鳥をさがす旅 1                  日向夕子

 彼女と約束を交わしてからもうずいぶんと時が流れたと思う。
 自分の代わりにあの約束を果たしてくれる人間を、ずっと待っていた。

*   *   *

 山中の奥深く、道から少し離れたところに、『精霊の谷間』と言われる谷がある。谷と言ってもそこは切り立った崖で、底には川が流れているのだろうか、深すぎて何も分からない。落ちたらひとたまりもないだろう。
 その谷間にはひとつ言い伝えがあった。
 底にあるのは川ではなく、地面でもなく、精霊界だというのだ。
 この世界に、ごくまれに他の世界につながっている空間はある。その一つがここだと、昔人は伝えている。
 もっとも、今この近辺に住む者達はそんな言い伝えは信じていない。世界中のどこにでも精霊はいる。たとえ姿が自分たちに見えなくても。この崖からでなくても、どこからでも生まれるのだ。
 確かめようとして崖から落ちたらどうしようもないだろう…と、そう言う。
 それでもその伝説は、幼い少年や少女を魅了した。
  精霊界ってどんなところなんだろう…!?
  見たこともないような花や木が生えてるって本当!?
  精霊界の真ん中には、大きなきれいな宝石があるんだって!
  精霊界には王様がいるんだよ。とっても偉いんだ…!
 山のふもとの町に住む、10才の少年ゼリスも『精霊の谷間』の伝説に魅せられた一人だった。
 小さい頃から、なんども谷間の近くまで行った。両親に、そこに行くことは止められていたし、やはり落ちてしまうのは怖かったので、底をのぞき込むことはしなかったが。

 しかし今日は特別だった。
 今日はゼリスの10才の誕生日なのだ。つい3時間前に、ゼリスは生まれてからちょうど10年になったのだ。
(ぼくは今日こそ本当の勇気のある男になるぞ…!)
 父がよく言っている。「本当の勇気をもった男の子になりなさい」と。それがなんなのか聞くと、彼はいつも笑って答えてくれないのだが。
 だからゼリスは自分で、この谷間の底を見ることが「本当の勇気」を持つ第一歩だと決めた。10才になったら、絶対に底を覗いてやろうと思っていた。
 鬱蒼としげる広葉樹。初夏の新緑が美しいのは、谷間がひらけていて陽が射し込むからだ。もっと奥の、それこそ森林しかないところは昼でさえ薄暗い。
 自分の身長ほどにも伸び始めている草をかきわけ、ゼリスはやってきた。
「よぉ〜し…」
 ごくり、と唾をのみこむ。本当に何回も来た場所なので、獣道ができている。
 その獣道も途中までだ。崖の一歩手前まで行く者はいないから。
 ゼリスは、崖のぎりぎりにまで立ち、そっと下をのぞき込んだ。

「…………」
 ほとんど直角の崖………
 底は見えない。深すぎる上、霧のようなものがかかっている。
「すごい……」
 精霊界というよりも…世界の果てに繋がっていそうな…。
 めまいがしそうになって、ゼリスは一歩下がった。落ちてはいけない。
「?」
 その時、霧の中に何かを見た。
「何……?」
 この崖には鳥も獣も住んではいないと聞いたのだが…今、何が動いたのだ?
 はばたきに見えたのは、気のせいだろうか?
 白い霧の中に、何か色彩が浮かんだのは気のせいだろうか?
「本当に…精霊界に…」
 繋がっているのかもしれない!?
 ゼリスは思わず身をのりだした。
 鳥!? 鳥だ!!
 遠く、だが確かにその翼を確かめた瞬間、
 ゼリスは足場を失っていた。

