天使の到来

 

「キルシュ・ワイミー」

 

 タクシーを拾い、ネットカフェに連れて行ってもらった。
 そこで調べたところ、ドヌーヴからもらったカードに書かれている住所は、イギリスのものだった。
「またイギリスか…」
 月は苦々しい口調で呟いた。
 まっすぐ行けないこともないが、今の予算では行ったっきり日本に帰れない。
 しばらく考えた後、月は一度日本に帰ることに決めた。今回は往復でチケットをとってあり、二日後に同じ空港から日本に帰る予定だった。月は予約しておいたホテルに向かった。

 適当に観光してから月は日本に帰った。帰りの飛行機の中、見てきたいろいろな物を思い返しながら、アメリカというのは本当に何もかもがバカでかい国だ…とつくづく思った。

 

 日本に戻ってから、月は今まで以上にバイトに精を出した。
 家庭教師に加え、深夜のガソリンスタンドのバイトも始めた。大学はさぼりがちになってしまったが仕方がない。それでもまるで磨きがかかったかのように成績はトップを維持し続けていたし、そんな月に進言できるような人間もいなかった。
 金はいくらあっても足りない。航空代金に加え、燃料サーチャージも馬鹿にならない。イギリスに行った後の宿泊代なども考えなくてはならない。金を貯めても貯めてもまだ不十分な気がした。
 月がそうして金を稼いでいる間にも、一カ月に一度か二度の割合で、心臓麻痺で命を絶つ悪人は後を絶たなかった。その報道やネットで得た情報は、余計月を焦らせた。Lが早く自分を見つけろと言っているような気がしたのだ。

 そうして二カ月が経った頃───
 ようやく決心がついた月は全予算を手にして家を出た。
 今回は、何が何でもLに会うまで帰らない。そう決めた。
 どれほどかかるか分からないから、家族にもいつ帰るとも何も言わず、別れも告げずに早朝に家を出た。
 朝もやが漂う歩きなれた道を、始発が動き始める時間までひたすら歩いて月は空港に向かった。

 

 *

 

 二度目に訪れたイギリスは、どこか懐かしい香りを漂わせていた。
 ついこの間来たような気がしてならないが、前に来てからもう四か月以上経っているのだ。
 ヒースロー空港から出る電車を待ちながら、月はぼんやりと今までのことを考えていた。あの、夜中に突然の放送を目の当たりにしたあの日、あれからもう、一年も経つのだ…一年もの間、延々Lのことだけを考え続けているのだ。そう考えるとおかしな気がした。顔も年恰好も知らない人間のことを、こんなにも長い間思い続けていられる自分のことを、純粋に不思議に思った。自分は一体、Lに会ってどうしたいんだろう。どうするつもりなのだろう…
 あの日、あの一年前のあの日。身動きもとれず視界も効かない深海にただ流されるまま漂っているかのようだった自分を、唐突に太陽が見える海面に引き摺りあげるかのように連れ出した、あの声。あの声を聞いた瞬間、思ったのだ…見つけた、と。いや、理解したのだ、自分が今まで足りないと感じていたのはこれだったのだと。彼に出会うまで、自分の人生は不完全なままなのだと…。

 ドヌーヴに渡された住所は、ヒースロー空港からは電車を何度か乗り継ぎしてようやくたどり着ける、主要都市からは大分離れた片田舎のようだった。
 予定の電車が急に運行を取りやめたり、乗る便がその日はないまま夜になり宿をとったりしていたせいで、目的の街に着いたのは二日後となった。
 以前に来た時は新緑の間を風が吹き抜けていく初夏だったが、今は11月…すっかり淀んだ曇り空と冬が近づく気候に、窓から見える風景も黄葉に覆われたものに様変わりしていた。
 駅を出るといつやむともしれないうっとおしい雨が月に降り注ぐ。
 小雨であることを幸いと思い、月は途中の駅で購入した傘を広げた。

 歩いていると、しばらくは住宅街が続いていた。似たような外見の建物が延々と並んでいるのは、イギリスの特徴と言えるだろう。
 住宅街が途切れたころ、月は目にとまった商店に入り、ドヌーヴにもらったカードを見せてこの住所への行き方を聞いた。

