天使の到来

 

「夜神月」

 

 夜神月は成績のいい受験生だった。
 いや、そんな簡単なセリフには収まらない。彼の持ち合わせた高レベルな頭脳は、適当にこなしたはずの全国模擬で一位の成績を難なく維持し続けるほどのもの。専門機関にも引けを取らないハッキング能力を持ち、少なくとも日本国内では夜神月に侵入できないマシンは存在しない。
 身体能力も高く、過去にたしなんでいたテニスでは全国チャンピオンになったことも。均整の取れた四肢は彫刻のように美しく、モデルにスカウトされたこともある。
 見目もよく、誰もが絵に描かれたような美少年と賞賛する整った顔立ちを持ち、世間一般の同じ年頃の男女が持つような悩みは、ひとつとして彼には存在しなかった。しかしそれでも憂いが全くないというわけではない。

 彼は色々なことに退屈を覚えていた。ルーティンワークのように義務化されている通学や受験勉強も、先が見えた自分の将来にも、程度の低すぎる周りの友人たちとの付き合いにも。
 月は自分が突出しすぎている非凡な存在であることを重々理解していたし、この日本という国のなかでそつなく生きていくにはそれはあまり喜ばしい事態ではないと気づいていた。もっと刺激的な何かが欲しい。そう願っているのに、それが何なのか、どこに行けば手に入るのかが分からない…。
 大学に行けば何かが変わるかもしれない。レベルの高い、会話の合う友人が見つかるかもしれない。
 そう思いながら…多分それが叶わないであろうことはどこかで理解していたが…飽和状態のストレスをやり過ごす日々だった。

 

 その時彼は、深夜にテレビを流したまま受験勉強をしていた。
「そろそろ寝るか…」
 ふう、と息をつき、もう内容は覚えきっていてほとんど意味のない教科書を閉じ、月はテレビを消そうとした。その時、
「My popular name is "L".  And I am only person who can manage the police of the whole world freely. ...I...was L.」
 唐突にテレビ画面が無機質なアルファベットを映し出し、若い男性の声が流れ出してきた。
 変声機も何も使っていないはっきりとした発音の英語。
 英語に関してはヒヤリングも完璧だった月は、勿論その言葉の意味を即座に理解したが、放送自体がなんなのかさっぱり分からずに硬直していた。それでも脳に入り込んでくる英語は次々と衝撃的な言葉を紡ぎ出して行く。

(殺人の…手段?…死刑…?死刑囚を…殺す?)
 眉をひそめて、何の動きもないテレビ画面をただ凝視する。そして頭の中では今しがた聞いたばかりの放送を何度も反復した。
 これは、月の知らない世界のことだった。
 退屈だと思っていた水槽の中のような世界に、急に猛烈にまぶしい太陽の光が照り付けてきたかのような…そんな錯覚を感じた。

「But...I murdered people... is... not a detective... any...more. already..., I'm... just a... killer」
「killer」という単語の途中…放送の途中で、唐突に声は途切れ、そして映像は先ほどまで流れていた何の変哲もないニュースに戻った。
「…………なん…だ…今の…」

「L」という名を、月は聞いたことはなかった。
 しかし、月の父親は刑事だ、「全世界の警察を動かせる」というのが本当であるならば、翌朝父親に訊けば「L」の存在を知っているかもしれない。
 本当に「全世界の警察を動かせる」ほどにすごい存在ならば、その「L」がこんな放送をテレビで流したというのは、もしかしてすごいことなのではないだろうか。
 死刑囚は本当に死んだのだろうか。
 そうだとしたら一体どんな方法で彼らを殺したのだろうか。
 本当に今のこの放送が本物であるのなら、はたして世界はいい方向に進むのだろうか。生まれ変わるのだろうか…彼が言うように。
 一分以内に死ぬと言っていた…月はパソコンの電源を入れ、急いで先ほど聴いた五人の居場所を調べた。五人のうち三人まではすぐに居場所が確定できた。そのうちの一人は、今は他の国の拘留所に居るものの、日本人だった。その国に帰化した後犯罪を犯したようで、確かに死刑が決まっているようだ。
 その五人が本当に死んだのかどうかは、今の時点ではまだ分からなかった。死んだにせよ生きていたにせよ今は大騒ぎで、どこのデータベースにすら上がってきてはいないだろう。

