悪魔の日記

 

 

そうしてあとは、

ご存知のとおりだ。

竜崎。

 

 

9.決着

 

 

 

 

 

 力の入らない身体で這うようにしてベッドに入り、裸のまま布団の中で意識を手放してから何時間経っただろう。

 

 携帯の着信音が鳴っているのに気付き、手を伸ばしたが、届く範囲になく、仕方なく竜崎はベッドから降りた。頭がグラグラする。ペタペタと裸足のまま音源を探すと、リビングのソファの傍らに脱ぎ捨てられたデニムのポケットの中からだった。
 取り出して開くと、相原からだ。

「…お待たせしました」
『あ、竜崎、判決見ましたか?』
「判決?」
 一瞬キラがもう捕まって…などと馬鹿なことを考えたがそんなはずがない。「なんのですか?」と聞き返すと、相原は意外そうな声を出した。

『昨日のDVD、まだ見てないんですか?』
「ああ…すみません、体調が悪くて…寝ていました…」
『そうですか、では手短に説明します。一年前に京都で起きた、強盗殺人事件がありまして、その犯人の裁判が先ほど行われました…』
「それがなにか」
『その強盗事件の被害者が、弥海砂の両親だったんです。もし弥がキラだった場合、真の目的であるその男を殺すために、カモフラージュで他の殺人を起こしたのかもしれない』
「…カモフラージュ…」

 一度は竜崎も考えた可能性だ。しかし、もう被害者の数は恐ろしく多数に上っている。そのたった一人を殺すためにカモフラージュでそんなに大勢殺すだろうか?

「判決は?」
『懲役10年の執行猶予です。少し前から冤罪の見方が強くて』
「その男は今どこに」
『検察に頼んで、裁判所に引き止めてもらっています。建物から出るときに弥が待ち伏せている可能性も高いと思い…これから行こうかと』
「私も行きます」

 竜崎は電話を切ると、急いで服を身に着けた。時計を見ると午後二時を回ったあたりだ。17時間も寝ていたらしい。
 それから釣り戸棚を空け、用意しておいたモデルガンを手にとってポケットに入れ、シャツで隠した。さすがに本物は用意している暇がなく、弾は出ないが何かの役には立つだろう。

 部屋を出る前にふと思いつき、テーブルの上にずっと置きっぱなしの月から貰った日記帳を開き、殴り書きをした。

 手洗いに寄り、用を足すと、血の色が混じった小水が沁みて飛び上がりそうになった。夕べ傷つけたに違いない。眉間にしわを寄せ、苦い感情をもてあましながら部屋を出、竜崎はタクシーを拾って裁判所に向かった。
 相原の言っていたDVDがどうのというセリフが気になる。監視カメラの映像で、弥がそういったことを口にしていたのだろうか。それに関係したことを捜査官たちは調べに行っていたのだろうか?

「お客さん、具合悪そうだけど大丈夫?」
「え?」
 タクシーの運転手に聞かれ、竜崎は思わず咥えていた指を離した。
「熱あるんじゃない?」
「そうですか?」
 言われてみれば、頭がぼうっとして身体のあちこちが痛い。単に夕べ乱暴をされたせいで身体がまいっているのだと思っていたが、発熱までしているのなら相当だ…竜崎はシートに背を預けてため息をついた。
 病院に行ったほうがいいんじゃ?と運転手が言うのに、急いでいますので…と返して裁判所に着いた。

 携帯で相原に連絡を取ると、彼も向かっているところだが、少し離れた場所からであり、もう少し時間がかかるというので、先に入ることにした。
 一階の総合案内で相原から聞いた名を言うと、すぐに検事の男が現れ、竜崎を案内してくれた。
「どうも、狭山といいます。被告がキラ事件に関係あるというのは本当ですか?」
「…断定はできませんが、キラにこのあと命を狙われる可能性があります…」
「キラは犯罪者ではなく執行猶予の人間も殺すんですねえ」

 ところで、顔色が悪いですが大丈夫ですか?とこの男にも言われる。竜崎は軽く笑っただけで答えなかった。

 通された部屋には、顔立ちの整った若い男が椅子に座っていた。
 タムラ ヨウイチ という名らしい。ゆるくウェーブのかかった髪と大きな目は、若い女性に人気が出そうな容姿で、冤罪という見方が強まったのはこの顔立ちのせいかもしれない。

