鳥をさがす旅 8                   日向夕子

「悪魔…!」
 クレヴァーとカリオルの姿を見るなり、ラマーシャはがたがたと震えだした。
「いやっ!近づかないで!」
「ラマーシャ?悪魔なんかいないよ。あそこにいるのは、カーオンさんのお友だちで…」
 ゼリスは必死になだめるが、ラマーシャは聞きたくないというように懸命に頭をふる。
 クレヴァーはラマーシャをとびこえて、幽霊のように透けるカーオンを見ていた。
「…彼女がこんなにまでなってしまったのは、君の責任もあるような気がするね、その姿を見ていると」
 諦めたような責めるような、重い口調で。
「ねえ、サルフ」
 黒髪のカーオンにむかい、クレヴァーは精霊王の愛称を口にする。
(やっぱり、精霊王様…!?)
 呼ばれたカーオンは、クレヴァーの非難を認めるように、うすく笑った。その微笑み方は、たしかにゼリスの記憶にもある精霊王のものだ。
 精霊王は珍しい青い髪と青茶の瞳を持っていた。それが黒髪になり黒い瞳になるだけで、ずいぶん雰囲気は変わっている。カリオルやカリオル・ティージアに似ていることなど、精霊界で会ったときの姿からは思いもよらなかった。
 ラマーシャの前で黒髪を装っていたのはなぜなのか、ゼリスは分かるような気がした。青い髪ではすぐに人間でないと分かってしまう。
『そうだな、私が最初から自分のことを教えていたら、ラマーシャもこんなに人外の者を拒絶することはなかったかもしれない』
「ベース」
 精霊王の幻影にカリオルがかけよろうとする。とたん、自分に近づいてくると思ったラマーシャが、細い悲鳴をあげた。
『ラマーシャ、落ち着いて。彼らは君を助けようとしているんだから。…ゼリス、ラマーシャを慰めてやってくれ。落ち着かせて…』
「は、はい」
 おそるおそるラマーシャの肩をなでてやるが、いっこうに効果があるようには見えない。ゼリスは諦めて、自分の身でカリオルとラマーシャの間の壁になることにした。とにかくカリオルを視界から出してやれば、これ以上悪くはならないだろう。
 少女にそこまで怯えられながら、カリオルは気を悪くしたふうでもなく、大股に精霊王のほうに近づいた。その影に手を触れようとすると、精霊王のほうで腕をのばす。
『カリオル、小さくなって。早く帰っておいで』
 触れない手で、ゼリスよりも小柄になってしまったカリオルの頭をなでる。
「ああ」
 カリオルが頷くと、精霊王の幻は消えた。
 あとに、白い鳥が残っている。カリオルはそっとその鳥を胸に抱いた。
 ゼリスは、頭だけカリオルのほうにむけて、その背がずいぶん低くなっていることに驚く。今ゼリスと並んだなら、どう見てもカリオルのほうが年下ということになるだろう。もう、時間はあまりなさそうだ。
「ラマーシャ、ほら、この人たちが精霊王様…カーオンさん?サルフィンさん?のところに、連れて行ってくれるよ」
 まだ少々混乱しながらも、ゼリスはラマーシャを落ち着けようと試みた。
 サルフィンが噂のカーオンだったのなら、ルルトは精霊王と知り合いだったことになるし、カリオル・ティージアは精霊王の兄ということになる。どちらも普通の人間のはずなのだが。
「カーオン・テルメオツというのは、サルフの昔の名前だよ」
 クレヴァーが、ラマーシャに近づかないままに告げた。カリオルも鳥を回収してしまうと、クレヴァーの横に戻ってしまう。
 ラマーシャを興奮させないためなのだろうが、まるで自分からも距離をとっているように、ゼリスには感じられた。
「テルメオツ…?それ、ぼくの母さんの旧姓ですよ」
 ゼリスが言うと、クレヴァーとカリオルはすこし驚いたようで、顔を見合わせた。
