悪魔の日記

 

 

僕はお前に出会えた

竜崎 それこそが

僕の人生最大にして唯一の

 

 

1.正月

 

 

 

 初めて出会ってから二か月近く経った大晦日の昼過ぎ。二人の青年は空港に降り立った。
 海外から十数時間もかけて入国したわりには、二人とも驚くほど荷物は少ない。髪色の明るい青年は大部分の荷物を日本国内の自宅に送ってしまっていたからだったが、もう一人の黒髪の青年はもともとナップザックを一つ身につけたきりで他に荷物はなかった。
「竜崎、こっち」
 相方の声に、竜崎と呼ばれた青年はぼんやりと周りを見渡していた目を向けた。表情の乏しい男だった。
「こっち。電車乗るから」
「電車ですか。久しぶりです」
 人差し指で口元をいじりながら茶髪の青年に素直に従い、流暢に日本語を喋りながらそれでも青年は物珍しげに空港内に視線を走らせる。普段は専用ジェットを使っていたので日本の空港内部は初めてということだった。

「ここが月くんの生まれた国なんですね」
 そう言いながら、くったりしたデニムのポケットに両手をつっこみついてくる彼は全然急ぐ様子はない。月と呼ばれた青年はそんな相方を見ながら苦笑した。実際のところ、手荷物の受け取りがないので、電車までの時間は余裕があるし急ぐことはないのだ。

 自分に合わせてゆっくり歩いてくれる月の背中を見ながら、竜崎は数日前のクリスマスの時のことを考えていた。
 二か月近く前にイギリスの片田舎で出会い、互いの気持ちを確かめるまで一カ月かかった。大学を休学中でそろそろ帰る必要があるらしい月と一緒に、竜崎も日本に移住する約束をしたのが十日ほど前。すぐにもという話だったが、やはりクリスマスを二人で過ごしてから日本に行こうということになり、街を回ったりハルに頼んだりしてオードブルやケーキの用意、ツリーの飾り付けをし、月とプレゼント交換をした。
 月がくれたのは男性用のシンプルな指輪だった。
「本当はティーセットをと考えたんだけど、日本まで持ち運びが大変だからさ」
 はにかみながらそういう彼の前で左手の薬指にはめたら本当に嬉しそうな顔をした。サイズが合わず、すぐ右の人差指に移動することになったけど。月は笑いながら、その指輪がピッタリになるくらいまで太ってよ、と言った。
 竜崎が送ったのはロザリオ。クロスの中央にはイエローサファイアを組み込み、少し幅広のサイドのバーには羽の彫刻があしらわれている。一目見て月のイメージにぴったりだと思った。本当は自分も免許取りたてだという彼に車でも買ってやりたかったのだが、もうすぐ飛行機に乗ることを考えるとどうしても身に着けられるものに絞られてしまう。月は荷づくりもあらかた済んでいた。

「ちょっと待ってくれる?うちに電話するから」
 電車に乗る直前に月は携帯を取り出し、自宅にコールした。そういえばしばらく一緒に暮らしていたが、一度も家族に連絡していた様子がない彼に、もしかして家族など居ないのかもと思っていた。しかしそうではないらしい。
「もしもし母さん?僕だ。長いこと留守にしてごめん」
 携帯電話の向こうで、母と呼ばれた女性が大声を上げたのが少し離れた竜崎にも伝わってくる。
「ああ、そう…今、日本。うん、ごめんよ本当。これからうちに帰ろうと思うんだ、え?そう。今日、これから。友達連れて行きたいんだけど、いいかな」
 実は不仲なのかもと疑っていた家族に対し、月は柔らかい表情で言葉を紡いでおり、不仲どころかとてもいい関係を築いているように見えた。
 電車に乗ってから、「どうしてイギリスに居る間、全然御家族に連絡をとっていなかったのですか?」と聞くと、月はバツの悪そうな顔をして「お前のことしか考えられなかったからだよ」と答えた。

