魔界王室の人恋しい季節                日向夕子

 

 

 その日、とても素敵なことを知らせてあげたくて、やみめ は弟のしらほ を探していました。

 しらほは、同い年の弟なのですが、やみめとは違う先生にお勉強を教わっていて、それに、やみめよりもたくさんお勉強をしているようです。だから、最近はなかなか会えなくて、やみめは残念です。もっと小さい頃は、いつも一緒に遊んでくれたのですが。

 ですけど、午後のこのくらいの時間なら、しらほはたいてい自由な時間だとやみめは知っています。しらほはきっと、お庭か、図書室か、自分のお部屋にいるでしょう。やみめは、まずお庭から探していくことにします。

 いました、しらほです。石のベンチにすわって、小さな紙片に鉛筆で覚書をしているところでした。うす曇りの陽の下で、しらほの白銀の髪がゆるくそよいで、涼しそうでした。

「しらほ、しらほ」

 やみめが喜んで近づいていくと、しらほはうすく笑って顔をあげます。

「闇瞳。楽しそうだな」

 しらほのほうは、忙しいのか、ちょっと疲れているように見えます。それでもしらほは、何か書き付けていた紙をたたんで、やみめがベンチに座れるように場所を空けてくれました。

「うん、あのね」

 やみめは嬉しくなって、しらほに素敵なことを耳うちしようと、口に手をそえました。それに気づいて、しらほも耳を貸してくれます。

 ところが、どうしたことでしょう。そのときやみめは、突然どうしようもなく鼻がむずむずしてきたのです。

「はっ…っくしょん!」

 大きいくしゃみをしてしまいました。

 

「それで、白火さまは怒ってしまわれたんですか?」

 家庭教師の先生が、妙にふるえた声で、ゆっくりとやみめに尋ねました。

「そうなの…見たら、しらほ、笑ってるんだけど、怖い笑いかただったの。それで、黙ってぼくの頬っぺた、きりきりつねって、どっか行っちゃった…」

 やみめは、赤くなった頬をなでながら、ほろほろと涙をこぼしました。

「痛かったですね」

 先生は珍妙なおももちで、やみめの頬を眺めます。その声がやっぱりふるえているのと、隣でお茶をいれてくれる女官の手もふるえているのを見て、やみめはおやっと思いました。

やみめが泣いているから心配しているのでしょうか。それならやみめは、泣きやまなくてはなりません。最近はやみめも大きくなったので、人に心配されたなら、がんばって泣きやむようにしています。あわてて言いました。

「あのね、頬っぺた、痛くないよ。怖がらなくていいよ」

 それを聞いて、先生も女官も、にっこり笑います。

「それはよかった。ところで闇瞳さま、白火さまにお伝えしたかったのは、何だったんですか?」

「あのね、それはね」

 言いかけて、やみめはぽかんと口を開けたまま止まってしまいました。思い出せません。

「…くしゃみと一緒に、出て行っちゃった…」

 しょんぼりして、やみめの目からはまた涙が出てきました。潤んだ瞳で、窓の外を見やります。どこに飛んでいったのでしょうか。

しょんぼりという言葉は、この年になって使うものではない、と前にしらほに言われたのを思い出しました。かわりに教えてもらった言葉を使います。

「しょうぜん…」

 そんなやみめを、ふたりは笑いながら慰めてくれます。

「闇瞳さま、今度会ったときにきちんと謝れば、白火さまも分かってくださいますよ」

 そうかしら、とやみめは首をかしげ、すこし心が軽くなりました。それなら、次にしらほに会うのが、ますます楽しみになります。

…ところが、それからしばらく、やみめはしらほに会えませんでした。

 

 どうしたのかしら、とやみめは、お庭をとぼとぼ歩きながら考えました。

 あれから、どこを探してもしらほは見つかりません。剣のおけいこやお勉強はしているらしいのですが、その時間はやみめが会うことはできません。やみめは暇な時間に、しらほが行きそうな場所はどんどん探すのですが、どうしても会えません。

 やっぱりまだ怒っていて、自分に会わないようにしているのかな、とやみめは悲しくなりました。悲しくて、先生にそう尋ねてみます。

「そんなことはないですよ。白火さまは今、お忙しいのでしょう。落ちつけば、また自由にお会いできますよ」

そう先生が教えてくれましたが、念のため、お母さんにも聞いてみました。

「ほら、白火もこの時期は忙しいんじゃないかしら。そういうお年頃ですものね。色々落ち着いたら、遊びにきてくれるわよ」

 お母さんはそう言いました。本当にそうだといいんですが。毎日、しらほに会いたい会いたいと考えてすごしているので、淋しさはどんどんつのります。

 

