天使の到来

 

「最後の名前」

 

 

 その夜は何とか空いているホテルを見つけ、宿泊することができた。
 結局ついてきたレスターがニアと一緒の部屋に入り、月とメロとマットがエキストラベッドを入れてもらったツインの部屋に泊った。
 翌日はマイペースな彼らに振り回されっぱなしで、(レスターはホテルに置いて出てきた)目的の場所を全て回るのに丸二日要し、月が竜崎の待つホテルに帰ったのは三日後のことになった。

 

 

 月がホテルに着いたのは昼を少し過ぎたころだった。レセプションでハルが出迎えてくれる。
「おかえりなさいライト。さっきドヌーヴからあなたが帰ると連絡があったわ。他のメンバーは一緒じゃなかったの?」
「みんなは街で待ってる。竜…彼は…部屋に居る?」
「ええ、居るはずよ」

 月は速足でエレベータに向かった。早く、早く竜崎に会いたい。

 部屋に入ると、いつものソファの上でいつものように座っている竜崎の姿があった。月に気づき、ゆっくりと顔を向けてくる。その目にかすかに喜びの光が宿ったのを月は見た。心臓が跳ね上がった気がした。たった三日しか離れていなかったのに、触れたくて抱きしめたくてたまらない。
「本当に…帰ってきてくれるとは…」
「あたりまえじゃないか」
 月は荷物を下ろし、竜崎のそばに駆け寄ると、隣に座った。
「何から話したらいいのか…。そう、これ、返すよ」
 月は借りていたノートの1ページを出すと、竜崎に見せた。彼は紙面を見てかすかに眉を曇らせた。
「名前が…増えています」
「ああ、メロが…書いたんだ」
「メロが?」
 思いもよらなかった名前らしく、竜崎は動揺の声を上げた。

「メロと会ったのですか?でもなぜ、彼が名前を…どういうことです?」
「名前を書いたのは、この紙の効力を試したからだ」
「そ、それで…効力は」
「あったよ、この名前を持つ人間…10分後に刑の執行が決まっていた犯罪者だったけど…は、死んだ。心臓麻痺で」
「ああ…」
 竜崎は両手で顔を覆って、嘆息した。そんな竜崎の姿を見て月は胸が痛んだ。確かに今自分がしたのは竜崎の疲弊した精神に追い打ちをかける行為だ…だが、本題はそんなことではない。月は覚悟を決め、喉を鳴らした。

「竜崎…」
「…はい?…」
「この紙に、僕の名前を書いてほしいんだ」
「…!………」
 竜崎は、驚愕に目を大きく見開き、月を見た。唇が震えている。

「本気で…言っているのですか」
「ああ、本気だよ」
「…嫌です」
 竜崎はゆっくり首を横に振った。

「いやです…そんなこと、できません」
「いいから、書いて」
 月は、竜崎の手にボールペンを握らせた。離そうとしてもそれを許さず、上から指を押さえつける。
「いやです…いやです!」
「いいから書くんだ!」
 月の怒号に、竜崎は大きく開いた目から涙をぼろぼろ流した。それでも月が決して譲らないのを悟り、震える手でペン先を紙面に押し付ける。

「お、お願いです…」
「だめだ、書いて」
 冷徹に言い放ち、竜崎が逃げられないように月は彼の肩をがっちりとつかむと、ペンを掴む手の甲を擦って先を促した。
 竜崎は泣きながら、一字一字線の震えた漢字を紙面に綴っていく。

 最後の月の字を書き終えると、竜崎はペンを落とし、再び顔を覆った。
「竜崎…」
 その彼の手を掴み、月は竜崎の髪を撫でた。可哀そうなほどに震えている彼の口からは嗚咽が漏れている。肩を抱いて、髪を撫でながら月は時間が経つのを待った。自分の心臓が激しく鳴っているのを感じる。腕時計の秒針が、名前が書かれてからかっきり240度、角度を変えていくのを見守り、そして更に十秒ほどを経過してから、ゆっくり息を吐いた。

「竜崎…40秒経ったよ」
「………」
 竜崎は顔を上げて月を見た。その目からはとめどなく涙があふれ、目尻が痛々しいほど赤く染まっている。

「え…?」
「40秒経った…僕は死なない」
「………死な…ない?」
 竜崎は恐る恐る月の手を握った。体温が暖かいのを確認し、それでも理解が追いつかないようにゆるゆると首を振る。
「何故…?」
「なぜなら…」
 月は、テーブルの上から紙切れをとりあげた。
「これは、僕の名前じゃないからだ」

 

 そこには、「八神 月」と書かれていた。

 