 一時間ほど成田エクスプレスに揺られた後、電車を乗り継いで月に連れられるまま彼の実家に向かった。
 月の自宅は閑静で落ち着いた感じの住宅街の並びにあり、アメリカやイギリスに比べるとやや道路や家の配置が窮屈な気もしたが、それでもここで彼が育ったのかと思うと形容しがたい嬉しさが胸に込み上げた。
「ここが僕の家」
 そう言いながら月はさっさと門柱を抜けると、玄関でチャイムを鳴らした。玄関前に緑が多く小奇麗な住宅だ。竜崎は近くの木の葉をつまんだ。常緑樹らしく、真冬の今も落ち着いた濃い緑色が門構えを飾っている。
 玄関の向こうでバタバタと音がして、「月!」「お兄ちゃーん!」という女性の声とともに玄関の戸が開いた。
 行く先も言わないで二カ月もどこに行っていたの、警察に捜索願出すとこだったのよと口々に怒る、どうやら母親と妹らしい女性たちに謝りながら、月は竜崎の腕をつかんでひっぱった。
「あの、電話で言った友達。イギリスで会ったんだ」
「お兄ちゃん、イギリス行ってたの?すごっ」
「まあ、わざわざ日本まで?ご旅行ですか?疲れたでしょう」
「いえ…」
 旅行ではなく移住だと説明しようとしたが、長くなるので、竜崎は口を閉ざし、「竜崎です」と名乗るだけにした。

「日本の方なんですか?」
「ああ、いえ」
 といっても親の片方は日本とイギリスのハーフなんですが…と続ける竜崎に月は目を丸くした。
「おま…そんなの聞いてないぞ?」
「まあまあ月。とにかくあがりなさい。夕飯にお寿司の出前とったのよ。届くまでゆっくりなさいな」
「ああ、うん」
「お友達は泊って行くんでしょ?客間でいい?」
「ああ、いや、布団は僕の部屋でいいよ、やるから」

 居間に通された後、二階に行っていた粧裕が大きな段ボールを持って戻ってきた。
「おにいちゃん、はい!荷物届いてるよ」
「ああ…半分くらいうちへのお土産なんだよ」
 だから送っちゃったんだ、と言いながら、月は箱の中から菓子や衣類を取り出しては妹に歓声を上げさせた。そうこうしているうちに、月の父親が帰宅し、寿司の出前が届いて夕食となった。

「まさか、大晦日に月が帰ってくるとはな」
 嬉しそうにビールを口に運びながら、月の父は竜崎にも色々と質問を投げかけてきたが、それは決してわずらわしかったり不快だったりするものではなく、彼らと会話する取っ掛かりとしてはとても快いものだった。
 やがて、年末の歌番組が終わり、日付が変わって家族で年明けの挨拶を交わすと、月は竜崎を伴って二階の自分の部屋に向かった。
 部屋には、食事の合間に彼の母が用意してくれた布団一式がベッドの脇に敷いてあり、竜崎はそれを見て目を丸くした。
「本当に床の上に寝るんですね」
「ああ…」
 日本はそうなんだよ、と笑いながら、月はベッドを指した。
「ベッドを使ってもいいけどさ」
「いいえ、せっかくなので、こちらを使わせていただきます」
 竜崎は膝を折ってしゃがむと、シーツに顔をつっこんだ。
「ふかふかです」
 シーツの肌触りを楽しんでいる竜崎を見ながら、月は自分もベッドに腰を下ろして顔をほころばせた。

「竜崎」
「はい?」
 月はベッドに座ったまま竜崎を引き寄せると、肩を抱いた。
「竜崎…、本当に嬉しいよ。お前をこうして家に呼んで、家族に紹介することができて…夢みたいだ」
「月くん…」
 竜崎も月の身体に手を回し、目を閉じた。衣類越しに頬に伝わるぬくもりが泣きたいほどに心地いい。
「今年もよろしく。竜崎」
「こちらこそ」

