闇の中の鏡


 





1

 

  竜崎という名前を最初に意識したのは、多分合コンの時だ。

 

「夜神くん竜崎くんのこと知らないの?」
  席替えで隣に座った女の子が、意外そうに甲高い声を上げる。

「知らない」
「すごい頭いいんだよ〜」

  だからなんだと思ったが、主席で入学した自分が興味を持つと思って、好意で教えてくれているのだろう。あまり邪険にするのも宜しくない。
 へえ、そうなんだ、と適当にあしらって終わらせたが、その竜崎という名は妙に頭に残った。

  無理矢理連れてこられた合コンだった。結局その時教えてくれた女の子の名前も、他のメンバーの名前も、すぐに全部忘れてしまったが、竜崎という名だけは忘れなかった。理由は分からない。

 

  それから一週間ほど経ってからの、何かの講義の時だった。隣に一風風変わりな人物が席をとっていた。1番最初に気になったのは、椅子の上で体育座りをするようなその体勢だ。服装は白いTシャツ、デニムと地味だったが、一度見たら忘れられない顔つきをしていた。
  好き放題に跳ねた黒髪と、極端に薄い眉。前方に食い入るような猫背で、ぎょろりとした人間離れした目がまっすぐ前を見つめている。
  余計気になったのは、彼が出欠確認の時に名を呼ばれなかったことだった。その時に名前を確認しようと思ったのに、もしかしたらモグリの受講者なのか。

  授業中、余ったルーズリーフの端に『君、名前何?』と書いて見せた。
  彼はすぐにその下の余白にボールペンを滑らせた。『竜崎です』と返事。
  例の合コンの時の女の子の話を思い出し、ああ、あの…と自分でも妙に納得する。名前も印象に残りやすかったが、本人は更なりだった。

  あなたは?という意味なのか、てのひらを上に向けて揃えた指先を差し出してきたので、下の余白に『夜神 月』と書いた。竜崎は大きな目を更に見開いて、口の形だけで「ああ…」と呟いた。全教科満点で主席入学した者として、こちらもそこそこ有名だ。彼も知ってくれていたのだろう。

『名前呼ばれなかったけど、モグリ?』と聞くと、『時間が余って暇だったので…。いけませんでしたか?』と返してきた。どうなんだろう?専攻してない講義を受けるのは。しかし授業料を払って大学に通っているのだし、問題ないような気もする。何にせよ、月の周りには今まで、可能なかぎりサボり、如何にしてギリギリで単位を取るかという算段をする学生ばかりだったので、竜崎のようなことを言う人間はとても珍しく感じた。

『講義、面白い?』
『正直、期待していたほどではありませんでした』
『そっか、じゃあ、色々聞いてもいい?迷惑じゃなければ』
『構いません。迷惑ではありません』

 退屈な講義の時間が、急に楽しく感じられた。

  生まれや出身校を聞いてみると、彼は生まれはイギリスで、日本に来たのは最近だということだった。
 なんで日本に来たの?と聞くと、治安のいい場所でのんびりしたかったと言う。日本の教育のレベルに興味があって東応大に入ってみたが、今まで社会人だったので皆さんより少し年上です、と言う。

『何歳?』
『24』
『そんな上でもないよ』
  とは言ったが、つい最近まで高校生だった自分にも六つの年の差は大きい気がした。

  それにしても講義中の筆談はなかなかに楽しかった。このあと、学食で一緒に昼食どう?と聞くと、快諾をもらう。


  講義が終わり、席を立つと、彼も一緒についてきた。学食で定食を頼み、席につく。相変わらずの変わった座り方だが、靴はきちんと脱いでいるし気にはならなかった。竜崎は何故か途中の購買で買った菓子類を並べ、それが彼の昼食のようだった。
  イギリス育ちだという竜崎は、喋り方も外国人訛りかと思いきや、流暢に日本語を話し、外見も黒目黒髪と東洋人に近い。言わなければ誰もが日本人と信じて疑わないだろう。
  しかし話す内容には齟齬はなく、嘘や冗談を言うタイプでもない。月は竜崎と話していて、鳥肌が立つような感覚をおぼえた。なんて上質な人間なんだろう。こんな人材が今まで気付かないまま同じキャンパス内にいたとは。
  あの女の子が「すごい頭いい」と言っていたのもうなずける。彼といくつか言葉を交わした誰もが、その人間離れした記憶力と知識の深さに舌を巻くだろう。


「思った通り、夜神くんは、とても頭がいいですね」
  急にそんなことを言われたのでびっくりした。
  そんなのはこちらのセリフだと思っていたのに。

「会ってみたかったんです、全教科満点で主席合格した、テニスの元全国大会優勝者」
「僕、そんなに有名?」
「有名ですよ」
「僕にとっては竜崎が有名じゃないことの方が不思議なんだけど……」
「構内ではあまり目立たないようにしてます……が、あなたと関わったらそれもおじゃんですね」

  では、あの合コンで隣にいた女の子は、たまたま何らかの幸運で竜崎の人となりを目にしたのだろう。
  月と一緒に居ると今までの苦労もご破算、と言いながら苦笑する竜崎の表情は、セリフに反して楽しげだったので、月もそれに関して気遣うつもりはなかった。

  月と竜崎はすぐに仲良くなり、構内でもよく一緒に行動するようになった。月に吊られるように竜崎の知名度も上がり、2人の人気にあやかりたい人間が寄ってくるようになったが、誰もが月と竜崎の会話にはついていけず、すぐに離れて行ってしまった。
「来るものは拒まずなんですけどね」と言って竜崎は苦笑していたが、月は彼とまともに会話できる人間が自分しかいない事実が誇らしかった。


  出会ってから2週間が経った頃、月は週末を竜崎と離れて過ごすのが惜しく、一緒に遊びに行くか、レポートでもやらないかと持ちかけた。
「遊びに行くと言っても、どこも思い浮かびませんね。夜神くんはどこか行きたいところありますか?」
「特にないけど、でも会話できるところならどこでもいい」

  イギリス育ちのくせに妙に頭の固い竜崎に(※イギリスでは飲酒に年齢制限はない)、未成年の月は呑みに行こうとは誘えなかった。一度軽く聞いたら、「まだ未成年の月くんをそんな場所に連れていくなんて、あなたに対してもご家族に対しても責任が持てません」と渋い顔をされたからだ。月はとにかく竜崎の不興を買うことをこそ恐れた。

  結局、竜崎の部屋でレポートをやろうということになった。月の部屋は二人納めるには狭いし、勉強机しかない。友達を連れていっても、せいぜい一緒にテレビかパソコンでDVDでも見るのが関の山だ。
  竜崎の部屋に行ってみたいというのもあった。


  彼の住居は、大学から歩いて3分ほどのマンションの一室だった。ロケーションも部屋の広さもかなりの好条件で、バイトをしている様子もない竜崎が一体どうやって金を払っているのか気になった。

「好きに寛いでください」
  竜崎はそう言いながらキッチンに飲み物を取りに行く。思っていた以上に何も無い部屋だった。フローリングの広々とした部屋に、パソコンが2つ。大きなデスクトップタイプと軽量タイプのノートパソコンで、どちらも床に直置きしてある。他には思い出したかのように部屋の隅にクッションがふたつばかり固まってた。まあ確かに彼の座り方なら椅子は必要ない。ここには自分以外の客が来ることもなさそうだ。

「大変お待たせしました」
  竜崎は予想に反して美しく装飾が施されたティーセットをトレーに乗せて運んできた。温かそうな紅茶の香りと湯気がふわりと立ちのぼっている。

「竜崎が自分で淹れたの?」
「そうです。紅茶はどうしても拘ってしまいますね」
  そう言う彼の言葉に、イギリス育ちだという話を思い出す。感心しかけたが、ティーセットまで床に直置きする姿に撤回した。

「生活感ないなあ、ソファのひとつくらい置けよ」
「そうですね……」
  紅茶を啜りながら竜崎はノートパソコンを開いた。
「どんな色がお好みですか?」

  画面上に並んだソファの画像を見て月は、竜崎が自分のために部屋の模様替えを考えてくれているのだと気づいた。
「欲を言えば厚めのラグも欲しいな」
  竜崎は何の反論もせず微笑んでいる。

  それ以来、月は週末ごとに竜崎の部屋に入り浸った。
  テレビもオーディオもない部屋だが、竜崎との会話が楽しく快かったので、それ以外に耳を汚すものは要らなかった。



 

2

 


  ある朝。
  珍しく浮かない顔で構内に現れた月は、伏し目がちに竜崎に挨拶した。

「どうかしたんですか?」
  心配の滲んだ口調で竜崎が聞く。
「何でもないんだ、夢見が悪かったんだよ……ちょっとリアルな悪夢で……。でもきっとすぐ忘れると思うから」
「夢ですか」

