天使の到来
「月光」
自分の想いを自覚した月は、今後どうするかぼんやりと考えていた。
ずっと探して続けてきたLだから…探し求めてきた相手だから、運命の片割れなどと自分が勝手に勘違いしているだけではないのだろうか。
一ヶ月間面倒を見てきたから、庇護欲の様なものが勝ってそう思い込んでいるだけなんじゃないだろうか。
放っておいたら死んでしまうんじゃないかと思わせる彼を前にして、焦る動悸を脳が勝手に恋と勘違いしただけなのではないだろうか…
否。否だ。
そんなものではない、そんな生易しいものではない。
今までの生活や家族を置いて彼に会いに来た事を何一つ後悔していない自分が居る…たとえ生家に帰れずとも彼とともにあることを選んでしまうだろう自分が居る。
それはLだからではなく、彼だからなのだ。竜崎という個人を目の前にしてそう思うのだ…
竜崎が望むことは何でもしてやりたいし、いまだ見たことのない彼の笑顔を見るためなら、何を失ってもいいとまで思った。
こんなにも追い詰められている。自分の恋心などという立ち向かいようのない馬鹿馬鹿しい相手に。
なら、自分はこの先彼とどうなりたいのかと自問しても答えなど見つけられない。
彼を恋人としたいのか…それこそ馬鹿げている。今の彼に、何も見えていないあの瞳に、自分だけを見ろだなんてとても要求できたものではない。
雨の中、一度だけ交わした口づけを彼が拒まなかったのは唯一の救いと思えたが、単に振り払う気力がなかっただけかもしれない。
こんなにも望みのない恋愛は初めてだと月は思った。
ずっとLに会いたかった。
言葉を交わしたかった…それだけのために、必死で金を貯めてこんな遠い国まで探しに来た。
ようやく会えた竜崎と、自分はほとんど会話らしい会話などしていない。それなのに、こんなにも惹かれている…限りない引力を感じている。
もし望むままにコミュニケーション出来たなら、自分はどうなってしまうのだろうか?それが怖かった。
一日が経って夜になり、月はとにかく竜崎ときちんと話してみようと決めた。
今までLかなどとは聞けずにここまで来てしまったが…彼は質問にはきちんと答えてくれるし、話しかけたら返事だって返ってくる。
今まで一年どんな思いで金を貯めて、日本からLを探してここまで来たのかを話したら、彼もそれなりに月に応じてくれるかもしれない。
同時にこの想いを打ち明けたなら、今までとは違った反応が戻ってくるかもしれない。
今の生活を続けるなど無益だ。
月はソファに座る竜崎のもとに行き、隣に腰を下ろした。
なんと声をかけるかで悩む。
「…竜崎」
彼は返事はせず、視線だけを月に向けた。
「…触ってもいい?」
「…はい」
隣に座ると、切ない愛しさだけが募る。
月は竜崎の肩に腕を回し、抱き寄せた。彼の体温を感じる。思っていたよりとても熱い…細い体に今は血が通ってくれている事実がひどく嬉しくてたまらない。Lを探していた間はずっと、生身の相手として彼に触れることも会うこともできなかったのだ…だのに今はこうして体温としてこの腕の中に感じていられるという現状が、自覚したばかりの恋心と相まって驚くくらい月を歓喜させた。
───好きだ。そう言えたなら。
「…今朝…雨の中で、キスしてって、言ってたように…聞こえた」
「………」
「キスしても、いい?」
聞くと、竜崎は「物好きですね…」と答えた。
その頬に唇を寄せる。触れた頬は思っていたよりずっと柔らかかった。
きっと自分の唇は震えている。場所をずらして、朝のように唇にゆっくり押し当てた。竜崎は拒みもしないが、応えてはくれなかった。
自分は彼の目にどのように映っているのだろう。
突然異国から現れた見知らぬ人間である自分は。こんな風に肌を求めて、どこまで拒まずに居てくれるのだろう。
口づけを深くして、シャツの上からあばらのおうとつに触れた。
途端、竜崎は「う…」と呻いて顔を背け、月の腕を引きはがして逃れた。
そのままソファから立ち上がって、月から離れようとする。
突然突きつけられた拒絶に、一瞬月は混乱した。
唐突に過ぎた…そう思うが、その時は何故か、とにかく彼を引きとめなくてはならないと、そう思ってしまった。
「待って竜崎」
月の言葉に、部屋を出ようとしていた竜崎は少し動きをゆるめた。
「待って…」
心臓が、これ以上ないくらい激しく脈打っている。
恐怖に身体がすくみあがりそうだ…ああでも、これを越さないと自分たちはいつまでも、こんな無為な生活をだらだら続けるばかりだ…いつまで…いつまで?いつまでそんな生活に耐えられる?