 バサァッ……
 何羽もの鳥が彼のまわりに集ってくる。その鳥たちは実体ではなかった。
 全身が白く、尾と羽の先だけがかすかに桃色がかっている。抜け落ちた羽は、地面に触れるとふわりと音もなく溶け込んだ。
「サルフィン様…、精霊王様」
 自分を呼ぶ声が聞こえて、彼は振り返った。
「ここにいるよ、ガーウィムズさん。」
 膝に届くほど長い、不思議な光沢の淡く青い髪。光によって茶にも青にも見える穏やかな瞳の、その青年はおよそ20才ほどに見える。すらりと無駄なくのびた体に純白の衣を纏い、額には細い金属のサークル。ティアラと呼ばれるこのサークルこそが、代々の『エレメンツ・ライフ』…精霊王が一つずつ持つ、王としての証である。
 彼は20年ほど前に、前精霊王からその役を受け継いだ。名をサルフィンという。
「ああ、失礼…鳥を呼んでいらしたのですか」
 サルフィンを見つけて、ガーウィムズは大きな木の陰からこちらに歩み寄ってきた。サルフィンのまわりに集まる鳥に目をとめて、すまなそうにする。
 ガーウィムズは壮年と言っていいほどの男である。『エレメンツ・ライフ』と諸々の精霊を守護する『ライフ・マスコット』という役割を担う。通常この役になる精霊は精霊王と同じ程度の年齢の者なのだが、サルフィンが幼少の頃この『守護せし世界』を離れていたため、この代の『ライフ・マスコット』が生まれず、先代に仕えたガーウィムズが今もこうしているわけである。
「いや、いいんだ。それで、ガーウィムズさん、何か?」
「あ、お客様がいらっしゃいましたが」
「客…?」
 それは誰かと尋ねる前に、明るい少年の声が割り込んできた。
「ベースー!」
 声の主は、驚くような速さでこちらに向かって駆けてきたかと思うと、あっという間に大木の上に上り、枝の先まで平気で走ってきてサルフィンの真ん前に飛び降りた。それで息一つきらしていないのがさすがである。
「カリオル」
「カリオルさん、枝が折れるような真似はやめてくれと何度言ったら…」
「懐かしいのが来たぞ、ベース! 誰だと思う?」
 ガーウィムズの小言も耳に入れずに満面の笑顔で問う、カリオル。14才ほどに見える、サルフィンそっくりの少年だ。と言っても似ているのは顔立ちと体つきだけで、髪も目もカリオルは黒である。
 彼はサルフィンを基にして創られた疑似生命体なので、サルフィンを「ベース」と呼ぶ。「懐かしい人…? 誰だろうな、人間界の人か?」
 目を細めるサルフィン。さすがに親子とは見えないが、仲のよい兄弟のようだ。
 サルフィンの答えが待ちきれずに正解を言おうとするカリオル。…と、その時、

 バサバサァッ……! 
 その場にいた全ての鳥が飛び去っていった。何かに驚いたのだ。
 あっけにとられて三人が鳥を目で追ったのも一瞬。すぐ隣に何かが落ちてきた派手な音がした。
「…………」
 それは人間だった。
「…男の子が空から降ってきた…」
 見たところ大きな怪我はしていなさそうだが…
「なんで空から降ってきたんだろう?」
「さあ…?」
 不思議そうに首をかしげるサルフィンとカリオル。それに対してガーウィムズの顔からは一気に血の気がひいた。
「そ…そんな、悠長なことを言ってる場合ではないですよっ! 鳥がっ!!」
「……………あ…」
 もう鳥はどこにも見あたらなかった。