  竜崎は安心した様に少し笑った。
「参考までに教えてください、一体どんな夢ですか?」
「はは、そんな面白い夢じゃないよ。もし昼になってもまだ覚えてたら話すよ」

  さっさと忘れてしまいたい夢だったのでそう答えたのだが、期待に反して、昼食の時間になっても月の悪夢は記憶に刻み込まれたままだった。


「竜崎は人を殺す夢って見たことある?」
「殺す夢ですか?うーん……ないですね」
「やけにはっきり言うね」
「私、夢の中でもこれは夢だって分かってしまうんですよ。ですから、ああ今、夢を見ているな…と思ったら、背丈ほどもあるケーキを食べたり、翼で空を飛んでみたり、現実では出来ないようなことをするのに終始します」
「ははは。僕も、夢だって分かることが多いんだけど、今朝のは分からなかったな……」
「人を殺す夢だったんですか?」
「うん……」

  とは言っても、この手で誰かの首を絞めたり、刃物を胸に突き立てたり、そんな血なまぐさいものではなかった。

「高校の頃の下校時から始まるんだけど、なんか、校庭でノートを拾ってさ」
「ノート…?ノートブック?」
「うんそう、大学ノートみたいな。ただ表紙は真っ黒で、デスノートって英語で書いてある」
「Death note…死、の、記録ですか?」
「いや…開いてみても中には何も書いてなくて、ただの白いベージが続いてるだけ。ただ、表紙の裏に使い方が書いてあって…このノートに名前を書かれた人間は死ぬっていうんだ」
「書いてみました?」
「うん…全然信じちゃいなかったけど、万が一その人間が死んだ時のことを考えて、その時報道されていた、幼稚園に立てこもった犯人の名前を。そうしたら本当に死んで……もう1回試そうと思って、僕は夜コンビニに行き、女の子にちょっかい出してたチンピラが自己紹介しているのを聞いて、それもノートに書いてみる。ノートには死に方も書き入れられるんだ、事故死と書くとその通りになる」
「それはまたシュールな夢ですね」
  竜崎はチョコレート菓子を口に運びながら無糖の学食のコーヒーを啜った。

「竜崎が同じ夢を見たとしたら、ノートを試したと思う?」
「私ですか?試しません」
  彼はハッキリと答える。
「なんで?倫理上?それとも信じないから?」
「いえ……。地面に落ちていたノートを拾って持ち帰るなんて……私、こう見えて結構綺麗好きなんです」

  想像したのか、脱力したような表情で続ける竜崎に、月は吹き出した。

「それで、ノートが本物だって分かって夢は終わりですか?」
「いや、僕はそのノートに、世界中の悪人の名前を書き連ねていくんだ。勿論実際に書かれた人間は死に、全世界で大騒ぎになる」
「それはちょっと面白いかもしれませんね」
  竜崎はいたずらっぽい笑みを浮かべた。

「…で、何人くらい殺しちゃったんですか?」
「…よく覚えてないけど…5日間で100人くらい…かな」
「大量殺人鬼ですね!」
  竜崎はおかしそうに笑った。

「そしてどうなったんです?その夢はどこで終わったんですか?」
「最後に死神が現れて僕に言うんだ。そいつは死神のノートだ、それはもうお前のモノだ…」
「確かに後味の悪い夢ですね」
「だろう?目が覚めてからもしばらく、今のは夢だったのか、実は現実だったんじゃないか…って、しばらくの間混乱しちゃったよ…高校だって、僕が実際通っていた高校で、すごいリアルだったしさ」
「大変でしたね。まあ、結果夢だったんだからいいじゃないですか」
「うん……」

  何故かは分からないが、月はその夢のせいで随分精神を消耗してしまっていた。数日間元気がない状態が続いたが、やがて悪夢の印象も薄まり、何事もない日常に戻ってくることが出来た。ただ、その夢の記憶は普通の夢のように、時間とともに薄まってくれることは無かったのだが。


「今日もうちに来ますか?」
  金曜の午後、竜崎が月に尋ねる。

「うん、行ってもいい?」
「たまには月くんの家にも行ってみたいですね」
「えー?」

  月は実家暮らしのため、妹、両親と一緒に住んでいる。最近は平日の夜しか戻っていなかったが、家族は何も言わず毎日笑顔で迎えてくれるし仲は悪くない。ただ、竜崎を紹介するのがどことなく気恥ずかしかった。

「いや、うち、妹とかうるさいよ…」
「妹さんがいるのですか?是非お会いしてみたいです」
「恥ずかしいんだよな……」

  すると、竜崎は一瞬鼻白んだ。
「私を紹介するのは恥ずかしいですか?」
「逆だよ、お前に僕の家族を紹介するのが恥ずかしいんだよ」
「何故です?刑事局長の立派なお父様をお持ちだという噂ですよ」
「そんなんじゃなくて、ただ恥ずかしいんだよ」

  自分でも何がそんなにという思いはあったが、月の中で竜崎と過ごす時間と、家族と過ごす時間は、完全に別物であるという意識があり、それを融合させるのは葛藤を伴った。しかし、終いには竜崎の懇願に負け、自分の家に連れていく約束をしてしまった。

  月は実家に電話して、母親に夕食を1人分多く作ってほしいと頼んだ。いつも遅くまで彼の部屋で話し込んでは泊まってしまっているので、そのくらいのもてなしはしなくてはならない。
  母は「まあ、彼女?」などととんでもないことを言ってきたが、「男だよ!」と言うと少しガッカリしたようだった。

「食事なんて、結構でしたのに」
  隣で聞いていた竜崎が困ったように言う。
「かえって申し訳ないことを」
「いいんだよ、黙って連れてったらそれはそれでうるさいんだから」
「なるほど。私は両親というものを知りませんので、とても興味深いです」
「えっ?」

  イギリス生まれとは聞いていたが、両親がいないという話は初耳だった。月は少し戸惑った。
「そうなんだ…」
  それで自分の家族に興味があるのだろうか。月は先程頑なに拒んだことを申し訳なく思った。
「ごめん」
「何故謝るのですか?」
  竜崎は不思議そうな顔をしている。
「恥ずかしいとか言っちゃってさ。多分、お前を家に連れてくことで、家族からお前の知らない僕の顔を知らされるのが恥ずかしいんだよ」
「ああ…成程」


  その日、竜崎を連れ帰ると、両親も妹もにこやかに彼をもてなしてくれた。竜崎も普段食べ慣れない菓子ではない食事を、不躾ではない程度に食べている。
  食事が終わったので、「送っていく」と席を立つと、妹がテレビを見ながら「お兄ちゃん、この子可愛くない?」と話しかけてきた。
  何かと思ったらバラエティー番組で、最近売れてきた若いアイドルにインタビューをしているようだ。

『ご家族は今の活躍をどう思われてるんですか?』
『あ、私、両親居ないんです〜!お姉さんが1人居るんですけど、一緒に暮らしてないし……でも両親もきっと応援してくれてます』
『お1人暮らしなんですか?』
『はいっ』

  テロップには「今、話題のアイドル・弥海砂」と出ている。
「知ってる?」
  竜崎に聞くと、首を傾げている。
「最近、雑誌のモデルから歌も歌いだした子なの!」
  と妹が説明してくれるが、興味無いので曖昧に笑って家を出た。

「両親居ないってあまり珍しくないんだな…」
「……珍しくなくもないでしょうが、世の中色々じゃないですか」
「そうだな…」
  よしなしごとを話しながら、一緒に駅まで歩く。
  今夜はこのまま竜崎の部屋までついて行ってしまうつもりだった。

 

3

 

  それから何週間か過ぎたが、竜崎はもう月の家に行きたいとは言わなかった。不快だった訳では無いだろうが、やはりお互いにとっても二人でいる方が楽しく快かったのだ。

  ある日、月はなんとも言えない表情で大学にやってきた。
  竜崎は月の様子に首を傾げ、何かあったのかと聞いた。

「前に話した、デスノートの話、覚えてる?」
「デスノート…ああ、名前を書かれた人が死ぬっていう、月くんのエキセントリックな夢の話ですね。もしや、また夢を見たのですか?」
「そうなんだよ…しかもこの間の続きみたいに話が繋がっててさ」
「聞かせてください」
「昼食の時間までに忘れてなければね……」

  しかし、当然の如くその夢の記憶は月の中に残ったままだったので、学食のテーブルを挟んで竜崎に説明することになった。

「今度は……僕を捕まえそうとする探偵が出てきて…」
「探偵ですか?」
「そう、世界的名探偵の、Lっていう…」
「L?」
「夢の中では、世界一とも言われる名探偵で、そいつがテレビを通して僕に話しかけてくるんだ……キラ、あ、キラっていうのは世間が僕につけたあだ名なんだけど、キラ、お前のしていることは、悪だ!…って…」
「面白い夢ですね。月くんの夢の中に入ってみたいです」
  竜崎はニヤニヤしている。

