天使の到来

 

「竜崎」

 

 竜崎と名乗った男は、実に奇妙な生活を送っていた。

 

 月と一緒にスイートルームに戻ると、竜崎はソファの上に足を上げて折りまげた姿勢で座り込み、それ以降動こうとしなかった。心を閉じたかのように視線を落とし、口をきこともとしない。
 月はどうしたらいいか分からず、あまり音をたてないようにして部屋を見て回った。豪華な調度品が置いてあり、壁紙も絨毯も高そうだ。一体宿泊費はいくらなのだろう。一晩分だけでも払えるかどうか心配になってくる。
 色々聞いてみたいことはあったが、竜崎の持つ雰囲気がそれを許さなかった。会話を交わすわけでもなく黙々と荷物の整理などしながら、ただ同じ部屋に居るまま時間がすぎ、やがて夜になった。月は思いきって声をかけることにした。

「あの、竜崎さん…夕食はどうなさってるんですか?」
「…何か、食べますか?」
「あ、はい…そろそろ、夕飯の時間だと思って…」
 考えると今日は移動のため朝食も昼食もとっていないので、月は道中で口にした例のケーキが唯一口にしたものとなる。そう自覚するとますます腹がへり、胃が派手な音を立てた。

「では、ルームサービスをとりましょう」
 竜崎は椅子から立ち上がると、壁に設置された電話機のところまで行き、英語で注文した。
 月は実は英語が話せると今さら言えず、気まずい思いで竜崎の姿を見ていた。

 やがて、ルームサービスが届いた。
 すすめたが竜崎は食べようとしないので、月は落ち着かない気分で自分だけ出された食事を食べた。昼に買ったケーキも食べようかと思ったがやはり口に合わず、ふたくち食べて断念した。結局他のケーキは皿に乗せて一緒に下げてもらった。
 腹がくちくなると今度は旅の疲れが出て、眠気が襲ってくる。
 あくびしていると、竜崎が「ベッドをどうぞ」と声をかけてきた。

「え、竜崎さんは…」
「私はベッドは使いませんので」
 ソファの上から動く気配もないまま竜崎は、いつもここで寝ています、と言う。最初は気を遣ってくれているのかと思ったが、そんな様子でもない。そうする義理もないだろう。自分だけベッドに寝るのは気が引けるが、彼がそう言うのであれば仕方ない。
 月は奇麗にメイキングされ、触れた様子すらないベッドに行くと、下着姿になって布団に入った。ようやくLに会えた喜びと、全く覇気の感じられない彼の姿に対する戸惑いと、あの男が自分の思い描いていたLのイメージと全く違っていたらどうしようという不安で頭のなかがごちゃごちゃになっている。それでも旅の疲れはすぐに月の瞼を重くして、やがて眠りへといざなっていった。

 こうして竜崎と月の生活は始まった。

 

 竜崎というのは本当に何もしない男だった。
 日がな一日、ソファに座ってただ虚空を眺めている。表情もほとんどなく、話しかければ返事はするが、それ以外の時は一切動こうとしない。
 たまにふらりと外に出かけていき、キルシュ・ワイミーの墓の前でぼんやりと立っている。その時も他に何をするでもなくただ立っているだけで、たまに初めの頃のように涙を見せる時もあった。
 まるで、ワイミーが亡くなったことによって、自分というものをも失ったかのように見えた。

