「神様 どうか」

 

 

 

 二人が日本で一緒に暮らし始めてから、10ヶ月が過ぎた。
 お互い一つずつ年をとり、一つずつ季節を堪能した。

 ついこの間、ハロウィンの日に誕生日パーティーを終えたばかりの竜崎は、最近はもっぱら秋の味覚にご執心だ。といってもその興味は99%、スウィーツに対して向けられている。かぼちゃ餡のデニッシュだとかスイートポテトのパイだとか、甘味を抑えた繊細な日本の菓子に彼はすっかり心を奪われたようで、仕事を終えて暇になると、ぶらりと足を伸ばし、お気に入りの菓子屋を回ったり新しい店を探したりする。
 たまに月の分も買ってきてくれるが、甘いものが苦手な月が一口食べた残りは、結局竜崎が食べてしまうのが常だった。

 

「終わりました♪」
 竜崎がラップトップパソコンを片手にぶら下げながらリビングに入ってきた。手の大きな彼は指の力が強く、たまにビックリするようなものを指で摘んで持ち上げている。
「振り回すなよ、あぶないな」
 コーヒーを啜りながら、ソファに座った月が苦笑した。
「例の、警察に協力頼まれていた事件、解決したんだ?」
「はい、先程検挙されたので、すぐにテレビでもやると思います」

 日本に来たら、探偵職を始めたいと言っていた竜崎だが、それは意外と簡単だった。
 今年の一月、彼は某事件で日本警察と接点と持つことがあり、数人の刑事の前に姿を現した。
 事件が解決した後も、彼らがその卓越した推理力を頼ってきたのだ。竜崎は通信越しに警察に助言をし、何度か事件を解決に導いた。名を「L」から「竜崎」に変えただけで、結局以前と同じような生活になった。
 ただ、日本警察からそれを糧と変えて生業とするほどの謝礼はもらえないので、竜崎は副業で株の売買をしている。
 そんな彼と暮らしながら、月は大学に通っていた。現在二年生だ。

「連続殺人犯だし、警察も重い荷をようやく降ろせたね」
「そうですね、では、私は、ちょっと…」
 指をくわえながら、竜崎はそわそわと窓の外を見ている。
「ああ、お菓子買いに行くの?待って」

 月はソファから立ち上がると、ハンガーにかけてあったマフラーを手に取り、竜崎の首に回した。
「寒くなってきたし、空気も乾燥してるから、風邪ひかないようにね」
「すぐそこのお店に行くだけだから、ほんの5分程で戻りますよ」
 それでも竜崎はニコニコと嬉しそうにマフラーを押さえ、部屋から出て行った。

「五分か、じゃあ、紅茶の用意でもしておこうかな」
 月は竜崎が選んだゴールドの模様が入ったティーセットを出してくると、アレッシィのバードケトルに水を入れて火にかけた。
「プリンス・オブ・ウェールズとレディグレイ、どっちにしようかな」
 葉の香りを嗅ぎながら考えていると、唐突に窓の外から騒音が月の耳に飛び込んできた。

 タイヤの軋む音。何かがぶつかる音。騒然となる人の声。
 月は驚いて窓に向かった。この一番上の三階の部屋にまでガラス越しで届くなんて相当だ。
 角度が悪く、外はよく見えなかった。

「トラックかな。まさか竜崎、巻き込まれてないよな」
 そう、軽く考えたが、タイミング的には竜崎は音が聞こえてきたあたりを歩いているはずだった。
(まさかね…)
 しかし、不安が消えない。月は携帯を探して部屋の中を見回した。
(そうそう、上着のポケット)
 今年の初めに携帯をなくし、新しいものを買ったが、友達がほとんどいないので、結局竜崎と家族とくらいしか使わない携帯。開いて、竜崎の番号にかけると、月は耳に当ててしばらく待った。

