悪魔の日記

 

 

竜崎、今でも思うんだ。

もしあの時彼女にあっていなければ、

僕らの人生はどうなっていたのかと。

 

 

2.女性

 

 

 

 1月2日。その日は晴れた。
 一瞬悩んだが、ノートは部屋に置いていく事にした。貸金庫を申し込むのに時間がかかる場合、月と会っている間もノートを持っていなくてはならないことになる。それにどことなく拒否反応が出た。
 ナップザックは部屋に置いて、少しの現金とカードのみをポケットに突っ込み、竜崎は部屋を出た。

 帝東ホテルを出て、竜崎は周りを見渡した。アメリカを髣髴とさせるほどの広い霞ヶ関内でも、鏡のように曇り空を映す帝東ホテルは遜色なく見事に聳え立っている。 住み心地はいいが、ここに長居をするわけにもいかないだろう。ワタリがいない以上、一人で部屋を探して契約等をしなくてはいけないということだ。ため息が出る。しかし開業するのに住所がホテルでは都合が悪いと思われる。
 賃貸ではなくマンションの部屋を購入するつもりだったが、月が来易い立地条件となると…彼に相談してみよう。
 月の実家から霞ヶ関までの直線状に会うのに都合のいいような場所はないので、東京駅で待ち合わせをしていた。竜崎はタクシーに乗り込んだ。

 途中、銀行に寄り貸金庫を作りたいと言うと、話し好きらしいタクシーの運転手に通帳・印鑑・身分証明書類・印鑑証明証が必要と教えてもらい、断念した。
 通帳は作れば済むし身分証はパスポートで何とかなると思ったが、印鑑だけはすぐには用意できない。印鑑証明賞まで必要となるとなおさらだ。まずは諦め、部屋の手配を先に済まそうかと竜崎は思った。それにまだ銀行はどこも閉まっているらしい。

 東京駅につけてもらい、カードで支払いを済ますと、竜崎は駅に入った。帰省ラッシュで人数がものすごい。この場所を指定した月は完全に場所の選択を間違えたと思われる。
 入り口付近で壁に背中をつけてしゃがんでいると、携帯に月から連絡が入った。

『竜崎?ごめん…帰省ラッシュのことすっかり忘れてたよ。いったん駅の外に出たほうがいいかな…でもこの辺、お茶出来るような場所あまり知らないんだよね』
「いまどちらですか?」
『今?丸の内北口かな』
「私は南口です。まず落ち合いましょう」

 月がすぐそちらに行くと言うので、竜崎は背中を壁に預けたまましばらく待った。
 何分か経過したあと、人ごみの中から明るい栗色の頭が現れ、「お待たせ」と笑顔を向けてきた。

「ゆうべは大変だったんじゃないですか?」
「え?」
「あんなことをご両親に言ってしまって…」
「ああ…まあ、少しはね。でも大したことないよ」

 このあとどうしたい?と尋ねる月に、竜崎は部屋を探したいと告げた。
「部屋、そうだね。竜崎はどの辺がいいんだっけ」
「月くんのお宅の近くでいいですよ。あ、でも大学に近いほうが月くんは都合がいいんじゃないですか?」
「ん…そうだね」
 月は少しはにかむように笑うと、電車に乗ろうと提案した。
「大学周辺なら上野の近くがいいんじゃないかな?うちからも電車で行きやすいし」
「では行ってみましょうか」

 それにしてもすごい人ですね、と言いながら二人は改札を抜けると、山手線に乗り、上野で降りた。
「とりあえず、二人で学生でルームシェアしたいって言って僕の名義で探してもいい?そのほうが説明とか、面倒くさくなさそうだから…」
「いえ、それは」
 竜崎は首を横にふった。
「出来ればマンションを現金購入したいと考えています」
「ええ!?」
 月は驚いて思わず大声を出した。

「た、高いよ?」
「ああ、大丈夫です…数億程度なら即金でもすぐに動かせますから」
「そ、そうなんだ…すごいね」

 二人は大学の徒歩圏内を散策して、よさそうな場所をピックアップしては連絡先不動産の電話番号等を控えた。まだ年始めなのでどこの不動産会社も休んでいるようだ。
「やはり、もう少し月くんのお宅でゆっくりしたほうがよかったですね」
「あはは…ごめん」

