エロティカ・ヘヴン番外編・3

 

 

天使の休息

 

 

 

 嵐の夜が明けたばかりのある晴れた午後のこと。 

 その日撲は趣味であるボトルシップ作成のために、船の写真を撮りに港に来ていた。
 ここボストンは海の近くにある都市だ。港も多い。車でイーストボストンを少し走れば、大きな公園や砂浜がすぐ見えてくる。カメラを抱えて、公園の丘から海面に浮かぶヨットを被写体にシャッターを切っていたとき、視界の端に何か白いものが映った。バタバタ動いているので、鳥かと思って最初は気にしていなかったが、意外に大きいような気がしてよく見ると、信じられないものが目に映った。
「…え…?」
 公園の丘の外れの方でバタバタと蠢いているそれは、翼の生えた人間だった。
 僕は思わずカメラをしまいこんで、そっちに向かって走った。草原を駆け下りてそばに行くと、子供のように見える。
 くるんとしたブロンドの巻き毛がばたつく翼越しに見える。近づいてから分かったが、ブロンドだと思ったその髪は透き通るような銀髪だった。

「君…!」
 思わず声をかけると、子供はビクリと動きを止めてこちらを見た。
 翼の根元に血がにじんでいるのが見える。その怪我のせいでうまく片方の翼が動かず、飛びたてられずにいる───ように見えた。
「怪我してるのかい…?大丈夫?」
 銀髪に覆われた小さな顔の肌も白く、唯一大きく見開かれた瞳だけが、見るものを吸い込んでしまいそうに漆黒に濡れている。身体には柔らかそうな生地で作られた純白の衣類をまとっていた。
 よく見ると、小柄ではあるがこっちを見上げる目には知性が宿り、まとう雰囲気などからも子供というよりは少年といった方がしっくりくる。

「病院に行った方がいいんじゃない?連れて行ってあげようか?」
 僕の提案に少年は少し表情を険しくした後、首を横に振った。
 それもそうだろう。どういう理由で翼が生えているのかは分からないが、大勢の目に触れるのは本意ではないに違いない。
「でも、このままここに居るのも…。もしよかったら、うちに来るかい?怪我の手当てができるかも」
「…………」
 少年は、しばらくこっちを見上げた後、僕のシャツの裾をきゅっとつかんだ。
 か、可愛い…。
 僕は少年を抱えて車に戻り、後部座席に座らせた。翼がちょっと窮屈そうだけど、もともと小柄な彼はなんとか収まって片膝を抱えている。
 僕はカメラを助手席に置くと、自宅に向かった。そういえば予定していたヨットの写真をほとんど撮っていなかったけどしょうがない。

 自宅に戻り、マンションの駐車場に車を止めて、人がいないのを確認してから彼を連れて部屋に戻った。
 ソファに座らせて、血がにじんでいる翼の根元を見ると、骨が折れていうようだった。痛いだろうに、本当に病院に連れて行かなくて大丈夫だろうか。
 とりあえず部屋の中を探し、針金のハンガーを二つほど壊してまっすぐにすると、布を巻いて支える棒を作り、彼の折れた翼にあてて包帯で巻いて固定した。何度か怪我をした野鳥の手当てをしたことがあるので、同じ要領でと思ったが、サイズが小さくない分やりやすい。
「痛くないかい?大丈夫?」
 伺うと、彼は僕を見上げ、こくんと頷いた。
 可愛い…
 っていうか、口がきけないのだろうか?こっちの言葉は分かるみたいなんだけど。

「男の子だよね?ええと…人間じゃ…ないよね」
 少年は肯定した。やっぱりそうなんだ。となると…
「て、天使…?」
 ドキドキしながら聞いてみると…少年はあっさり首を縦に振った…!

「きみのこと…なんて呼んだらいいのかな」
 すると彼は僕の手を取って、僕のてのひらに一文字ずつアルファベットを書いた。

 N E A R

「…ニア…?」
 こくん。
『近く』という意味の単語を名に持つ天使。
 部屋に連れてきた時は何も考えてなかったが…。僕はその後、思っていたより長期間、彼と一緒に暮らすことになった。



「ハイ、ジェバンニ」
「あ、ああ…ハル。おはよう!おかえり、元気だった?」
「ええ」
 翌日、仕事に行った僕に同僚のハルが話しかけてきた。彼女は最近、ニューヨーク方面に出張に行っていて、昨日帰ってきたばかりだ。