「へえ。じゃあ、親戚なんだね。なんとなく、そうじゃないかとは思ったけど」
「え?親戚? ぼくが、精霊王様と?」
 そんなまさか、と言おうとしたが、ラマーシャが腕をつかむ痛みで、それどころではなかった。
「ねえ、どうしてあんな悪魔と話してるの。あいつら追い払ってよ」
「いや、だから…精霊王様のお友だちなんだってば。悪魔じゃないよ」
 ちゃんと話を聞いてよ、と説得するゼリスの言葉に、ふたりの声が覆い被さる。
「悪魔でしょう!?」
「悪魔だよ」
 ヒステリックなラマーシャの叫びとは対照的に、クレヴァーは平静な物言いだ。
「え…?」
「私たちは、たしかに悪魔の血をひいている。私は、エルフの母と、魔界の権力者との間に生まれた。ゼリスも知っているだろう、シェルグ・スレウズと契約し、悪の道にひきずりこんだ悪魔。カリオルも、その人の力によって生きている」
 ほらね、というように、ゼリスにすがるラマーシャの手の力が強くなった。ゼリスは何も言えない。精霊王のことといいスレウズ家の悪魔といい、そんな伝説上の名と身近な人々を結びつけられても困る。
「だから、私たちは悪魔だ。ラマーシャがもっとも嫌っている…というか、人間は皆嫌っている悪魔そのものだね」
 言いながらクレヴァーは、何かを払うようなしぐさをした。そういえばさっきから、虫もいないのにそんな動作をしていたように思う。
「ラマーシャ、もう無駄だよ、君の技では私にはかなわない。疲れるだろう、いいかげんに諦めなさい」
 ゼリスは、うっすらと全身に汗をにじませたラマーシャを見下ろした。白い羽が、夜目にもくっきりと映る。なにか、ティティニアを吹き飛ばしたときのようなことをしているのだろう。
 ふりかえると、怒っているとも憐れんでいるともつかない、クレヴァーの表情に乏しい美貌があった。月明かりだと、エルフの白皙は人形のようだった。
 これではまるで、クレヴァーのほうが悪役だ。
「…ゼリス、サルフはラマーシャに、なんと言っていた?」
「え? ええと、ラマーシャのほうから、精霊王様のところに会いにおいでって…」
「そう」
 カリオルは何も言わずにクレヴァーに寄りそっている。ラマーシャの拒絶が強くて、クレヴァーに守ってもらっているのかもしれなかったが、あの元気のいい少年が、こんなにも小さくなってこちらを見ている様は、やはりどこか異様だ。
(ああ、この人たち、人間じゃないんだ……)
 すこしだけ、ラマーシャの気持ちも分かるような気がした。
「……実は、急だけど今夜で決着をつけようかと思って。無理強いはしたくないんだけど、ラマーシャ…ここを出よう」
 クレヴァーが、小さく一歩踏み出す。
 その動きは視界に入っていないはずなのに、ラマーシャが大きく身を震わせる。
「クレヴァーさん…」
 クレヴァーのさしのべる手に、思わずゼリスもラマーシャを抱き寄せる。守るように。
「クレヴァーさん、ラマーシャをいじめないでください」
「………」
 クレヴァーはいささか傷ついたようだ。立ちどまって苦悩のポーズをとった。
「いじめ…いじめてる…よね、やっぱり。そう言われるのは覚悟で来たんだけど、やっぱりちょっと…」
「めげるなよ」
「ぎゃっ」
 頭をかかえるクレヴァーを、カリオルが蹴り倒した。こちらのほうが、よほどいじめだ。
「ご、ごめんなさい。あの、でも」
 ラマーシャをここから出してやるべきなのは、ゼリスも分かる。しかし、こんなに震えて怯える少女を、無理に連れ出すことが、本当に正しいのか。
(こんなときは本当の勇気っていうのも役にたたないような。いや、どちらかを選べるのが勇気なんだろうか。どうすればいいんだ?)
