悪魔の日記
10.手紙・1
誰かが柔らかく頬にキスをした。
目を開けると、月が微笑んで竜崎の髪を撫でている。
───目が覚めたの?
そう聞いてくる声はどこか遠いところから響いてくるようだった。
「ああ…月くん、私、ひどい夢を見てました…」
───どんな夢?
「月くんが殺人ノートを使ってキラになり、人をたくさん殺す夢です…。…すごい怖かった…。夢でよかった…」
竜崎の目尻から涙が零れ落ちた。
───熱があるんだよ。しばらくお休み。
前にもこんなことがあった気がする。
柔らかく髪を撫でる月の手に安心しながら、竜崎は布団を口元まで引き上げ、微笑んだ。そして目を閉じる。
夢でよかった。
夢でよかった………
*
次に目が覚めたとき、竜崎は自分の部屋のベッドの上に横たわっていた。
額に濡れたタオルが乗っている。熱は下がったようだった。思考はクリアーだ。
誰がここまで自分を運んでくれたのだろう、と考えたが、月以外には考えられなかった。相原があとからあの場に到着したとしても、部屋の場所は知らないだろう。
周りを見渡すと、テーブルの上に携帯が置いてあった。その隣には部屋の鍵がある。
手に取って開くと、携帯はマナーモードになっていた。着信音もバイブもオフで、そんな設定をした記憶はないから月がしていったのだろう。
最後に意識を失ってから丸一日が経っていた。今は1月27日午後三時だ。捜査員たちからいくつも着信記録があった。
相原に電話をかけると、数コールで出た彼は『竜崎よかった!生きてたんですか!?』と切り出した。
「はい、すみません…熱が下がらなくて」
『裁判所のあとどこに…』
「自室に帰っていました」
『弥はどこに?』
それは竜崎が聞きたかった。
『狭山検事に聞いた話だと、弥がノートを所持して現れ、太村を殺し、竜崎と対峙したという話だったので…あとで自分が行った時には既に部屋には誰もいませんでしたが』
「誰もいなかった?」
『はあ…太村の死体のみです』
「紙の切れ端とか…落ちてましたか?」
『いいえ、何も』
では、ノートの残骸は月か弥が持ち去ったのだ。あれは確かに自分が所持していた殺人ノートだったと思う。あの状態になってもまだ所有権は失われていはいないようだ…ノートの記憶はしっかり残っている。
あのあとどうなったのだろう。月が自分をここまで連れてきたようだが…何がなんだか分からない。
「実はあのあと具合が悪くて倒れてしまって。弥も逃がしてしまいました」
そう言うと相原は心配そうな声を出した。
『大丈夫だったんですか?どこで倒れたんですか』
「あの部屋です…誰かが外に運んでくれたようで…意識が朦朧としていたのでよく分からないのですが」
『養生してください、最近具合悪そうでしたし』
また何かあったら連絡すると告げ、竜崎は電話を切った。
ここ最近は彼らに心配や迷惑をかけてばかりだ。協力を仰いでこの始末では情けなさ過ぎる。
ため息をつき、マナーモードを解除した携帯をテーブルに置いてベッドのそばに戻ると、枕元に日記が置いてあるのが目に入った。
月にもらった日記だ。自分がそんなところに置くはずないので、月が置いて行ったのだろう。
手に取ってパラパラと開くと、最初の1ページとその次の走り書きのみであとは真っ白だったはずの日記が、びっしりと数十ページ、文字で埋まっていた。
…これは月からの手紙だ。
竜崎は慌ててページをめくり、最初の一行を探した。
そこに書かれていた月からの告白はあまりに哀しく衝撃的で、読みながら竜崎は頬を涙が伝い落ちるのを最後まで止めることができなかった。
*
僕はお前に出会えた。竜崎、それこそが僕の人生最大にして唯一の至宝であり、そして…誤算だったのかもしれない。
何が悪かったのだろう?今更こんなことを言っても詮無いけど、ただ僕にお前を守る力がきっと足りなかったんだと思う。
一ヶ月前の元旦、一緒に僕の部屋で抱き合った時のことを覚えてる?あの時はこんな状況が自分を襲うなんて考えもしなかった。初詣に一緒に行ったときは本当に楽しかったね。今思い出してもその多幸感がいっそ眩しく、うら寒く自分の今がのしかかってくるだけだけど。
竜崎、今でも思うんだ。もしあの時彼女にあっていなければ、僕らの人生はどうなっていたのかと。
上野で一緒にお茶したときのことをお前は覚えているだろうか。僕は今後の二人の生活のことを考えてひどく浮かれていた…幸せでいっぱいだった。