「…出ないな…」
 十数回コール音を鳴らしたが、竜崎は出ない。
 一旦コールを止めると、月はもう一度かけた。結果は同じだった。

「…竜崎…」
 しばらく、せわしなくうろうろと部屋の中を歩き回ったあと、結局月は外に出た。
 自分の目で確認した方が早いと思ったのだ。

 カン、カン、カン、と階段を下り、アスファルトを蹴って月は先程の音がしてきた方角に向かった。場所は、野次馬が群がっていたのですぐ分かった。
 丁度、救急車が去っていったところで、思ったとおり電柱とブロックの塀にぶつかったトラックがひしゃげて、周辺に血が飛び散っていた。
 月は周囲を見渡して竜崎の姿を探した。近くにいたなら、この騒ぎをきっと遠巻きにでも眺めていると思ったのだ。
 しかし、目に見える範囲に彼の姿はなかった。

「…あの」
 月は思わず、近くにいた主婦らしき女性に声をかけた。

「何があったんです?あの血は誰の…」
「ああ、トラックが、ぶつかったのよ、ひどかったわ…地面にたたきつけられてねえ…」
「え?誰が、はねられたんですか?」
「この信号を渡ろうとしてた男の子で、マフラーをした、白いシャツの…」
 月は目の前が真っ暗になり、女性の肩を掴んだ。
「どっ、どこに!?どこの病院に行ったんですかっ!?」
「え?」
「さっきの救急車…!!どこの病院に!!!」

 女性は知らないと答え、月はその場を走って離れた。車を置いてある月極駐車場に向かう。自分でさっきの救急車を追った方が早い。

 しかし、既に救急車は見当たらず、月は近くの病院からあたって、三件目にようやく竜崎が運び込まれたと思われる病院に辿りついた。

「すみません、さっき、トラックがぶつかって、運び込まれた…」
「ご家族の方ですか?こちらへ…」

 対応した看護師に手術室の前に連れてこられて、月は長椅子に座り込んだ。
 ああ、どうして…あの時、すぐに部屋を出なかったんだろう。
 そうしていれば、救急車があの場を離れるのに間に合って、一緒に乗れたのに!
 いや、いや、どうして自分も一緒に出かけなかったのだろう。そうしたら竜崎を一人でそんな目にあわせることなど絶対になかったのに、どうして、どうして、どうして…
 どうしよう、もし、助からなかったら…どうしよう…どうしよう…

 もし竜崎がこのまま死んでしまったら…そう考えただけで、すうっと頭から血の気が下がり、目の前が暗くなる。手脚がカタカタと震えてくる。
 彼と出会うまで、どんなに大変だったか。どんな思いをして彼に辿りついたか。
 どんなに彼が大切か、彼を失ったらどれだけ自分の何もかもが終わってしまうのか、きっと他人には絶対に分からない。
 竜崎が全てなのに。僕にとっての世界の全ては竜崎なのに…!

 月は目を閉じ、指を組んで何度も祈った。
 ああ、神様、神様、神様、神様、神様神様神様神様神様神様…!
 どうか、僕から竜崎を奪わないで下さい…お願いです神様…他に何を失っても構いません、神様、どうか、どうか…どうか…

 実際は十数分だったのだろうが、待つものにとって気が遠くなるほどの長い時間を経て、手術室の手術中のランプがようやく消えた。

「!」

 月は立ち上がって、誰かが出てくるのを待った。一秒が何十分にも感じる。こんなに辛い気持ちで時を過ごしたのは生まれて初めてだった。
 医師らしい、ブルーの手術着を来た男性が出てきて、月は心臓が止まりそうに重く荒く鳴り続けるのを咽喉のあたりで感じながら、彼の言葉を待った。

 

「…手は尽くしたのですが…」
「……あ…」

 それは、死刑宣告にも等しい言葉だった。
 全身から力が抜けるのを感じ、月は二の句を告げないまま立ち尽くした。

「…あの…も、だ、だめ…なん、ですか…?…ほ、…本当に…」
「救急車が到着したときは、すでに心肺が停止しておりまして…蘇生しようと手は尽くしたのですが、かなわず…」
「…そう…ですか…」
 駄目だったんだ。
 あんなに祈ったのに、駄目だったんだ…
 脳の奥から全身の先端までが痺れたように疲労感に覆われ、全然力が入らない。
 この十数分の間に、すっかり生きる気力を吸い取られてしまった…
 だが、そもそも、竜崎を失って生きていく意味など、自分にはないのに…。