「僕が前にお前に自分の名前の話をした時、僕が一方的に喋ってるだけだったけど…僕は、苗字に『神』の字が入ること、そして『月』と書いてライトと呼ぶ、そう言ったね。日本では、やがみ…という苗字は一般に『八の神』か『矢の上』と書く。だからお前も、僕の名前は『八の神』と書く方だと思いこんだ。だが、実は僕の苗字は、『夜の神』と書くんだ」
「夜の神…」
「そう確信していたからこそ、僕の名を書いてもらったんだ。そして証明できた。書きこまれた名が本名じゃなかった場合、書かれた人間は死なない」
「何故…そんな証明を?」
「この、ワタリの名も…本名じゃなかったとしたら?」

 月は竜崎が一年前に書いたという、キルシュ・ワイミーの名を指で示した。
 そこには、「Quillsh=Wimmy die of disease」 そう書かれている。

「これを見てくれ、竜崎、日本で発行された雑誌だが、こっちではワイミー氏の名が、WAMMYになっている…分かるか?」
「WAMMY…で、でも、この綴りでは、ワイミーとは読みません」
「そうだね…でも、日本やアメリカの方ではこの綴りで彼の特集が組まれている記事がある」
「Wammy…ワイミー…でもこの読み方だとまるで」
 竜崎が眉間にしわを作り、口元を手で覆った。
「コックニー…」

「そうだよ竜崎、ロンドンに行って調べてきた。ワイミー氏はコックニー出身だったんだ」
「そんな馬鹿な」
 月の言葉を、竜崎は即座に否定した。
「ありえません」
「コックニー方言なら、この綴りで、ワイミーと発音してもおかしくないだろう?」
「でも、ワタリは!クイーンズイングリッシュを愛し、下町言葉を敬遠していました…私が戯れにコックニー方言を口にすると、厳しくたしなまれ、自分はそんな言葉遣いをしたことはないと」
「だから、名前を偽ったんじゃないのか?言いだせなくて…」
「そんなことが…」
「竜崎、僕はロンドンまで行ってワイミー氏の戸籍を調べてきたよ…彼の名はね、こっちだ。W、A、MMYだ。Iじゃない」
「…………………………そんな…ことが」
 言葉を無くし、竜崎は月の持ってきた雑誌と、自分の書いた彼の名を見比べた。

「最初に、お前の作った彼の墓を見た時、何かおかしいと思ったんだ…僕が今まで認識していたワイミー氏の名前のつづりと違う気がした。でももう何か月も前に何回か見ただけだったから確信が持てなくて、でも、この紙を見せてもらった時、再びその違和感を感じた。だから、もしかして…と望みをかけてロンドンまで見に行ったら、彼はイギリス国内では「Wimmy」の方で名乗っていた形跡があるけど本名は確かにこっちなんだ。途中からそう名乗るようになったから、外国なんかでは綴りが分かれたらしい…でも、分かる?お前がここに書いたのは、彼の本名じゃないんだ」
「………」
「もしかして、本名じゃなくても書く人が認識している名前でありさえすればいいのかもしれないとも思った…でも、ローマ字で書かれた日本人犯罪者は死ななかった。日本人はやはり日本語でなくてはだめなのだと思う。それもあったし…やっぱり、他の人間で試すのはもう…。僕の命で試すしかないと思ったんだ。今説明した通り、ある程度の確証があってしたことだけど、お前に辛い思いをさせたことは…ごめん…謝るよ」

「謝って…もらっても…それに、ワタリは死んだのです、それは、結局本名ではなく、書く人間が認識している名前を書いただけで死ぬということになるのではありませんか?」
「それは違うよ、竜崎」
 月は荷物の中から書類の束を引っ張り出した。
「ワイミー氏は病気で死んだんだ。それは、おまえがノートに名を書いたせいじゃない。もっとずっと前から病院で不治の病の宣告を受けていたんだ」
「え…」
「見て、これ、カルテのコピーだ。ニアがUSA国家直属組織の権限で手に入れてくれた」
「ニアが…?」
「これによると、ワイミー氏はお前がノートを拾ったっていう10月より前…8月に、胃癌末期の診断をされている。あと二カ月もつかもたないかって言われたのに、11月まで生きたんだ、お前のそばに居たくて…。けして、お前のせいでなんて、そんな死に方を彼はしたわけじゃない」
「…ッ…!…」

 竜崎は、口を押さえ、もう片方の手でノートの紙片を握りしめた。ギュッと閉じた瞼の下から、涙がボロボロと落ち、ジーンズの色を変えた。

「竜崎、これもういいかな」
 月が竜崎の手を開かせ、くしゃくしゃになったノート紙をとった。
「さっき書いてもらった僕の名が、この紙…いや、お前の拾ったノートに書かれる最後の名前だ」

 月はライターで紙に火をつけた。
 そこに書かれた八人の名が、炎に飲み込まれて消えていった。

 

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