 二人は顔を合わせ、少し笑ってから、軽く唇を重ねた。

 

 

「おはよう」
 目を開けると、それを待っていたように月の声が届いた。
 窓の外はすっかり朝になっており、ガラス越しに初春の陽が白いシーツを輝かせていた。
 布団が敷かれているスペースは窓際なため少し寒い。冷えた頬を暖かい毛布の下に潜り込ませる竜崎に月は少し失笑してから、「そっち行ってもいい?」と囁いた。
「はい」
 布団の端を持ち上げてやると、月はベッドから降りて竜崎の布団の中に入ってきた。狭い布団の中で精一杯身体をくっつけて、至近距離で互いの目を覗き込む。
「日本なんですね」
「ああ、日本だよ」
 月は竜崎の身体を抱きしめると、少し冷えた頬や鼻先を暖めるように頬ずりした。
「夢みたいだ」
「私のセリフです…」
 竜崎も月の身体にしがみついて幸せそうに目を閉じた。
「朝ごはんができたら母さんが呼びにくると思うから、それまでくっついていよう」
「見られちゃいますよ」
「大丈夫、ベッドが邪魔で見えないよ、寝相が悪くて落ちたって言えばいいんだ」
 そう言いながらますます手に力をこめて自分を抱きしめる月の腕に、竜崎も身体の力を抜いた。
 今年も来年も再来年も。自分のそばにはずっと月がいてくれるのだ。幸福感に目が眩みそうだった。

 

 やがて、呼ぶ声が聞こえたので、二人は階下に降りていった。ダイニングテーブルには雑煮と御節、みかんが置いてある。竜崎は促されるままに席につくと、真っ先にみかんに手を伸ばした。
「竜崎、これ」
 月が雑煮を指すと、竜崎は物珍しげに椀を持ち上げ、下や上から覗き込んだ。
「危ないよ、零すだろ」
「この中の白いものはなんですか?」
「餅だよ、母さん、粧裕は?」
「お友達と初詣だって言ってたわよ」
「初詣か、いいな」
 月は箸で餅を伸ばして遊んでいる竜崎に、「あとで初詣に行かないか」と誘った。
「はつもうで?ああ、年明けに神社や寺院に赴きスピリッツに祈願する日本の習慣ですね」
「スピリッツ?」
「日本の宗教はそんな感じの神じゃなかったですか?ヤ-オ-ヨ-ロ-ズとかそういう呼び方だったと記憶しています」
「…ああ…、うん…神社の神様はそうだね。でも、どっちかって言うと、今年はこんなことができますようにとか、自分自身に誓いを立てる感じかな、初詣は…」

 雑煮を食べた後、二人は月の家を出た。
「月くん、竹が…」
「ああ、門松だよ」
「昨日はなかったのに」
「お正月の飾りなんだよ」
 門松の前に座り込もうとする竜崎を引きずるように、月は玄関を出た。
 初日の出がすっかり青天井の真ん中に昇り切って新年を祝うかのように日光を降り注いでいる。
 最寄の神社は歩いて15分ほどだった。
 途中、通り過ぎた商店街から正月定番のメロディーが流れてくるのに、竜崎が足を止めた。
「エスニックですね」
「ああ、そうだね…」
「元旦からお店をやっているのですか?日本人は働き者です」
「ははは」

 神社の周りは初詣に来た群衆でごった返している。
 離れ離れにならないように手をつないで、10分ほど人に揉まれた後、ようやく神前に出ることができた。月が参拝する動きを、見よう見まねで竜崎がなぞる。お賽銭がないと言うので、月は自分の小銭を竜崎に渡した。五円玉を渡そうとして一瞬戸惑い、100円玉に変えた。

 人ごみを抜けて一息ついた後、竜崎が「さっき、どうしてコインを変更したのですか?」と聞くと、月は少しバツの悪い顔をした。
「お賽銭は、『ご縁がありますように』っていう意味で、五円玉や50円玉にすることが多いんだけど、お前にこれ以上縁があったらいやだから」
「はあ…?日本の方というのはずいぶんナーバスなんですね」
「うるさいな。おみくじをひこうよ」
 月は竜崎をおみくじ売り場に連れて行くと、二人分の金を出して竜崎にも引くように言った。