 いくつか候補を控えた後、二人は駅に戻って食事することにした。
 アトレのワイアードカフェに入ると、月は和風オムライスを、竜崎はガトーショコラをそれぞれ注文して口に運んだ。
 アイスクリームと生クリームをケーキに絡めて頬張っている竜崎を、月は相好を崩して眺めている。
「結構いい部屋あったね」
「そうですね」
 竜崎は口の周りのクリームを舌で舐めとると、
「月くんがいいと思った部屋があるならそこでいいですよ、私は住居の外装や機能に興味はありません」
 続けながら、指先でナプキンを取って口元をぬぐった。
「そう?最後のひとつ前に見たマンションなんてよかったと思ったな」
「じゃあそこにしましょうか」
「あ、でも不動産屋さんに頼んで、部屋の中も見せてもらったほうがいいよね」
「そうですね。明後日あたり連絡してみます」

 その時、月のすぐ後ろのテーブルから、ガチャン!と派手な音がした。
「キャ…ッ」
 女性が水の入ったガラスのコップを落としたようだった。月が振り向き、席を立つ。
「大丈夫ですか?」
 竜崎の方からは背を向けているため顔が見えない。肌の感じや背格好から見ると、15〜16歳くらいの少女に見えた。
 割れたガラスを拾おうとする彼女の手を、月が止めた。
「危ないですよ、店員さん呼びましょう?」
 その時、少女が少し身をかがめて月の耳元に何か囁いた。
「…え?」
 月が眉をひそめる。
 聞き返そうとした月を遮り、彼女はガラスに手を伸ばす。
「いつッ…」
 指先から血が滴るのが竜崎の方からも見えた。
 月があわててポケットからハンカチを出す。それで少女の指を押さえると、更に彼女が月にだけ聞こえるくらいの声色で何か言った。
 月が眉をひそめて竜崎の方を見る。
 二言三言彼女と小声で言葉を交わすと、月は竜崎のほうに戻ってきた。

「竜崎、急で悪いんだけど…僕、あの子を送っていってもいいかな」
「え?」
 竜崎は驚いて、月の顔をまじまじと見た。月は真剣な表情で、先ほどまでの幸せそうな雰囲気はかけらもない。
「どうしました?知り合いですか?」
「そうじゃないけど…具合が悪そうだから」

 竜崎の方からは彼女の顔は見えない。
 月の真剣な様子に反論することも出来ず、竜崎は頷いた。
「ごめん…会計しておくから」
「いいえ、ここは大人の私に任せてください」
 微笑んでみせると、月も少し笑って頷き、少女のもとに去っていった。
 それから、月は女性の肩を抱くようにして店を出て行く。彼女が会計しようとするのをとめ、月が支払っているのが見えた。知り合いでもないというのになぜそこまで?竜崎は眉を寄せた。
 なんだか、嫌な予感がする。
 なんだかとてつもなく嫌な予感がする。

 

 またタクシーを拾うと竜崎は帝東ホテルの自分の部屋に戻った。
 途中、すでに初売りを始めている大型の家電店に寄って、持ち運びできるラップトップパソコンを一台買い、持ち帰った。
 時間はあるとは言え、いちいち出歩くのは面倒だ。やはりネットの手配が何をするにも一番楽だろう。
 部屋には高速のインターネット回線が用意されている。竜崎は部屋に戻るとすぐにパソコンのセットアップを終え、回線につないだ。ネットの海にダイブすることで世界中が自分の庭になる。
 さらっと先ほど見たすべての部屋の購入価格や取扱代理店の方をチェックする。やはり月の勧めていた部屋が一番よさそうだ…三が日が終わったら不動産に連絡しよう。
 そのあと、印鑑を作り、届けさせるよう手配する。とりあえずは「竜崎」でいこう。下の名前はまた考えよう…
 しかし、外人が貸し金庫を利用したいといったらどうするつもりなのか。欧米ではこういう場合サインがメインなので、印鑑と言われても「What?」と聞き返す者ばかりだろう。
 竜崎はパスポートを見てうなった。こちらの名前は「竜崎」ではない。今まで何度か使ったことのある英国人風の横文字の名前だ。印鑑と違う名前なのは分かっていたが、アルファベットで作るわけにもいかないので仕方ない。身分証明書も新たに作成する必要があると言うことだ…更に印鑑証明書も市町村の自治体に発行してもらうことになる。竜崎はまだ日本での戸籍はない。戸籍をとる方法はあるが…すぐにとはいかない。
「面倒だな…バイトを雇うか」
 印鑑を作っておいてなんだが、やはり貸金庫に関しては他人の名義を借りるのが一番早い。戸籍を作ってからあらためて自分の名義で作り直せばいいだろう…軽犯罪になるが、無防備に例のノートを持っているよりはマシだ。
 竜崎は裏の情報交換などが行き交うそのスジの掲示板で金額を表示し募集をかけ、一旦パソコンを閉じた。