「こんなところに家があったかしら?場所で言うなら、そっちの方にもっとずっと行って、丘を越えたあたりになるけど」
 女店主は外国人である月にも分かるように丁寧に道順を教えてくれた。どうやらあと20分ほど歩く必要があるらしい。
 月は今度は雑誌から切り抜いてきた、キルシュ・ワイミーの写真を見せた。
「あら、このお爺ちゃんなら知ってるわよ、ここ最近は見てないけど、よく買い物に来てたわ。たまにこの近くのホテルに泊まりに来てたみたいね。近くに城があるから観光客も結構来るのよ」
「何を買いに来てたのですか?」
「お菓子よ、甘いものが好きなのねきっと」
 ワイミーが特に好んで買っていたという生菓子を、手土産代わりに月も四つほど購入した。何も用意せずに行くよりはいいだろう。腹が減ったので一つは自分用にと思い、包まないでもらう。
 店を出て、歩きながら菓子を口に運びすぐにその甘さにうんざりした。どうも外国の菓子は口に合わない。やっとの思いで全部飲み込むと、月は手にした残り三つの菓子の包みを見た。もしワイミーが受け取ってくれなかったら自分で食べるしかないのだろう。

 女主人に言われた方向に歩いて行くと、民家もなくなり、木立が茂る丘の上まで来ていた。この向こうに目指す住所があるはずだ。
 丘を下ると、少し見晴らしのいい場所に出る。その時、何の悪戯か、それまで悪寒のように降り注いでいた嫌な冬の雨が、さっと止んだ。雲が割れ、太陽の光が差し込んでくる。黄色く染まって生い茂る木の葉が雨に濡れて光り、そのあたりはまるで黄金郷のようになった。

 あたりを見回して戸惑う。
 そこに家などなかった。確かにここで間違いないと思えるのに。情報は嘘だったのだろうか、それとも自分はドヌーヴにからかわれたのだろうか?
 心細い思いで歩を進めていると、人影が見えた。
 老人のようだ。もしや…と思い、速足で近づく。声が届くくらいまで近づくと、彼はそこに立って何かを見下ろしていた。手には、雨がやんだので閉じたのだろう傘が下げられている。月の方を振り向く気配もなかった。

 近づいてよく見ると、その男は老人ではなかった。
 ひどく痩せていて、猫背だったため遠目にはそう見えてしまったが、近くに寄ってみると白い肌には張りがあり、黒々とした長い髪が頭を覆っている。うなじを越すくらいの長さのその髪は、雨の湿気でかしっとりと頬に添っていた。けして暑くはないのに、白いシャツ一枚にジーンズといういでたちで居る。
 また、何故かその立ち姿からは生気が全く感じられず、それが老人のような印象を月に与えたのだろうと思われた。

 何を見ているのか、とその視線を追うと、彼が見つめているのは膝丈の石碑の様なもので、ブロックが囲んだ花壇のような場所の一画に立ててあった。男性はそのブロックの手前に立っている。
 岩肌に彫ってある字を見て、月は心臓がドキリと高鳴るのを感じた。

 キルシュ・ワイミー…
 これは墓だ。そう気付く。Lと渡りをつける役を務めていた男は、既に死んでいるのだ。自分は間に合わなかったのだろうか?それとも、ドヌーヴがくれた情報は、最初からワイミーの墓の場所だったというのだろうか…。
 でも、なにか、おかしくないか?どこがどうとは説明できないが、奇妙な不一致を感じる。なんだろう?

 ふと気がつくと、墓を見つめながら男性は泣いていた。声も身動きもなく、ただ静かにその頬を涙が伝っている。
 月は声をかけるかどうか迷った。この男性はワイミーの身内なのだろうか。ワイミーがすでにこの世の存在ではないのなら、身内の可能性のあるこの男性が、残された唯一の手掛かりと言っていい。
 逡巡していると、男性が徐に月に視線を向けた。流れる涙をぬぐおうともせず、濁った瞳は何も映していないかのように見える。頬はそげており、目の下にはひどいクマがあった。

「こ、こんにちは…」
 言ってから、日本語を使ってしまったのに気付いたが、男性は掠れた声で、こともなげに「こんにちは」と返してきた。何の違和感も感じない流暢な日本語で、目や髪の色が黒いところからもしかして日本人なのかとも思う。

「あの、ワイミーさんの身内の方ですか?」
 聞くと、男性は頷く。
「あの、ワイミーさんに会いに日本から来たんですけど…お、お亡くなりになったんですか…?」
 男性はまた頷いた。もう目は月の方を見ていない。

 もっと色々と聞きたいことがあったが、男性の雰囲気はとてもそれを許すものではなかった。やがて、彼は月に背を向けて去ろうとした。
「ま、待ってください」
 月はあわてて呼び止めた。このままでは折角の糸口をも無くしてしまう。