「昨日、オフだったようね。リフレッシュできた?」
「え?ああ」
「じゃあ、今夜飲みにいかない?」
「いいよ。あがれればね」

 僕らの仕事はFBI。ボストンは平和な町だけど、事件が起きない日なんてない。その日も殺人事件が二つあって、他州で前科があったのでFBIの管轄になった。でも犯人はなんとか捕まったし、夜までにはなんとか報告書を書き終えて退勤することができた。
 僕とハルは行きつけのバーに行くと、「いつもの」を頼んだ。

 ハルは、ボンベイサファイアのグラスを傾けながら、出張先の話をした。仄暗い店内で、柔らかな照明に照らし出されるロングの金髪がものすごく綺麗だ。
 彼女は確か、潜入捜査で麻薬取引を追いかけていたはずだ。何かあったのか、今日一日あまり元気がない様子に見えた。
「ハル、出張先で何かあった?」
「分かる?」
「うん。元気ないね」
「実は、取引先を押えるために、運び屋の男の子と付き合ったんだけど」
「その男に何かされたのか?」
「そうじゃないの、組織とは何も関係なくて純情な子だったのに、騙す形になっちゃって…指輪まで送らせたのよ私。自己嫌悪だわ…」
「え?」
 僕の心臓がドクンと跳ね上がる。
「それってプロポーズ?受けたの…?」
「え?いいえ…だってハタチそこそこの子なのよ」
「でも成人なら合法だろ」
「そんな風に見てなかったわ。でも勿体ないことしたかもしれないわね」

 僕は自分のソルティードッグを眺めながら、そういえばあの天使は何歳なのかなあ…なんて考えてて、ハッ!?と立ち上がった。
「どうしたの?」
「…あ…あの、親戚の子を預かってて、今家に一人きりで置いてるんだった…忘れてた!」
「ホント?何歳の子なの?」
「ええと…10歳か…13くらい…?わかんないや、僕とりあえず戻るよ」
 ソルティードッグを飲み干してハルと僕の会計を済ませると、僕はバーを飛び出した。
「会計、ワリカンでよかったのに」
 不本意そうな声を出しながらハルが追ってくる。タクシーを止めると、彼女まで乗り込んできた。
 え、まさか、うちまで来るつもりかな??
 普段なら大歓迎なんだけど…
 僕の脳裏に、一人で置いてきたあの子の姿が浮かんだ。
 玄関のカギはオートロックだから、好きな時に出て行っていいんだよ、と言ってはあるけど、分かってるのか分かっていないのか…もしまだ居るとしたら、ハルに見られるわけにもいかないし…

「ハル、先に君を家まで送るよ」
「え?会わせてよ親戚の子。私、これでも子供好きなのよ」
「いや、そういうわけにも…」
 焦っているうちにハルは勝手にタクシーの運転手に指示を出して、僕の家まで来てしまった。梃子でも帰りそうにない雰囲気。
 困ったな、でもハルなら…そう思いながら、僕はエレベーターに乗り、彼女を連れて部屋に入った。まだ…居るだろうか。

「ニア?」
 呼びかけると、ヒタヒタと裸足で床を歩く音がして、少年が現れた。
 なんと、その背中には…あったはずの翼が、あとかたもなく消えていた。
(あれ?)
 僕はパチパチと瞬きして彼を見た。翼がなかったら、彼の見た目は人間と何も変わらない。

「まあ、可愛いわね、ニアというの?」
 ハルがしゃがんでニアの髪を撫でる。彼はこくんと頷いた。
「靴を持ってないのかしら?ジェバンニ、買ってあげなさいよ…裸足じゃ危ないわ」
「あ、うん」
「それに、こんな服じゃ散歩にも行けないじゃない!?ジェバンニ、服も買ってあげるべきだわ」
「そうだね…」
 彼はギリシャ神話みたいな恰好をしていて、まあ、そんな服装はこの辺ではハロウィンくらいでしか見る機会はない。
「いつまで預かるの?」
「え?ええと…親が返ってくるまで…かな…ちょっとまだ連絡取れないんだ」
「まあ、大丈夫なの?ジェバンニ、あなた、仕事があるのに」
 そうなんだけど…まあなんとかなるさ。ほら、僕が「大丈夫」と言うと、天使もこくんこくん頷いている。

「それで…年はいくつなの?結局」
「あ、いや…ちゃんと聞いてないんだ実は」
 いくつなんだろ?実際。思慮深そうな瞳は成人のような印象も受ける。見た目はジュニアハイか…いやもっと下かな…。
「さっきから気になってたんだけど、喋らないの?この子」
「あ、そうだね、うん、僕も喋ったの聞いたことなくて…あの、外国に居たから…まだ英語に慣れてないみたいなんだ、こっちの言うことは分かるんだけど!」
「そうなの?どこの外国に居たの?」
「ええと…」
 僕は必死でハルが言語を習得していない国を考えた。ロシア、スペイン、フランス、日本、中国、韓国はだめだ。あとは…えーと…カンボジア?タイ?