 膝を抱え、広いベッドの上にころんと横になると、指をくわえる。
 今日最後に見た月の顔が思い浮かんだ。ひどく真剣な表情だ。
 次の約束をしなかった。連絡先はもちろん分かるが、胸に暗雲が広がる。
 それほど危機感はないが、不可解で不愉快だ。月の方から連絡してくるべきだと思う。

 あんなにずっと一緒にいたのに、離れてしまうのはひどく簡単だ。
 イギリスでもずっと、まるでシャムの双子のように片時も離れずそばにいたのに。
 やがて、まぶたの上に睡魔が宿り、うとうととしてきた竜崎は目を閉じた。以前は何日も寝ずにいたってぜんぜん平気だったのに、月と一緒に生活するようになってからすっかり安定した生活リズムが身についた。そして、人ごみの中を移動したり部屋を見て回ったりしたせいもあって疲れたのだろう…布団もかぶらずに丸まったまま、竜崎はゆっくりと意識を手放した。

 

 

ピピピピピ ピピピピピ ピピピピピ

 

 耳障りな電子音が鳴っている。竜崎は覚醒するとのそりと身を起こした。
 携帯に連絡をよこす人間は四人しか心当たりがない。メロ、ニア、マット、そして月だ。
 サイドテーブルに置いた携帯を手に取り開くと案の定月からで、心臓が甘く痺れるように軽く踊った。
「はい」
 電話に出ると、おそらく外からだろう…街なかの喧騒の音と一緒に月の声が届いた。

『竜崎…今どこにいるの』
「今ですか?帝東ホテルです」
『帝東ホテルって言うと…えっと…』
「月くんのお父さんの職場の近くですよ。霞ヶ関の日比谷公園の脇の…」
『ああ、分かった、今行くから、部屋番号教えて』
 聞こえてくる声の感じからして、月はひどく急いで早歩きをしているようだ。竜崎は今居るホテルの部屋番号を伝えると、電話を切った。
 今何時だろうと見ると、既に23時を越している。今からここに来るということは、月は終電で帰るつもりはないのだな、と判断し、フロントに一人増えると連絡してついでにルームサービスにワインとオードブル、フルーツを頼んだ。たった数時間離れていただけなのに、これから会えると思うと心が沸き立つ自分が滑稽でしょうがない。

 ルームサービスも届き、それから少ししてから入り口の戸がノックされた。
「どうぞ」
 声をかけると、鍵をかけずにストッパーをかけておいた扉を開けて月が入ってくる。彼は眉を寄せてドアノブをにらむと、「危ないだろ」と言って鍵を閉めた。

「あぶない?」
「鍵を開けておいたら、強盗とか来るかもしれないだろ」
「強盗ですか?スペインやイタリアならともかく、ここは治安のしっかりした日本ですよ?それに私結構強いです」
 からかうように言う竜崎を、月は何も言わず引き寄せた。
 冬の外気で冷たくなった上着のまま抱きすくめられ、竜崎は居心地悪そうに身じろぎした。
「月くん、コートは脱ぎましょう…ゆっくりしていくんでしょう?」
「え?ああ…そうだな」
 月は言われるままに上着を脱ぎ、クローゼットの中のハンガーにかけた。それからルームサービスのワインやオードブルなどに気付き、目を見開く。

「どうしたの、これ」
「ああ、ルームサービスです。ワインは赤でよかったですか」
「…ったって、僕飲めないよ?未成年だから」
「え?ああ…うっかりしていました、日本ではそうですね」
 竜崎はカリカリと頭をかいた。イギリスでは大人同伴であれば飲酒に年齢制限がないので(五歳以上であれば)、月もたまにワインやシャンパンなどの軽い酒を口にしていたが、日本に帰ってまで続ける気はないようだ。真面目な彼らしい。
「では、どうしましょう、私はワインは飲めません」
「うん、じゃあ、ちょっとなら…」
 月はボトルの栓を開け、二つのワイングラスにワインを注ぐと、ひとつを竜崎に渡した。
「飲めませんって」
「少しくらいいいだろ、酒は飲めるくせに」
 しぶしぶ受け取ると、月は竜崎のグラスに軽く自分のグラスを当ててきた。軽い音が室内に転がる。
「乾杯」
 その瞳はなぜか悲しげだった。