答えは、「今」、この瞬間だ。
「L…なんだろう?」
ずっと、避けてきた言葉。
聞きたかったが聞けずにいた質問を、胸の奥に隠していたが本当はぶつけたくて仕方がなかった問いかけを、一カ月目にしてようやく月は口にした。
竜崎は月に背中を向けたまま、動きを止めた。
沈黙が長く、そして重い。今まで人生で体験したどの瞬間よりもスローモーに、それはそこに横たわっていた。
そして、竜崎がゆっくりと振り向いた。
「…ようやく」
振り向いた竜崎は、笑っていた。あんなにも、何を差し置いても自分が見たいと願っていた笑顔なのに、その表情に何故か月は凍りついた。
「ようやく見つけてくれたんですね…」
心の底から安堵したような声を出し、竜崎は月のもとに一歩ずつおぼつかない足取りで戻ってきた。途中、月がとったルームサービスの食器類の中から、ゆっくりと果物用のぺティナイフを手に取る。
「早く」
ナイフを、月に握らせ、竜崎は期待するような顔で少し高い位置にある月の顔を見上げた。その眼は陶酔しているかのようで、現実を見ていない。なのに今のこの瞬間、まさに竜崎の目は月を捉えているのだ。
「早く、私を…殺して下さい」
その瞬間、月は理解した。
竜崎が雨の中、引き千切られるような思いで絞り出していた声は、「キスしてください」…<Kiss
me.>などではないということに。
「殺して下さい」と、<Kill
me.>とこそ彼は言っていたのだ…天に向かって。
雨音で、聞き違えたのだ…。
カッと、脳内に血が逆流して、月は目の裏が熱くなるのを感じた。
殺して、など…
この僕に、殺してなんて、頼むのか。
この一年、僕が、おまえのことをどんな、どんな想いで…
どんな想いで、お前を探してきたと思うのか!どんな…どれほどの想いで、会うことを願っていたと思うのか。
その僕に!!殺してなどと頼むのか!?
月は竜崎の襟元を掴むと、握らされたナイフで一気に彼のシャツを切り裂いた。
細く白い上半身が露わになる。骨の浮いた、色気などかけらもないようなこの身体に、自分は確かに今朝欲情していた。
「来いよ」
月はナイフを投げ捨て、竜崎の腕を掴んだ。そうして寝室に引き摺って行くと、ベッドの上に彼の身体を放りなげる。
明かりのついていない寝室は、窓から差し込む月光のみが彩っていた。
シーツの上に横たわった竜崎は、わずかに身体を起こして月を見た。それは今まで見たこともないような表情で。
ギラリと見開かれた目が初めて月を見ている。笑顔を向けられている…それは、月のことを自分をこれから喰らうであろう捕食者として。
白い肌に月光が落ちている。
竜崎が月に手を伸ばした。
「…殺して下さい」
「…ああ…」
お望み通りに、めちゃくちゃにしてやるよ…!
月は自分も服を脱ぎ捨ててベッドの上に膝をかけると、竜崎の肩を掴み、首筋にかみついた。
細く折れそうだと思っていた首。
そのうなじに強く歯を立て、本当に食べるかのように吸い上げる。
「もっと…もっと強く」
喉を震わせて竜崎が囁いた。鼻の奥がツンとなり、一瞬泣きそうになりながら、月は竜崎の身体を爪を立てるようにして、力をこめて抱きしめた。
さっきまで、腕の中に抱きながら、彼の体温を感じられることをこんなにも嬉しいと思っていたのに。
その体温が…、彼自身に不要のものだとは。
知りたく、なかった。
竜崎はうっとりと目を細めて、「殺して…殺して下さい」と繰り返している。胸の突起を強くつまみあげると、その顎がヒクッと動いた。
こんな力任せの愛撫をしたことなど、今までの人生においてなかった。
愛しくて仕方がない相手の身体を乱暴に扱う理由など、どこにあるのだ。
どこにあるというのだ…
それでも、それでも今だけは。
竜崎の目は自分だけを見てくれているのだと…
何も映っていなかった竜崎の瞳が今は夜神月だけを映しているのだという事実が、哀しくなるほど嬉しかった。
月光に浮かび上がる竜崎の身体を何度も抱き、何度も彼の中に放った。途中から朦朧としていた彼が完全に意識を失うまで。
知る限りでは初めてベッドに横たわった竜崎の身体を、タオルで拭き清めながら月は泣いた。セックスの後、こんなにも苦しく、哀しい気持ちになったのは生まれて初めてだった。
熱を帯びた竜崎の身体を腕に抱いたまま、朝を迎えた。
夜が去り、白み始めた空からまだ柔らかい光が差し込んでくる。
ずっと、竜崎の顔を見ていた。意識を失っている竜崎の顔は少し疲れた様子で、それでもあどけなく愛しかった。彼が自らの死を望んでいるなど、信じたくなかった。
やがて、光が強くなってきた頃、竜崎がゆっくり目を開けた。
「………」
かける言葉などみつからない。自分を映す竜崎の目を、月もただ見つめ返した。
「…私は、死んだのですか?」
眩しそうにやや目を細めて、竜崎が呟く。
「いや…」
そう答えると、竜崎は黙って涙を流した。
「………ごめんなさい…」
そしてまた意識を失い、寝息を立てる。
何に対しての謝罪なのか…月に対してのものなのかもわからない。
ただ、彼が自分の命を投げ出したくなるほどに囚われ、背負っている罪があるのなら…。出来るならば変わってやりたいと、月はそう願った。
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