 すると少年は首を横に振って、口の前で指で小さな×を作った。
「喋りたくないの?いいわ」
 ハルはニッコリ笑って彼の頭を撫でた。
 よかった。まあ、ハルになら本当のことを話してもいいかな…という気もするんだけど。

 それから僕が入れたコーヒーを三人で飲んで、ハルは「ちゃんと靴と服、買ってあげるのよ!」と言いながら帰って行った。そうだな…服はともかく裸足じゃ危ない。ひとまず、僕は自分の靴下を出してきてニアにはかせた。
「靴は明日、スニーカーか何か買ってくるよ」
 すると少年は首を横に振った。
「いらないの?」
 こくん。
 そうか、じゃあ…かわりに絨毯でも買ってきて、僕も靴を脱ぐことにしようかな。
「羽はどうしたの?」と聞くと、窓を指差した。
 え??と思ったけど、どうやらそこから下をのぞいていたら、僕が客を連れて帰ってきたのが分かったので、隠したという意味らしい。そんなこともできるんだなあ。
 
 服については、「ここにあるものなんでも着たいのがあったら着ていいけど」と言うと、どこからか白いパジャマを引っ張り出してきてそれに着替えた。
 うわ…それ、元カノからのプレゼント…。
 僕は、仕事が忙しくてすれ違いが増え、結局ふられたかつての恋人の顔を思い出してため息をついた。このパジャマも結局一回も袖を通さなかったんだっけ。
 だから今まで気づかなかったんだけど、そのパジャマは僕のものにしては小さくて、天使にサイズがぴったりだった(ちょっぴり大きかったけど)。彼女…ペアで買って、渡す方間違えたのかなあ…。
 とにかくそんな風にして彼との生活が始まった。

 

 


 



 仕事が終わって家に帰ると誰かが待っていてくれる生活は、思いのほか癒された。
 と言っても彼は、同居人と言うよりはペットに近かったけど。
 口もきかないし、家事もしない。
 家に帰ると大抵は片膝を抱えてテレビを見ている。もしくはベッドで眠っている。
 彼がベッドで寝ているときは、僕はソファで寝る。
 僕がベッドを使うときは、彼がソファで寝る。
 食事はほとんどシリアルとサラダしか出してあげられないけど、それでも彼は残さず全部食べてくれる。
 服を買いに行こうと言うと、彼は外に出るのを嫌がったので、ずっとパジャマのままなんだけど。
 僕が一人で家に帰った時は、彼は大抵翼を外に出していた。パジャマに穴でもあけたのかなと思ったけどそうでもないらしい。翼は衣類を通り抜けてるみたいで…どうなってるのかな。
 

「ジェバンニ、あの子まだあなたの家にいるの?」
 二週間ほど経ってから、唐突にハルにそう聞かれた。
「う、うん」
「靴と服買ってあげたの?」
「あ…まあ、うん」
 結局どっちも買ってない、とは言いにくい。うーん、虐待とか思われないといいけどなあ…。児童虐待相談所なんて呼ばれたら面倒なことになる。戸籍もないだろうし、どこの国の誰かって話になって、僕も勿論FBIをクビになっちゃうし…
「今度、あなたのおうちに遊びに行ってもいい?というか、今夜とか」
「え?あ、ああ…うん分かった」
 ドキン!と僕の心臓が跳ね上がった。

 NY出張で運び屋の男に指輪をもらったと聞いた時もドキーンとしたんだけど、実は、僕もハルに渡したくて、指輪を持ち歩いているのだ。
 この間もチャンスだったんだけど、ニアがそばに居たので、つい渡しそびれてしまった…
 でも、今夜こそ!
 あ、そうだ、ニアに連絡しておこう。電話をかけて、出なくても留守録に吹き込んでおけばいいし。大丈夫とは思うけど、最近帰ったらいつも羽を出しっぱなしだし…急にハルと一緒に帰って、羽をしまい忘れたら天使だってことがばれてしまう。
 まあ、ばれた方が、児童相談所を呼ばれるよりはいいかな…という気はするけど…