「…おおまがつ」
「え?ああ、それ、ダイキョウって読むんだよ…って、大凶か…せっかくの元旦なのに」
 竜崎のおみくじをのぞきながら自分のくじを開き、月は眉間を曇らせた。
「まいったな、僕も大凶だよ」
 正月からこんなの入れてるんだなあ、とぼやきながら月はそれを細くして近くの木の枝にくくりつけた。
「なぜ、そこに?」
「悪い結果を神様に引き受けてもらうのさ、竜崎のも貸して」
 月は二本ともおみくじを縛り終えると、「帰ろう」と竜崎の手を引いた。

「今のはなんだったんですか?」
「おみくじは、日本のえーと、占いだよ、今年の運勢を占うんだよ」
「大凶は悪い結果ですか?」
「うん…」
 月の歯切れが悪いので、竜崎はそれ以上おみくじについて聞くのをやめた。
「竜崎、何願い事した?」
「願い事?」
「参拝のときにさ…さっき、祈願する習慣だって知ってたろ?願い事したんだろ」
「ああ…」
 竜崎は人差し指をくわえた。

「なるほど、それでコインを」
「しなかったの?」
「特には…でも、私はいつまでも月くんと一緒にいられるようにと常に心で願っているので、日本の神にも聞いていただけたと思います」
「ほんと?賽銭奮発してよかった」
「月くんは何を?」
「僕も竜崎と同じ願いだよ」

 他愛ない言葉を交わしながら月の家に戻ると、月は玄関前で少し躊躇うように立ち止まった。
「大凶か…」
 竜崎は首を傾げ、月を覗き込んだ。
「どうかしましたか?月くん」
「いや、なんでもないよ、粧裕はまだ帰ってないみたいだな」
 玄関に並ぶ靴を一瞥してから、月は竜崎を連れて家に入った。
 リビングでは月の両親がみかんを食べながらくつろいでいる。

「月、お帰りなさい」
「父さん、母さん、話があるんだけど…」
 月は自分もリビングまで行くと、「では私は…」と席を外そうとした竜崎を引き止めた。
「お前にも関係ある話だから」
「?」

「どうしたの?改まって。まさか、また外国に行くとかいう話じゃないでしょうね」
「いや、そんなんじゃないんだけど…」
 月の言葉に母の幸子は安心した面持ちで胸をなでおろした。
「よかった、だったら、何でもいいわよ」
「まさか、大学を辞めたいとか言うんじゃないだろうな」
 妻の声を遮って父親の総一郎が訝しげに言った。
「あ、いや、そんなんでもないんだけど…」
「そうか、なら、よかった…」
 総一郎も相好を崩し息をついた。

「なんだ?何でも言ってみなさい」
「ええそうよ」
 両親ともニコニコと月の言葉の先を促している。竜崎が覗くと、月は緊張の極まった表情で顔色をなくしていた。

「実は、家を出て…彼と一緒に暮らしたいんだ」
 月は腕を伸ばすと、竜崎の肩を抱いた。
「…そうか、大学の近くにか?」
「ああ、うん…多分…まだきちんと決めてないけど」
「うん…まあ、いいんじゃないか」
「ええ」
 二人ともにこやかな表情で頷いている。

「イギリスから来て一人暮らしは大変だろうしな」
「ええ、月が一緒に暮らして、あれこれ助けてあげるといいわよ、経済的にもその方が安心でしょうし」

 どうやら、竜崎のことを苦学生だと思ったらしい。
 一気に居心地の悪さが増し、竜崎は月の腕の中で身をすくませた。

「いや、あの…それだけじゃなくて」
「ん?」
 月が言いにくそうに言葉をつなげる。竜崎は何もかも彼に任せてその場を逃げ出したい気になったが流石にそうは行かないだろう。