 体の冷えた月にシャワーを勧めて、その間に竜崎はノートの入ったナップザックを彼の目に付かないベッドの下に押し込んだ。
 それから少し考え、ベッドの上でパソコンを開く。先ほど見に行った部屋の情報を月に見せてやろうと思ったのだ。
 ページを開いたところでバスルームの戸が開いて、気配が近づいてきた。

「早いですね、ちゃんと温まったんですか?」
 カラスの行水ぶりにいささか驚いて振り向こうとすると、背後から抱きしめられる。
「温まったよ」
「本当ですか?」
「パソコン、そっちのテーブルにやってよ…」
 言われたとおりにすると、すぐにベッドの上に引き倒された。月が大事そうに竜崎の身体を抱え、首筋に唇を当てる。
「ラィ…トくん…」
「ん?」
「わ…私もシャワーを浴びたいです…」
「必要ないよ」
 そのまま、胸の突起を弄られたり、服の下に手を入れられたりしているうちに、竜崎は安心しきって体の力を抜いた。
 ああ、よかった…さっき感じた嫌な予感は気のせいだったんだ…そう思う。
 店に自分を置いて立ち去った月もそれに抱いた自分の嫌な感情も。全部このシーツの上でリセットされてしまえばいい。
 重ねられた唇は芳醇な葡萄酒の香りがした。

 月の愛撫はいつも丁寧だ。
 出立の準備で忙しかったり月の実家に泊まったりしていたので、最後に肌を重ねたのはクリスマスイブの夜になる。その時のキスはシャンパンの味だった。

 ワインの残り香を漂わせながら月は竜崎の体のあちこちにキスを落としていく。
 彼に身体を委ねて目を閉じていると、唐突に月が噛み付くようなキスをしてきた。
「…ッ痛!?」
 驚いて目を開けると、自分にかぶさって眉間にしわを寄せている月の顔が逆光で暗く見えていた。ひどく真剣な表情だ。何かに腹を立てているように見えた。
「な、なにか…。どうか、しましたか?」
「……ごめん」
 月は目を伏せて謝ると、竜崎の胸に顔をうずめた。
「……月くん?」
「竜崎、僕のこと…好き?」
 月の言葉に、竜崎は一瞬逡巡した。なぜ改まって彼がそんなことを聞いてくるのかが分からなかった。

「好きですよ」
「そう…」
 月の返事は若干冷めていた。
 しかし、すがるように回された腕は細かく震えていて、これ以上ないほど竜崎の身体を強く抱きしめた。
「僕も、お前のことが好きすぎて、どうにかなってしまいそうだよ」

 


 行為のあとのけだるさは翌朝になってもまったく消えなかった。
 目を覚ましたあとも狸寝入りを決め込んでいると、月にベッドを追い出された。
「顔洗っておいで」
 誰のせいでこんなひどい気分なのだと思っているのだろう。竜崎はやむなくベッドを降りると、シーツを腰に巻きつけて洗面所に向かった。下半身がまるで鉛のように重い。

 豪奢な洗面台で、汚れひとつない鏡に自分の姿が写るのを見、竜崎はあっけにとられた。
 自分の身体のあちこちに歯形や鬱血痕が出来ている。噛み付かれた唇などは切れて血が黒く固まっていた。肌が白いのでそれらは実に目立っている。
 月は本当にどうかしたのだろうか。こんなふうに痕をつけるなんて、今まではせいぜい小さなキスマークひとつふたつ、そのくらいだったのに。
 首をひねっていてもしょうがないので、竜崎は顔を洗い、ついでにバスに入ってシャワーで身体を軽く洗い流した。

 バスタオルで適当に身体をぬぐい、他にないのでまたシーツを腰に巻いて竜崎が戻ると、こちらに背を向けてベッドに座っていた月がゆっくり振り返った。

「…これ」

 上げられた手には、黒いノートがある。
「あ!」
 見つかってしまったようだ。竜崎は内心焦って月の方に駆けよった。なんてことだろう。

「これ、何?」
「日記です」
 咄嗟に口をついた。実のところ出来事を何年何月何日何時何秒ですべて記憶しておける竜崎に日記など必要ないのだが、そんなこと月に分かるわけない。