 本当に悲しいときは涙も出ないって、本当なんだな、と月は思った。
 泣くどころか指一本動かせない。
 どうしたらいいんだろう、これから…どうしたら、いいんだろう…そもそも、生きるためには何をしなきゃいけなかったんだったろう…

 

 ガラガラガラ、とストレッチャーで遺体が運ばれてきた。
「どうぞ、頑張った顔、見てあげてください…」
 そう言われ、覗き込んで月は眉を寄せた。

「えっ?」
「え?」
「あの、これ、…誰ですか?」
「え?」
「えっ?誰!?」
 竜崎じゃない。100%竜崎じゃない!!
 大体竜崎は無精ひげとか生やしてないし茶髪じゃないしこんなに年取ってないし!!!

「ちょ、えっ!?誰これ!?」
「え?トラックの運転手さん…ですよ?車から投げ出されて、地面にたたきつけられ…て…」
「ええ!?マフラーと白いシャツの男の子は…」
「ああ」
 うろたえていた看護師が、合点がいったように頷いた。
「はねられかけたほうの!あちらの方のご家族だったんですか?あの人は足を捻挫しただけで…」
「足を捻挫!?」
「救急車には同乗して来ましたけど、残してきた家族が心配すると言って戻られましたよ?そう、丁度あなたと入れ違いに」
「ええ!!??」

 月は礼を言うと、慌てて病院を出た。
 生きてた!!よかった…!
 死んでなかった…!
 病院を出てすぐ携帯を出し、電源をいれた。院内だから切っていたのだ。

 竜崎にかけようとしたその瞬間にコール音がなり、月はギョッとした。実家からだ。

「もしもし?」
『月?あら、無事だったの?よかった!さっきから、何回かけても繋がらないもんだから…』
「母さん。え?何かあった?」
『大丈夫なの?今テレビ見てるんだけど…』
「はあ?」

 

 

 車を飛ばして部屋まで戻ると、とんでもないことになっていた。
 野次馬は輪をかけて増え、今度は救急車に加え真っ赤な消防車が何台もマンションの周囲で水を放っている。
 火元は明らかに竜崎と月の部屋だった。先程中から外を覗いていた窓から、轟々と炎が上がっているのが見える。

「…ヤカン、火にかけっぱ…だっけ…」
 空気乾燥してるから、と自分で竜崎に言っておきながらなんたる失態。
 今こそ、ちょっと泣きたい…と思いながら車を降り、そろそろと野次馬をかきわけてマンションに近寄る月の耳に、聞きなれた声が飛び込んできた。

 

「月くん…!月くんーー!!」
「君、あぶないから…!」
 竜崎は、何人もの消防士に抑え付けられながら、それを振り切ろうともがいていた。
 咽喉が枯れんばかりに炎に向かって泣き叫びながら。

「あああ…!!うああああああ!!嫌だ、嫌だーーっ!!月くん、月くん!月くん!嘘だって、言って下さい!!月くん!月くん!!」
 大の男四人が手足を押さえているのに、それでもジリジリと火にまかれたマンションに近づいていく竜崎。足を捻挫しているはずなのに、細い身体からは想像もつかない膂力を見せている。
「うわあああああーー!!!月くん…ッ!!月くんッ!!」

「竜崎ッ!」
 月は慌てて竜崎の前に回りこんで、手を伸ばした。
 もう、入れ違いなどごめんだ。
「月…くん?」
 ぴたりと動きを止め、竜崎は目の前の月を見た。頬が幾筋もの涙のあとで汚れている。その目尻からまた新しい雫が溢れてポタポタと落ちた。
「生きて…たん、ですかっ!?」
 消防士たちが離れ、竜崎は月に勢いよく抱きついた。