「あの…、彼を、人生のパートナーにしたいんだ」
 思い切った月の台詞に、彼の両親は二人ともきょとんとした顔で応えた。
「パートナー?」
「一緒に事業でも始めるということか?大学を出てから…?」
「それでもいいんだけど…そういう意味でもなくて…」
 月は出来るだけソフトでそれでいて明確な言葉を必死で模索しているようだ。
 やがて、はあ…とため息をついた。

「父さん、母さん、僕は…今後一切、女性と交際や、ましてや結婚は出来ないと思うんだ」
「え??」
 息子の突然の告白に、夫婦は今度こそ目をまるくした。
「それは、どういう意味だ?月」
「父さんも分かっていただろ?僕は、周囲の人間と思考のレベルが違いすぎて…。父さんや、母さんや粧裕を家族として愛し慈しむことは出来るけど、一人の女性を恋愛対象として尊敬しあい、愛することは出来ないと思う。こんな気持ちで、女性と付き合うこと自体が不実だと僕は思うし、そうするつもりもない。だから今後…交際や結婚ということも考えてはいない。僕の言うこと、分かるかな」
「……」
 夫婦はしばらく腑に落ちない顔で黙り込んだ。

「お前の言いたいことはなんとなく分かるが…」
「えっ分かるの?」
 幸子が驚いたように夫を見た。
「でも、結婚はしないとか、今決めつけるのは早計に過ぎないか?月…今後、お前の眼鏡に適う女性に会うことが出来るかもしれないじゃないか。お前はまだ未成年だ。将来を決めるには早すぎるだろう?」
「父さん」
 月は少しためらった後、まっすぐ父親の眼を見た。

「僕は、彼がいいんだ」
 竜崎の肩を抱いた月の腕にギュッと力がこもった。

「………………………」
 月の台詞に流石に両親とも黙り込んだ。
「月…」
「…そ、それは、その…彼も同じ気持ちなのか?お前の思い込みや独りよがりではなく?」
「ああ、そうだよ父さん」

 竜崎はいたたまれなくなり、ジリジリと腰を動かそうとしたが、自分の肩を抱く月の腕にがっちりと力が入っていて逃すつもりはないようだ。
「別に父さんや母さんから許しがほしいというわけじゃないよ。ただ、僕自身が大切に思っている家族に、同じように大切な人として竜崎を紹介したかっただけなんだ」
「あの」
 黙っていることが出来ず、竜崎は口を開いた。

「あの…すみません。急にこんな話に。こんなつもりじゃなかったんですが…」
「竜崎」
 月が、黙ってて…と言うのを遮ると、竜崎は言葉をつなげた。
「自己紹介が不十分でしたが、私は月くんよりも大分年上で、成人して久しいです。今は職はありませんがそれなりの私財はもっておりますし、すぐに日本でも仕事を始めるつもりです。勘違いしないでいただきたいのは、私は何もあなた方ご家族から月くんを奪おうというわけではなく、ただ彼と友人としてお付き合いすることを許していただきたいのと、できればあなた方とも同じように親しくお付き合いするのを許してほしいのです。月くんは今、一緒に暮らしたいと言ってくれましたが、まずはそう遠くない場所に私が用意する住居に、たまに彼が遊びに来ることを許してくだされば」
「ああ、まあ、それは…月の自由だが…」
「恐れ入ります。今日は、この辺で…年越しという特別な日に、ご家族の団欒に加えていただきありがとうございました」
 狐につままれたような顔をしている夫婦に一礼すると、竜崎はリビングを出た。月があわてて後を追ってくる。
「竜崎、待って」
 玄関で腕をつかまれ、竜崎は無表情のまま振り向いた。

「月くんは…話の持っていき方が下手ですね」
「悪かったよ…お前のことになると、余裕がなくなって…このあと、どこに行くつもりなんだよ?もっとうちにいればいいのに」
「んー…」
 竜崎もそのつもりだったが、両親にあんな宣言をされてはそういうわけにもいかない。

