天使の到来

 

「デスノート」

 

 その日の昼頃、意識を失っていた竜崎は目を覚ました。気だるそうに視線をさまよわせ、隣に横たわっている月の姿を認めると、「ああ…」と声を漏らした。
「どう…したんでしたか…」
「熱があるんだよ」
 汗がにじむ竜崎の額を絞ったタオルでぬぐいながら、月は囁いた。
「しばらく、ベッドで休んだ方がいい…」
 竜崎の肩までかかるように布団をひっぱり、月は布団の上から竜崎の肩を軽く叩いた。
「…………」
 竜崎は何も言わず、また目を閉じた。
 ひどく乱暴に抱いて、負担をかけた…きっと身体は相当辛いだろう。月は自責の念に駆られ、唇を噛んだ。

 …竜崎が、好きだ。
 大切にしたい…なのに、彼はそんな自分に向かって「殺してくれ」と…いうのだ…。
 どうしたらいいのか分からなかった。どうしたら、彼は視線に生気を宿して自分を見てくれるのだろう。いや、どうしたら自ら「生きたい」と思ってくれるのだろう…彼の過去に何があったのだろう。
 ワイミーの死と関係があるのだろうか?どうしたら彼は人生を取り戻すのだろう…。
 キングサイズのベッドで一緒に横たわっている竜崎からは、熱っぽい息遣いが伝わってくる。
「……好きだよ…」
 耳元に口を寄せ、肩を抱いて囁いた。
 届かなくてもいい。この想いを伝えないと、心が破裂してしまいそうだった。

 

 

 二日ほど、一緒にベッドで過ごして、ようやく竜崎は回復した。
 最初は月が食べさせてあげていた食事も自分で食べられるようになり、竜崎はもうベッドから出ると言いだした。
「もう少し休んでいた方がいいよ」
「いえ…落ち着きません」
「…もう少しだけ……」
 月は竜崎の身体を腕に抱き、肩に顔をうずめた。
「お願い…もう少しだけ、こうしていて」
「月くん…」
 竜崎は少し戸惑うような声を出した。
 ただ触れているだけなのに、何故こんなに安心するのだろう…。ただ無為にベッドに横たわって一日中過ごすなど、以前の月には想像もつかなかった。だが今は、こうしてそばにいてその体温を感じ、存在を確認しているだけでひどく落ち着く。…安心できる…それだけで何時間でも、何をせずともただ幸福感を感じながら過ごしていられた。逆に少しでも竜崎から離れるともう落ち着かなかった。以前はそんなでもなかったのに、彼が自らの死を願っていると知ってしまってからはもう駄目だった。

「月くんに、お話ししておきたいことがあります」
 急に竜崎が凛とした声を発したので、月は驚いて彼を見た。こんなにはっきりした竜崎の声を聞いたのは、初めてではないだろうか。

「…何?」
「私はLです」
「……」
 ああ、やはり…。
 本人の口から改めて聞き、やはり、やはりそうだったのだと月は確信した。何の証拠を見せられたわけではない。だが、竜崎の声は聞く者を納得させるだけの力を孕んでいた。

「…月くんは、私を探しに来たんですね?」
「ああ…でもなぜ…」
「最初から分かっていました」

 竜崎は、ワタリの墓の場所を知る者はいないから…と言った。
 そうか…そうなのだ。キルシュ・ワイミーは消息を絶っているのだ。彼が死んだという事実も世間では全く知られていない。彼に会いに日本からこの地に来るなんて、通常では考えられないのだ。竜崎は、数ヶ月前に自分の居場所を故意にリークしたのだと言った。おそらくそれが、ドヌーヴが月にくれた情報になったのだろう。

「…疲れて…だれかに見つけてほしかった…でも、そのあとも何の動きもなく…一か月前にあなたが現れました」
「…竜崎…教えてほしい」
 月は、これ以上ないほどの覚悟を込めて竜崎の目を見た。
 どんな事実をつきつけられようと、自分の意志は揺るがない。自信があった。
「おまえに何があったんだ…?ワイミー氏は何故死んだんだ?何故、Lは…消息を絶ったんだ?教えてほしい」
「………」
「竜崎、僕は、一年前にお前が全世界に対して流した放送を聞いた…その時から、お前のことしか考えられなくなった。おまえに会うのが僕の運命だと思った…僕は、金を貯めて、必死でお前を探してここまで来たよ。そして会って確信したんだ、何があっても僕はお前の味方だと」
「…何があっても…」
「だから、教えてほしい…お前を苦しませ続けている過去があるなら、一緒に背負わせてほしい。僕に、お前の辛さを分けてほしいんだ…」
「…分かりました…全てお話します」