「ラマーシャの気持ちは分かるよ」
 床に両膝をついたまま、クレヴァーは昔を思い出す。
「私も以前は、悪魔が死ぬほど嫌いだった。ずっと心を閉ざしてひきこもっていた。…だから、ここから出るべきだということも、分かるんだ」
「クレヴァーさん…?」
 そこに、新たな人物がわって入ってきた。
「なに、この人たち…!」
 リヴィンと、彼についてきたハティアだった。
「クレヴァーさん。ハティアさんは、この国の人々を連れて行ってもいいと、許してくれました。事後処理はご本人がするということです。そちらは?」
「あいかわらず、嫌われています…」
 床に膝をついたまま、クレヴァーはリヴィンをふりかえった。ゼリスもその闖入者を見とめる。予想だにしなかったその姿に、驚いて瞠目した。
「あー、あのときの!」
 翼あるリヴィンの姿に、ひとりカリオルが納得して手をたたく。昔、彼に会ったときのことを思い出したらしい。
「そういえば天使がいっぱいいたことが!そっかー天使だったんだ」
「天使長のリヴィンさんだよ、カリオル」
「天使長…!?」
 次から次へと、非現実的な名称を羅列されて、そろそろゼリスの頭はパンクしそうだ。だがとにかく、この人とラマーシャをひきあわせなければ、という義務感にかられた。
「ラマーシャ、君と同じだ…!」
 少女の体を自分からひきはなし、リヴィンをさしてやる。
「………」
 ラマーシャは、恐ろしいものでも見るかのように、おどおどと涙に濡れた顔をあげた。
 リヴィンは平素と変わらず、慈愛の微笑みをうかべている。
「天使…?」
「と、呼ばれています。有翼の民です。今は、あなたのように、人界で生まれる子どもたちのほうが多い」
 言って、天使長はクレヴァーが転げている横に、自らも座りこんだ。ラマーシャを怖がらせないように配慮しているらしい。
誰かに似ている。そう、故郷の村の、老齢の神官さまがこんなふうだ。と思ってから、罰当たりだったかな、とゼリスは心中で舌を出した。
「ラマーシャ、あなたを迎えにきたのよ」
 ハティアは、誇らしげにそれを伝えようと努力していた。しかし、どんなに頑張っても笑顔はひきつったものになるし、別れを惜しむ気持ちが隠しきれない。
 ラマーシャにはまだ、ハティアの胸中を察する余裕はなかった。
「私を、迎えに…?」
「あなたが、そう望むなら」
 ゼリスはほっとした。天使長はラマーシャの待っていた精霊王でこそないが、天使の仲間のところに迎え入れてくれるというのだ。これでラマーシャも安心するだろうと。
 しかし、それもまたラマーシャにとっては、受け入れたくない事実だった。
「じゃあ、私はやっぱり、人間じゃないの…?」
「ラマーシャ…」
 ハティアは嘆息した。この少女が人間であることにこだわるのは、愚かな思いこみだ。
 彼女は、自分が異形だったから母親に見捨てられたのだと、ずっと信じていた。人間でないことがなんだというのだろう。翼ある天使として生を受けるほうが、ずっとすばらしいと誰でも思うのに。
「いえ、人間ですよ」
 天使のほうがいいじゃないの、とたしなめようとしたハティアをさえぎって、リヴィンが笑顔で答えた。
「というか、天使というのは、もとは人間と同じ生き物ですから。違いというのは、羽があるかないかだけで」
「えっ!?そうなんですか!?」
思わずゼリスのほうが声をあげる。
「そう。昔々、私たちの祖先は天界と人界に分かれて住んで、いつしか天界には有翼の民ばかりになっていたけれど、時々こちらでも翼ある子どもが生まれるんですよ。でも、まわりからはちょっと珍しく映るんですね」
 ちょっとどころではない。翼を持つことがちょっとなら、クレヴァーだって人間とまったく変わりないことになってしまう。
「だから気に病むことはありませんよ。もう片方の翼も出してみましょう」
「こ、これは…出せないわ。片方しか…」
 戸惑いがちに、少女は自分の翼をなでる。
 クレヴァーは悲痛な視線をリヴィンにあわせる。この塔にくる前に言ってあったことだ。

『ラマーシャは、自分が人間でないことを恐れているから、本当は両翼を具現できるのに、片翼しか出せないと思っているようです。先天的に魔術に長けているという優越と、人間界での異端であるという苦痛との間で、迷う象徴。それが、あの右だけの翼なんでしょう…』