「よ、よかった…!!よかった…!!てっきり、部屋の中に居たものと…!!」
「ごめん、竜崎…!!」
「爆発したって…っ、聞いて、私がどんな気持ちだったと思ってるんですか!?帰ったら、部屋が燃えてて…!携帯も繋がらないし、て、てっきり、月くんも爆発に巻き込まれて、死んでしまったと…ッ、この、顔も、腕も、全部燃えてしまったんだと…ッ」
 竜崎は泣きじゃくりながら月の胸を叩いた。月の目からも、さっきは出なかった涙が溢れ、頬を伝い、落ちた。その涙を混ぜ合わせるかのように頬を合わせ、月は竜崎の身体を抱きしめた。
「ひどい…ッ、ひどいです…!!!」
「ごめん、ごめん…僕も、もうおまえを抱けないかと…お前の温もりに触れることなんてもう出来ないのかと…よかった…よかった、本当に…ッ…竜崎…」
「月くん、月くん…!」

 二人は互いの存在を確かめるように固く抱き合うと、深く口付けを交わした。
 その姿がご近所様の目のみならず、中継に来ていた全国生放送中のテレビにまで映ってしまっていたのは後々考えるに大いなる醜態だったが、二人とも目の前の相手が生きていることで頭が一杯で、そんなことまでまったく気が回らなかった。

 のちに、全国的カミングアウトを果たしてしまったその映像は、『衝撃映像特集』番組などで何度も「感激の再会が…!?」といったタイトルでテレビ放映され、二人はそれを見るたび死にたくなるのだった。

 

 

「ああ…」
 火事の翌日。今はすっかり火が消え、炭の集合体となった自分たちの部屋を見上げながら、月はため息をついた。

「全部、燃えてしまった…」
「まあ…奇跡的に死傷者はゼロでしたし、お隣さんも下の階も、そんなに燃えませんでした…し…」
「ごめん、竜崎…」
 落とした肩を慰めるようにポンポンと叩かれ、月はまたため息をついた。

「二人の思い出の品も、全部…全部…」
「まあ…そんなに気を落とさず。思い出はまた作ればいいですし、部屋はまた直してリフォームすればいいですし、損害賠償も私に任せてください」
「いや、それはできないよ…お前にそこまで世話に…」
「いえいえ、私にしたら大した金額じゃないですし、原因だって、ヤカンの火ではなく私のタコ足配線だったのかもしれませんし」
「竜崎…ホント、ごめん…」

 月は「帰ろうか」と腕を伸ばし、竜崎の手を握った。当分、ホテル暮らしだ。
 月の両親が、部屋が直るまで一緒に住もうと言ってくれたが、年頃の娘さんとご一緒は…と竜崎が断った。

「月くん…私…」
 キュ、と月の手を握り返して一緒に足並みをそろえながら、竜崎がポツリと口を開いた。
「なに?」
「あの時…神様にお願いしたんです。月くんを奪わないで下さい、月くんを、私に返してください…そうしたら、他には何もいりません、月くん以外の何を失っても構いません…って。そうしたら、神様がお願いを聞いてくれたんです」
「…あ…」
 そうだ、自分も祈った。
 月は病院で手術が終わるのを待っていた時の自分の心境を思い出していた。

 どうか、僕から竜崎を奪わないで下さい…お願いです神様…他に何を失っても構いません、神様、どうか…どうか…。

「部屋ですんでよかったじゃないですか。私は、この世界そのものを失ったって構わないと願ったのに」
「…そうだね」

 …早くホテルに帰って彼を抱きしめたい。
 もしかして、またこんな風に彼を失いかける日が来るのかもしれない。そしてまたあの言いようのない果てしない恐怖を感じることがあるのかもしれない。でも、こうして触れ合える今は、自分たちにとってそれだけが全てなのだから。

 捻挫した足をかばう竜崎にあわせて、ゆっくり歩を進める。
 愛する人がそばにいること、こうして命のぬくもりを感じあえること。
 何事にも換えがたい唯一無二の宝を握ったまま、月は幸福を噛み締めながら、小春日和の太陽を見上げた。



 END

 

 

 

 

あとがき

 一応、Lの追悼SSだったのですが、なんだか…?…追悼っぽくなくてすいません。
 原作で新世界と引き換えに竜崎を失った月くん…だったので、逆にしてみました。
 26歳で男の子とか…(笑)
 トラック事故ですが、原因は運転手の居眠りによる信号無視です。作中で説明できなくてすみません!