 トイレに立った時に、こっそり携帯で自分の家に電話をかけると、数コールのち、誰かが電話に出た。
『…はい?』
 え?あれ?
 澄んだ可愛らしい感じの男の子の声だ。え?ニア??
「あの、僕だけど…今日、ハルを連れて帰るから…」
『あ、はい…』
 電話はそこで唐突に切られた。
 ? ? ?
 まあ、いいや…
 ニアって、あんな声してたんだ?
 僕は彼が電話に向かって愛らしい声で喋っているところを想像して、首を傾げた。


 *


 夜。
 何とか無事に仕事が終わって、家に戻り、玄関のドアを開けると…
 あれ?うち、こんなに綺麗だったっけ?
 リビングに続く廊下は磨き上げられてどこもかしこもピカピカになっている。
 ハルも後ろで「ジェバンニの部屋ってこんなに綺麗だった?」と言ってる。

 リビングのドアを開けると、何故か照明を落とした薄暗い部屋の中、そこかしこに綺麗な明かりが灯っていた。色ガラスのビンにキャンドルを入れたもののようだ。ニアだろうか。どこから調達してきたんだろう? 
 彼が来て以来、リビングは土足禁にしてあるのでハルにも靴を脱いでもらって、絨毯にあがると、テーブルの上に御馳走が並んでいる。
 え?え?え?これ、どこから持ってきたんだ???
 サラダにキッシュに、肉料理にワイン。しかも結構高そうだ。

「まあ、ごちそうね」
 ハルがそう言いながら席に着いた。
「デリバリー?」
「え?ええと…」
 ニアにそんなお金は渡してないはずなんだけど…。いや、何かあった時のために少しは渡してあるけど、せいぜい10〜20ドルで、こんな御馳走用意できるほどじゃ…
 そこに、ひたひたと足音がして、奥の部屋に居たらしいニアが出てきた。クルクルの巻き毛に白いパジャマはいつも通りなんだけど、なぜかものすごい不機嫌そうな表情だ。
「こ、これ、君が?」
 尋ねると、ニアは不機嫌な顔のままこくりと頷いた。それから僕が脱いだばかりの上着をもって自分のパジャマの上に羽織ると、玄関に向かう。
「???」
 僕は何が何だか分からないまま部屋を出ていく彼の背中を見送った。


「美味しそうね。いただいていいのかしら」
「あ、ああどうぞ」
 僕はハルと一緒に席について、置いてある御馳走を口に運んだ。結構おいしい…これ、ニアが作ったのか?まさか…。いつも何もしないでごろごろしているあのニアが…

「どれも美味しいわ。どこのお店のもの?」
「え?さ、さあ…後でニアに聞いておくよ」
 僕は適当に笑って、ワインを口に運んだ。

 仕事のことや上司のことや、政治の話なんかに花を咲かせて、あとはお互いの相棒なんかについての愚痴をこぼしたりして、食事が終わったころ僕は意を決して指輪のケースを出した。
 ケースを開けると、中にはハルの誕生石のアメジストをあしらった指輪が見える。

「ハル」
「なに?」
 彼女が微笑むと同時に僕は、ふたの開いた方をハルに向けて、テーブルの上に指輪のケースを置いた。
「え?何?」
「僕と、結婚してほしいんだ」
「えっ?」
 ハルは目を真ん丸にして僕を注視した。寝耳に水といった感じだ。
「え?え?ジェバンニ…」
「ずっと好きだったんだ。今すぐ返事を欲しいとは言わない…考えてくれないかな」
「ごめんなさい」

 …早…ッ!

「考えてって言っただろ…」
「私、来週、ロスに行くのよ」
「はあ!?」
 今度はこっちが青天の霹靂だ。ロス!?