 リヴィンは無理と言われてもひかなかった。
「大丈夫、できますよ。片方だけだとバランスが悪いでしょう。両翼があったほうがきれいですよ」
「そうだよラマーシャ、両方の翼がないと、飛べないでしょう。ぼく、ラマーシャが飛んでるとこ、見てみたいな」
「ラマーシャ」
 ハティアもラマーシャの隣にやってきて、その左肩にあたたかく手をおいた。
「できるわ。やってみて」
「ハティア…。でも、どうやって?」
「簡単ですよ。片翼は具現されているのだから、両翼ある姿をイメージするといい」
「ほら」
 カリオルが、精霊王の鳥の羽をつかんでひろげて見せる。クレヴァーに叱られた。
「だいたいさぁ、羽があるからレーマシカに嫌われるなんて、思うのがおかしいよ。『うっそまじでー?羽はえてるよすごーい、いいなー私もほしかったー』だよ絶対」
 かん高い声で、レーマシカとやらの口真似をするカリオルに、一同は驚愕と疑惑のまなざしをむけたが、クレヴァーだけは感心したようだった。
「すごい、そっくりだよカリオル」
「ええっ!?」
 嘘だろう、と言わんばかりの反応。
 あまりに仰天したのか、その拍子にラマーシャの背に左の翼が現れた。
「ほら!」
 リヴィンに嬉しそうに示され、はじめてラマーシャは両翼があることに気づく。
 長年見ることのなかった左の翼が、あまりにも簡単に現れて、ラマーシャは驚きをとおりこして全身の力がぬけたようになる。
「こんな…待って、お母さまは本当に……」
 混乱している。気持ちはゼリスにもよく分かった。今夜は色々ありすぎた。
「ああでもほらラマーシャ、すごいよ、これで飛んだりできるよ!」
「いえ、できませんけれどね」
「ええっ!」
 リヴィンがあいかわらずにこにこしたまま言うので、ラマーシャの両脇のふたりはそろって天使長にふりむく。
「翼は物理的なものではなくて、魔術を効果的に使うための、エネルギーの形態ですから。自由にしまえますよ。そうじゃないと、寝るときに不便ですからね」
「そ…そうなの?」
 ラマーシャも知らなかったようだ。どうやら就寝のときには姿勢に苦労していたらしい。
 言われてみれば、少女の翼は人ひとりの重みを支えるにしては貧相で、背に特別に筋肉がついているというわけでもない。たしかにこれでは飛ぶことはできないだろう。ならば、本当に魔術に長じた人間と同じということだ。
「ふだんはしまっておけばいいんですよ。……おや」
 天使長の威厳のようなものはまったくなくなって、学校の優しい先生のようになってきたリヴィンが、ふと何かに気がついて視線を上げる。
「そろそろいいですよ」
 また新たな来訪者の声だ。今度はきりりとした少女だった。
「ティティニア!大丈夫だった?」
 さきほどゼリスの目の前で吹き飛ばされてしまった風の精霊が、大事なさそうに天井近くに浮いている。
「うん、ゼリスも大丈夫そうね。クレヴァーさん、もうかなり出てきました」
「そう」
「?」
 クレヴァーとティティニアの間でどんな取り決めがあったのか知らないので、ゼリスは首をかしげた。ついで、そういえばラマーシャは精霊を見てまた取り乱したりしないだろうか、と有翼の少女を見やる。
 ラマーシャは、顔をしかめてこそいるものの、もう騒ぎだす気配はなかった。ヒステリーをおこすのも体力がいる。もはや驚き泣きすぎて、さらに泣き喚く余裕もないのだろう。
「ラマーシャ、それにハティアさん。悪いけれど、勝手に話をすすめてしまいました。今夜最後の仕事を、お願いします」
 見知らぬエルフに言われ、ハティアも怪訝そうにする。何をしろというのか。
「クレヴァーさん、どういうことですか?」
「屋敷の正門へ。門前の広場に、街の人を集めてもらいました」
「え…?」
 要点だけの説明に、ティティニアが「精霊たちに協力を頼んでね。街の人の耳元に囁いてまわったのよ」と追加する。
 クレヴァーとカリオル、リヴィンの三人は、早々に立ち上がって部屋を出て行くそぶりだ。あわててハティアが後を追う。
「なんのために?」
 答えたのはリヴィンだった。彼らは、クレヴァーの言葉のとおり、正門へむかう。
「さきほど言ったように、ここに住まう皆さんを、私たちの土地に導くために。クレヴァーさんが、時間に都合がないそうなので、とりあえず今夜で終らせてしまうことになりました」
