天使の到来

 

「父の秘密」

 

「はい」
 大学の合格発表通知を父の前に出し、月は微笑を浮かべた。

「約束。教えてくれるよね?Lの手掛かり…」
「ああ…いいだろう」
 総一郎は複雑な顔をし、あらたまって月に向き合った。

 もう夜遅い。妹は当に寝に行っており、母親も先ほど寝室に入って行ったところだった。今日は少し帰宅の遅くなっていた父は、妻の用意してくれた酒をたしなんでいるところだった。
 月は父が座っているリビングのソファの、向かい側に自分も腰かけ、彼の言葉を促した。

「あれは…私がまだ警視長で、ある事件の局長を務めている時だった」

 総一郎はぽつぽつと話し始めた。あまり他人に話したいような内容ではないらしく、彼の表情は終始曇っていた。

 

 当時から部下の信頼も厚く、行動派だった総一郎は、その日もICPO会議に日本警察代表として出席していた。ロンドンで行われたその会議は日本とイギリスで交互に行われている連続殺人事件の関連性についてが議題で、両国あわせてなら既に12人もの被害者が発生しており、同一事件とみなしてLに協力を仰ぐべきではないかという話になったのだった。

 会議の休憩時間、総一郎は手洗いに行こうとして、建物の中で迷ってしまい、10分ほどうろついた揚句、あまり人気のない一画に利用者がほとんど居ないようなトイレを見つけて中に入った。用を足し、手を洗って出ようとすると、ちょうど入ってきた男性とぶつかりそうになった。

「これは失礼」
「いえいえ、お気になさらず」
 ここがイギリスだということを忘れ、うっかり口をついてしまった日本語に、こともなげに日本語で返すと、男は個室に入っていく。
 もう老人と言っていい外見にも関わらずスッと通ったまっすぐな背筋の、上品な紳士然とした白髪に口髭を蓄えた男で、あまり刑事にも見えなかったが、外国の警察官は日本とは違うのだからああいう雰囲気の刑事もいるのだろうと総一郎は思った。ただ、男性の顔をどこかで見たことがあるような気がしてならない。それも最近だ。会議で見たのだろうか。
 トイレを出て廊下を散歩ほど歩きかけ、ふと総一郎はポケットを探った。
 ハンカチを落としてきてしまったようだ。妻がいつも用意してくれるもの、なくしてきたなどと言ったら文句が返ってくるだろう。あわてて踵を返し、今出てきたばかりのトイレに足を踏み入れた。

 てっきり、まだあの老人が個室にいるだろうと思っていたのだが。
 そこに居たのは、つばのある帽子で顔を隠し、真っ黒な皮のハードコートに身を包んだ長身の人物。急に戻ってきた総一郎に対して狼狽しているのが、表情は見えずとも伝ってきた。
 見覚えのある姿に総一郎は眼を見開き、思わずその名を口にした。

「ワタリ…」

 Lの代理人として何度か会議で見ていたその姿は、たとえ顔が見えずとも間違えようもなかった。
 先ほど自分が来るまでこのトイレには人がおらず、また入ってきた人物は先程の老人一人だけ。ならば、ワタリの正体とはあの…

「口外しないで頂きたい」
 先刻口にした柔らかい日本語とは全く雰囲気を違えた固いクィーンズイングリッシュで彼は言い放った。
「私の正体を黙っていていただけるなら、それ相応の見返りを差し上げましょう。ですからどうか黙っていていただきたい」
 言外に「もし喋ったら…」という響きを感じ、総一郎は眉を寄せた。
「心配しなくとも私は警官だ、口は固い。本人が黙っていて欲しいことを周りに漏らすようなことはしない」
 いささか気分を害し、負けずと総一郎が英語で返すと、ワタリは頷いた。
「…では急いでいるので」
 一礼すると、ワタリはトイレを出て行った。
 急いでいるはずだ。腕時計を見ると、もう休憩時間が終わる時間だった。総一郎もあわててハンカチを拾い、会議室に戻ったのだった。
 再開した会議の壇上に立ったワタリが、総一郎には今までより少し親しみやすく感じられた気がした。

 

 会議が終わり、日本に帰るエアラインの中で機内誌を手に取り、総一郎は「あ」と声を上げた。
 同じ機内誌を、イギリスに行く途中でも読んだのだ。そしてそこにとある老人の写真が載っていた。それこそがトイレでぶつかりそうになった、あの男性だったのだ。
「“世界”の父親」という記事で、男性の名はキルシュ・ワイミー、発明家であり、その発明によって培った資産を基に、いくつもの養護施設を設立し、世界中の孤児に慕われている偉人という記事だった。
「そんな人物が、Lの補佐を…」
 その時ふと、総一郎の頭に、もしかしてLも元孤児なのでは?という考えが浮かんだ。