 月は諦めてパソコンの電源を消し、眠りにつくことにした。
 布団に入って目を閉じるが、興奮しきっていてなかなか眠りに落ちることが出来ない。
 今しがた聞いた若い男性の声を、頭の中で何度も再生させる。一言一句あやまたがわずに。
 さっきまでぬるいとは言え受験の波にたゆたって居たはずの自分が、この男性の声に一気に吊り上げられ、急に密度の増した世界に放り込まれた…そんな気がした。

 世界は…生まれ変わるのだろうか。
 そう考えると、胸がドキドキした。

 

 

 翌朝、服を着替えて食卓に行くと、父親の夜神総一郎が朝食を取っていた。
「父さん、おはよう」
 まだ少し興奮の冷めやらない声で挨拶すると、父は同じように「おはよう」と返してきた。夕べのことは何も知らないようだった。それも当然だ…午前一時を過ぎた深夜だったのだし、その頃父はもう寝入っていただろう。

「あのさ、父さん、Lって知ってる?」
「ん?ああ、知ってるぞ?どうした?月」
 警察内の総一郎の役職は次長であり、ICPO(国際刑事警察機構会議)に何度か参加したほどもある人物だった。その彼が知らないのであれば夕べの放送はいたずらだったで終わりそうだが、期待を裏切らない父親の返事に月は心を躍らせた。
「全世界の警察を動かせる唯一の人間って本当?」
「ああ、まあそうだな…なんというのかな、一応、探偵…と言っていいのかな、この世界の裏のトップと言うか…世界の迷宮入りの事件を解いてきた人間だ。もっとも、顔も名前も居場所も、正体は誰にも分からないんだがな」
「ふうん…」
 初めて聞いた。月は昨夜の放送を思い出していた。そんなにすごい人物なら、確かに凶悪犯人を法に頼らず処分してしまいたくなるかもしれない。苦労して捕まえた犯人があっさり脱走や釈放で自由の身になるのでは納得行かないだろう。

「Lがどうかしたのか?月」
 総一郎が怪訝な顔で尋ねてきた。
「ああ、ゆうべ、寝る前に…テレビで変な放送が入って」
「変な放送?」
「うん、私はLですって…。人を殺す方法を手に入れたので、これからは死刑囚は自分で殺すって言ってた」
「なんだって?」
 父親は難しい表情を浮かべ、詳しく月に尋ねてきた。
「今から一分以内に五人の死刑囚を殺すって言ってたよ…もし本当のことを言ってるんならもう死んでると思うな」
「こうしちゃおれん」
 総一郎は食べかけのトーストを皿に置くと、立ち上がった。
「急いで警視庁に行ってくる」
 そう言いながら、背広に腕を通し始める。
「うん、でも、どうせすぐに死刑になる予定の人たちだったんでしょ…殺したって別にいいんじゃないの」
「そうはいかない、たとえ死刑囚でも殺人は殺人だ」
「だけど、五人の中に日本に居る人は居なかったよ。警視庁に行ってもすぐには分からないうと思うな」
 月のセリフには聴く耳持たず、総一郎は支度を終えると慌てて玄関を出て行った。
 少し遅れて母の幸子がリビングに現れ、「お父さんは?」と訊く。
「仕事行っちゃったよ」
「あら?お食事の途中で…何か事件かしら?」
 幸子は頬に手を当て、首をかしげている。
 月はキッチンに立ち、自分の分の食パンをトースターに入れると、母が用意してくれたおかずをキッチンに運んだ。
 今夜、父が帰ってきたなら、死刑囚の様子を聞こう…そしてもし本当に五人が死んでいたとしたら…そう思うと、胸の奥がワクワクと今まで感じたことのない興奮に疼いた。

 

 