「何も書いてないけど」
 月がぱらぱらと中身をめくった。罫線のみで、ただ余白が続いているだけのノートの中紙が目に入る。

「これから、書き始めるつもりなんです」
「そう、ねえこれ、気に入っちゃったな…僕にくれない?」
「こ…困ります…」
 月には言えないが、それは名前を書いた人間が死んでしまうというノートなのだ。
 打ち明けるわけにもいかないし、くれてやるなどとんでもない。
「私も気に入って手に入れたものなので…」
「じゃあ、他にもっと、僕がいいものをやるよ」
 そう言いながら月が立ち上がった。

「ちょ…ッ、本当に困ります」
 竜崎は月の腕を掴み、ノートを取り返そうとした。
 このノートを失うと、自分の中からノートにまつわる記憶が失われるのだ。そんなゾッとする状況はできる限り避けなくてはならない。
「じゃあ、貸してよ。これと同じやつ、お店で探すからさ」
「え…」
 他の人間の目にも触れさすなど、更にとんでもない話だったが、ためらっている間に月は強引に竜崎の手を振りほどき、部屋を出て行った。

「くそ…まいったな」
 月の表情や態度から察するに、絶対にあれが例のノートだと気付いている。それはそうだろう。表紙のデザインなど黒字に白文字でDeath Noteだ。今更ながら、燃やしたと嘘をついたのが悔やまれる。
 仕方がない、月の帰るのを信じて待とう。竜崎は服を拾うと、身に着けた。時計を見ると11時少し前をさしている。

 

 月は一時間ほど経ってから戻ってきた。
「ごめん、似たものは見つからなかったよ」
 そう言いながら、竜崎に紙袋を渡す。開けると真新しい革表紙の日記帳が入っていた。
「な…ッ、あのノートは…」
「代わりにそれをあげるから、僕にあれをくれよ」
「…………」
 竜崎は首を横にふった。
「…だ…だめです月くん…返してください、あれは大事な…」
「日記ならそれをあげるから」
 取り付く島もない。
「ど、どこにやったんですか?渡してください!」
「今は持ってないよ」
 言うとおりに、竜崎に渡した紙袋以外のものは持っていないようだった。外のどこかに置いてきたのだろう。
 背筋がじわじわと冷えあがってくる。なぜなのか…。月はどういうつもりなのだろう。自分にただノートを手放させたいのならそう言えばいいのだ。月に真剣に諭されたら自分もノートを手放さなくもない。ノートにまつわる記憶よりも月のほうが大切だ。それなのになぜこんな騙すような真似を?やはり嘘をついていたことを怒っているのだろうか?

「ごめん、もう行かないと。大学で手続きがあるんだ、また連絡するよ」
「ちょ…」
 部屋を出て行こうとする月を、竜崎はあわてて引き止めた。
「ノートを返してください!」
「…そんなに言うなら、今度会うときに持ってくるよ、それでいいだろ」
「そんな」
 部屋の外まで着いていこうとした竜崎を、月は押し返し、ゆっくり眼前でドアを閉めた。隙間から酷薄そうに微笑を浮かべた笑みが覗き、完全に扉が閉じた。

「…貸すだけですからね!!」
 扉の向こうに叩きつけるように怒鳴るが、月に聞こえたかどうかは定かではない。
 なんだろう。なんだというのだろう。何がおきているのだろう。
 嫌な予感がする。

 

 竜崎は月からもらった日記帳を開いた。ナチュラルホワイトの紙面に品のいい罫線が引かれている。趣味のいい日記帳だった。
 ふと、これが交換日記だったらいいのにと思った。
 ここに疑問を書いて、月がそれに返事をくれるのであれば、心地よく紙面を埋めていくことが出来るのだろうに。
 日記帳の入っていた紙袋を捨てようとして、何か入っているのに気付く。取り出してみると万年筆だった。結構質のいいものだ。しかし使う気にはなれず、竜崎は万年筆と日記帳をテーブルの上に放り出した。
 下半身が相変わらず重だるさを訴えていて辛い。ベッドの上に乗り布団をかぶって目を閉じる。
 ひどくやりきれない気分だったが、そうだな…少し休んで、起きたら月からもらった日記帳に今の気分を整理してみよう。
 そう思いながら竜崎は意識の深海の中にゆっくり沈んでいった。

 

 

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