エロティカ・ヘヴン番外編・2

 

 

Long sweet story

 

 

 今思うと、あの時は魔が差してしまったに違いない。

 

 非科学的現象を目の当りにした俺は約三十秒ものあいだその場に固まって「それ」を見ていた。
 20年生きてきて培われた俺の常識では、空中にいきなり人間が現われるなどあってはならないことで、しかしそのあってはならないことが現実として目の前で起こったわけで。ということは常識が覆ったか俺の頭が壊れたかだ。

「…………………………」
 そいつも俺も見つめあったまま動かない。一分は経った。
 さらりとした肩まであるまっすぐな金髪。その金髪がこれ以上ないほど映える漆黒のコート、肩を覆う同色の柔らかそうなファー。見る限りでは男性。
 コーカソイドと思われる彫りの深い整った顔立ちに、凄みとアクセントを加える左目周辺の火傷痕。

「…おい」
 俺の反応を待ち続けるのにいい加減飽きたのか、「それ」は口を開いた。

「はい…?」
「チョコレート買って来い」
「はいっ」

 俺は地下倉庫を脱兎のごとく飛び出した。近所の菓子が豊富なスーパーマーケットに向かって。
 超常現象を見てしまったからではなく、俺は「あれ」が人間ではないことを知っていた。
 あれは、悪魔だ。
 何故そう言い切れるかって?
 何故って…俺が呼び出したからだ。

 

 説明しよう。
 俺の名はマット。こないだ二十歳になったばかり。
 職業はメッセンジャー。こないだバイクで事故ってからは自転車でなんとか遣り繰ってるけどちょっぴり限界を感じ始めたところ。
 家族ナシ。恋人一人。
 恋人一人、ここが重要だ。

 一ヶ月前、俺には彼女が出来た。そりゃもうすげえグレードが高いブロンド美人だ。スタイルも容姿も申し分ない。貧乏メッセンジャーの俺なんかじゃ全然釣り合ってないのは自分でも分かってるけどとにかくメロメロなのだ。向こうだって俺にメロメロさ!…多分。
 出会いは、彼女が俺に道を聞いたことだった。
「ねえ、あなた、中央病院へはどう行くの?」
 俺は、道を教えてやりながら、すごい美人だな〜一期一会アリガトウとか考えていた。
 翌日、また彼女に会った。
 なぜか左だけ裸足で公園の噴水に腰掛け、「困ったわ」という顔をしてため息をついているではないか。
 XY染色体を持つ身としては通り過ぎるのは罪悪だと感じた俺は彼女に話しかけた。
「ハイ、俺のこと覚えてる?昨日会ったよね。何か困ってるみたいに見えるけど、俺に出来ることある?」
「ハイ。覚えてるわ。実は、靴を片方排水溝に落としちゃったの」

 俺は自転車を飛ばし、最寄の靴屋で彼女のサイズにあった靴を買ってきてプレゼントした。
「ありがとう、お礼しなきゃ。明日、一緒に夕食でもどう?」

 そこからはトントン拍子で、二週間で互いをステディと認識する仲となり今に至る。まだ最終ステージまでは至ってないけど、先日一足飛びで、「今度両親に紹介したいの」と言われた。マリッジのMの文字が頭にちらついた俺を誰が責められよう。

 で、悪魔だ。
 実は、明日が彼女の誕生日なのに、俺は何も誕生日プレゼントを用意していない。
 金がないからだ。仕事で前借したいと頼み込んだが、一週間後の大きな取引が終わるまでは報酬はやれないときっぱり断られた。
 付き合いだしてから初めての彼女の誕生日だ!
 なのに俺の全財産は12ドルと30セントぽっきりだ。こいつをはたいて安物の花束を一つ彼女に贈ったところで、今後一週間文無しになるという厳しい現実が待っているばかり。
 出来れば、スーツでパリッと決めて一流レストランで食事、指を鳴らしたら現われるバイオリニスト、そして優雅な音楽の中で指輪のプレゼント、と行きたいけれど!先立つものがないとどうしようもない。

 で、悪魔を呼び出すしかないという結論に至った。
 銀行強盗するよりは建設的な判断だと思ったのだ。
 溺れるものは藁にも縋る、そうだろう?