「僕は、カッとなってさ…ノートにそのLってやつの名前を書くんだ。本名と顔を晒してテレビにでるなんて馬鹿なやつ、そう思って、一緒に写っていた名前をノートに書いたんだよ。そうしたらその男は死んだんだけど、でもそいつはLが用意した替え玉で、本物のLは別にいた、それで、この放送は実は日本の関東にしか放映してない、お前は日本にいる…って言うんだ」
「うーん、よく分かりませんね」
  竜崎は肩をすくめた。
「ノートにLって書いちゃダメなんですか?」
「本名じゃないと効果ないんだよ、流石にフルネームがLなんて名前の人間いないだろ。あと、顔が分からないと効果ない」
「顔と名前が必要なんですか?月くん、よく5日で100人も殺せましたね」
「まあ、夢だから……」

  そういいつつも、月の中にはPCを駆使して情報を集めた時の夢の記憶がくっきり残っていたし、今の自分がそれをするとしても、簡単に出来るだろうとは思えた。気味が悪かった。

「それで、月くんはどうしたんですか?」
「…僕は…ほら、僕の父、警察の人間だろ?夢の中でもそれは同じで、キラ事件に関わってるんだ。父さんがそれとなく僕に、殺人の時間からLが犯人を学生じゃないかって言ってるとか教えてくれるから、僕も意地になって収監されている凶悪犯を一時間ごとに殺して…きっかり24人をまる一日かけて。そうしたら余計疑われて…」
「それで?」
「ええと…FBIが…」
  月は夢の続きの話をしていった。FBIに尾行され、策を弄してそれを全員殺し、いい気になっていたところに、殺したFBIの婚約者が現れる。危機一髪のところでその女も殺す。

「悪人でもない相手をそんなに殺してしまって、月くんは段々人の道を踏み外していきますね…」
「夢の中では捕まるわけに行かないし、必死だったんだよ。そうしてある日、部屋中に監視カメラが」
「プッ」
  竜崎は吹き出した。
「面白い夢ですね、月くん、小説家になれるんじゃないですか?」
「バカ言うな、考えた話じゃないよ、夢だって言ってるじゃないか」
「それはそうですけれど」

  月の夢の話は大分竜崎のお気に召したようで、それから?それから?と急かしてくる。

「それから…僕は監視カメラにバレないようにポテトチップスの袋に小型テレビを隠して…テレビなんて見てないふりしてこっそり報道されたばかりの犯罪者を殺して」
「ポテトチップスの!」
  これは竜崎のツボに入ったようで、彼は今までになく大笑いした。周囲の人間が不思議そうに視線を向けてくる。

「笑うなよ、僕は真剣だったんだ」
「これはすみません、でも関東に住んでるだけじゃあなたを確定するのは無理だったでしょうに、余計なことするからそんな状況になったんじゃないですか?なんでまた犯罪者を一時間ごとに殺したりしたんです?」
「その時は、見てろよって気持ちだったんだ」
「月くんって、結構子供っぽいとこありますよね……!」
「あ……当たり前じゃないか、僕はお前より六つも年下なんだぞ」
「そうでした、普段の会話で年齢差を感じないので、つい忘れてしまいます」

  竜崎は楽しそうにそう言いながら、コーヒーを啜っている。

「そしてどうなったんですか?」
「確か、その辺で目が覚めたんだ。夢だったのか現実の記憶なのか、分からなくてすごい気分が悪かった……全然忘れないし……ただの夢じゃないみたいでホントに気持ち悪い」
「大丈夫ですか?でも、聞いてると本当に面白いんですけどねえ、もっと詳しく聞いてもいいですか?どうやってFBIや婚約者を殺したんです?」
「それは……」
  月は竜崎に聞かれるままにノートの詳しいルールや、自分がどうやってそれを使ったかを話していった。竜崎はたまに質問を混じえながら聞いてくる。

「それ実は本当にあった事なんじゃないですか?ノートを手放すと記憶もなくなると死神が言ってたんでしょ?月くんは高校生の時に本当にそういう事があって、忘れてるんじゃないですか?」
  竜崎がとんでもないことを言いだしたので、月は目をむいた。
「バカ言うなよ、ホントにあったことなら、そんな最近のこと、まだ話題になってるはずだろ、世界中で人が死んで大騒ぎになってたんだぞ」
「まあ、そう言われてみると、確かに何の心当たりもありません」
「怖いこと言うなよな」

 月はもうこの夢のことを忘れてしまいたかったが、竜崎は何度も色々な質問をしてきて、真面目に答えているうちに夢の記憶は鮮明に月の中に刻み込まれていった。もっとも一人で抱えていても同じことだったかもしれないが。

「なあ、もし竜崎が僕の立場だったらどうしてた?」
「私ですか?もしその不衛生なノートを持ち帰ってたらという仮定ですか?」
「そうそう」

  竜崎の質問攻めを遮りたいというのもあったが、純粋に興味本位から月は尋ねた。

「うーん…本物かどうか試してみる可能性はありますが、でも使いませんね。チートでしょ」
「チート?」
「名前を書いただけで死ぬなんてズルイでしょう、社会の法律やしがらみを掻い潜って報復するのがこの世のルールじゃないですか」
「竜崎って意外と真面目なんだな……」
「だってズルしたら面白くないじゃないですか。大体私だったら月くんと違って、Lに尻尾を掴まれる可能性もないと思いますよ」
「……お前、一言余計だよ」
「6歳差は大きいです」

  竜崎はニヤニヤ笑った。



 

4

 

  そうしてまた1週間ほど経った頃。週末だった。月はいつもの様に竜崎の姿を探して、構内をうろついていた。
  直前の講義を一緒にとっていれば、探さなくて済むのに……と独りごちていたら、見覚えのある白シャツとデニムが向こうから歩いてきた。

「竜崎」
  声をかけると、彼はなんとも言いがたい表情をした。とても月を見つけて嬉しそうでという感じはなく、口元が妙な形に歪んでいる。

「なんだよ変な顔して」
「いえ……」
  どう切り出そうか迷うというように、竜崎は小首をかしげた。

「ちょっと、頼まれ事がありまして」
「頼まれ事?」
「はあ……」
  そう言いつつも、彼はなかなか舌を動かそうととしない。
「何なんだよ」と急かすとようやく「月くんとお話したいという方が」と言った。

「なんだそれ、男?女?」
「女性です。月くんと同期で…」
「あー…もう、そういうのは、いいよ!」

  要するに恋の橋渡しを頼まれたのだ。そういったことは中学、高校と散々体験してきた。まさか竜崎を通してくるとは思わなかったが、構内では一番親しいのだし、逆に今までなかった方が不思議だろう。

「ら…月くん」
  腹を立て、竜崎から離れる様に歩き出した月を追って、焦った様子で彼は呼び止めてきた。

「お願いします、少しだけ、お話ししてあげてくれませんか」
「なんでお前、そんな必死なんだよ?」
「頼まれたものですから…責任がありますし」
「責任なんて何も無いじゃないか」
「私がずっと月くんにべったりだから、告白するチャンスもないと言われて…」
「はあ?!」

  月は立ち止まって振り向いた。ぶつかりかけて、慌てた様に竜崎が目を見開く。

「お前、そんな厚顔無恥なこと言ってくる女と、僕が付き合うと本気で思ってるのか!?」
「わ、私の言い方がまずかったです、すみません、そんな失礼な言い方はされてませんよ」
「どんな言い方だって一緒だよ!」

  月は更に怒鳴りつけようとして、竜崎の悄然とした様子に気づき、黙った。どんな女か知らないが、これで竜崎との友情にヒビが入ったらそもそもその女の思う壺だし、そして、竜崎と断絶するなんてことには耐えられなかった。

「悪かった、怒鳴ってごめん…。それで、その女が…何だって?」
「少しだけ、お話したいそうです」
「…竜崎が一緒に居てくれるなら良いよ」
「月くん…」
  竜崎が呆れたような声を出すが、構わない。大体その女がどんな性格のいい美人で、仮に自分が一目で好きになって交際することになったとしても、竜崎との親交を手放すつもりは全くないのだから、彼女が付き合うのは常に自分たち二人ということになる。そう説明すると、竜崎は物の怪でも目撃したような顔をした。