「今日はその話をしようと思ったの。ロスの州警察に兄が勤めていて、捜査指南役の人材を探しているから、トラバーユする気はないかって」
「えええ!?」
「迷ったんだけど、行くことにしたわ」
「だ、だって、ロスって、遠すぎるだろ!?ニューヨークとわけが違う!」
「やってみたいのよ、それにこの間の出張でなんだか疲れちゃって…」
「…そ……そうか…」
「大丈夫よジェバンニ、海外に行くわけじゃないし、飛行機に乗ればすぐよ。遊びに来て」
「はは…」

 僕は、「大したものじゃないから餞別代りに…」と言って、ハルが返そうとした指輪を無理やり押し付け、タクシーに乗せて見送った。
 ダイヤとか買わなくてよかった。二月生まれのハルに感謝。

 悄然としつつリビングの片づけをしていると、ニアが帰ってきた。
 ちょっと心配してたんだ。こんな夜に…。気を使ったんだろうな。
 僕の袖を引いて、見上げてくるので、無理に笑って頭を撫でてあげた。
「ハル、来週、ロスに行くんだってさ…」
「!」
 ニアは一瞬どんぐりまなこになると、はー…とこれ見よがしにため息をついて寝室に入っていった。え〜…今日は僕がソファ…?
 まあ…協力してくれた彼には確かに申し訳ない。

 その晩、ソファで横になりながら、僕はハルにフラれたことじゃなくて、ずっとニアのことを考えていた。
 あの、テーブルの上に並んでいた料理は誰が作ったんだろうか?
 さりげなく部屋を出ていく気の使いようといい、掃除してあった部屋といい…今まで彼のことをペットみたいに思っていたけど、実はそんなことなくて、最初に抱いた印象通り高い知能を持ち、高度なコミュニケーションが可能な子なのかも…
 もし彼が口をきいたとしたらどんなことを言うんだろうか。
 僕は、電話で聞いた声で喋るニアを想像して、どんなふうに彼がしゃべるのか、もし言葉を交わせたら彼は僕の質問にどんな風に答えるのか…なんて考えているうちにいつの間にか寝てしまった。
 夢の中で僕はニアとたくさん話をした気がする。

 




 翌日。
 失恋のショックで僕は下水溝に落ちかけたり犬に噛まれたり犯人の追跡中派手に転んだりした。
 午後には上司に「今日は帰れ」と言われ、珍しく早いうちに自宅に戻ることになった。
 一瞬、ニアに連絡しようかと思ったけど、あのどんぐりまなこをまた見たくなって、こっそり帰って驚かすことにした。

「ジェバン二…」
 帰り際、ハルが何か言いたげに僕を見ていたが、微笑んで「今日はなんだか調子が悪いみたい」と言って別れる。いつまでも落ち込んでいては彼女にも申し訳ない。


 マンションにつき、エレベーターを降りると、僕はこっそり玄関のドアを開けた。
 仕事柄、音を立てずに住居内に侵入するのは慣れているわけで。そっとドアを閉め、足音を殺しながら先に進む。
 その時、僕は動きを止めて壁に張り付いた。誰かの声が聞こえたからだ。肉声とテレビ音声の区別くらいつく。誰かが家に侵入している…
 会話の内容が聞こえるように、僕は少しずつ音源のリビングに近づいて耳を押し当てた。

「え〜、じゃあ駄目だったんですかあ?」
 可愛らしい澄んだ男の子の声。
 え?これ、このあいだ電話に出た…。じゃあ、ニアの声?
 僕は好奇心を押えられなくなり、そーっとリビングに続くドアをあけた。中に居るものに気付かれないように。

「別にあなた方のせいではないですから気にしないでください」
「だって、ニア、すごい頑張って料理作ってたじゃないですか」
「僕だって掃除を手伝ったのに」

 リビングには三人の人間がいるようだ。いや、ニアは…というかもしかしたら全員、人間ではないのだけれど。

「エル。あなたが勝手に電話に出たり、勝手に掃除したりするから、私だけ何もしないわけにいかずに、仕方なく…いいですか、仕方なく、料理を作ったんであって、本当は私の安穏のために何もしないですぐ帰っていただきたかったんですが」
「え、だって、お世話になってる方が、意中の女性を連れて帰ってくるんでしょう?告白が成功するように何かしてあげたいじゃないですか」
「そうだぞ、それに折角探し当てて連れ戻しに来てやったのに、早く帰れとはお前、主人に向かってどういう口のきき方だ」
「誰も、連れに来てくれとも主人風吹かせてくれとも頼んでないでしょーが」