 何故悪魔かというと、何故か俺が魔導書を持っているからだ。母親の形見の品なのだが、俺の母親は何を考えていたのかさっぱり分からない。
 魔導書と言われると諸君は表紙に魔方陣などが描かれた分厚いロングマン辞書的なサイズの書物を思い浮かべるのではないだろうか。
 どっこい、俺の持っているそれは、薄っぺらくて大学ノート程度の厚みしかなかった。
 表紙は黒。題字部分に白抜きのカクカクした文字で「grimoire」と書かれている。

 母親が死んで、形見でこれが出てきたとき、俺は実は俺の母親は魔女だったのかと思った。
 そして爆発しそうな心臓を宥めつつ開いてみると、記されていた項目は三つのみ。

 その一、さかむけの治し方

 その二、年齢を五つ若く見せる方法

 その三、悪魔の呼び出し方

 

 …俺の気持ち分かってくれるだろうか。
 一旦、見なかったことにしてノートを閉じたほどだ。
 生憎俺にはさかむけはないし、大人に見られたいと思ったことはあっても若く見られたいなんて死んでも思う年頃ではなった。
 悪魔を呼び出したくなるほど社会イデオロギーに不満も持ってない。というわけで、形見は形見としてしまいこみ、今日の今日まで忘れて生きてきたわけだ。
 そこにのっぴきならないこの状況。
 ふと脳裏によみがえる魔導書の存在。
 思うに俺は焦りすぎてテンパッてたんじゃないかと。
 衣装箱をひっくり返して探しだした黒いノートを開き、「悪魔の呼び出し方」の項目を目で追った。
 描かれている通りにガリガリと魔法陣を描き、書かれているとおりの呪文を唱えた。

 結果は…冒頭の通り。望みどおりになって何故かパニクる俺というわけだ。
 だって、悪魔が本当に現われるなんて思ってなかった。誰だってそうだろ?さかむけの治し方と同列に載っているような悪魔の呼び出し方が信用できるか??
 俺は、自分の心を落ち着かせるおまじないとか、「ここまでやったぜ効果なかったけど!」的な自己満足行為を試してみただけなのだ、なのに、本当に悪魔が現われるとは…。

 スーパーマーケットで1枚99セントの板チョコを6枚買うと、全財産が一気に半分近く減ってしまったがしょうがない。
 俺はこの辺で落ち着きを取り戻し、とぼとぼとわざとゆっくり住処にしている電気屋の地下倉庫に向かった。(安く貸してもらえたのだ)
 帰ったらなかったことになってないかな〜という甘い期待である。
 しかし、現実はそううまく行かなかった。
 倉庫に戻ると悪魔は俺のベッドに寝転がってくつろいでいた。

「あの〜チョコ…」
 ショップのビニール袋を差し出すと、悪魔は俺を見て、「随分と遅かったな」とのたまった。
「え、そっすか?すいません…」
「で?何で呼び出した?」
 悪魔はチョコの包装紙を破り、そのままパキッと齧りながら聞いてきた。

「あ、あの…実は、明日、恋人の誕生日で」
「うん?」
「プレゼントを用意したいんですけど、金がなくて、何か用意してもらえないか…と…思って…」
 どうなるんだろ俺。
 うっかり正直に喋っちまったけど、大丈夫なんだろうか俺。
 代償に魂取られたりするんじゃないだろうか俺。

「なるほど」
 悪魔はチョコレートを咥えたまましばらく考え込んだ。
「女には花かスイーツだ。明日までに用意すればいいんだろう?まかせておけ」
「あの、その彼女、ブロンド美人ですっげースタイルもよくてめっちゃレベル高いんで、結構お値段張りたいんですけど大丈夫っすかね…?」
「大丈夫だ問題ない」
 悪魔は自分の着ていた黒いコートを頭までもそもそとかぶってしまった。

