと勧められる。身体は空腹を訴えていたが、今はそれより疲れて眠りたかった。

 部屋に戻って服を脱ぎ、下着姿になると、月はベッドにもぐりこんだ。まだ冷たい白いシーツの感触が気持ちいい。
 その感触を楽しむ暇もなく、月は意識を手放した。

 

 

 翌朝、充分に睡眠をとって旅の疲れを癒した月は、ホテルのレストランのテラスで朝食をとった。
 昨日ロンドン上空に陣取っていた緞帳のような雲は夜の間に去ったらしく、差し込んでくる朝日が気持ちいい。闊歩する英国紳士淑女を見ながらの食事は、十数時間ぶりの摂取を勢いよくせがむ月の健康な胃袋を大いに満足させた。

 10時過ぎにホテルをチェックアウトし、もう一度駅に向かう。ロンドンからウィンチェスターまで、マットが言ったように電車で一時間ほどなのは、先に下調べしてあった。
 彼の居るワイミーズハウスは郊外なので、更にもう少し移動時間がかかるはずだ。
 見学がてら街中をぶらぶら歩いて、電車内で食べるために通りがかりの店でフィッシュアンドチップスを買って駅まで戻ると、月は切符を買おうと駅内をうろついた。
 パディントン駅はターミナルなので実に広い。奥の方に切符売り場を見つけたが、長蛇の列ができていた。ガラガラの自動販売機もあったがそちらはクレジット用らしく、やむなく月も列の後ろに並ぶ。ようやく順番が回ってくると、今度は切符代の高さに辟易した。イギリスは鉄道料金が日本の感覚とずいぶん違い、特に首都圏で育った月には桁外れの金額に感じられた。
 切符を買ってから確認すると、目的の電車があと五分ほどで出ることになっている。月はあわててホームに駆け込んだ。電車に駆け込んでから改札を通らなかったのに気付きぎょっとしたが、そういえば昨夜もそうだったと思いだす。イギリスの鉄道には改札がないようだった。

 パディントンからグレートウェスタン鉄道で30分かけてレディングまで行くと、今度はそこでヴァージンの列車に乗りウィンチェスターへ。
 窓から景色を眺めながらフィッシュアンドチップスを腹に収め、ウィンチェスターに着いたころには昼過ぎだった。

 もうすぐLに会える。
 何ヶ月もの間、そのためだけに頑張って必死で金を貯めて、10時間以上もかけてこんな遠いところまで来たのだ。
 その目的がようやく果たされようとしているというのに、全然実感がわかなかった。まるで感覚がマヒしてしまったかのようだ。
 Lはどんな人間なんだろう。自分が来ると聞いてどう思っているだろうか。

 ウィンチェスターで降りる人々について一緒にホームに足を進める。
 駅を出るところで、一人の少年と目があった。天気がよく眩しいからなのか暗い色のゴーグル、ダークカラーのボーダーシャツにごついベルトとジーンズをつけている。ブロンドとブルネットの中間みたいな色の少し長めの髪がコーカソイドの顔立ちを無造作に囲んでいた。月より少し背が低く痩せている。
 壁に寄り掛かって、手にしていた携帯用ゲーム機から視線を上げたところのようだった。

「ようライト」
 唐突に話しかけられ、驚いた月は目を白黒させた。
「…え、マット?」
「そう、じゃ、行こうか」
 ゲーム機をしまいながら促され、月は彼について駅の駐車場に向かった。陽光を照り返す車体の間をマットは彼のものらしい車の方へ歩いていく。

「なんで僕だって分かったんだ?何時に着くかも言ってないのに」
 車に乗り込みながら月が尋ねると、「若い単独の日本人男性なんてそうそう居ないだろ、来るまで待てばいいし」と帰ってきた。
 慣れた手つきでエンジンをふかし、車を動かすマット。何歳なのだろう。自分と同じかもう少し下に見えるのだが…月は眉を寄せた。日本人は外国人より若く見えるんじゃなかったか…?

「あのさ、マットって何歳?もう運転できる年なの?」
「……固いこと言うなよ。院まで歩けってか?」
 どうやら、不安は的中のようで。イギリスは18歳から車の免許は取得できるが、彼は月より年下らしい。
 車は、いくつも同じ形の建物が並ぶ中を走っていく。現首都のロンドンに比べると、とても緑の多いところだと月は思った。
「ヒースロー空港から来たのか?」
「そうだけど…」
「じゃあロンドンまでいってたら遠回りなんじゃないの?空港でレンタカー借りればよかっただろ」
「そんな金はないよ」
 月は肩をすくめた。予算から何割も飛行機代に持ってかれたのだ。
「直通バスだってあるぜ」
「バスはよくわからないんだよ…」
 あとからどうこう言うくらいなら電話であらかじめ説明しておいてくれればいいのだ。月はため息をついた。

 建物が少しまばらになり始め、畑が広がる寸前くらいのあたりで車はスピードをゆるめた。
 一つの建物の敷地内に入ってゆく。屋根の上や柵の部分にクロスのモチーフが多く、一見教会かと月は思った。このくらいの距離なら、別に駅から歩いても構わなかったのではないかと思う。
 建物の裏手に駐車すると、マットは運転席から降りた。月も一緒に車を出る。

「さて、ワイミーズハウスにようこそ♪」
 そう言いながら彼はジーンズのポケットからくしゃくしゃになった煙草を取り出し、一本くわえて火をつけた。

 

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※マットは17歳の設定にしてみました。14歳ちょっと小さすぎたので…