 ある晩、あんまり淋しくて、やみめはお布団のなかでどんなにごろごろしても、眠れませんでした。涙は出ませんが、外に出ないかわりに、胸の中に落ちていっているような気がしました。窓から月を見ると、その光もとても淋しげなのです。

「そうだ、今しらほに会いに行こう」

 夜なら、しらほもお布団に入っているはずです。やみめの国では、夜のほうが元気がいい人もたくさんいますが、やみめとしらほはお日さまが好きなほうですから。

 思いたったらじっとしていられなくなって、やみめは裸足でじゅうたんの上に降りました。ここからしらほの暮らしている棟までは、ちょっと遠いのですが、大丈夫です、迷ったりしません。

 小走りにしらほの寝室をめざしながら、だんだんやみめは楽しくなってきました。本当は眠っているはずの時間に、しらほを訪ねていくなんて、わくわくします。

前にこっそり馬小屋に行って仔馬と寝たときは、しらほは「危ない」と言って、大人の人がびっくりするくらい、とてもとても怒ったのですが、今度はしらほのところだから危なくはありません。一緒に寝てくれるかもしれません。

 しらほの部屋が見えてきました。この扉はお勉強の部屋、この扉はお客様と会う部屋、そしてこっちが、寝室です。寝室の前の小部屋を通って、やみめは扉をとんとん、と叩きます。

 何の音もしません。やっぱりしらほは眠っているのでしょうか。でも、なんでしょう、それにしても静かすぎるような気がします。なんだかいつもと雰囲気が違うのは、夜だからでしょうか?

「しらほ…?」

 そっと、やみめは扉を開けました。覗きこんで、まだ答えがないので、おそるおそる中に入ってみます。

 はじめ、やみめには、目に映る光景の意味がよく分かりませんでした。

 月の光が晧々として、しらほの部屋を照らしだしています。でも明るすぎはしないでしょうか。どうしてカーテンがひかれていないのでしょう。いいえ、カーテンがつけられていないのです。

 驚いてかけよった寝台の上には、誰もいませんでした。それどころか、お布団も敷布もありません。ふりむくと、壁にかかっていたはずの額もひとつ残らずなくなっています。

「しらほ…? しらほ……」

 誰もいない部屋の沈黙に、やみめはとても淋しく、怖くなって、冷たい大粒の涙を流しました。そして、一刻もはやくこの部屋を出たくて、扉にむかって走りました。

 

 それから、どんなふうにやってきたのか自分でも覚えていなかったのですが、やみめはお父さんの膝の上で泣いていました。

 本当はお母さんのところに行きたかったのですが、しらほはお母さんの子ではなくて、お父さんの子です。しらほがいなくなったことを、教えなくてはと思ったのです。

 くすんくすんとしゃくりあげながら、やみめは切々と訴えました。

「だって…僕、そんなにしらほが、怒るなんて、思ってなかったの。くしゃみ、わざとしたわけじゃ、なかったの。しらほに会いたくて。…お部屋を片づけて、どっかに行っちゃうなんて。…そんなに、僕のこと、怒ったの? 嫌いになったのかな?」

 国王であるお父さんは、執務机にすわったまま、辛抱づよくやみめの言葉を聞いていましたが、王子が何を言っているのか分かると、驚いたように尋ねました。

「闇瞳…知らなかったのか?」

 やみめはきょとんとしました。知らなかったって、何をでしょう。しらほがやみめを嫌っているってことでしょうか。それなら、ますます悲しくなります。

「しらほ、僕のこと嫌いだったの?」

「そうじゃなくて、白火が引越しするってことを」

「おひっこし?」

「ああ、炯の卿の位を拝して、城下の邸宅に移ることになったんだ。三日前そちらに移って、だから城の白火の部屋は、片づけているところだよ」

 やみめは驚いて、お父さんの顔をまじまじと見ました。しらほがおひっこし? はじめて聞きました。だから、これまでずっと忙しかったのでしょうか。

「お城、出て行っちゃったの?」

「ああ。邸は歩いていけるところだけどな」

「でもお城の外なの?」

「うん」

 涙は止まりましたが、やみめはぼんやりと床のほうに視線をおとします。しらほがどことも知れないところに行ったのでないのは、嬉しいのですが、でもお城の外にずっと住むなんて、淋しいです。