「あっ、ちょ、そこ、俺のベッドなんですけど」
 返事はない。寝てしまったようだ。俺はそっとその場を離れて、クローゼット代わりにしているLLサイズのダンボールの中にもぐりこんだ。
 あ〜どうなってしまうんだろ、これ。
 だって悪魔だぜ悪魔。
 彼女との仲のついでに、俺の人生…明日で終わりかもしれない。

 

 なんだか悪夢にうなされてばかりでさっぱり眠れなかった夜が明け、俺はお気に入りのボーダーシャツの山からもそもそと顔を出した。ダンボールから這い出ると、悪魔は居なくなっていた。
 やった!!去った!
 俺は小躍りしてめかしこみ、彼女との待ち合わせ場所に向かった。
 勿論今日はデートなのだ。
 全財産は6ドルと36セントに減ってしまっていたが…しょうがない。
 俺は花屋でバラを一本買った。
 なんと、2ドル55セントもしやがった!ここで一気に俺の持ち金は残り3ドル81セント。

 

「ハル!」
 待ち合わせ場所の公園で、長いブロンドを見つけて俺は手を振った。
 彼女の動きに合わせて金髪がフワリと宙を舞う。うわ〜綺麗だなあ…ホント俺って果報者だ。こんな美人な彼女と交際できて…
「マット、ごきげんよう」
「お誕生日おめでとう、ハル!これ…ささやかすぎるけどプレゼント」
 バラを差し出すと彼女はニッコリ微笑んだ。うわあ女神さまみたい。
 今日のハルは、身体にピッタリしたジーンズと眩しく白いカッターシャツ。バストからウエストまでの完璧な流線はまるで芸術品のよう。
「ありがとう、綺麗だわ。お昼、何食べる?」
「おごるよ!といってもバーガーくらいしか無理だけど」
 俺は彼女をオープンカフェに連れてくると、フィッシュバーガーとコーラを買ってきた。これで俺の持ち金はほぼゼロ。あはは。

「はい、ハル」
 バーガーとコーラを目の前に置くと、ハルは微笑みながら俺を見た。
「ありがとう、でも一つずつ?」
「うん、恋人飲みする?ストロー二本で」
「フフフ、馬鹿ね」

 その時。彼女の前に、トンッとパフェが置かれた。
 ん?と視線を上げて俺は目玉が飛び出るかと思った。昨日の悪魔が給仕の格好をして立っているのだ。清潔感溢れる白いシャツに、黒いベストと蝶ネクタイのコントラストが小気味いいほどマッチしていて洗練された仕草も一流ウェイターそのもの。
「あら、パフェ?」
「お待たせいたしました」
 悪魔はそう言いながらバイオリンを取り出し(どこから!?)こともなげに優雅な曲を引き出した。
「まあ、マット、あなたの演出?お金がないようなそぶりは演技だったのね」
「あ、いやあ…ははは…」
 俺は所在なげに頭をかき、落ち着かなくてポケットに手を入れた。すると、そこに。
「あれ?」
 指先に当たった覚えのない何かを取り出すと、それは紺のベルベットをあしらった指輪のケースではないか。
「うわ!は、ハル、これ…プレゼントその二」
「まあ、…マット、それって…」
 心臓がバックンバックン跳ねる。彼女に向けてケースを開くと、「素敵な指輪!」という歓声が帰ってきた。わーお!悪魔ってすげえ。

「どう?似合う?」
 指にはめてハルが見せてくれたのはバラをあしらったカジュアルリングだった。ああ、花かスイーツって言ってたもんね、こういうことね…カジュアルとは言っても素材は見るかぎり24金っぽいんだけど資金はどっから出てんですかねコレ……

「それでは、マット様、俺はコレで」
 悪魔は丁寧にお辞儀すると、バイオリンを抱えて去っていった。
 あれ?俺、名乗ったっけ?あ、ハルが呼んでたもんな…
 ハルは俺に向かって指元のゴールドにも負けない輝く笑顔を向けている。
「ありがとうマット、素敵な誕生日プレゼントだわ、嬉しい…」
「いやあ、ははは…」

 うん。とりあえず。

 ありがとう悪魔!!