「…それは…困ったことになったな……」
「うん、サルフもここを離れられない身だから、もどかしいでしょう」
 意識が浮上してくるとそんな会話が聞こえた。目を開ける。
 視界に、家のものとは違う天井が現れた。見たことのないものだった。ゼリスは声のする方に顔をむけた。その時気付いたのだが、どうやら自分は大きなベッドに寝かされているらしい。枕がふわふわで上等なものだと分かる。
「あ。起きた」
 ベッドの側に、三人の人物が座っていた。
 一人は黒髪に黒い目の、ゼリスより何歳か年上らしい少年。カリオルである。彼が最初にゼリスが目覚めたことに気付いた。
 もう一人は不思議な色合いの髪をもった青年、サルフィン。
 そして最後の一人は、サルフィンのもとを訪れていた客人、金髪碧眼で、女性と見まごうばかりの美しい顔立ちの青年。サルフィンよりいくつか年下に見える。子どもと大人の中間と言った感じだ。人間のものより長い耳が印象的だった。
「大丈夫かお前、空からふってきたんだぞ?」
「え…?」
 カリオルの言葉にとまどいを隠せないゼリス。しばらく、何を言われたのか分からなかった。
「空から降ってきた…? 何が…」
「お前が」
 降ってきた?自分が?そんなことできるわけないだろう人間が。…空から?高いところから? …ああ、そうだ! 崖だ…!!
「そうだぼく、精霊の谷間から落ちたんだ…!!」
 何故生きているのだろう。見たところ擦り傷や痣はさすがにできているが、骨が折れたりはしていない。あれほど高いところから落ちたというのに。
 …まさか?
「ここ…どこ…?」
「俗に『生命の橋』とか言われている宮殿だよ。まあ、人間界では何と呼ばれているかは知らないけれど…普段は王宮とも呼ぶ。君が気絶していたから運んだんだ。」
 ここは私の私室だよ、というサルフィンを見て、ゼリスは確信した。人間にはありえないその容貌、そしてティアラ。言葉の選び方をとってみても、まさしくここは精霊界、この人は精霊王に違いあるまい。
「精霊界…!?」
「そう。『守護せし世界』。どうして迷い込んだのかは知らないけれど…ガーウィムズさんが、あの辺に殆ど使われない通路が開いていると言っていたからきっとそれだろうね」
「……本当に……」
 本当に精霊界に来てしまったのか…。これは夢じゃないのか?
 頬をつねろうかと思ったが、あちこちの小さな傷が痛いので確認するまでもなかった。 改めてゼリスは、自分の前にいる人々を見た。
「精霊王……?…」
 呆然と問いかけると、サルフィンは慈愛の表情とでもいうのだろうか、まさに全ての精霊の命たる、優しい笑顔で応えた。
「そう。私が現在のエレメンツ・ライフ、サルフィンといいます」
「オレ、カリオル! よろしくな!」
 こちらは人間と変わらないように見える。だがここにいるということは、カリオルも精霊なのだろうか?
「で、これがクレヴァー! 占い師だ」
 残りの一人もカリオルが紹介してしまう。金髪の青年も軽く微笑んで会釈した。
「私はいつもは君と同じ、『器ありし世界』に住んでいるんだよ。今日はサルフに会いに来たんだけれどね」
「え…人間界に…? じゃあ人間なの…?」
「いや。エルフ…って言ったら分かるかな」
「エルフ!? 妖精の仲間の?」
 妖精族はもうほとんど死に絶えてしまったと聞く。今残るのは、多くが『器ありし世界』に古くから移住していたエルフ族であるが、彼らも部族ごとに寄り合って山奥で住んでいるので普通人間が彼らに会うことはない。
「うん、そう。はぐれ者なんだ。もう何十年も旅をしてるんだよ」
 エルフの特徴は、その美貌、長い耳、そして長寿だ。昔物語に読んでもらった内容を思い出す。
「へえぇ…」
 感嘆の声をもらしてから、はっと自分が実に礼に欠いていることに気付いた。慌ててベッドに座り直す。
「あの、助けてもらって、ありがとうございました。ぼくゼリスといいます」
 名乗ると、サルフィンはうれしそうな顔を見せた。
「いい名前だね。人間の子に会うのはずいぶん久しぶりだ…嬉しいな。ちょうど、人間に会いたいと最近思ってもいたし」
「ぼくみたいに、迷い込んでくるのが時々いるんですか?」
「え? …いや、そういうわけではないんだけどね…」
 少しはぎれ悪くサルフィンは答える。それにカリオルが何か言おうとした時、
「失礼します」
 部屋に一人の男が入ってきた。一目見て、ゼリスは物語に出てくるお屋敷の執事のような印象を受けた。人の良さそうな顔に、今は苦悩の色をただよわせている。
「あ、ガーウィムズさん。この子起きたよ」
 言われてガーウィムズはゼリスの方を見、目があったが、「そうですか…」と溜め息にまぜて言ったのみだった。
 何が彼をこんなに困らせているのだろう…? ゼリスは首を傾げた。まさかその原因が自分に有ろうとは思いもしない。
「サルフィン様…やはり鳥は『器ありし世界』に逃げてしまったようです」
「え、本当?」
「はい。まだ精霊達への届け物も持たせていませんのに…困りました…。多分それほど遠くには行っていないと思うのですが、バラバラに散ってしまっていると探すのに手間がかかるかと…。そもそも何故突然『器ありし世界』に行ってしまったのか分かりませんし」
「『器ありし世界』か…なんと幸いな…」
「サルフィン様!? 今、なんと言われました?」
「あ、いや。ただちょっと考えていたんだけどね…」
 何の話をしているのか分からず、ゼリスはベッドの端に腰かけるカリオルに訊いてみた。するとカリオルはこともなげに、
「ああ、お前が落ちてきたせいで、大事な鳥が逃げちゃったんだよ」
「え!? ぼくのせいで!?」
「うん。その鳥が定期的にベース…サルフィンから命のもとをもらって、届けるんだ、あちこちの世界にいる精霊達に。そうしないと精霊達、死んじゃうんだって。で、精霊が死ぬと自然も調和が崩れるんだって」
「ええっ!?」
 それは一大事ではないか。なぜカリオルはこんなに平然として言えるのだろう。
「すぐに人間界の精霊達に通達して捜させますが、その前にサルフィン様に意見を伺ってからと思いまして…よろしいですか?」
「いや。ちょっと待ってくれ。精霊達に捜させなくてもいいよ」
「は…?」
 思いもよらぬ答えが返ってきて、ガーウィムズは対処に困る。サルフィンはゼリスのすぐ横にきて、その肩に手をやって言った。
「この子に捜してもらおう」
「えええっ!!?」
「責任とってもらうということで」
「し…しかしそんな、子ども一人に、酷では…。精霊達の命がかかっているんですよ?」
「大丈夫だよ。だね?ゼリスくん」
 しかし目の前でくりひろげられる会話に、すでにゼリスは茫然自失。やむなくサルフィンは主役なしで主張を続けた。
「子ども一人でというのなら、クレヴァーがついていってくれればいいし」
「しかし…」
「あっ、ベースベース! オレも!オレも行きたい!」
 はしゃぐカリオル。さきほどよりよほど困り果てた表情でガーウィムズは、有無を言わさぬ笑顔のサルフィンと、顔を輝かせるカリオルと、まったく承知したという様子のクレヴァーを見て、深く溜め息をついた。
「しかたありませんね…滅多に言わないサルフィン様のわがままということで…。いいでしょう、ただ、その少年が承知してくれれば…」
「ぼくやります!」
 声高々にゼリスは叫んだ。
 何があるとも分からない冒険に出るなんて、なんて素敵なんだろう! 本当の勇気というものも、そこで見つかるかもしれない。
 そういうわけで、ガーウィムズの心配顔を晴らすこともなく、3人は人間界に出発することになった。