「しょうぜん…」

 やみめが言うと、お父さんは遠慮なく吹き出しました。

 

 次の日、お母さんや女官や先生に、しらほのおひっこしのことを訊いてみました。

「知らなかったんですか? 白火さまは炯の卿の名を継がれたんですよ」

と驚いたのは先生です。

「ご存じなかったんですか? 炯の一族の当主になられたんですが…」

と女官も目をぱちくりさせました。

「まあ、知らなかったの? お引越ししちゃったのよ」

お母さんまで言います。

やみめはなんだか頬っぺたをぷっくりさせてしまいました。みんな、あたりまえのように知っていて、だからやみめも知っているものだと思っていたのです。

 もうお城ではしらほに会えないのでしょうか?なんだか信じられなくて、やみめはお昼にまたしらほのお部屋のほうに行きました。今度こそ弟に会えないかと思って。

 でも、しらほには会えませんでした。かわりに、廊下で出会ったのは、しらほのお母さんでした。

「闇瞳さま、どうされました」

「しろゆきさま…」

 清しい涼やかな雰囲気がしらほに似た、あきらの宮さまのことを、やみめもやみめのお母さんも、「宮さま」ではなくてお名前で呼びます。しらほは、しろゆきさまのことを厳しいと言うのですが、やみめには優しいので、やみめはしろゆきさまが好きです。

「しろゆきさま、しらほ、もう来ないの?」

 しょんぼりして、やみめは尋ねました。そんなやみめを可哀想に思ったのでしょうか、しろゆきさまはやみめをお茶に誘ってくれました。

「闇瞳さま、白火はこれからも王宮に参りますよ」

好きなお菓子とお茶に、一息ついたやみめを見て、しろゆきさまはさとすように語りかけてきました。

「本当に?」

「ええ、炯の卿の名を継いで、一族の長となりましたから、屋敷をたまわって住まいは移りましたが。官吏としての仕事も与えられますし、王宮には公務で頻出するはずです」

「そうなんだ…」

 やみめはほっと息をつきました。けれど、なんだか聞いた感じでは、これまでのように遊べない気がしました。

「僕、またしらほにご本読んでもらったり、そのままお休みしたりしたいな」

 以前に長いすの上でしらほに本を読んでもらったときは、しらほの膝の上で眠って垂涎でその服を汚し、とても怒られたのですが、後半部分はやみめの記憶からぬけ落ちていました。

 しろゆきさまは、そっとほほえみました。きれいな仕草でお茶をひとくち飲むと、やみめのお母さんよりも優しいような笑顔で、こう言います。

「では闇瞳さま、闇瞳さまが、あの子のところへ遊びにいってはくださいませんか」

「僕?」

「はい、あの子もまだまだ子どもなのに、育ったところを離れて、独り立ちしなくてはなりませんから、心細いでしょう。大好きな闇瞳さまと離れ離れになって、淋しがっていると思いますよ」

「本当? しらほ、僕のこと好きなのかな?」

 すこし疑わしいのですが、しろゆきさまが「大好きですよ」と言うので、そうなのかしら、とちょっとやみめは嬉しくなりました。それなら、さっそく遊びに行きたくなります。

 ごちそうさまを言って、席をはなれる前に、やみめはふと気になったことをしろゆきさまに言ってみました。

「子どもって、本当にみんな大人になるの?」

「…なりますよ。淋しいですね」

 やみめは首をかしげました。しらほもやみめも、いつか大人になるというのが信じられませんし、それが淋しいという意味も分かりませんでした。

 

 

 すぐにでもしらほの新しいお家に遊びに行きたかったのですが、お勉強の時間があったり、場所がきちんとは分からなかったりで、その日は行けませんでした。

 二日たって、先生にもお許しをもらっていたので、お父さんに書いてもらった地図をたよりに、門を出て、石畳の道を行きます。

 ありました。はじめて来ますけれど、本当に近いところです。いつもお城の外に出るときは馬車で出ていたので、歩いてくるのはとても不思議な感じがしました。お引越ししたばかりにしては、お庭もきれいですし、素敵なお家です。