 食事も自分から取ろうとすることはなく、倒れる間際になってようやくのろのろと動きだし、適当に用意してもらったルームサービスを口に運ぶといった具合だ。好き嫌いはないようだったが、甘いものは絶対に口にしようとしなかった。
 夜もベッドには入らないし、大体寝ようとしない。100時間以上も睡眠をとらずにおり、限界が来たら気絶するかのように気を失って十数時間そのままだ。最初見た時は驚いた。
 服を着替えることもほとんどない。それでもたまにのそりとバスルームに行き、シャワーを浴びては用意されてある新しい服に着替え、今まで着ていた物はホテルのクリーニングに出していた。
 月も、最初は厄介になってる身と思って遠慮していたが、次第に我慢できなくなり、あれこれと竜崎の世話を焼き始めた。
 最初は敬語だった月の言葉遣いも、面倒を見ているうちに丁寧さは徐々になりを潜め、やがて友人か家族に対するそれになっていった。
 こんな生活をしていて身体を壊さない方が不思議ではないか。一体、いつからこの男はこんな惰性の様な有様で生きているのだろう。
 金銭的なことに関してはとんと無頓着であり、自分の金にあまり執着がないようだった。月が自分の分の宿泊料を払いたいと言うと、いくらだか知らないと言われた。
 レセプションで聞くと、部屋代やルームサービスの料金は全て一日ごとに口座引き落としで支払われているらしい。半分払いたいと言うと、竜崎に直接支払ってほしいと言われた。しかし月が金を払おうとすると、竜崎は「いりません」と言って受け取ろうとしなかった。

 うるさく言っているうちに、竜崎はようやく三度三度食事を口にするようになった。
 夜もベッドまでは来ないにせよ、月のかけてやったブランケットをまとって、毎晩睡眠をとってくれている。
 彼は何故か月の言うことに逆らわない。日本人であるということ以外、素性も何も話していないのに、それが月には不思議だった。後で気づいたが、部屋にお邪魔したいという申し出を引き受けた時、彼は月の名前すら知らなかったのだ。それなのに何の警戒心もなく、月を部屋に招き入れた。それはワイミーを訪ねてきた人間だからというだけではないような気がした。
 それとももしかして、相手が月ではなくても彼は同じように従うのかもしれない。誰かの言葉に逆らう気力すらなくなっているのかもしれない。

 これは本当にLなのだろうか。
 月は疑問に思い始めていた。
 レセプションでさりげなく聞くと、竜崎はずいぶん前…それこそ何カ月も前からこんな風にして暮らしているらしいのである。
 もし彼が世間でいうところのキラであるのなら、この一年の間に20回ほど、悪人に対する裁きを行っているはずだ。
 一月に一回か二回、実に緩やかではあるが、月が必死でバイトをしている間にも、キラの悪人に対する裁きは行われていた。報道を信じるならの話だが。
 悪人への裁きを行うのであれば、すくなくとも一週間に一回は世界の犯罪動向をチェックするべきだろう。だがこの竜崎という男は、インターネットはおろかテレビをつけることもほとんどしない。これでは、犯罪者を裁くなど無理だ。
 こんな男はLではないと早々に見切りをつけ、また別の方向からLを探してみるべきなのだろうか?
 だが月には、最初に会って声を聞いた時の自分の直感が間違っているとは思えなかった。
 見つけた、そう思った。あの日、テレビで見たあの放映の主に、ようやく会えたのだという喜びと興奮。間違っているなんて思いたくはない。
 もしかして竜崎はLではないのかもしれない。
 しかし、月が思うところには確実にあの時の放映の声の主であり、そして月が探していたのは正にその声の主なのだ。
 それに、今自分が去ったらこの男はどうなってしまうのだろうか。
 どこから出ているのか金銭面では(むしろLならば当然とも言えるが)全く心配はないようなのだが、自分が去ったら竜崎はまた無気力で食うや食わずの生活に戻ってしまうだろう。今まで普通に生きてこられたことが不思議なくらいだ。次に似たような生活に戻ったら、身体を壊して死んでしまうのではないだろうか。
 そう思うと、なかなか踏ん切りがつかなかった。
 だが、Lではないかと、本人に聞くこともできずにいる。
 そんな状態で、状況はなにも変わらないまま一か月が経った。

 