「月くん…もし私が恋人を作っても、そういう事をおっしゃるんですか?」
「え?」

  考えたこともなかった。竜崎に恋人。

「誰か好きな子でもいるの?」
「いえ、居ませんけど、先のことは分からないじゃないですか」
「…………」

  そうか、そういうことだ。若い男が2人でつるんでいる以上、そういったことはお互い様なのだ。

「もしもの話なんて意味無いだろ」
「とにかく、その子に会ってください、お願いしますよ」

  またしても話を蒸し返す竜崎に、月は渋面になった。
「竜崎、僕は今、女の子と付き合うつもりは無いんだ」
「ではご自分でそう言ってください、お願いします」
「お前を仲介に使う女なんかに、会う気ないって言ってるだろ!」

  堂々巡りで拉致があかない。心底うんざりし、月は竜崎に背を向けて逃げ出した。後ろから彼が呼ぶ声が追いかけてくるが、余計にスピードを上げる。

  週末の予定が台無しだ。今日は何を話そうか、小腹を満たすために竜崎が好きそうな菓子も置いてあるあの店に寄ってから…など、色々と考えていたのに。

  月は、大学からさほど遠くないカフェに入って、一人でコーヒーを飲みながら頭を抱えた。まさか、自分たちの仲はこれで終わってしまうのだろうか?冷静になって考えたら、あんなに激昂することなかったのだ。竜崎の顔を潰す必要も、構内なんかで言い争いする必要もない。
  彼が会ってあげてほしいという子に会って、ごめんねとひとこと言って、そして変な頼まれごとしてきた竜崎には貸し一つ。それで済む話じゃないか。
  頭が冷えて自分の言動を思い返すと、竜崎に謝りに行くべきだと感じた。何が引き金で自分の逆鱗に触ってしまったのかは今はもう分かっていたし、このまま月曜まで待てるほど週末は短くなかった。

 


  竜崎の部屋も近い場所にある。あれから二時間も経っていたし、もう帰っているだろう。そう思い、月は玄関のチャイムを鳴らした。
  今までいつも一緒に部屋に来ていたため、鳴り響いた音は聞き覚えがなかった。少し時間を置いてから、のっそりとした仕草で竜崎が顔を出した。

「…ごめん」
「上がってください」

  それほど怒っている様子もなく、竜崎は月を部屋に入れ、お茶を淹れに行った。少し時間を置いて上質な紅茶のいい匂いが漂ってくる。月は手土産を何も持ってこなかったことに気づいたが、相手の反応がまだ計れない時点で用意するのは難しいものだ。

  戻ってきた竜崎は、例の上品なカップとソーサーを月の前に置いた。中は赤みがかった琥珀色の液体で満たされ、心地よい芳香を放っている。せっかく淹れてくれたのに、月はそれに手もつけられず、固まったまま竜崎の言葉を待った。

「怒ってますか?今日はすみませんでした」
  急にそう言われて、月は驚き目を見開いた。

「月くんをあんなふうに怒らせるつもりはなかったんです。すみません、彼女には私の方からお断りしておきました…」
「なんでお前が謝るんだよ」

  恥ずかしいやら腹立たしいやらで、月の声は平常より低くなってしまい、それをどう取ったのか竜崎は肩をすくめて困ったような顔をした。

「もっと早く気付くべきでした、いえ…気づいてはいたんです、確認しておくべきでした」
「何を?」
「月くんが、恋愛に興味がなく、むしろ一歩引いていることです。そのお年でその容姿でしたら、お付き合いしている方の1人や2人居てもおかしくないでしょうに、今まで女友達の影すらなく…」
「まあ…そうだけど」
「何か理由があるのか先天性のものなのかは知りませんが、明らかに女性との交際を避けています。友人としてそばに居るつもりなら、理由を知っておくべきでした」
「竜崎」

   月は情けない気持ちになった。
「謝るのは僕だよ、あんなところであんな言い方して、すまなかった…。お前の言う通りだよ。彼女がいた事がないことは無いんだけど、触れ合うのが嫌で…なんというか、肌が触れ合うのが気持悪くて」
「気持ち悪い?」
  竜崎は目をまん丸にして月を見た。
「別に潔癖症でもないですよね?何か理由があるんですか?」
「…大した理由じゃないんだけど、中学…小学生の6年の時か。当時のクラスメートの家に遊びに行ったら、その友達の兄にアダルトビデオ見せられてさ…興味がないわけでもないから、みんなで見たんだよ、そうしたら…なんていうか」
「はあ…」
「セックスって他人から見たらこんなにみっともないのか、と思って、幻滅だよ…それなのに身体は反応してるし、あんな低俗なものに反応している自分が許せなかった。それがトラウマみたいになって、女の子と付き合うことになると、どうしてもその時の冷めた気持ちを思い出しちゃうんだ、そして…なんか上手くいかなくなって、終わり。破局」
「じゃあ、実際に誰かとしてみたことはないんですか?」
「ないよ」

  竜崎はパチパチと瞬きした。

「トラウマになってるんですね」
「そんな大層なものかどうか知らないけど」
「月くんの見たのは性欲処理用のものでしょう?映画のベッドシーンは美しかったりするじゃないですか」
「…映画とくらべてもなあ…」
「セックスしようとしてると思うんじゃなく、目の前の大好きな人と愛し合うんだと考えたら、上手くいくんじゃないですか?」
「ちょっと待てよ」

  月は思わず竜崎のセリフを遮った。
「僕はお前と揉めたことを謝りに来ただけだよ、別に相談しに来たわけじゃない、昔のことを話したのも謝罪には説明が必要だと思ったからだし、別に今好きな子がいるわけでもない。解決しないといけないことはない」
「…ああ…そうですね」
「もうこの話はよそう、すまなかったよ」

  すると竜崎は俯いて頭を抱えた。

「どうした?」
「すみません…」
「ん?」
「恥ずかしいことをしてしまいました…」
「何が?」

  月は眉をひそめた。恥ずかしいこととは?恋の橋渡しをしようとした事か?それとも、月の悩みを解決しようとしたことか…?どうもしっくりこない。

「何が恥ずかしいんだ?」
「あの…私…偉そうに言ってしまいましたが、私も、経験がありません」
「えっ?」


  月は思わず頭の中で竜崎の年齢を反芻した。

「ああ、そういえば、お前は潔癖症なんだっけ?」
「いえ、そうじゃないです、これも単にそういう相手が今まで居なかっただけの話で」
「24年間、1人も?」
「一人でいるのが好きでしたし、孤独は苦痛ではありませんでしたから。ですから私の先程の言葉は忘れてください…お恥ずかしいです」
「………………」

  月は自分の過去を振り返った。確かに自分も、交際という形で付き合った相手は居ても、その相手を本気で好きになったかというと、そうではなかった。付き合っているうちに好きになれると思ったが、考え方の違いばかりが目に付いて、冷めていく一方だった。見た目から好きになっても続かない。中身を知って、好感度が上がっていったのは竜崎だけだ。それも、彼に対しては鰻登りだった。


「…僕…お前なら出来るかも」
「え?」
「お前が相手ならできるかも…セックス」
「………………」

  竜崎は表情を全て削ぎ落としたような顔で、数秒の間、月の顔を見つめた。

「それは…私をトラウマ克服の踏み台にしたいということですか?」
「そうじゃないよ、さっき…目の前の大好きな相手と愛し合うって言ったろ?該当する相手がお前しか思い浮かばない…」
「まだ出逢ってないのでは?」
「…いや、もう、おまえ以上に好きになれる人間なんて、出会えないよ…。僕は、考え方が違う人間が相手だと、冷めるみたいなんだ。だから女なんてもう全然ダメだ…脳の構造が違うんだから」
「はあ…」
「好きでもない女と、付き合ったり結婚したり、そんな人生ごめんだ…それくらいならお前とずっとこうして友達でいた方がいい」
「…………」

  竜崎は、月の顔を一瞥すると、視線を逸らして少しだけ考え込んだ。

「……試してみますか?」
「ん?」
「…セックス」
「…………あ、」

  月は自分の言葉を思い出して頬を赤らめた。

「さっきのは本気で言ったわけじゃないよ」
「分かってますが、月くんの言葉がいちいち自分にも当てはまって刺さってきます…このまま、一生誰とも肌を合わせないのも寂しいと思ってしまいました…それなら、この人と思った相手と一度くらい……いえ、もちろんあなたがイヤでなければですが」
「嫌ではないけど」

  本気なのだろうか。月は改めて年上の友人をじっくりと見た。部屋に泊めてもらったとき、スパに身体を流しに行ったことが何度かあるので、彼の裸は知っていた。あの偏食と動かなさからは想像もつかない、引き締まった筋肉となめらかな肌。触れたことはなかったが、想像すると期待に胸が震えた。

「どうします…?」
「そう…だね…共犯みたいで、楽しそう…」
  近付くと、最初から月の目を捉えて離さなかった竜崎の印象的な目もとが視界いっぱいに広がった。鼻筋は外国人の血が混じっていると以前言っていた通りに、東洋人離れして彼の顔立ちを気品あるものにしている。色のうすい唇も、意思の強さを表わすように固く結ばれ、知性の高さが伺えた。
  彼はすっと視線を下に落とし、キロっと月を睨みあげた。その目の形がなにかに似てると思った────ああ、猫だ。今気付いたけど、竜崎は目の表情が猫にそっくりなんだ…。ペットを飼っていないからすぐには思い至らなかった。