「あの、ワイミーさんに差し上げるつもりで、あっちのお店でケーキを買ってきたんですけど、食べませんか?僕には甘すぎて…」
 口実をつくり必死で呼び掛けると、男性は億劫そうに振り向いた。

「結構です。甘いものは嫌いです」

 

 その声は、雷の様に月の脳髄を貫いた。
 まさか、こんな、唐突に。
 先程挨拶を交わしたときは掠れていたため気付けなかったが、この声、このイントネーション…間違いない、この一年探し続けてきたもの、どれだけ季節を越そうが忘れられなかったもの…!

 

 

 Lだ。

 

 

 男性は月から離れて、今しがた月がやって来た道の方に向かって歩いていこうとしている。月は後を追った。
 なんとしても、なんとしてもきっかけを作って、話がしたい…!

「すみません、あの」
 月は男性と並ぶと、必死で話しかけた。
「このあたりに住んでおられるんですか?」
「…近くのホテルに泊まっています」
「ぼ、僕もこの辺にしばらく滞在しようと思ってたんです…そこまで一緒に行ってもいいですか?」
「どうぞ」
 男性の声は、月にはあまり興味がないという感じだった。それでも許しを得られたことに安堵し、月は男性と並んで歩き続けた。胸の動悸がひっきりなしに激しく鳴っていておさまりそうにない。

 Lだ。間違いない。絶対、もう逃がさない。
 一年もかかったのだ。会うまで、一年もだ…!
 必死で金を貯め、会うことだけを思って探し続けたのだ!この男と言葉を交わすことだけを考えてこの一年生きてきたのだ!
 心臓が破裂しそうだった。───怖い…拒絶されるのが。

 男性は少し街から外れた方に向かっている。やがて、彼が泊っているのであろうホテルが見えてきた。少し郊外に佇むその建物はシックな雰囲気の結構立派なもので、ランク付けするなら五つ星に当たるだろう。月は自分の懐と照らし合わせて眉間を曇らせた。
「あのう」
 月は恐る恐る男性に声をかけた。
「申し訳ないんですけど、通訳をお願いできませんか」
 英語はもちろん話せるが、なんとか彼と接点を持ちたい。断られるのを覚悟で頼むと、構わない、と言われた。

 

「おかえりなさいませ」
 英語でそう挨拶しながら、ホテルマンが男性に向かって深々と頭を下げた。
 男性は覗きこむようにホテルマンと小声で言葉を交わし、月の方に向き直った。
「シーズンオフなので部屋は空いているそうです」
 しかし、男性から告げられた部屋代は、月の懐を一週間ほどで火の車にするものだった。思わず口を押さえて呻く。
 それに、一つの不安があった。自分の知らない間にこの男性がホテルを去ってしまわないだろうか。

「あ…あなたはどちらの部屋に?」
「私は最上階のスイートルームにおります」
「スイート…」
 そこに一人で泊っているのだろうか。
「あの、会ったばかりなのにすごい不躾なんですけど…あなたと同じ部屋に泊ってはいけませんか。寝床はソファでも床でもいいんで…」
 逃げられたくない一心で、実に不自然な頼みを口にする。シングルを一部屋取るより、スイートをシェアする方が確実に部屋代は高いだろう。さっき出会ったばかりの相手の、そんな頼みをきくような人間はまず居ない。恋人と二人で利用している可能性もあるのだ。
 だが、男性は月の願いをあっさり聞き届けた。

「構いませんよ、ベッドは空いています」
 そしてホテルマンに早口の英語でぼそぼそと何かを告げた。ホテルマンは「かしこまりました」と頷き、預かっていたらしい部屋のキーを男性に渡した。
 キーを受け取り、男性はエレベーターの方に歩いていく。月もあとを追った。

 エレベーターの中で、改めて男性を見た。
 年齢がさっぱり分からない。自分と同じくらいにも見えたし、見ようによっては30代後半くらいにも見える。ひどく疲れた表情と立ち居振る舞いをしていた。
 常に焦点の合わない視線をぼんやりと空中に漂わせている。
 これが、Lなのか。
 このどこからも生気が感じられない男がLなのだろうか。

「あの」
 話しかけたが、反応はなかった。
「お名前をうかがってもいいですか…」
 それでも男性は月の言葉にきちんと返事をよこしてきた。

 

「竜崎と呼んでください」


 

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