 それを聞いて、ゼリスもラマーシャを急かして立たせる。少女はまだ何が起ころうとしているか理解できないまま、ゼリスに手をひかれていった。

 もう深夜だというのに、精霊の声に起こされた人々は、興奮の面持ちで正門が開かれるのを待っていた。
 ハティアは歩きながら身なりを整え、足早に集団の先頭に出た。これはエターナルの大事だ。他人まかせにするわけにはいかない。
「門を開けなさい」
 門外のざわめきに、何があったのかと戸惑っていた使用人たちは、女主人の命にほっとしたように開門した。しかし、その後ろに続く異形の者たちの列に、誰もが息をのむ。
 ハティアたちの登場に、集まってきていた人々は大きくどよめいた。月明かりにも白々としたリヴィンとラマーシャの翼に、老若男女から祈りの言葉がもれる。
 さまざまな高低の祈りの波を、ハティアがさしとめる。
「静まりなさい」
 荒げなくとも凛ととおる声に、広場は水をうったように静まりかえった。
 ハティアの斜め後ろで、クレヴァーはこっそりと微笑んだ。この娘は若いのになかなか見所がある。こんな宗教国家をつくるという愚行さえしなければ、それなりによい領主になることだろう。
「夜中に呼び立てて申し訳ない。皆に、大事な話があります」
 ラマーシャは、つないだままのゼリスの手を、痛いほどにぎりしめる。
 ゼリスはそんな少女をそっとうかがった。聞いた話では、ラマーシャはずっとあの塔を出ていなかったはずだ。それを、こんなにたくさんの人々に囲まれて、緊張しているのだろう。それはおそらく、毅然として話しているハティアにしても同じことだ。
「皆が待ち望んでいた、楽園への導きが今夜、あります」
 抑えきれない興奮が、人々を包む。容易におさまらないようだったので、しばらくハティアは黙っていた。口をつぐむ領主に、住民たちはしだいにまた注目していった。
 さて、ここからをどう説明したものか、とハティアが口を開きかけたとき、それを仕草で止めて、リヴィンが一歩前に出た。
 人々は、いっそう緊張して敬虔な態度になる。
「はじめまして、こんばんは。私は天界から来ました、天使長リヴィンといいます」
 にこやかに挨拶する天使長に、今度は大きなどよめきさえなかったものの、さざなみのように動揺が広がっていった。後ろにひかえるカリオルは、その様を興味深そうに眺めている。
「今夜このとき、皆さんが望む、天界への道を開きます。望む人は誰でも、その道をとおって天界で暮らすことができます」
 ただし、とつけくわえられる。
「天界は、あなたがたが信じるような、苦しみのない国ではありません。老いもあり病もある。身を動かさなくては食べることもできません。楽園という名はついていますが、この人間界と何が変わるわけではない」
 人々の目に、困惑の色がまざった。ラマーシャもゼリスと顔を見合わせる。
 クレヴァーとカリオルは、当然だというように表情をみじんも動かさない。
「それでもいいという方だけ、どうぞ私たちと天界に行きましょう。今夜、しばらくの間だけ、天界への道を開きます。移住を望む方は、大切なものを持って、ここにいらしてください。自分の足で楽園に行ってもらいますから」
 それだけ言うと、また一歩ひいて、ハティアに軽く一礼する。あとは任せたということらしい。
「聞いたなら、皆、一度家に戻りなさい」
 リヴィンの言葉に、途方にくれたようになった人々は、ハティアのきびきびとした命令に、呆然と耳をかたむける。
「そして、楽園に行きたいと望む者だけ、この広場に戻ってきなさい。自分の手で運べるだけの、大切なものを荷物にまとめて。望まない者は、帰って休みなさい。安心していい、明日からもこの国はあるから」
 うろたえる住民たちに、もう一度ハティアは強く「家に戻りなさい」と言う。集まった群衆の外輪から、だんだんと人の波が遠ざかっていった。
「クレヴァーさん、ここに道を開くのを、手伝ってもらえますか?」
「いいですけれど…もしこの街の人が皆、天界に移住したら、大丈夫ですか? ちょっと人が増えすぎるのでは?」
人々に聞かれないように小声で言うと、リヴィンはなんの心配もなさそうな笑いをうかべて断言する。
「大丈夫ですよ。土地はいくらでもあるんです。開墾しなくてはいけませんけどね」