 僕はそっと戸をあけて中を覗き込んだ。一人は確かにニア。でも、どうやら僕が電話で聞いた男の子の声はニアではなくて、ニアがエルと呼んだ別の子の声のようだった。柔らかそうな黒髪をあちこちに跳ねさせ、くりんとした黒い大きな目を持つ愛らしい少年だった。背中から、小さいけれど一対の翼が生えている。
 そして、ニアに向かって自らを主人を言ったのは、三人の中で一人抜きんでて背が高い、栗色のさらさらした髪を持つ美しい青年で、なんと彼は背から三対もの大きな純白の翼をはやしている。ただでさえ広くはない僕の部屋が、彼の翼に占領されてひどく狭苦しそうに見えていた。

「大体、もう怪我は治ったんです。確かに地上に来ようとして嵐に巻き込まれ、翼を折って天界に戻れずご心配かけたのは申し訳なく思っています。でもほら」
 そう言いながらニアは自分の翼をばさりと広げた。僕が手当てしてあげた血のにじんでいた個所は、もうすっかり真っ白に戻って血がにじんでいた痕跡など少しもない。

「じゃあなんで帰ってこなかった?」
「だから、言ったじゃないですか。疲れたんですよ、しばらくお暇を戴きたいんです」
「ニア」
 青年はため息をつきながら両手を広げた。
「給仕長のお前がいなかったら、うちはしっちゃかめっちゃかだ。分かるだろう。主人である前に乳兄弟じゃないか、その僕をそんなに困らせたいのか?」
「それですよ、そうおっしゃいますがね、あの家のことほとんどすべてを私が仕切ってる状況に、ほとほと疲れたんですよ。この部屋の主人に拾ってもらって、養われる生活のなんと魅力的だったことか…一日中なにも仕事をしないで時間を浪費するのがどれだけ素晴らしいことか、普段からそんな生活を送っているあなたには到底分かり得ないでしょうねキラ」
「ニア」
 キラと呼ばれた青年は頭を抱えてニアに背を向けた。

「ニア」
 今度は黒髪の少年がニアの手を取る。
「どうしても戻ってはもらえないですか?」
「エル」
「あなたがいないとさびしいんです…私自身が辛い時に、どれだけあなたに助けられたか…。仕事が大変だというのなら、私があなたの代わりを務め、あなたはただ館に居てくださるだけでもいいのです…戻ってはいただけないですか?」
「…そうですね」
 ニアは微笑んだ。

「私もあなたと過ごすのは嫌いではありませんでしたよ、エル。そうですね、ほんの少しだけ…休みをとって、満足したら、また館に戻ると約束しましょう」
「本当ですか」

 僕は、ニアのセリフに胸がチクリと痛んだのを感じた。
 行ってしまうんだ…
 そう、思って。

「いつですか?いつ戻ってきていただけるのですか?」
「まあ、そうですね、今は、私のこの皮肉屋の性格がばれないように口をきかずにいますので、まあ…そこが露見したらいつここを追い出されるか分からないですが、そういう因子が何もなければ…ここに住んでいる人間が、生きている間はお休みさせてもらえませんかね…」





 僕はゆっくりその場を離れると、音を立てないように部屋を出た。
 そして、エレベーターで降りてマンションを出ると…近くの公園まで行き、ベンチに座ってゆっくりため息をついた。
 安堵のため息だった。
 話を盗み聞きしながら、僕は内心諦めていた。ああ、これで彼は僕のもとから去って行ってしまうんだな…と、心の準備をしていたのだ。それが…

「一生そばにいてくれるんだ…」
 なんだかすごく…嬉しかった。





 その後、僕は何事もなかったように家に帰った。何もなかったみたいにニアが無言で迎えてくれる。
 リビングの窓のところにすごい大きな白い羽が一枚落ちていた。二人はここから帰って行ったようだった。




 翌週、ハルがロスに旅立っていった。
 彼女が傍に居ないのは寂しいけど、でも思ってたより平気だ。だって一人じゃないから。

 家に帰るたび、ニアは無表情で迎えてくれる。
 いつか、彼に告げたい…喋ってもいいんだって。
 君の性格がどんなでも、僕は追い出したりしないって…君がそう望む限りは。

 その時は、どんな会話ができるだろうか。
 過去の話をするのかな…それとも未来の話をするのだろうか。


 
 その日が来るのを、待ち遠しく感じる日々なのだ。



 END

 

 

ジェバンニは本名じゃないようなのですが、やっぱ見慣れたほうが…と思いこっちを使っちゃいました。
A型なわりに色々とアバウトなジェバ…