  ゆっくりと唇を重ねる。触れた肌は柔らかくて気持ちよかった。吐息が肌に触れる。
  抱き締めると竜崎は思ってたよりも華奢で、壊してしまいそうだ。

シャツを脱がせると、室内灯に照らされた彼の肌が、記憶とは違う色を持って目に染みる。
「明るすぎます」
  竜崎は首を傾げて、月から少し離れた。うなじが目に入る。
「ベッドの方がいいです」
「ああ…勿論」

  ここに泊まりたいと言った月のために竜崎が購入したベッドの上で、二人は改めて抱き合った。上手なやり方など知らないし、何もかも初めてのことで先のことは想像すらつかなかったが、とにかく相手の快感だけを考え、また自らの欲望のままに互いの身体を貪った。
  途中、この後どうしたらいいかわからない、と言うと、好きなようにすればいいんですよ、と返された。
  竜崎の肌は白く柔らかく、薄い産毛に覆われていて触れるのが心地よかった。自分の手で反応するのを見るのも嬉しかったし、普通であれば見ることなどないような場所を見せてもらっているのもとても興奮した。
  途中でハタと、自分たちは男同士で抱き合っているのだと冷静になって考えてもみたが、だからといってやめようと思うこともなく、結局行為を続けるのに何の障害にもならなかった。
  均整の取れた引き締まった身体というものは、どの角度から見ても美しいものだ。しっかりとした骨を張り詰めた筋が支え、そこに絶妙な厚さの筋肉が乗っている。熱を発生して、月の愛撫に応えて緊張と弛緩を重ね、肌の上を汗が伝い落ちている。普段は象牙のような色の肌が、今は紅く染まっていた。
  細く締まった腰に連なる肉の丸みの間には、狭すぎて何も受け入れては貰えないのではと最初は思ったが、竜崎の表情は終始余裕を見せて誘った。舌や指や、遂には月の男性自身がそこに押し入った時も、彼の口からは制止の言葉は出ず、ピッタリと合わさった肌から震えだけが伝わって、抱きしめたまま時間が止まってしまってらいいのにと思った。今、世界が終わったらいいのに。いつか世界が終わってしまうものならば、それは今でいいのに。

  最後まで受け入れて、余裕の表情を見せていた竜崎も、流石に二回目までは良いと言わなかった。
「少し休ませてください…出来れば、丸一日くらい」
「辛かった…?…ごめん…」
「いいえ」

  月と同じように互いの身体を抱き合いながら、竜崎は微笑んだ。
「辛くはないです、少し疲れただけです」
「うん…休んで」
「ええ…それと、出来たじゃないですか、普通に」
「ああ…そうだね」
  
  やっぱり竜崎の言う通り、大好きな相手だと、気持ちが萎える要素などどこにも無かった。



 

5

 

  それ以来月は、竜崎の部屋に行く度、彼を抱いた。今までは週末ごとの泊まりだったが、我慢出来ない時は平日も泊まりに行くようになったし、構内でも人目のない場所と見るなり、彼を抱き締め、キスをした。
  今まで、一人の恋人も持たないままどうやって生きてきたのか不思議なくらい、竜崎に夢中になった。
  彼も月の求めるままに応じてくれ、たまには自分から甘えてくれる日もあった。男性同士ということもあるし、周りに秘密の恋というのは少し厄介だったが、結果としてそれは気持ちを燃え上がらせる要因の一つとなっていた。

  ある夜、まだ週の真ん中で、週末までは幾晩も隔てていたが、どうしても竜崎に対する欲情が昂ってしまった月は、今日泊まりに行きたいと告げた。竜崎は快くそれを受け、講義が終了すると外で簡単に食事をすませて、竜崎の部屋に行き、いつものように抱き合った。

  何の変哲もない夜だった。竜崎は自然に決まってしまった自分の女役に文句一ついうこともなく、いつも寛容に月を受け容れて乱れて啼いた。その日もそうだった。寝物語に少しだけ、互いの子供の頃の思い出を話して、おやすみなさいのキスを交わして眠りについた。

 

  朝、竜崎は月の悲鳴で起こされた。
  時計を見ると起きてもいいような時間ではあったが、尋常ではない恋人の声に襲われ、心臓が跳ね上がって全身の交感神経のスイッチをオンにした。竜崎は何が起きたのかと隣の月を凝視した。

「お前だった!!」

  月が、意味のわからない言葉を怒鳴る。
「はい?」
「Lはお前だった!!」
「L?」
 何を言われているのか分からない。戸惑っていると、月はもどかしそうに説明を重ねた。

「前に、話したことあっただろ、夢の中で…ノートを拾って…」
「…ああ」

 竜崎はようやく思い出してうなずいた。
 こうして恋人になる前までの事は、それこそまるで夢で見た記憶のように、遠い過去の様に感じてしまっている。二人で向き合って睦みあって、未来のことをお互い考えているのがこれ以上なく幸せだからだ。
 思い出そうとすれば思い出せるが、少し時間がかかった。

「確か…デスノートとかいう」
「そう、まるっきり同じ夢だ、続きを見た…相変わらず死神がそばについてて…夢の中では僕は何百人も殺した人殺しで」
「また…みたのですか」

 一瞬、からかってやりたい気持ちになったが、それがためらわれるほど月の様子は真剣だった。

「夢の中で僕はまだ高校生だった、それで…東応大に入って、また首席で挨拶して…でも、主席がもう一人いて、それがお前だったんだ。お前は僕の後に次いで挨拶して…そして、壇上から降りてから僕に、自分をLだと名乗ったんだ」
「はあ…」

 竜崎は首を傾げた。

「おかしいじゃないですか?私に会って言葉を交わしたのでしたら、私が知っている人間だということが分かるのではないのですか?」
「夢の中では僕はまだお前のことを知らないんだ、会ったこともないし顔も知らない」
「そんなことがあるのでしょうか…」

 夢とは現実世界で得た記憶を整理するために見るもののはずだ。それなのに、よく知っているはずの人間が知らないことになっているなど、そんなことが有り得るのだろうか。
 いや、逆に考えれば夢だからこそなんでもあるということか。


「L…というのは、世界一の名探偵でしたっけ?私と同じ顔をしていたということですか?」
「そう…顔も声も仕草も、座り方も喋り方も…お前そのものだ、お前が、僕のそばに来て他の人間には聞かれないように、私はLです…と名乗ったんだ」
「名乗った…。では、表向きにはどういった名前で大学に入ったのですか?竜崎ですか?」
「いや、流河…」
「りゅうが?」
「流河旱樹って、いるだろ?アイドルの…。その名前を名乗って、僕がノートであいつの名前を使って殺せないようにした」
「よく意味が分かりません」
「だから…」

 月は竜崎に、夢の中でのLの意図を説明した。誰もが名前を知るアイドルの名を騙れば、ノートに仮に名前を書かれても死ぬのは本物のアイドルの方、更にLは死なずに月がノートを使っているという推理が成り立ってしまうと。

「すみません、その、Lは月くんがそのノートで殺人を行っていることは知らないんですよね?」
「知らないけど、今までの殺し方から見て、殺すのに必要なのは名前と顔であることくらいはわかったんだろう」
「ややこしい夢ですね」

 竜崎はため息をついた。月の様子を見ていると、冗談を言いながら笑い飛ばすのはためらわれるが、かといっていつまでもその話をしていてもいいほどに精神状態が良いとも思えない。悲鳴を上げて飛び起きるような夢、忘れるのに限るのだが。

「月くん、まだ朝早いですよ。もう少し寝ませんか?確か今日はお互い、一講目はなかったでしょう」
「うん…」

 彼の中にはまだ訴えたいことがいっぱい詰まっているようだったが、飲み込むと、布団の中に戻った。
 やがて、疲労をにじませた顔で寝息を立て始める。竜崎はそんな彼の髪を優しくゆっくりなでると、自分も隣に横になった。もうとても眠りにつくことはできなかったが。

 一体、時折彼を悩ませているこの夢は何なのだろうか。

 