 

 *

 

 食事が終わると、ハルは俺の部屋に行きたいと言い出した。
「まだ、あなたの家って行ったことなかったわよね。いいでしょ?」
「俺んち?ああ、うん、電気屋の地下倉庫なんだけど、いい?」
「あら、そんなところに住んでいるの?」

 あ、うーん。結婚するんだったら、もっといい住処を見つけないとなあ。
 まあ、とりあえず自分を偽るのは向いてないので、ありのままの俺をハルには見せるとして、地下倉庫に戻ると、俺はハルを中に招き入れた。
「どうぞ、ちょっと暗くてごちゃごちゃしてるけど」
「お邪魔するわ、へえ、ここがあなたのおうちなのね」

 ハルは俺の家の中をうろうろ歩き回ったあと、「あら」と声を上げた。
 へ?何か、変なものでも…と見ると、げっ。例の悪魔がまだ俺のベッドに…!板チョコを咥えながらきょとんとこちらを見ている。

「さっきの給仕さん」
「あ、ああ、友達なんだ…あははー、こっちに戻ってたんだ…」
 本当は友達でも人間でもないんだけど。
「邪魔してすまん、まさかこっちに戻ってくるとは…すぐ出て行く」
 悪魔はベッドから立ち上がろうとした。
「あら、いいじゃない、ここにいれば」
「うんうん居ろよ」
 ハルが悪魔の隣に座ったので、俺は奥から自分用にパイプ椅子を引っ張り出してくることにする。

「あなたの名前はなんていうの?」
「メロ」
 悪魔はぺろぺろと板チョコを舐めながら名乗った。へーそんな名前なんだ〜

「ところでマット、あなたお金があまりなかったと思うんだけど…」
「ん?うん」
 さっきのバーガーで文無しだよ。
「この指輪、どうしたの?どういったお金で買ったの?」
 直球だな〜、俺は正直に「彼に借りた」と悪魔を指差した。
「あら、そうなの。お友達は資産家なの?」
「そ…う、かも」
 ははは、と俺は笑って誤魔化した。

 しばらく話してたあと、ハルが「そろそろ帰る」と言い出した。
「マット、あなた、今週末って会える?」
「今週末?土曜?日曜?」
「金曜」
「金曜は仕事だなあ」
 でかい仕事が入ってる。これが終わったら報酬をやるって言われてたので、さぼるわけにはいかない。俺の仕事は歩合制だ。

「仕事のあと会える?何時に終わるの?」
「ええと、結構遅いんだよ、夜の10時くらいになるかなあ」
「終わるのはどこで?終わったらすぐ会いたいの」
 うひゃ、今日のハルは積極的だな〜!!これは指輪が功を奏したに違いない!

「ええっと、町の西外れにWB倉庫ってあるだろ?あそこに荷物運んだらオワリなんだ」
「そうなの、じゃあ車で迎えに行くわ」
「うん、じゃあ、10時に」
「ええ、じゃあ、金曜にね」

 出て行くハルを手を振って見送っていると、急に悪魔が俺の肩をどついた。

「いって、なんだよ!?」
「馬鹿かお前!なんでここに連れて来るんだよ!?
「ええ?だってハルが…」
「彼女の部屋に行くとか、ホテルの部屋を取るとか、なんだかんだあるだろうが!ここはチョイスとして最悪だ!!」
「そんなこと言われてもなあ…」
 何でこいつにそんなこと言われなきゃならないんだよ?
 悪魔は、ハーッとため息をついてやれやれという仕草をすると、また俺のベッドに寝転がった。
 勘弁して欲しいなあ、今晩どこで寝りゃあいいんだよ?

 

 NEXT