「……それ、言ったほうがよかったかもしれませんよ。楽園に行ったら、まずは畑をおこすところから始まるって」
 しかし人々はもう散ってしまった。どれだけの人数が来るのか、それは本人たちにも分からないだろう。
「ラマーシャさん、あなたはどうしますか?」
 リヴィンは、街の人々と同じほど呆然としてしまったラマーシャの正面に立ち、にこやかに問いかけた。
「え…?」
「あなたも天界に行って、私たちと一緒に暮らしますか? あなたのように、人界で生まれた、翼ある子どももいますよ」
「私……。…ハティアは?」
 困り果てたように、ハティアのほうを見る。
「ハティアも行くの?」
「私は…残るわ」
 固く決心した態度で、ハティアは言いきる。一瞬、裏切られたようにラマーシャの表情が大きく歪んだ。
「じゃ、じゃあ、私も行かない。ここに残る……」
「ラマーシャ」
 叱ろうとするハティアの声は、しかし強くなりきれない。相手に頼っていたのはハティアも一緒だった。今になって別れようとする友人と、離れがたいのは彼女も同じだ。
「ラマーシャ、君はおじいさんの家に戻るか…ゼリスの家に、遊びにいったらどう?」
 頑なになりそうなラマーシャに、クレヴァーが助け舟を出す。
「ゼリスの?」
 クレヴァーには、ラマーシャはやはりまだ警戒を解ききれない。それを分かって、クレヴァーは彼女に近づかないようにして、できるだけやわらかく話した。
「そう。友だちとして、ゼリスの家に遊びに行くといいよ。そうしたら、カーオンのいるところにも近いから、カーオンにも会いにいける」
「本当に?」
 ラマーシャに見つめられて、ゼリスは大急ぎで頷いた。
「じゃあ私…カーオンに会いに行くほうがいい……」
「分かった。では、君のおじいさんには、私が会いにいって、話しておくよ。…さあ、今夜はもうこれくらいでいいだろう」
 私たちは徹夜だろうけど、とクレヴァーはリヴィンと苦笑する。
「君たちはもう寝なさい。ハティアさん、ずうずうしいですけど、寝台貸してあげてくれます?ゼリスとカリオルのぶん」
「ええ…」
 結局、この人は誰なんだ?と思っているのはありありとしていたが、ハティアはクレヴァーの言うとおり、寝台がふたつある客間をふたりのために提供してくれた。
「私、ハティアと一緒に寝たい…」
「…ごめん、ラマーシャ。私も誰が行くのかを見届けたいから…。ほら、その男の子と一緒に寝るといいわ」
 そう、ゼリスを指すハティアは、最初に会ったときのように、近所の優しいお姉さんになっていた。

「眠れないのか?」
 隣の寝台から、カリオルが小さく声をかけてきた。
「うん、色々聞きすぎて、頭がぐるぐるして…」
 ゼリスの横には、ラマーシャが幼児のようにまるくなって、安心しきった寝息をたてていた。眠ってしまったからなのか、翼はその背から消えていた。
「カリオルさん…クレヴァーさんて、本当に悪魔なの?」
「父親がな」
「とてもそうは見えない…」
 その事実を聞いたときには怖いような気もしたが、今はとにかく信じられないという思いのほうが強い。あんなに美しくて優しいクレヴァーが、忌み嫌われる悪魔の血をひくとは。きっと、母親の性質を濃くついだに違いない。
「『暗き世界』の住人は、自分たちのことを悪魔とは呼ばないのよ」
 どこから現れたのか、ティティニアが会話に加わった。
「あの世界には月しかないから、『月下の民』というの。色々と悲しい誤解や、歴史の悲劇があって、『器ありし世界』では超極悪な存在になっているけど、精霊界にもよく来るし、悪い人たちじゃないわよ」
 月下の民。その名はたしか、一度カリオルが呼んでいた。天使たちが自らを有翼の民というように、きれいな呼び名だと思った。
「クレヴァーの父親は、ベースと仲悪いけどな」
「精霊王様と?へぇ…。あれ、そういえば精霊王様がぼくと親戚? あれは…」
 サルフィンは昔、カーオン・テルメオツという名だったとクレヴァーが言っていた。そして、髪と目の色が今とは違う精霊王の姿。あれはどういう意味だったのだろうか。
「ベースは、精霊王なのにまちがって人間に生まれちゃったんだ。カリオルの弟に」
「カリオル伯父さんの……?」