「タバコ吸っていっスか?」
 そう言いながら咥え、火をつける。
 タバコが嫌いな竜崎は少し眉根をひそめながら彼のそばに寄った。

「なんっスか?俺まだ帰っちゃ駄目なの?」
「狭山さん、弥海砂は法廷に来ていましたか」
「弥海砂ですか?いいえ」
 男を無視して狭山に尋ねると、彼は首を横に振った。

「でも、これは刑事事件だから原告とはなり得ませんが、被害者の家族でしょう」
「まあ、そうですが…その件については彼女は公にしていないようです」

 もしかして相原の見込み違いだろうか?
 キラ事件について彼から何か得られそうなことがあるようには思えない。
 この男を狙って、弥が現れるとは思えない…が…やはりDVDを見ておけばよかったか。ふと、なぜ弥がここに現れるのか?と竜崎は疑問に思った。名前をノートに書けば終わりなのだ。

「彼の名は、報道ではどのように?」
「えー…局によりますが、T村要一…とかですね、本名をそのまま載せてたとこはありません」
 では、本名が分からなかったのだろうか?顔を見れば分かるのかもしれないが…もう事件から一年も経っていれば、テレビでは報道しないかもしれない。そういえば元旦にこの事件についてのニュースを流していたが、小さな扱いだった。本名は勿論のこと顔写真の掲載すらなかったはずだ。しかし被害者の家族なのに容疑者の本名を教えてもらえないということがあるのだろうか。

「弥は彼の本名を知らないのでしょうか」
「本名ですか?ああ…あるかもしれません。実は彼の名は太い村と書いて太村と読むのですが、そうそうない名前なので、警察側でも最近まで一般的な田村と勘違いしていまして…本人も面白がって黙ってたというか、そもそも間違われたりが面倒なんで、周りに対しても田んぼの村の方で名乗ってたらしいんですね」
「…そうですか」

 竜崎は自分の育ての親のことを思い出した。
 彼も名を偽っていた…しかし、偽りの名をノートに書いてそれで死にはしなかった…はずだ。断定はできないが。通り名でなく本名を書かないとノートの効果はないということだ。

「何?本名の話?だってうぜえじゃん、キムラと間違われたりすんだよ」
 

 その時、竜崎の携帯が着信音を鳴らした。
「ちょっとすみません…はい?」
『竜崎ですか?』
 模地からだった。
『すみません。弥を見失いました…』
「はい?」
『相原さんから連絡を貰って、裁判所にいくかもしれないと…なのでずっと張り付いていたのですが、東応女子医大のトイレで後輩の女の子と入れ替わっていて…気付くのも遅れました…ヨシダプロのスタッフもずっとくっついてたので油断して』
「はあ…分かりました」

 竜崎は携帯を切り、ポケットにしまった。
 模地の焦りようは妙だ。
 いや模地だけではなく、相原も少し妙だった。思い返してみると夕べの松井も少しおかしかった。
 一体あのDVDにはどんな映像が入っているのだろう?

 その時、部屋の扉がノックされた。
 狭山が「どうぞ」と声をかけると、なぜかナースが入ってきた。いや、その顔は見たことがある。弥だ。竜崎はまずいと思い、咄嗟に彼女に背を向け顔を隠した。

 

「太村要一」
 弥が名前を読み上げるのが聞こえる。少しだけ振り向いて様子をうかがると、彼女は黒いノートを持っており、今まさに名を書き込もうとしているところだった。

「やめろ弥」
 モデルガンを出し、弥に突きつけると、弥はちらりと竜崎の方を見てノートとペンを持った手を下ろした。制止の声を聞いたわけではなかったらしい。しばらくして、太村は胸を押さえて苦しみだしたからだ。もうすでに書き終えていたのだろう。