そんな時、後ろの席の女性がコップの水を倒した…少しでも自分の幸福を誰かにお裾分けしてあげたかった僕は、席を立ってそれを拾ってあげようとした。その時、彼女が僕の耳元で囁いた。「あなたのお友達、デスノートを持ってる」と。
僕は、何を言ってるのか…そう思って彼女を不審な目で見た。すると、彼女は、自分は死神の目を持っているから分かる、あなたのお友達は、寿命が見えていない、そう言った。
僕がそんなはずはないというと、今ここに死神が居る、詳しく聞くといい…見せてあげてもいい、そう言われた。お前を一人置いていくのに忍びなかったけど、そんな濡れ衣をかけられて黙っていられなかったんだ…Lだとばれて口外されるのも困る。きっぱりと、確かに以前は持っていたけど、燃やしたはずだ、そう言ってやるつもりだった。
だけど、そのあと彼女の持っているノートに触れ、現れた死神に説明されて、僕は悟ったよ…お前が記憶を失うのが嫌で嘘をついたのだと。
お前のことは分かってるよ竜崎…僕に打ち明けたらノートを燃やすよう言われると思ったんだろう?確かに僕は知ったらそう言っただろう。だがそれだけに嘘をつかれたのは悲しかった。
そしてそのあと、彼女…もう知ってるだろうが、弥ミサだ。ミサは、こう言った。
お友達を殺されたくなければ、そのノートを手に入れてきて と。
ミサはお前の本名を知っていて、そして殺人ノートを一冊持っていた。このノートにお前の名前を書くだけで簡単にお前は死ぬんだと言われた。
東京駅で、たまたま寿命が見えないお前を見てずっと尾けてきたらしい。お前ではなく僕に声をかけたのは、僕のほうが好みだったからだそうだ。
そんなわけで、僕はお前からノートを奪った。
あの時、僕はひどく腹を立てていて…お前を乱暴に扱った…。お前はわけが分からなかったろうね。唐突に愛しい人の命が危険に晒されたことと、お前に嘘をつかれていたことに対する怒りで、僕はどうにかなりそうだった…今から思えばそんな嘘、本当に些細なことだったのに。
ノートを持って再び会った僕に、ミサは更なる要求を突きつけてきた。今テレビに映っているあの立てこもり犯を殺せというのだ…僕は名前が分からないから無理だと言った…今の報道では犯罪者の名は一部伏せられている。するとミサは、「このOの部分は音楽の音だよ」と、言ってきた…彼女の目は写真を見ただけでもその人間の本名が分かるんだ。お前の命を奪うと言われては、僕は言いなりになるしかなかった。そして僕は…彼女に指示されるままにキラの裁きを行っていったんだ。
人を裁いていく作業はただそれ自体が意味のない、ルーティンワークのようだった。
テレビやパソコンに犯罪者の顔が映り、ミサが本名を言う。僕が名前を書く。するとその人間が死ぬんだ。自分に関係のない人間がどんどん死んでいく…。ミサがネットで見つけた犯罪者を裁くこともあった。彼女がプリントアウトした顔写真の下に本名が書いてあるんだ…それを見て僕がノートに名前を書く。
ここで彼女について説明しておこう…ミサがキラを自分で演出しようと思った経緯だ。
もう知ってるかもしれないけど、彼女は一年前に京都で起こった強盗殺人事件の被害者の家族だ。あの事件でミサは両親を一度に失った。犯人は田村要一という男だ…。しかし、ミサの目撃証言をもとに捕まえたはいいが冤罪の見方も出て、ミサは随分悔しい思いをしたらしい。そしてずっと思っていた…この男こそキラに裁かれるべきなのに、どうしてキラは田村を殺さないのかと。
そんな折、彼女の前に死神が現れた。レムという名のメスの死神で、彼女はミサにノートを渡した。何か事情があるらしいが詳しくは聞いてない。
ミサは喜んだ…ここに名を書けばあの男が死ぬのだと。早速書き、警察に電話して聞いたが、田村は生きているという返事が返ってきた。ミサは更にノートに名を書き連ねたが、途中で死神が止めた…あのノートは一人の人間に対して間違えた名を四回書くと、書いた人間が死ぬらしい。更に書かれた人間に対しノートが効かなくなる。既に間違えた名を三回書いてしまったミサに残されたチャンスはあと一度というわけだ。
ミサは死神と取引して、寿命半分と引き換えに死神の目を手に入れた。それは顔を見れば名前と寿命が分かるという目だ。お前の本名を知り、僕を脅す材料にされた忌まわしい目だ。