「ゼリス、頼みがあるんだけど…」
「はい?」
 さきほどゼリスが落ちてきた、大樹の陰に一同は来ていた。この上に『器ありし世界』…俗に言う人間界…への道が開いているらしい。
「一週間以内に…長くても、二週間のうちに帰ってきてくれないか」
「はい。精霊に命をあげる鳥だもの、急ぐんでしょう?」
「まあそれもあるし…カリオルが長くここを離れると大変なことになるから…」
「?」
 首を傾げるゼリスに、サルフィンはいや、と苦笑する。「なんでもないよ」と。
「連絡係を一人つけよう。風の精霊がいいな。」
 言うやいなや、サルフィンの足下から一陣の風が生じる。それの吹いていった先から、一人の精霊が舞い降りてきた。
「精霊王様! お呼びですか?」
 まだ少女だった。見かけはゼリスと変わらないように思える。空気から溶け出るように現れたその姿は、やはり人間の間には見かけられないもの。ポニーテールにした髪は桃色で、瞳はごく淡い水色だ。
「この間生まれたばかりの子だね。ティティニア。『守護せし世界』から出たことは?」
「ないです! どこかへ遣わしてくれるんですか?」
「ああ。この子達と『器ありし世界』に行ってくれないか?」
「『器ありし世界』ですか!? はい、よろこんで!」
 ティティニアは心底うれしそうに頷いた。
「紹介しよう。こちらは風の精霊、ティティニア。…ティティニア、こちらは人間の子ゼリスと、私の古い友人のクレヴァー。カリオルは知ってるだろう?」
「はい。よろしくおねがいしますっ!」
「よろしく」
「よ、よろしくおねがいします」
 快活なティティニアの様子は、ゼリスの妹たちとなんら変わるところはなかった。
「では行きましょうか。ティティニア、上昇気流をつくってくれる? それにのって上に上ろう」
「はい」
 クレヴァーの提案に、ティティニアが空中にくるくると螺旋を描く。それがやがて大きな空気の流れになった。
「さ、手をつないで、これにのろう」
 言いながらゼリスとカリオルの手をとるクレヴァー。それをサルフィンが呼び止めた。
「クレヴァー」
「……?」
 ふりかえるクレヴァーを、サルフィンはどこかきまり悪そうに、あるいは心配そうに、なにかを訴えるようにして見つめた。
「…気をつけて。頼んだよ」
「ああ。分かってるよ、サルフ」
 まかせてくれ、と強気に微笑んで、クレヴァーは一歩ふみだし、上昇気流にのった。
「……………」
 あっというまに見えなくなった三人の行く先に視線をむけて、しばらくサルフィンは立ちつくした。
 この世界から出られない己の悲運を嘆くこともないが、やはり…。
 …頼んだよ、ゼリス。

続く