 竜崎にとっては告解になるのだろうか。

「あれは、去年の10月のことでした」
 そしてベッドから上半身を起した姿勢で彼は、その時のことを語り始めた。

 

 

 その日。
 竜崎は実にむしゃくしゃした気持ちで近所の公園を横切っていた。
 唯一の身内であり仕事のパートナーであるワタリと、派手に喧嘩をしたからだった。
 ワタリは身寄りのない竜崎を自分の施設に引き取り、目をかけて育ててくれ、竜崎が長じてからは仕事面と私生活のあらゆることでサポートしてくれている老人で、竜崎にとってはただ一人家族と言ってもいい人間、またLという名をくれた名付け親でもあった。

 喧嘩の理由は、竜崎が甘いものを食べ過ぎだとワタリがしつこく注意してきたからだった。脳が欲するエネルギーが莫大なせいか、竜崎は何をいくら食べても太ることがない。それを幸いとばかりひっきりなしに大好きな甘いものを口にしている彼なのだが、最近何故かワタリが「食べすぎだ」と言ってくるのである。いままで耳をふさいでやり過ごしていたが、今日はついにフラストレーションが限界突破してしまい、ほとんど初めてと言っていいくらいに喧々としたやり取りをした挙句、住居を飛び出してきてしまったのだ。

 大体、子供時分から自分の望むものを望むだけ際限なく与え続けてくれたのはワタリではないか──と竜崎は思うのだ。
 それなのに何を今さらあのような…
 普段、パソコン相手にマネーゲームや国家機関を下しての探偵業をこなす竜崎でも、唯一好きに操ることのできない人間がワタリなのだ。であるから、その彼が自分をサポートしてくれてるうちは何事もなく潤沢に全ての物事が進むはずなのだ。だからこそ、そのワタリが急に言うことをきかず扱いにくくなったというのは面白くないことこの上ない。

 公園を抜けようとした時、ふと何か黒いものが視界に入った。
 何かと思って首をめぐらすと、それはノートのようだった。 
 児童公園には不釣り合いに見えるそのノートを手に取ると、表紙には「Death Note」と書かれている。
 表紙をくると、ノートの使い方の様な説明文が書いてあり、このノートに名前を書いた人間は死ぬ、また40秒以内に死因を書くとその通りになる…そう書いてあった。罫線のひかれた白いページには何も書かれておらず、まっさらだった。

「馬鹿馬鹿しい」
 竜崎は鼻で笑って、ノートを投げ捨てた。こんなものを作る人間は精神が病んでいるとしか思えない。いや、そういえばもうすぐハロウィンか。誰かが仮装のパフォーマンスにでも使うつもりで作成したのだろう。
 そのままそこを去ろうとしたが、竜崎はふとあることを思いついてノートを拾い、持ち帰った。

 自分の部屋に帰ると、竜崎はノートを開き、「キルシュ・ワイミー 病死」と書いて机の引き出しに放り込んだ。
 確認したことはなかったが、竜崎は、ワタリが自分の寝ている間に自分の私物をチェックしているのではないかと常々思っていた。別にそれをどうこう思ったことはないが、こうなってしまうと腹立たしく感じる。もし彼が自分に黙って机の引き出しを開け、このノートに書かれた自分の名を見たらどう思うだろうか?傑作ではないか。

 そしてそのままその日は終わり、数日が過ぎた。竜崎はノートのことはもう忘れ、それでも喧嘩したワタリとは口をきかずに過ごしていたが、ある日ワタリがワンホールのケーキを竜崎の所に持ってきて言った。
「お誕生日おめでとうございます、L」
「…おまえ、今日は甘いものを食うなと言わないのか」
「お誕生日ですから…それにしばらく控えておいてから口になさった好物は格別でしょう」
 ワタリにどう言われても実際竜崎は甘いものをやめてはいなかったのだが、「あなたが私のお相手をしてくださらないと寂しゅうございます」と言われ、さすがに少し申し訳ない気持ちになり、竜崎は礼を言ってケーキを受けとり、食べた。
「今日はハロウィンですから、子供たちのためにもあちらにいっぱいお菓子を用意してございますよ。もし余ったらお好きな物を食べてくださって結構です」
「今日はずいぶんと甘いんだな」
「老い先短い身で若人に無視されたままあの世に行きたくないので、甘言で釣ろうと策を弄したのでございます」
 竜崎は笑いながら、ワタリと一緒に玄関ホールに向かった。
 ホールを出ると、ちょうど仮装行列がぞろぞろと面した通りを練り歩いているところだった。