 学校も塾も終わり夜になり、机に向かってやる気のない受験勉強に精を出していると、父の帰宅した気配がした。階段から玄関を覗き込むと、少し疲れた様子で靴を脱いでいる。降りて行き声をかけると、「ああ、月…」と彼は息子の存在に気付いたようだった。

「どうだったの?犯罪者」
「ああ…五人のうち、四人までが死んでたよ」
 期待通りの父の返事に、月の胸中が歓喜に沸き立った。
「すごいや、殺されたの?どうやったんだろう?獄中の犯罪者を」
「さあ、死因は心臓麻痺みたいだからな…ただの偶然かも知れん、殺されなかった人間もいることだし」
「でも、80%だろ、すごいよ」
「その件で、近々ICPOに行くことになるかも知れん…」
 父は浮かない表情でリビングに入っていく。母が迎えている声が聞こえた。

(本当だったんだ…本当にLは世界を生まれ変わらせるつもりなんだ)
 もし本当に、その直接手を下さない手段で、凶悪な犯罪者だけを次々と殺していったらどんなことになるだろう。人々は死を恐れ、犯罪に手を染めなくなっていくだろう…そして世界中の人間が優しい心を持ち、犯罪のない美しい世界を作ることに従事するのだ。なんという理想的な光景だろう!
 惜しむらくは、それを行うのが自分ではないことだ。もし自分がその手段を持っていたとしたら、自分がこれと思う者を次々と死に至らしめ、出来うる限りのスピードで世界を矯正するだろう。Lは、どんな人選でどんな風にこの世を正していくつもりなのだろうか?

 Lに会いたい。
 月はそう考えている自分に気付いた。あの声からすると多分若い男性だろう…それ以外は名前も国籍も現在地も顔や背格好も何一つ知らない相手なのに…、生まれてからこの方、ここまで誰かのことを四六時中考えたことはなかった。
 ああ、L。L。L。L。
 側に行き、彼がどんな風に世界を捉えているのか、悪や正義に対してどんな意見を持っているのか、その言葉を聞きたい。考えを聞きたい。意見を交わしてみたい。
 きっと、思うままにならないことなど一つもないのだろう。退屈を感じることもなく、自分とは全く違う世界の感じ方をする人間なのだろう。
 会いたい。
 会いたい。

「ICPOはさ、Lに連絡がつけられるの?」
 リビングまで追いかけていき、月が尋ねると、父は大儀そうに振り向いた。
「ああ…どうもいつもLに連絡をつけてくれていた男が行方不明らしく、誰も彼に連絡することが出来ずにいるようなんだ…どうした月、今朝から、そんなにLが気になるのか?」
「気になるよ、だって、犯罪者を殺して世界を是正するなんてすごいじゃないか」
「たとえ犯罪者だろうと、人を殺せば人殺しだ…ICPOは彼にシリアルキラーのレッテルを貼るだろうな」
「……………」
 人を殺せば人殺し…
 月は急に自分の内心を責められたような気になり、口ごもった。
 確かにそうだ。どんな悪人が相手だろうと、人を殺せば人殺しなのだ…だがICPOは、名前も国籍も背格好も分からない人間をどうやって追い、どのようにして捕まえるつもりなのだろうか。
「ICPOはLを捕まえられるかな?」
「さあ…やってみんとわからんな、だが放っておくわけにはいかないし、追うだろう」
 総一郎はこの話題をやめたがっているようだった。
 月は会話を諦め、自室に向かった。

 ICPOは、Lを捕まえるつもりだ。
 だが、ICPOに探し出せるのなら、自分にも探すことが出来るのではないだろうか?
 名前も顔も国籍も、何一つ知らないところは、自分も同じ条件なのだ…。
 月は机に向かい、Lのことを考え続けた。
 きっと明日からも、またニュースなどで彼の名前を見ることがあるに違いない…何と言っても、世界を生まれ変わらせると宣言したのだ!よほどアクティブに動かなくては、そんなの無理に決まっている。明日からの報道を見るのが楽しみでしょうがない…

 同じ問いを何度もなぞりながら、月はLのことを考え続けていた。

 

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