 その日は、朝からひどい氷雨が降っていた。イギリスの冬は厳しい。
 月はベッドから起きだし、竜崎がいつも座っているソファのところまできた。だが、居ない。

「…竜崎?」
 思わず部屋を見渡した。またワイミーの墓に行ったのだろうか?
 軽く探したが、バスにもトイレにも居ない。その時、彼の傘が壁に立てかけてあるのが目に入った。

「…竜崎!」
 月はあわてて部屋を飛びだした。傘もささずにこんな寒い雨の中、どこに行っているのだ。
 ホテルを出ると、すぐそばの木立の下に彼が立っているのが見えた。
 雨にあたってびしょ濡れだ。月は彼のもとにあわてて駆け寄った。
 近くに行くと、樹木の傍らでそぼ降る雨を見上げている竜崎の横顔が目に入り、その唇が何か言っているように見える。「キスしてください」と聞こえ、月はドキリとした。

「竜崎、どうしたんだ…早く部屋に戻ろう」
「…月くん」
 竜崎はぼんやりとした目で月を見返した。
 べったりと顔に這う髪先から雨水が顔を伝い落ちている。そげていた頬はこの一カ月、うるさく月が食べさせた甲斐あり、なんとか平たくなってきていた。その白い顔が、寒さで余計に顔色悪くなっている。唇は冷え切って紫になっていた。
 暖めてあげたい。月は思った。それから、そんな自分に戸惑った。直接肌を合わせたい激しい衝動に駆られたからだ。
「今朝は、すごく気分がよくて…」
 竜崎は言葉を続けた。だから、思わず雨の中に出てきてしまったのだという。
「気分がいいならそのまま部屋に居ればいいじゃないか。なんでわざわざこんな雨の中でてくるんだよ…帰ろう」
 月が手をとると、竜崎の手はひどく冷たくなっていて、氷に触れているようだった。
 思わず同じように体温を無くした頬に触れた。竜崎は無遠慮に触れてくる月を不思議そうに見上げた。
 彼は月と身長が同じくらいだが、猫背なため目線が少し低い。
「竜崎…」
 そのとき不意に月は、竜崎が整った顔をしているのに気づいた。
 目の下のひどいクマと、今まで病人の様にそげていた頬で印象をたがえていたが、生来この男は美しい目鼻立ちをしているのだ。そう思うと、一層痛々しくたまらなくなった。
 唐突に、先程の竜崎の『キスしてください』という言葉が脳裏に浮かび、胸が熱くなる。
 冷えた紫の唇に熱を分けてあげたくて、月は自分のそれを重ねた。雨でしっとりとした唇はやはり氷の様だ…一体どれだけ雨の中立っていたのだろう。月は口づけながら竜崎の細い体を抱きしめた。彼は無抵抗だった。
 

 それから、部屋に戻り、一緒にシャワーを浴びた。
 今まで一緒にバスルームに入ったことはなかったが、彼が心配でどうしてもそうせずに居られなかった。
 自分の中に生まれたこの説明しがたい感情にも、理由を見つけたい。どうして竜崎のことを考えるとこんなに胸が痛く、切なく、泣きたくなってしまうのか…もっともっとそばに居て、彼を見ていたいと思うのか。
 この一カ月そばに居て、ただ彼に食べさせたり睡眠を促したりと面倒を見てきたが、それだけなのに…それしかしてきていないというのに。探し求めていたLのイメージとあまりに彼が違うとしても、焦る気持ちを全然持てなかったのは何故なのだろう?

 竜崎の白い身体は最近きちんと食べ始めたとはいえ、まだひどく痩せていて、骨がごつごつと皮膚の下に見えている。
 この身体に今よりもっと厚く筋肉がついていたことがあったのだろうか。もっと活発に彼が動いて、皮膚の上を汗が伝っていたこともあったのだろうか。視線がきちんと何かをとらえ、行動や声に生気がみなぎっていたことが彼にもあったのだろうか。

 風呂からあがって、彼の身体をバスタオルでぬぐいながら、月は一粒だけ目立たない涙を流した。

 

 自分は彼が好きなのだ。

 

 

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