「人間の頃は、黒髪に黒い目だったんだよ。クレヴァーやレーマシカと旅をしていたの頃はな。で、先代が死んで精霊王を継いだら、青い髪になっちゃったんだ。ラマーシャは、すごい小さいときしかカーオンに会ってないはずだけど…子どもでも、青い髪だと変だってことくらい分かるから、色をごまかしてたんだろ」
 そのときは、誰かがラマーシャを精霊界に連れて行っていたのだろうか。もしかすると、母親が。幼いラマーシャの記憶には、そこがどういう場所かは残らなくとも、異端扱いされる以前の、幸せだった頃の象徴として、ずっと胸に刻まれていたのだ。
「ラマーシャは、おまえがベースの血縁だって、どっかで感じとったのかもしれない」
「そうでなくとも、異界の者が嫌いなラマーシャさんに穏便に近づけるのは、人間のゼリスしかいなかったってことね。だから精霊王様は、ゼリスを」
 冒険譚が好きで、精霊や妖精にも怯えることのない、人間の子ども。なるほど、よくぞこのときに、都合のよい人材が飛び込んできたものだと喜んだことだろう。
「だいたい、レーマシカの娘で、あんなにベースになついてるのに、異界アレルギーっていうのがおかしいよな」
「レーマシカさん…って、今、どうしてるんですか?」
 眠っているラマーシャを、万が一にも起こさないよう、ことさら声をひそめる。
「神族と一緒にいるはずだ。天界じゃなくて、やっぱりどこか旅の空らしいけど」
「神さまと…? ラマーシャは会えないのかな…」
 親戚の精霊王、伝説の悪魔の息子、とっつきやすい天使長ときて、ついに神の名まで出てきたが、もはやゼリスは何を言われても動じなくなってきた。
「探す方法は、多分あるけど…そいつには無理かも」
「何?」
 カリオルは、その方法をため息をともに吐き出した。
「『暗き世界』の、魔王に協力してもらうこと」
「……ああ」
 それはラマーシャには無理だ。クレヴァーやカリオルに警戒しているようでは、とてもまだ魔王に関わることなどできないだろう。
 今夜のカリオルの真似で、いささか理想の母親像は崩れてしまったかもしれないが、心の奥底で憧れ続けている母親にラマーシャが会えるのは、どうやらもっと先のことになりそうだ。

 翌朝、ゼリスはいつもより寝坊してしまったが、夜明け頃に就寝したというクレヴァーは
昼過ぎになるまで起きられなかった。
「だるい……さすがに疲れたよ……」
 どうにか起こして、昼食はゼリスたちと一緒にとってもらうことになったが、いつものクレヴァーらしくなくやつれた様子で、食も細い。ほとんど料理をつついているようなものだった。
「街に入ってから、ずっとラマーシャさんの拒絶をうけて、昨夜はそこに無理矢理わりこんでいって、しかも夜を徹して通路を開き続けましたからね」
 と挙げつらねるリヴィンは、なぜかまだハティアの屋敷に留まっているのだが、クレヴァーとは対照的にぴんぴんしている。今は翼も具現していなく、朝日の下だと、ちょっと浮世離れした普通の男性にしか見えなかった。
「情けないなぁ」
 カリオルは食欲旺盛だ。今は5歳くらいになってしまっているが、ずっと精霊王の鳥を肩にのせている。そうしているとすこしは逆成長が止められると気づいたらしい。それにしても、この大きさでは持参の水色の外套も、ひきずってしまうだろう。
 クレヴァーが起きてくる前に、ゼリスら三人で、ハティアとラマーシャに、彼らが何者で何のために来たのかなど、分かるかぎりのことを話していた。
 ティティニアに精霊王がカーオンであることを説明されると、ラマーシャは昨日の取り乱しようからは嘘のように、すんなりと納得した。一度眠ったのがよかったのかもしれない。
「今、むこうで私の仲間が、移住した方々の住まいなんかを整えていると思うので。落ち着いたらまた報告に来ますよ。これ、姉妹都市のようですね」
「はあ、どうもご丁寧に…」
 ハティアはハティアで、昨夜はほとんど脅されるようにして事を進めたのに、朝になると天使長なる男は姉妹都市協定を唱えだすので、かなり力がぬけたようだ。
 結局どれだけの人間が楽園に行くことを望んだかというと、百人に満たないほどだったらしい。街の規模からいって、多くはない数だった。行った者と残った者が、それぞれ何を考えてそれを選んだのかとその結果は、これから明らかになっていく。