 門番がしらほを呼んでくれようとしたのですが、呼んできてもらうよりもはやく自分で会いたいので、やみめは断ってどんどんと屋敷の中に入っていきました。

 大きなお家ですけれど、お城よりはもちろん小さいです。きっとしらほも見つかることでしょう。まず、やみめはお庭を探すことにしました。

 お庭には色々な花が植えられています。噴水もありました。喜んでやみめが噴水に近づいていくと、そのむこうに、見覚えのある銀髪を発見しました。

「あ、しらほ!」

 たくさんの手紙を手に持って、それを読んでいたしらほは、弾かれたように顔をあげました。かなり驚いたようです。

「闇瞳!?」

「遊びにきたの」

「遊びにきたって…一人で!? おまえ、いくらここが城の中と同じようなものだっていっても、護衛くらいつけろよ!もうすぐ正式に皇太子になるっていうのに」

「こうたいし?」

 なんでしょう、しらほがおひっこししたように、やみめも何かしなくてはならないのでしょうか。そういえば、みんながなにか式をするような話をしていました。

 でもきっと、やみめが考えることではないのでしょう。今はとにかく、しらほに会えたことが嬉しいのです。

「あのね僕、このあいだ、くしゃみしたから、しらほが怒って会ってくれなくなったのかと思ったの」

 やみめが神妙に言うと、しらほは驚いたようです。

「くしゃみ? ああ、あれか。別にもう怒ってないよ。闇瞳にしては珍しい冗談だと思ったけど、怒ってたんじゃなくて、忙しくて時間がなかっただけだし…」

「そうなの? よかった」

 ふっと肩の力がぬけました。しらほはくしゃみを怒っていなかったのです。

「それを訊きに来たのか?」

「うん。それに、しろゆきさまが、白火が淋しがってるから、行ってあげてって」

「母上が? ふうん…。それにしても、王子をひとりで臣下の屋敷に行かせるなんて、第二妃のすることじゃないな…」

 しらほはなんだか心配なようで、ぶつぶつと文句を言っています。どうやら、卿になるというのは大変なようです。

「ねえ白火、またお城に来るの?」

「ああ、領地の管理は、今までの有能な管財人がいるから、この屋敷にいても十分だしな。ちょっとしたら視察には行くつもりだけど。俺は王宮出身だし、そっちでの仕事がふりわけられそうだ」

「ふうん?」

 よく分かりませんが、とにかくしらほはまた会いに来てくれるのです。やみめはにこにこしました。

「あ、お家の中も見ていい?」

「ああ。菓子でも出そうか。中庭もあるぞ」

 しらほは、やみめを案内してお家の中に入ると、執事をつかまえていくつか用事を頼みながら(お菓子のことも頼んでくれました)、中庭へ連れてきてくれました。

「ほら」

 それは素敵な中庭でした。

 広くはないのですが、かわいらしく模様をかたちづくる石畳は、数ヶ所で段差をつくり、小さな川が流れ落ちる音があたりを包んでいます。

 中央のベンチを囲んで、きれいな花壇があり、そこでほころんでいるのは…

「あーっ!!」

 やみめは思わず叫んでいました。

「な、何だ?」

 しらほが驚いてふりむきます。何か踏んだか、虫にさされたか、心配しているようです。

「思い出した! あのね、バラが咲く頃だねって、庭師に教えてもらって、しらほに教えようと思ったの! 一緒に見に行こうねって」

「……ああ、このあいだの?」

 花壇には淡い色のバラがたくさん咲いていました。それで思い出したのです。くしゃみと一緒に出ていったのが、ようやく戻ってきたのでした。

 なんだかやみめは感心してしまいました。

「そうかぁ、僕、くしゃみと一緒に、言いたかったことが出ていっちゃったと思ってたけど、ちゃんと、しらほには伝わってたんだねー」

 きっと、くしゃみにのって、しらほの耳に入っていったんだ、と納得しました。それでしらほは、こんな素敵な花壇を、やみめに用意して待っていてくれたのです。

 幸せになって、うんうん、と頷くやみめに、しらほはなんとも言えない顔で笑います。

「本当に、お前を見ていると…」

「? なあに?」

 途中で言葉を止めてしまったしらほに、やみめが尋ねます。しらほもくしゃみでしょうか。けれども、しらほはかるく手をふるだけでした。

「いや、なんでもないよ」

 くしゃみでもないのに、しらほの言葉はどこかへ行ってしまったようです。

 やみめは気にしないで、かわいらしいバラに挨拶するために近づいていきました。

 

                                 終  

  

  ちがう。私が書きたいのは、こんなベタ甘い話じゃなくて、おばけのQ太郎のはずなんだが…。