「ぐっ…くそてめぇ…何しやがった…」
「くっくっ…クスクスクスくっくっくくくくく、あははははは!死ね!死ね!!」
 狂ったように弥が太村を嘲笑する。その形相はまるで鬼のようだった。
 狭山はモデルガンを出した竜崎に驚いたり、弥と太村を見比べたりしていたが、やがて「きゅ、救急車を」と携帯を出した。
「もう遅いよ、死ぬよ…キラの裁きだもん!あはははは、ほーら死んだ!そんな名前だったのか!ミサがバカみたいだよ…こいつ…こいつ!」
 すでに動かない太村の身体を、弥が足で蹴る。狭山がそれを止めようと弥の身体に手をかけた。

「狭山さん、逃げてください、彼女はキラです」
 竜崎の言葉に狭山は驚いたように弥を見、それから「ひっ…」と引き攣った声を出して部屋から出て行った。部屋の中にはすでに事切れた太村の死体、そして弥と竜崎だけが残された。
 竜崎は向かい合って確信した。1月2日、上野のワイアードカフェにいた女だ。あの時は顔が見えなかったので今まで確信を持てなかったが、こうして間近で見ると、体型も雰囲気もそのものだ。
 弥は今まで竜崎が目にしたアイドル雑誌やテレビ番組での表情とはまったく違う、冷徹で憎しみのこもった目で竜崎を見た。
「ノートを渡せ」
 銃を突きつけ、顔をさらしてしまったので、今、弥に竜崎の本名は分かってしまっているだろう。弾の出ないモデルガンでは不利だが、向こうが本物と勘違いしてくれたなら勝機はある。しかし、弥はうっすらと唇に笑みを浮かべ、ノートを開いた。
「やめろ!撃つぞ」
「…撃てば?」
 からかうように答え、弥はノートにペンを走らせる。
 竜崎の胃がギュウッと縮み上がって、全身から汗が噴出すのが分かった。まずい…モデルガンを捨て、体術でノートを奪うか?間に合うか?弥との間には間合いがある。間に合わない…

 

 その時…
 バン!と激しい音がしてドアが開いた。

「ミサ!…貴様…」

 入ってきたのは月だった。弥と竜崎を交互に見て顔色を変える。竜崎は更なる絶望を感じた…今自分が弥に向けている銃は所詮まがい物だ。敵が二人になってはもう勝ち目はない。

「お前、ふざけるな!!」
 ものすごい怒号が響き、竜崎は身体をすくませた。夕べ感じた恐怖がよみがえる。
 しかし、月が駆け寄ったのは弥のほうで、そのままノートをひったくって弥を殴り倒した。竜崎はそんな二人を呆気に取られて見た。
 月は手にしたノートを急に力任せに破った。何度も何度も。
 黒い表紙がぐしゃりと歪み、ビリビリと裂かれたノートの中紙が床に落ちていく。その紙片には犯罪者の名前がいくつも書かれているのが見えた。

「最後まで書いてない!?そんなの関係あるか!!」
 唐突に、月が空中に向かって怒鳴る。
「なんのために…僕が一体、いままでなんのために…」
「だって」
 立ち上がった弥が、月に食ってかかった。
「ライト、あいつのこと好きなんでしょう…!昨日だって…」
「うるさいこのメス豚!」
 月は今まで竜崎が聞いたこともないような怒声を上げた。
「ミサのものになってくれるって言ったじゃない!」
「うるさい!うるっさい!くそがッ…そんなこと知るか!!ちくしょう、お前、もう死ねよ!」
 月が弥の胸倉を掴み、拳を振り上げた。しかしその拳は使われることなく、月は何か見えないものに弾かれるようにふっとんだ。壁にぶつかって崩れ落ちる。

 何が起こっているのかさっぱり分からなかった。
 しかし、もう体力の限界で…竜崎もモデルガンを取り落として床に膝を突いた。弥がノートに自分の名前を書こうとした時の緊張感から今の突拍子もない出来事までの流れで、気力が全部どこかに吹き飛んだようだった。

「ライト!」
 弥は床に蹲って唸る月を見ながら叫び、それから竜崎のほうに目を向けた。その目からは涙がぼろぼろと零れている。
 弥が竜崎のほうに近づいてきて、床に落ちているモデルガンを取った。そのまま自らのこめかみに当てる。それは偽物だ…と伝えようとしたが口が動かなかった。

 弥が引き鉄を引く。

 その映像を最後に視界が暗転し、竜崎はまた意識を失ってしまった。 

 

 

 NEXT→「手紙・1