彼女にはこれから、独立国家の形を撤廃し、外壁を崩し商業を正常化させるという、多くの仕事が待っている。しかし、この不自然な形を築きあげ保ってきたことを考えれば、ふたたび壊すことはむしろ容易だろう。
目覚めるとまた翼が現れたラマーシャは、今までのようにひきこもりはしなかったが、表情はまだいくぶん固い。ハティアと分かれてしまうのが嫌なのか、べったりといつもはり付いている。
ゼリスはそんなラマーシャをぼんやり眺めていた。
その横でティティニアもふわふわ浮いているが、彼女は万事が収束してからも、騒動の中心だったふたりの少女に批判的だ。
「はた迷惑な人たちよね。本当にゼリスの家に連れて行くの?」
「う〜んまあ、大変だったけど…」
 ゼリスの兄弟たちなら、多少は驚いても、ラマーシャを受け入れてくれるだろう。それに、あの村の人たちも。
 ゼリスと目があうと、ラマーシャは笑わないまでも、すこし頬をやわらげる。それだけでゼリスは充分嬉しかった。
 眩しいまでの陽の光に照らされると、ラマーシャの白い翼は本当にきれいだ。
「ああ。ぼく、ずっとラマーシャの夢を見てたんだな…」
「え?」
 聞き返すティティニアに、ゼリスはなんでもない、と首をふる。
「大変だったけど、楽しかったよね」
「まあね!私ははじめて『守護せし世界』を出たし」
 結局は、囚われの姫を救う勇者ではなくて、ヒステリックな女の子をなだめる役立ったわけだが、冒険譚に負けず劣らず、どきどきしたし感動した。なにしろキャストが豪華だった。
(本当の勇気っていうのは、ちょっと分からないけど)
 だが、少しなら理解できた気がした。
 誰かを、何かを認めること。ラマーシャはそれから逃げていた。
 ゼリスも、ラマーシャにひきずられて、クレヴァーやカリオルを拒絶する側にまわったかもしれない。そうならずにすんだことが、すこし誇らしい。
(そんなふうに、ちょっとずつ精進していったら、いつかは父さんみたく立派になれるさ)

 昼食を誰よりも早く終えたカリオルが退屈して、肩にとまった鳥をいじろうとした。
 白い鳥が嫌がって飛び上がる。
 驚いてとっさにあげられたラマーシャの手に、鳥が着地した。
仲間だと思ったのだろうか。
(鳥みたいだな、ラマーシャ。本当に飛べないのかなぁ。飛んでるところ見たいなぁ)
 ラマーシャにとって、その白い翼は自分を孤立化させる徴だったかもしれないが、ゼリスの目には、どんなところへも飛んでいけるという証に映る。
 しかしラマーシャとゼリスの違いが、目に見える翼の有無だけだというのなら、ゼリスにだってどこにでも行く可能性はあるのだろう。

「ティティニア、またいつか、一緒にいろんなところに行こうよ!」
 精霊界、魔界、天界。行きたい場所はたくさんある。
「そうだね。そのときはラマーシャも誘ってあげようか」

 白い鳥がはばたく。
 鳥をさがす旅は終わり、新しい出発を迎えようとしていた。


了   

あとがき(知ってる人は知ってる感じで)

 カーオンが精霊王になってからの話を書こうーと思ったのは、かなり前…。
 ティティニアははじめ妖精のはずでした。しかし妖精は絶滅してました。
 レーマシカの娘を出すことにしました。あのレーマシカの娘にしては、あまりに可憐な容姿と、脆弱な神経の持ち主。書きにくい。
 カリオル(本家)はいい年してまだブラコンというか独身だし。
 ラマーシャの父親は、まあ知らない誰かだろう、と思って書きはじめ。書いてる途中で、ああそうか、あいつか!と分かったんだけど、彼が今どうしてるとか書くと、きっと十行くらいちょぼちょぼと使わなくてはいけないだろうから、一切ふれないことに。おかげで、すごい父親不在の家庭。実際、不在ですが。
 ルルトはカーオン・カリオル兄弟のいとこ、という設定だったけどはっきりとは出せなかった。行方不明になったいとこの息子(偽物)が、ある日いきなり訪ねてくるとは!
 カリオル(分家)は、大きくして出してあげよう!と思ったはいいが、今までの名前が「チビC」「デカC」だから。あまりに可哀想で、カリオルの名をつけてあげた。そしたらややこしくなった。
 ハティアの出方があまりに行き当たりばったりで、書きこみが少なかったことに反省。
 メルヘンチックな話にしたかったのに、最後は告白することが多すぎて、会話ばかりに!ぐはあー。