「ああ、ワタリ見てみろ。あの黒い装束の…すごい仮装だ」
「どれでございますか?」
「あの、電柱の上にいる…」
「はて…私にはどれのことやら…」
 あんなに目立つでかい男なのに…と思いつつ、竜崎もそれ以上は言わずにハロウィンを楽しんだ。

 トリックオアトリートで訪れた子供たちをからかいながら菓子を配り、余ったチョコレートやキャンディーを好きなだけ食べて、就寝の挨拶をしたワタリと別れて竜崎は自室に戻った。
 部屋の扉を閉めた瞬間、竜崎はぎょっとして視線を自分の横に向けた。そこに、異形の者が立っていたからだ。

「おまえは…さっきのハロウィンの」
 電柱の上に居た黒い装束の仮装の男だった。だが、よく見るとその顔はあきらかにメーキャップでも、人間のものですらなかった。
「何者だ、どうやってここに入った?」
「俺は、お前が拾ったノートの落とし主だ」

 竜崎は五日ほど前に表紙の黒いノートを拾ったことを思い出した。
「ああ…取りに来たのか、だが残念だったな、もう今日は11月…ハロウィンは終わったぞ」
「は?なんだそれ?俺はあのノートを人間がどう使っているか見物に来ただけだ」

 異形の者の姿に、竜崎は腹の底がゾワゾワと冷えあがってくるのを感じた。
 何を言う…何を言っている。
 自分は人間じゃないとでもいうつもりか。あのノートが本物だとでもいうつもりか。あれに名前を書かれた人間は死ぬとでも…?
 さらっと一度見ただけだが、使い方の文章は一語一句漏らさず全て覚えている…あれが本当のことだとでもいうのか!?

「俺は、死神リューク。…お、デスノート見っけ。あれ?一人しか名前書いてないじゃん」
 死神は勝手に竜崎の机の中からノートを引っ張り出して開き、ぼやいている。
「気に食わなかったんなら他の人間に回すけど」
「ふざけるな、それが本当に人を殺せるノートだとでもいうつもりか?そこに名前を書いた人間は生きているぞ。生きている。死んでいない…!」
「そりゃお前、病死って書いたからだろ。こりゃ時間かかるぞ」
「……」

 竜崎は死神からノートをとりあげた。
 リュークは、竜崎がそのノートを持っている限り、自分がつきまとうことになると言う。好きにしろ、と返答すると、本当にその日から死神は竜崎のすぐそばに常に居り、消えることがなくなった。
 ワタリは依然として元気だったので、死神と二人になるたびに竜崎はリュークをバカにし、ノートの威力をまがいものだと言いきって信じようとしなかったが、一週間が経った頃、目に見えてワタリがやつれ始めた。

「どうしたんだ、ワタリ…顔色が悪いぞ…体調でも悪いのか?」
「いえ…大丈夫でございます」
 心配する竜崎をよそにワタリは今までと同じように彼の世話をし続けたが、ある日ついに床に臥してしまった。
 竜崎は、自分がノートに名を書いたからだと思い、ワタリに謝罪したかったがどうしてもできず、毎日容体が悪くなる彼を見ながら葛藤していた。

 そして11月のある日、竜崎に向かってこれ以上はそばにおられず申し訳ない、どうか幸せに生きてほしい…そう言い残してワタリはこと切れた。
 

 

「私は絶望しました」
 月に視線は向けず、竜崎は淡々と話し続けた。
「私は、たった一人の家族である彼を…この手で、殺して…しまったのです。私は最低の人間です…いや、人ですらない。私は、こうなったら堕ちるところまで堕ちてしまおうと思い、世界中の電波をジャックしてあの放送をしました。ワタリの命と引き換えに手にしたノートなら、あんな方法ででも活用せねば…意味を見いだせない、そう思ったからです」
「そんな…いきさつが…」

 名前を書くと人が殺せるノート…にわかには信じ難かった。だが、竜崎が嘘をついているようにはとても思えない。
 それよりも月の脳裏には一年前に目にしたテレビの、あの途切れがちの最後の方の放送が、鮮やかに蘇っていた。苦しそうに紡がれた英語…事情を聴いた今は、一年前の記憶からでも彼の嘆きが痛いほどに感じられる。