そして田村に会おうとしたがそうはうまくいかなかった。留置場にいる田村はミサとの面会を拒否した。彼は写真が嫌いで、写真をまったくと言っていいほど残していなかった。報道のビデオなどを見ても、フードを深くかぶった姿しか出てこず、寿命半分という大きな代償を払ったのにもかかわらず、死神の目はまったく役に立たなかった。
それに、彼女はアイドルだった。彼女の所属しているプロダクションは、ミサのそんな犯罪者の周りを嗅ぎ回るような行動を良しとせず、彼女から時間を奪うかのように仕事を入れてきた。女優として大成するのは両親の望みだったので、ミサは仕事をやめるわけにもいかなかった。それに一つだけ望みがあった。それは裁判だ。1月26日に行われる裁判で、田村の顔をミサは見ることができるはずだった…それが彼女の唯一の希望だった。
でも、思うに彼女は、両親が死んだ時から少しずつ壊れていたのではないかと思う。
寿命の半分を失ってまで手に入れた死神の目、それをもっと役に立てるべきだとずっと思っていた…そんな時、お前を見て、他にノートを持っている人間がいるということを知って、そして、キラを作り上げることにした。…僕を使って。
気付いていたよ。お前が僕を疑ってると。でも止められなかった。やめたらミサがお前を殺す。僕は、お前にはもう二度と会えないと思っていた。僕は人を殺した…何人も何人も。ノートに名を六つ書いただけで自分がどうなったか、それを知るお前だ。僕の精神状態など推して知るべしだろう。もう自分に幸せなど二度と訪れないと思っていた。それにミサはあきらかに異性として僕を意識していた。ただの友人以上に僕がお前を想っていることを知れば、彼女がどうするか考えただけで恐ろしい。
しかし、ある日、父からお前の名前を聞かされ、頭が真っ白になった…
お前が僕の協力を求めていると聞いて、それは真の意味は僕を容疑者としてのことだと理性では分かっていたけど…もう、僕は…お前に会うことしか考えられなくなった…。
翌日、気がついたら僕はお前の住むマンションを訪ねていた。きっとどこかまだホテルを転々としているだろうと、まったく期待せず行ったのに…ああ…お前の姿を見たとき、どんなに僕が…どんなにお前を愛しく感じたか…泣きたくて息もできなくて、このまま二人でずっと過ごせたら死んでもいいと思ったよ。でもそれの意味することは、僕ではなくお前の死だ…それを念頭に置きながら、お前と言葉を交わして…肌に触れて、それでも僕が、僕がどんなに幸福を感じていたかお前に分かるだろうか…!!
しかしそんな幸福も、お前に見せられた資料でふっとんだ。
お前がFBIだと言って見せてくれたリストは僕がノートに書いた名だった。…信じてくれるだろうか、僕は、あの瞬間まで…自分がまだ犯罪者しか殺していないと信じていたんだ。
FBIの写真は、おそらくお前が言った方法で、ミサが手に入れてきたものだった。写真にはミサが彼らの本名を書き入れてた。僕はそれを見ていつものように犯罪者だと思ってノートに書いたんだ…FBIだなんて…。僕が、僕の精神があの時どんなにどん底に落ちたか、お前は少しでも感じてただろうか…。
僕は、あのあとミサの部屋に行き怒鳴りつけた。
犯罪者しか殺さないはずじゃなかったのか、お前の作りたいキラは一体どんな殺人鬼なのかと。
ミサは、怖かったのだと言った…僕を尾けている男がいるのに気付き、わざとチンピラに絡まれて助けさせ、さらに悲鳴を上げ続けると、自分はFBIだから大丈夫とその男が言ったのだという。
大丈夫どころではなかった…ミサの精神は極限状態になった。まだ田村を殺していない、両親の願いだった女優にもなっていない、京都には姉がいる…自分が居なくなると姉はひとりぼっちになる。なんとしても捕まるわけには行かない、そして…彼らを皆殺しにした。
竜崎、お前は言ったよね…自分に本名なんてないって。
それも、ミサに告げて…嘘をついたのかとなじったけど、それについては彼女は平然と答えた。
「読み方は分からなかったけど、英語の名前で、綴りは覚えてる、こんな名前」と、指でテーブルに書いた…L・Lawliet と。
そうしてふと気がつくと、僕は逃れようもない底なし沼に埋まりはじめていた…ゆっくりと。
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