 二度寝した後の月は、もうだいぶん精神の平穏を取り戻したかのように見えた。
「今朝はごめんよ」
 朝早く起こしてしまったことを謝ってくる。

「いいえ、いいんですよ」
「でも本当にリアルな夢だった…しかも、あのあと、続きを見たんだ」
「続き?」

 二度寝させたことが逆効果に出てしまったようだ…竜崎は大学への道で月と歩を並べながら彼の話を促した。
 途中、朝食をとるためにファストフード店に入る。


「今朝、起きたときに悲鳴を上げていたのは、夢のどのシーンを見てだったんですか?」
「悲鳴なんてあげてた?恥ずかしいな…うーん、夢のシーンとかじゃなくて目が覚めかけた時だよきっと。夢のなかではLを殺すことしか考えてなくってさ、その状態で目覚めて…そうしたらお前がLだったって気が付いて、それで悲鳴を上げたんだ」
「そうですか」
 自分を殺すことを考えていたと言われては、心穏やかにいられない。そんな竜崎の表情を読み取ったのか、月は「ゆ、夢の話だからね」と補足した。

「そして?続きではどうなったのですか?」
「それが…ノートを持った人間がもう一人出てきて」
「また?その殺人ノートを?」

 どれだけややこしくなるのだろう。


「ええと、キラ?と、呼ばれているんでしたっけ?月くんの夢では。それの二人目?キラワンとキラツーになったわけですか?」
「夢の中では、第二のキラって呼ばれてたけど…お前が名付けたんだよ?」
「知りませんよ」

 竜崎は肩をすくめると、更なる細かい話を月に聞いた。
 同時にバニラシェークをストローで吸いながら、エビカツバーガーに手を伸ばす。月に勧められて初めて食べた日本のジャンクフードを竜崎は結構気に入っていた。

「大学でLと名乗った私は、その後どうしてきたのですか?」
「ん…お前は、テニスに誘って来たり…」
「テニス?」
「僕、中学の時、全国大会で優勝してるんだよ」
「本当ですか?全然知りませんでした…!…何かスポーツしてたんだろうとは思ってましたけど…どうして夢の中の私はテニスを選んだんです?」
「…知らないよ、僕の事調べたんじゃないか?探偵なんだし。…そう、夢の中では、ジュニアチャンピオンだった経験があるって言ってた。お前、テニスやってたの?」
「やってませんよ」
 竜崎は両手を広げて少し背をそらした。

「私がやったことあるのはカポエイラです。あと、太極拳と…空手も少し」
「なんでそれ?」
「知りませんよ…型があるからでしょう。子供の頃、喧嘩っ早かったもんで、精神を落ち着かせるためにやらされたんですよ。その時居た施設で」
「へえ」

 喧嘩っ早い竜崎なんて想像もできなかった。
 もう相手の事は全て知り尽くしたと思ってたのに、ひょんなきっかけでまた新たな話を聞けて新鮮だ。

「それよりも、月くんの夢の話なんですけど、その第二のキラは会ったんですか?どんな人間だったんですか?」
「ああ…」

 月は首をひねった。

「どっかで見た女の子…ああ、そうだ、あの、弥海砂、だっけ…この間テレビに出てた女の子だ…両親がいないっていう」
「ああ…私もあのあと何度か構内で耳にしました。人気ですよね…月くん…流河旱樹に弥海砂とは、随分とミーハーですね…」
「夢に見るほどに好きだったつもりはないんだけど…。それに流河旱樹はおまえが名前を使ってただけで、実際に夢に出たわけじゃないよ」
「はいはい、それでその弥海砂がどうしたんですって?」
「…それは」

 夢の話を始めて以来、初めてと言っていいほど月が狼狽し、口ごもった。

「どうしました?」
「…あの…誤解しないでほしいんだけど…」
「なにが?」
「夢ってったって、僕の願望の現れとかじゃないから…多分…」
「何がどうしたっていうんですか?」

 竜崎はイラつきながら月をせっついた。

「…その…ある日、彼女が急にうちにやってきて…僕は第二のキラが女だってことも知らないのにだよ。そして僕に自分のノートを渡すんだ…それで僕はノートについた死神が見え、彼女が第二のキラだって知る。彼女は僕の部屋で、キラに協力したいって言って…自分の両親を殺した犯罪者をキラが裁いてくれたっていうんだ。それで、僕に、いうことを何でも聞く代わりに…彼女にしてくれって」
「はあ?」
 竜崎は素っ頓狂な声を出した。

「なんですかそれ、ハヤシライスを食べてたらプリンが入ってたような気分ですよ」
「でも、夢の話だから…!」
「だって、月くん、女の子と付き合うつもりは一切ないって言ってたじゃないですか」
「ああ、だからその時も断ったんだよ!でも、その子…しつこくて、だめならふりだけでもいいとか言って…」
「それで…?」
「それで…そのあとまた来たんだよ、最低でも一週間あけて来いって言ったのに、翌々日とかに来たんだ、もううんざりだよ、そして、帰れって言っても全然聞かなくて、…僕は…やむなく…彼女にキスを…」
「はあ??」

 またしても不可解なセリフに、竜崎は頭を抱えた。

「…あの…月くん…。どうして私に、そんな話をするんですか?」
「あ…うん…」
「夢なんでしょ?夢でもそんなこと話したら、二人の間に亀裂が入るってわかりますよね…?」

 大学の近くの店だ、誰が聞いているかわからないので竜崎の声が小さくなる。

「わかるよ…でも、黙っているのもちょっと…お前に対して後ろめたくて…」
「現実なら後ろめたい気持ちもわかりますけど、夢なんでしょう…?」
「いや、だから、夢とは思えないほどリアルな夢だったから…!」
「それほどにリアルな夢なら、そもそも私の事を考えてくれて、そんな女の子にそんなことしないんじゃないかと思いますけどね…!」
「だから、言ったろ、夢の中ではお前は僕の敵なんだ、夢の中ではお前のこと好きじゃないんだよ」
「……もういいです」

 竜崎はトレーを手に取ると立ち上がった。
「もういいです。…行きますよ」
「…うん」

 どことなく気まずい空気をまとったまま、二人は大学に向かった。
 3・4限目の講義は一緒だったが、月は隣に座っている竜崎の方が見れなかった。またなんであんなことまで話してしまったのか。自分の奇妙な夢の話を、竜崎があまりに興味深げに聞いてくれていたので、調子に乗ってしまったのだろう。
 しかし、自分の見た夢は、通常の物とは違うのだ。どう違うのかと聞かれたらうまく説明できる自信はないが、まるでもう一人の夜神月の人生を垣間見ているかのような…自分が今の大学の入る前にあのノートをもし拾っていたら、こうなっていたであろうと思われるような、とてつもなくリアルな夢なのだ。夢と言っても記憶が薄れるわけでもないし、気を抜くと現実と夢の区別がつかなくなってしまいそうだ…

 講義を受けながら、月はふと、恐ろしい考えに見舞われた。
 考えれば考えるほど、恐怖に満たされ、足元から冷え冷えとした悪寒が這い上がってくるような気がする。もう講師の話を聞くどころではない。

 講義が終わった後も、月はしばらく気分が悪くて動けなくなった。真っ青で汗をだらだらと流している月に、竜崎もさすがに心配になったらしく、手の甲に掌を重ねてきた。

「どうしました…月くん」
「りゅ…竜崎…僕………」

 考えれば考えるだに恐ろしい想像だ。生唾が湧き出てきて初めて、口内がカラカラになっているのに気付いた。

「もしかして…の、話なんだけど」
「はい?」
「こっちが、夢なんじゃないだろうか」
「はい…?」

 竜崎は不思議そうな顔をしている。

「どういう意味ですか?こちらが夢?」
「だから、僕が見てる夢の話だよ…あっちが、実は現実で、…お前と大学でこうしているこの世界の方が、実は、夢なんじゃないだろうか…?」
「…胡蝶の夢?」
 古代中国の説話を持ち出されて、月は腹を立てた。

「僕は真面目な話をしているんだ」
「そんなことを言われたって、じゃあなんですか、私はあなたの夢の産物で、存在しないというのですか?」
「だから、お前は本当は…Lで、世界一の探偵で…本当は僕の敵なんだ」
「馬鹿らしい」

 竜崎は片手で顔を覆ってため息を吐いた。
「どう反応すれば満足なんですか…?それとも、わざと不安定を装っているんですか?さっき、あなたの話で私が機嫌を損ねたから、私の気を引こうとしてそのような話をされるんですか?」
「…僕は、真剣に…。ごめん、ホント、お前に失礼なこと言ってるって分かってるよ。でも、一度思いついてしまうとその考えが頭から離れないんだ」
「月くん…」

 竜崎は言うべき言葉を探して視線を巡らせた。これが月ではなく別の人間だったら、何も言わずに席を立ち、離れていって二度と会わないところだ。

「子供の頃のことを思い出してごらんなさい、あなたの人生がまがい物ではないことが分かるでしょう?」
「だから、夢の中の僕は僕自身なんだ、ノートを拾うか拾わないかの違いで、そこまでの人生は共通なんだよ…!」
「ああ…そうでしたね…」
 しばらく悩んで、竜崎が月に返した言葉は、「心療内科を受診したらどうですか?」というものだった。