「それで…?」
「そして、ノートに五人の犯罪者の名前を書いて、放送を切ったあと、私は、自分の持っているものを何もかも…なくしてしまっていました。私はワタリを死なせたことにより自棄になり、自分の探偵としての矜持も人としての道もすべて自ら投げ捨て踏みにじったのです。そう考えると死にたくて、泣きたくて、やりきれなかった…私はそばに居た死神に、去るように言いました。死神は『せっかく面白くなってきたところなのに』と拒否しました。私は腹がたって、ノートを燃やしてしまいました。死神は驚き、自分の世界に帰ると言いました…私が、去るならその前に私を殺して行けと言うと、彼は私が自分の望むことをしてくれないのに、何故自分が私の望むことをしなくてはいけないのかと憤慨し、そのまま去りました」

 そして、ワタリが生前、何度か自分を連れてきてくれていたここにワタリの墓を作ったのだという。
「ワタリはこの土地を好きだと言っていました…静かで自然が多く、ここが適当だと思った。墓をつくった後は、もう…何もかもがどうでもよくなり、近くのこのホテルに来て…それ以来ずっと、私はここにいるのです。死ぬことも何度も考えました。ですが、ワタリが最後に遺した『幸せに生きてほしい』という言葉を思うとそれもどうしてもできず…でも何をする気にもなれず…もう、どれだけこうしているのか分からないくらいです…」

 …一年もの長い間。
 竜崎はここでこうして生きる意味を失って、死ぬことすらできずに、暗く辛い日々を繰り返していたというのか。
 月が彼に会うためにバイトして金を稼いでいる間、彼はこんなにも苦しい思いをしていたのだ。もともとの原因を思い出させる、大好きだった甘いものを口にすることもできずに。
「竜崎…」
 我慢できず、月は竜崎の身体を抱きしめた。どうしてもっと早く会いに来てやらなかったのだろう、あんなにも自分は彼に会うことばかり考えていたというのに。もっと早く来てやっていれば、少なくとも話を聞いて悲しみを分かち合うことくらいはできたのだ。
 抱え切れない苦悩を貯め続けていた骨身は強く抱けばそれだけで折れてしまいそうで胸が痛かった。
 あの放送を流した竜崎が、裏でどんな辛い思いをしていたかも知らず、犯罪者を殺して世界を変えようとしているLに憧れていた自分が馬鹿みたいだと月は思った。

「竜崎、ねえ…、お前の話を信じないわけじゃないけど、そのノートが本物だという証拠はあるのか?ノートはもう燃えてしまったんだろう?そのノートがただの紙で、ワイミー氏が偶然病で亡くなったという可能性はないのか?」
「…私はきちんと確認しておりませんが、あのノートに名前を書いた五人の犯罪者のうち二人までがあのあと実際に心臓麻痺で死んでいました…一人、二人、確認するたびに自分の罪と、自分が本当にワタリを殺したのだという現実をつきつけられ、私は気が狂ったようになりました…そしてそこでもう、一切の情報を遮断しました。ワタリだけならともかく、犯罪者たちまでもが偶然で死んだとはとても思えません」
「そうか…」
 五人のうち、四人までが実際に死んだ、そう父は言っていた。偶然とは思えない。死ななかった一人が何故生き残ったのかは分からないが、そこまで犯罪者の死が一致している以上はそのノートの効力を信じる以外ない。竜崎の言うことを疑う余地などない。大事なのはノートの真偽ではなく、ノートがもたらしたことにより、彼が廃人寸前に追い込まれている事実なのだ。

「疑うなら…」
 竜崎は月の腕の中から抜け出すと、ベッドを下りた。
「疑ってなんかいない」
 月はあわてて後を追った。
「いえ、ノートは燃してしまいましたが、一枚だけ残してあるのです」
 竜崎は部屋に備え付けてある引き出しを開け、そこから紙を一枚取り出した。
 一カ月この部屋に居たが、そんなとこにそんなものがあるとは全然気づかなかった。

「ワタリの名前と犯罪者の名前を書いたページ、この一枚だけはどうしても燃やすことができず、死神には見られないよう破り取って隠しました。本体から切り離した以上、効力があるのかどうかは知りませんが…」
 月は竜崎から紙片を受け取って見た。そこにはキルシュ・ワイミーを筆頭に、少し離れて六人の名が並んでいた。
 (ん…)
 何か違和感を感じる。
 それは、キルシュ・ワイミーの墓を見た時に感じた違和感と一緒だった。

「竜崎、この、五人の犯罪者のうち一人は日本人だね」
「そうですね…」
「どうして、ローマ字で名前を書いてあるの」
「その男はアメリカに帰化しておりましたから」
 だが、記憶によれば五人の犯罪者のうちこの男は死ななかったのだ。そこに、ノートの効力を検証する何らかの余地があるのではないだろうか…そしてこのワイミーの名を見た時の違和感…