「どこかホテルに泊まりますよ」
「僕も一緒に…」
「いえ、一人で大丈夫です。ご家族とゆっくりしてください、明日、どこかで会ってお茶しましょう」
 少し微笑んで見せると、月もはにかむように笑った。
 翌日会う場所と時間を決めると、竜崎は月の家を出た。

 

 *

 

 タクシーで帝東ホテルまで行くと、竜崎はカウンターにカードを出した。このホテルは以前何度か利用したことがある。こういった急なときはこういうところの方が都合がいい。

「あけましておめでとうございます。竜崎様ですね。本日はご利用いただきありがとうございます。恐れ入りますがただいま最上階のスイートが塞がっておりまして…」
「ああ、どんな部屋でもかまわない」
「恐れ入ります。では、デラックスツインのほうにご案内させていただきます」
 ボーイのあとをついて竜崎はエレベーターに乗った。鏡張りのエレベーター内は天井に電灯に囲まれた無数の装飾が下がり空間を華々しく照らしている。

「こちらになります。あとから届くお荷物などございますか?」
「いや、ない」
「かしこまりました。ごゆっくりおくつろぎください。本年も当ホテルをよろしくお願いいたします」
 ホテルマンが去った後、竜崎は窓から夜神家の方角を見た。今頃月はどうしているのだろう。家族でゆっくりしているのか、それとも両親に質問攻めにあっているのだろうか。そう考えると少しかわいそうな気がしないでもない。

 なんにせよ、ここのところずっと月が一緒だったので、久しぶりの一人きりの空間だ。少し寂しいがやはり一人は落ち着く。
 竜崎は、肩にかけていたナップザックの中身を全部ベッドの上に出した。イギリスから持ってきた荷物はこれきりだ。
 ワタリの遺書、カード数枚、携帯数個。月がくれた指輪。
 そして、黒いノート。

 このノートの存在は、月も知らない。
 正確には竜崎が持っていることを、月は知らない。

 このノートに名前を書かれた人間は死ぬ。
 その事実を信じずに、一年前に拾った自分は悪戯半分で使ってひどいことになった。ほとんど廃人のようになってしまい、もし月が救ってくれなかったら今こうしてここにいることはもちろん、生きていられてたかも分からない。そんな恐ろしいノートだ。
 ノートは、一年前に燃やした、そう月には言ってあった。
 ノートを竜崎に託した死神もそう思い込んでいるはずだ。でなければノートの持ち主である自分に付きまとっているはずだから。あの時用意したダミーを燃やすのを見て、死神は去っていったのだ。

 別にノートが欲しくて死神を騙したわけではない。
 ノートの所有権を失うと、ノートに関する記憶を失うと死神が言っていたからだ。かけらでも自分の記憶を失うなど、竜崎にとっては冗談ではない話だった。たとえどんなに自分を苛むひどい記憶でも、だ。
 月は紳士的な男なので、勝手に自分の手荷物を見るようなことはない。だから今まで知られずにノートを隠して持っていられたが、彼が言ったように今後一緒に暮らすことになれば、そうそう隠し通すことも出来ないだろう。何か手を考えねば。貸金庫でもいい。
 このノートを見たら、月は絶対に処分しろと言うに決まっている。記憶を失うと説明しても、好都合だと言うに違いない。

 荷物をナップザックにまた収めると、竜崎は椅子の上に身体を丸めて座りこんだ。
 明日、月との待ち合わせの前に貸金庫を借りに行こう。
 ワタリがいないと、何もかも自分でしなくてはらないのが実に面倒だが仕方ない。
 テレビをつけると、特別番組の合間に短いニュースをやっている。京都強盗事件犯人、判決間近という内容や、今日の各地神社の初詣の様子だった。竜崎は月と一緒に行った神社のことを思い出し、少し笑った。
 

 

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