「心療内科?」

 月は愕然とした表情で竜崎を見た。今まで、世界で一番心やすい存在だと思っていた、友であり恋人でもあった彼が、急によそよそしい別人になったように思える。

「でも、だって…じゃあ、どうしろって言うんです?私にどんな言葉を期待しているんですか?」
 竜崎は困惑した表情だ。それもそうだろうと、月は自分を落ち着かせる。確かに自分が彼の立場で、同じことを言われたら、言葉を失ってしまうだろう。この世界が現実であるのならば。
 しかし、実際にあの夢を見た人間にしか分からない。ゾッとするリアルさ。今でも手が、夢の中でノートに名前を書き連ねていったときの感触を覚えている。とてもただの悪夢とは割り切れなかった。

「月くん、私になんて言ってほしかったんです?」
 本心からなのだろう、困った口調で竜崎は繰り返した。
 彼にも分からないのだろうが自分にも分からなかった。なんと言ってもらえれば自分は心安らかにその言葉を受け止められたのだろう。


「…ごめん。僕が…悪かった」
 素直に謝ると、月は頭を抱えた。
「いえ」と、返してくれた声色から彼が許してくれたのは分かる。このように、関係性を修復するための言葉や方法ならいくらでも思いつく。
 しかし、一度頭に浮かんでしまった疑念を払拭する方法は、何も思いつかないのだった。


 

6

 

 それ以来、月は以前より頻繁に例の夢を見るようになってしまった。
 そんな時は決まって青ざめた顔で大学にやってきて、竜崎に進展具合を話す。
 もう竜崎も最初の頃の様に面白がってはくれなくなった。話を聞いて頷き、たまに意見を述べたり、もしくは悪夢を見ない方法を調べたと言っては教えてくれる。試してみても全く効果はなかったが。


 面白がっている風でもないのに、いちいち竜崎に話して何になるんだろうと月は考えてもいたが、それでも夢を見たら彼に説明せずにいられなかった。今、自分の関心ごとの大半はその夢に向けられていて、現実の生活をも蝕みかけているというのに、一番親しい存在である竜崎にその話をしないなんて馬鹿げている。いいことも悪いことも、彼とは分かち合いたかった。


「…今日、夢の中で、ノートを手放したよ」
「えっ」

 月の言葉に、竜崎は少し驚いたようだった。

「ノートを手放すと、自分が使っていたノートに関する記憶を失ってしまうんじゃなかったでしたか?」
「ああ、全部失って…夢の中で僕は、自分が殺人を犯していたことをすべて忘れてしまった。そしてお前に向かって、僕じゃない、僕はキラじゃない…そう何回も訴えて…でもまあ、当然だけど、お前は僕を開放してはくれなくて」
「そうでしょうね」

 竜崎は苦笑した。

「私はLではありませんが…もし私があなたを大量殺人事件の容疑者として拘束したのでしたらそう簡単に解放しませんし、本人の自供のみが無実の根拠だというのでしたら尚更です」
「だろうな…結局、監禁が解かれないまま、夢が終わってしまった」
「どのくらい監禁されてたんですか?」
「さあ…主観だとよく分からないよ。でも、三週間くらいだろうか…夢とは言え、リアルだから辛かったよ、手足を拘束されて檻の中でじっとしているしかない夢なんて本当にごめんだ」

 そんな夢、二度と見たくないというのは本心だったが、またそのシチュエーションから始まる悪夢を見てしまうのだろうことは月にも分かっていた。

「…まだ…夢が現実で、こちらが夢だと、思ってます…?」
 探るような口調で竜崎が聞いてくる。
「……………分からない…」

 目覚める時の酩酊感にも似た混沌とした感覚は、いつになっても薄まらない。
 月にははっきりとこちらが現実だと断言できるだけの実感がなかった。ただ、こちらが現実であってほしいという強い希望だけだ。


 そうしているうちに夢の中では展開が目まぐるしく動き、ますます月の記憶を混乱させていった。
 大学で竜崎に夢の内容を話すことによって、自分を保っているようなものだ。

 

「…今日の夢で、失っていたノートの記憶を取り戻したんだ」
「…どうやってですか?」
「…ノートに触れて…記憶が戻り、自分こそがキラだと思いだした。そしてノートを持ったまま、腕時計に仕込んであったノートの切れ端に、火口卿介の名を書いた…所有権を持っていた火口が死に、所有権が僕に戻る。同時に記憶も完全に戻る」
「そういえばしてましたね。腕時計に細工」

 竜崎は月から聞いた夢の話をどんな細かいこともすべて覚えていた。


「そして、どうなったんですか?」
「……ノートには、僕がリュークに頼んで書いてもらった新しい嘘のルールがあって…。ほら、監禁前に書いてもらった、13日以上ノートを使わなければ死ぬってやつ…それによって、長期間監禁されていた僕はノートの持ち主ではなかったということになり、表向き、捜査本部内での僕の疑いは晴れた。でも、竜崎は僕のことを疑っている…」
「でしょうね…できすぎていますから。そのルールが本当であるという確証もありません」
「そんなところかな…ミサは、疑いが晴れて解放された」
「勿論ただ行かせたりしなかったんでしょう?」
「ああ…埋めてあるノートの場所を教えて…掘り出すように指示した…監禁前に整えていた手はずの通り」
「準備万端ですね」

 竜崎はこともなげに言った。
 そんな彼を、月は不思議な気持ちで眺める。

 準備万端にしていて、待つばかりなのは彼の死なのだ、どうしてそんな平然として彼は自分の話を聞けるのだろう…。
 …ああ、いや、そうではない…竜崎はLではない。殺す準備を進めているのは彼ではなく、夢の中のLの方だ。竜崎とは違う人間だ。
 理性では分かっているのにどうしても混同してしまう。見た目も声も仕草も性格も、竜崎はLと同じだ…夢の中でも自分は彼を竜崎と呼んでいる。事実としてはそうではないのだろうが、自分の意識下では竜崎とLはきっと同じ人間なのだ。
 こんな大切な相手である彼を、夢の中の自分はどうしてまた殺そうとなどしているのだろう…教えてやりたい、夢の中の自分に。そんなことをしたら世界が終わってしまうのだと。

 何か強い反撃の手さえなければ、次の悪夢で、自分は竜崎の…Lの死を見届けることになるだろう。そうして目覚めたとき、自分はどれだけ混乱し、悔み、わめきたてて、竜崎の事を呆れさせるのだろうか…いや、それならそれでいい。そのほうがいい。しかしもしかするとやはりこちらが夢なのではないだろうか。あの、悪夢の様に殺人を繰り返す世界こそが実は自分の現実なのではないだろうか…

 そう考えただけで、月は吐気に見舞われた。


 明日は週末であり、以前ならばこんな時は講義が終わると竜崎の部屋に直行していた。しかし、こちらが夢で、夢こそが現実なのではないかと月が言い出してから、月は竜崎に触れることがなくなり、2回ほどあった週末も、気を紛らわせるように二人で外出して終わらせていた。
 竜崎に触れなくなったのに理由があるわけではない。むしろ渇望していた。しかし彼を悪夢によるストレスのはけ口にしていると竜崎に思われるのは嫌だったし、そうでないと思っていても自分がそうしていない自信はなかった。
 しかし勿論そんなことで二人の仲が壊れるのは本意ではなく、この世界を現実としての拠り所にするためにも、月は竜崎に触れたくて仕方なかった。

「竜崎…今日、このあと、お前の部屋に行ってもいいかな」
「ええ、勿論、いいですよ」

 微笑んで、夕食どうしましょうかと返してくる竜崎を、月は早く抱きしめたくて仕方なかった。

 


 簡単に夕食を外食で済ませると、二人は竜崎の部屋に向かった。外食に少し足を伸ばしたので、部屋につくのは八時を回った。部屋の中の香りもインテリアの配置も何も変わっておらず、三週間ぶりに月は竜崎が買ってくれたベッドの上に転がった。

「寝るには早くないですか」
 竜崎が含み笑いを漏らしながらそう言うが、月がベッドから降りようとしないので、彼はシャワーを浴びに行った。


 月は竜崎のシャワーの音を聞きながら、ふと紅茶を淹れてやろうと思い立ち、ベッドから立ってキッチンに入った。一緒につまみを作ったり、彼の代わりに朝食を作ってやったりしたのでどこに何があるかはもう覚えている。
 ケトルに水を入れて火にかける。紅茶は数種類あったが、気に入ってるものを勝手にチョイスした。気分で選ぶ時もあるかもしれないが、基本的に自分の好きなもので彼もそろえているはずなので問題ない。