「この紙、借りてもいい?」
「かまいません」
 月は切り取られたページを大事にしまった。まず、違和感の正体を突き止めたい。
「竜崎」
 月は、竜崎の身体を引き寄せると、もう一度抱いた。
「おまえを愛してる…この一年間、おまえがそんな辛い思いで過ごしてきたことを思うと、胸がつぶれそうだ…」
「…………………」
「だから、もう少しだけ、ここで待っていてくれないか、確認してきたいことがある…絶対に戻ってくるから、もう少しだけここに一人で居てほしい」
 竜崎の目から、涙が一粒落ちた。
 唇を寄せてその雫を受け、それから目元、口元にキスを落とす。竜崎は少しためらうように、それでもキスに応じてくれた。

 月は急いで旅支度を始めた。
 旅行資金は、ここに来てから一切減っていない。目的地に行くには十分だ。
 レセプションに電話し、出かけるので電車の時間を調べておいてほしいと頼むと、荷物の整理をする。もともとそんな大荷物は持ち歩いてはいなかったが、必ずここに戻る、そう決めていた月は必要最低限の物だけ選んで身に付けた。

「A…」
 月を見ていた竜崎が、急に英語の発音でアルファベットを口にした。
「え?」
「A、U、C…ワタリが亡くなる間際に私に向かってそう言いました…」
「A、U、C?」
「あれは、なんだったのでしょう…」
「アルファベット…」
 その時、月の脳裏に某光景が浮かび上がった。アルファベット三文字を女の子に伝え、それで意味が通じていた、あれは…

「竜崎、分かった、それも調べてくるよ、心当たりがある」
「え?」
「だから、必ず…ここで待ってて」
 月は最後にもう一度竜崎を抱きしめた。耳元に彼の息遣いがある…それだけで気が遠くなりそうに幸せで、不安で、こんなに心が揺れ動いている状態は生まれて初めてだ。
 本当はずっと離れたくなんてない。
 それでも月は無理矢理彼から自分の身体を引き離し、
「待ってて、約束だよ!?」
 そう叫ぶと、部屋を飛び出した。
 レセプションに向かい、電車の時刻を教えてくれと頼むと、「少々お待ちいただけますか?今、タクシーが参りますので」と言われた。

「タクシーなんて頼んでません、そんなお金はない」
 あわてて月が首を横に振ると、レセプションの女性はにっこり笑った。
「いえ、こちらの好意ですから」
「え?」
 女性は封筒を出して、そこから何かを取り出し月に見せた。最寄りの空港からヒースロー空港までの飛行機のチケットだった。
「ヒースロー?僕が行きたいのは、ウィンチェスター…」
「いえ、上司から、言付かっております。現在、イギリスに向かっているので、こちらで是非再会を果たしたいと」
「上司…って」

 その時、騒々しい靴音を立てて、人影がホテルに入ってきた。

「待たせたな」
 見覚えのある姿、聞き覚えのあるその声は…。
「コイル」
「そこの女に呼ばれてきたんだ」
 コイルに指されて、レセプションの女性は艶やかに微笑んだ。月がこのホテルに来てからずっと受付に居た女性だ。金色の髪と瞳を持つ美しい女性で…だが、コイルと知り合いだったのだろうか?
「私はずっと彼を見てきたわ」
 彼と言うのが竜崎のことだと、月は察した。
「廃人寸前だった彼が、あなたが来てからきちんと食事をとるようになった…以前よりも瞳に光が宿った。二日前、あの木の下であなたたちが抱き合っているのを見て思ったの、あなたが彼のために奮起する日も遠くないと。だから、アメリカからコイルを呼び寄せたのよ」
「あなたはコイルの部下?」
「よせ、こんな女」
 コイルは嫌そうな顔で肩をすくめた。
「私はドヌーヴの部下よ、コイルに情報を伝える役を仰せつかって…でもあっけなく拒否されたわ。それからずっとこのホテルで、逐一ドヌーヴと連絡を取りながら彼を見守っていたの。あの時つっぱねた責任を取ってもらうわよ、コイル」
「ハル…」
 コイルは心底嫌そうな顔で彼女に背を向けた。

「行くぞライト」
 ホテルを出ると、コイルは月に向かってヘルメットを放ってきた。
「後ろに乗れ」
 そう言いながら、コイルは全長3メートルはありそうな黒光りするバイクにまたがった。
「待ってくれコイル、マットと話がしたいんだ、あとロンドンに行きたい」
「どこでも行くさ、Lのためならな…それから、」

 派手な音を立てて、コイルはエンジンをふかした。

「もう、俺はコイルじゃない。メロと呼んでくれ!」

 

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