 日本に帰った総一郎を待っていたのは辞令だった。
 特に目立った手柄を立てたわけでもないはずなのに、総一郎は警視監に昇格となり、警察庁次長に任ぜられた。通常、警視長が警視監に昇進するのは定年の時とされており、総一郎のそれは異例のスピード出世と言えた。
 総一郎は驚き、そんな辞令を受ける謂れはないと辞退しようとしたが、何故か辞退は認められず、次長の席は確定となった。
 頭に浮かぶのは、ICPOであの男が言ったセリフ、「それ相応の見返り」。全世界の警察を動かせるLなのだ、人事異動にまで関われるとは知らなかったが、この昇進こそがあの時言われた見返りなのではないだろうか。
 正義感の強い総一郎には、この昇進は耐え難かった。何か手柄を立てたわけではない。もともと男の正体は黙っているつもりだったのだし、他の同僚を差し置いてこんな優遇を受けるなど良心が痛む。何度か辞表を出そうかとも思ったが、妻や子供たちのことを考えるとそれもできず、結局は口を閉ざすことにした。
 しかし、この不当な昇進の件は、総一郎の中でずっとわだかまり、胸の奥に重い石となって残っているのだった。

 

「…以上だ…」
「父さん」

 視線を落としてうなだれ、語り終えた父に、月は思わずいたわる言葉をかけた。
「ずっと気にしてたんだね…」
 目の前の父は気落ちしきって憔悴したように見える。今まで誰にも言えず、良心の呵責に耐えてきたのだろう。

「おまえも、こんなに早く警視監などおかしいと思っていただろう?黙っていてすまない…軽蔑したか?」
「そんなこと思わないよ、父さんが昇進したのは、父さんが人望が厚くて真面目で、立派な人だからだ。父さん本人の実力だよ。僕は今までも、そしてこれからも、父さんの…夜神総一郎の息子であることを誇りに思うよ」
 総一郎は一瞬顔をゆがめた。

「あの時…」
「ん?」
「おまえが受験をやめると言った時、もしかして私が不当に昇格したことに気づいて、警察組織に嫌気がさし、警察に入るのをやめたくなったのかと、少しだけ思ったよ」
「そんなわけないじゃないか」
 月は父の手を取った。
「僕の夢は、父さんみたいな立派な警察官になることだ。今だってそれは変わらないよ。大学もちゃんと行くよ」
「そうか…」
 総一郎は安心したように顔をほころばせた。
「もう、遅いから寝るといいよ、父さん」

 

 父親を寝室に見送り、自室に入ると、月はパソコンの前に座った。
「キルシュ・ワイミー…」
 Lの代理人だった男の正体。父がくれた手掛かりは、実に有益なものだった。『L』という人物の正体に、一気に近づいたような気がする。

 月はネット上のキルシュ・ワイミーの情報を片っ端から漁った。
 有名人であり、ある程度の個人情報やパーソナリティーはすぐに知れた。発明家であり、資産家であり、現代の偉人。
 何とか本人と連絡をとれないかと思ったが、インターネット上からは無理のようだった。有名人ではあるが、一般人の意見を受け付ける窓口や、組織的な法人としての活動はしていない。『L』とのつながりを匂わせる事柄も一切なかった。

 月はワイミー個人について情報を得るのをやめ、彼が創設したという孤児院や養護施設について片っ端から調べて行った。
 先進国にあるものはホームページももっている。そのいくつかはネットワークでつながっていた。優れたハッキング能力を持つ月は、そのホームページから、施設の持つデータベースやマシン内まで潜りこんで探ることもできたが、探している情報は見当たらない。
 そうこうしているうちに窓の外が白んできて、朝になったと悟ったが、月は構わず作業を続けた。
 どうせ大学の入学式までは暇なのだ。運転免許取得だって、誕生日の二月末を過ぎるまでは無理。今の自分には、時間だけは腐るほどあるのだ。

「…?」
 とある施設のデータベースにハッキングをかけた時、月の表情が曇った。
 入り込めない。今まで出会ったことのないような強力なファイアウォールが組まれている。国家情報機関でさえ、これほど強固ではない。
 施設の名はワイミーズ・ハウス、所在地はイギリス・ウィンチェスター。昔読んだ、シャーロックホームズ作品にも三回ほど出てきていたので、親しみやすい地名だった。もと首都であるその街は、首都がロンドンに移った今は古い建物が並ぶ小さな街となっているはずだ。そんなところにある施設が、インターネット上で侵入に対しこんな強固な防御対策をとっているとは?
(もしかして…)
 孤児施設とは外見だけで、ここにLが?
 月は躍起になって、何度もデータベースに対しての侵入を試みた。しかしどの方向からのアプローチに対しても、城壁は完璧にそれを跳ね返すのだった。

 

 小一時間も経った頃。

 

 パツン。

月のパソコンが、唐突に切れた。画面が黒くなり、何の応答もしなくなった。
「え?」
 困惑し、凍りついた月の前で、またモニターがぱっと点灯し、真っ黄色な画面の真ん中に真っ赤でポップな字体の「M」が浮かび上がった。
 そして更に驚くことに、月のパソコンが挨拶をよこしてきた。

 

『どうもー!御機嫌ですかー?』

 

 

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