 やがて、再びTシャツとデニムを着けて、髪を湿らせて出てきた竜崎は、月の用意した紅茶の香りに顔をほころばせた。
「紅茶の淹れ方、うまくなりましたね」
「お前が教えてくれたからだよ」

 フローリングに直接置いたソーサーから立ち上がる香りを楽しみながら、二人は紅茶を味わった。

「僕も、シャワー借りていい?」
「どうぞ」
「どうも」

 月は以前にも何度も使用していて、どこに何があるかすっかり把握しているバスルームに入ると、頭から降り注ぐお湯を浴びた。シャンプーで髪を泡立てながらふと、そういえば竜崎の部屋は、今、夢の中で彼と過ごしている部屋に似ている、そう思った。その日の捜査を終えた後、手錠でつながれていた自分が彼と二人で戻っていた寝室だ。バスルームの感じも、リビングも似ていた。ベッドも。
 やっぱりあの夢は、自分がこうして現実で得た情報を、睡眠中に再構築しているだけに過ぎないのではないかと思い、安堵しかけるが、そもそも竜崎に関してもそれは一緒なのだ。まずこちらの彼と知り合って、それから夢の中でLを知った。特に条件は変わっていないと思い、月は余計気分を沈ませた。


「タオル借りた」
 下着姿で髪を拭きながら戻ると、竜崎は帰る途中、コンビニで購入したケーキを食べていた。
「美味しい?」
「味見してみます?」
「うん…」
 月は顔を寄せると、竜崎が差し出したフォークではなく、彼の唇に口付けた。
「とってもおいしい」
「…ふふ…」

 竜崎はケーキをすべて食べてしまうと、フォークを置き、改めて月と抱き合ってキスをした。
 体温も互いを抱きしめる腕の力も、味わう口内の粘膜も、ほとんど三週間ぶりとあって、強烈な幸福感を伴って月の飢えを満たした。ぬくもりが心臓や指先の端まで染みるように行き渡り、それを感じながら初めて今までどれだけ自分がかつえていたのかを知る。
 女性のように柔らかくもない、骨ばった背の高い男性であるはずの竜崎が、今や自分にとっては生きていくのに欠かせない。こうして彼を腕の中に閉じ込め、同時に彼が自分の身体に回す手に力が入っていることが、この上なく嬉しかった。

 月は竜崎と一緒に立ち上がると、軽くキスを繰り返しながらベッドに移動する。 
 髪を撫で、肌に口付け、衣類をすべて取って脚を絡めあう。互いの体温が全く同じになるくらいまで愛撫しあってから、月はふと気がついた。
 今まで、竜崎に対して、好きだとも愛してるとも言ったことがない…
 こうして身体を繋げているのに、ものすごく今更な気がしたが、「好きだよ」と口に出そうとすると、何故か口が動かなかった。言った後の竜崎の顔を想像するのが怖かった。「私も」と言ってくれるとは限らない。返事に困った竜崎の顔を見たくなかった。
「…月くん…?」
 固まってしまった月の頬を、竜崎が戸惑ったように撫でる。
「…なんでもない…」
 告白の代わりに、月は竜崎の身体を抱きしめた。力の限りに強く。


 竜崎の身体は以前と変わらず、月を包み込んで彼の情欲をすべて受け止めた。その表情も声も肌の色も、愛おしすぎて胸が痛いほどだった。
 気が済むまで互いを貪ってから、簡単に身体を拭って、竜崎は月の隣に横になって微笑んだ。
「月くん…」
「ん…?」
 線の細い顎の先を撫でながら促すと、竜崎は手を伸ばして月の髪を撫でた。

「…本当は、日本の大学がどんなものか分かったら、すぐにアメリカに行くつもりだったのに」
「アメリカ…?」
 竜崎のその言葉に、彼が唐突に遠くに行ってしまうような気がして、月の心臓がドクンと跳ねた。

「あなたに会ったから…ここを離れられなくなってしまいました…知らないでしょう、私、こんなに家具をそろえたのは生まれて初めてなんですよ」
 ベッドにラグにソファ…そしてトースター、フライパン、皿類。月は自分が望むままに、竜崎が次々と買い揃えた生活用品を思い浮かべる。
「ごめん…」
「謝ってほしいわけではないです…優先順位の話です…」
 竜崎は月の頬に口付けると、手を伸ばして指どうしを絡めてくる。
「ずっと…一緒に居ましょうね…」
「…うん…」

 月は竜崎に口付けると、その裸の肩を抱き寄せた。

 



7

 

 


 深夜になっていた。


 暗い水底から浮上するかのように覚醒する。
「…ッ…ヒッ……はぁ…はぁ…」

 暗い部屋。見覚えのある、白を基調とした部屋。二人には広すぎる、寝室。汗でべったりとした肌にまとわりつくシーツ。何時だろう。
 …ここは、どこだろう…?
 竜崎の、部屋?
 それとも…

 どっち…?
 どっちだ…?


 混乱している。恐怖で胸が破裂しそうだった。怖い。夢の中とはいえ、竜崎を失うなんて耐えられない…それともこちらは現実?いや、現実だと思っているあっちこそが夢で、これが現実…?
 そもそも今、どっちだ?

 そうだ、手錠…月は勢いよく両腕を掛け布団から出して振り上げた。何もかかっていない…しかし、そうだ、手錠は外したんだった。キラの容疑が晴れて。暗くて、手錠の跡があるのかどうかは見えない。
 両方の記憶があるのだから、悪夢の中ではない、そう思いたかったが断言は出来なかった。あの手が血にまみれた悪夢の世界でも、朝はこんなふうにいつだって混同して、覚醒するにつれ平和な大学生活の夢など忘れていたのかもしれないではないか。

 ああ、今は。どっちだろうと、両方の記憶が確実にある──今だけは。

 布団をはがすと、隣に竜崎が寝ていた。シャツを着ている。
 ことのあと、そのまま寝てるわけではない、やはり…と思うが、眠りに落ちる前に肌着だけでも着けることにしたのかもしれない、そんな気がする。どちらとも言えない。そしてどちらでもよかった。

 月は竜崎の身体を抱き寄せ、肩に顔をうずめた。
「…月くん…?」
 眠りを邪魔され、竜崎がくぐもった声で不思議そうに呼ぶ。彼の声からは何も読みとれなかった。月を稀代の連続殺人犯として疑っているのか、それとも愛しい恋人として想っているのか。

「竜崎、愛してる…」
 月の唇から自然に、眠りにつく前にはどうしても言えなかった言葉が零れた。
「愛してる、竜崎…本当だ…ずっと、愛してた…」
「…月くん…」

 おずおずと、竜崎の手が月の背中に回される。

「愛してる…竜崎……ずっと…一緒に居て…」

 まるで一晩中泣き続けた後のように、月はとてつもない疲労を感じていた。だがそんなことはどうでもいい。腕の中の竜崎がすべてだ。
 どっちの世界でもいい。殺人ノートを手にした悪夢の世界でも、平凡な大学生としての世界でも…。竜崎さえ、一緒に居てくれるなら。この男さえ、そばに居てくれるなら。抱きしめ、キスで口をふさいで、髪を撫でて、彼の温もりを鼓動を、どんなかけらほども腕の中から逃がさないようにする。
 竜崎は少しだけ窮屈そうに身じろぎしたが、月の腕の中で力を抜いていた。覗き込むと、目を閉じているようだった。今、世界が終わったらいいのに。いつか世界が終わってしまうものならば、それは今でいいのに。月の流した涙が竜崎の耳殻に入り、彼がびくりと身体を震わせた。

 どちらの世界でもよかった。彼がそばに居るのならば。


 月は竜崎の細い身体を抱いたまま、彼の指先が自分の背中に食い込んでいるのを、ただ感じていた。

 

 

 終






 あとがき
 他の方はどうか分からないのですが、私は人が死ぬ夢ってすごい起きた時に混乱してしまうんですよね…目の前で死んだとかじゃなくて、電話で訃報をもらったとかでもそうだし、過去に殺したのを思い出す設定とかでもそうで、(血なまぐさい夢はみたことないので、純然たる事実として思い出す系が多い。具体的には覚えてない)つい最近にも過去に殺人を犯したことがあるという設定の夢をみて、ああ、私なんであんなことしちゃったんだろ…あの時はそれほど悪いことと思わなかったけど、ばれたら警察に捕まっちゃうかも…せっかく幸せな結婚できて順風満帆だったのに何であんなことしてしまったんだろう、とかすごいぐるぐる悩んだあと目が覚めたんですけど、それはもう目覚めが悪くてですね…そんなふうに夢だったのか現実だったのか、でぐるぐる悩む月くんを書いてみたくて考えた話でした。
 このラストシーンが書きたかったので(でも結構、表現悩んだ…!!)綺麗に終わってよかった!と思ったのですが、「続きが読みたいです」というお声をいただいてぐらついています(笑)