蒼々と陰ふかく            日向夕子

 

 アディン・ダ・シャハンが帰ってきたというので、エ・ヒオスは族長の屋敷から帰宅する途中、彼の家に寄ることにした。

「エ・ヒオス。 いらっしゃい、兄さんに会いにきたの?」

 入り口の前で、偶然会ったのはアディンの妹、リツィだった。長い黒髪の美人だが、今はその髪を後ろにたばね、袖をまくりあげている。どうやら染物をしていたようだった。

「ああ、昨日帰ってきたって聞いたものだから」

 友人のアディンは、デル・レハナの大家ダ・シャハンの長男であるから、外交的な仕事も多い。今回も、他の部族に招待されていたのだった。その前からエ・ヒオスは、リツィとともに北の帝国へ行っていたので、数ヶ月会っていなかった。

「この部屋で待ってて。呼んでくるわ」

 そう言ってリツィが出て行ってから、ほとんど待たされなかった。足音がしたな、と思ったときには、赤茶の髪、琥珀の瞳の友人が、破顔して入ってきた。

「やあエ・ヒオス! 久しぶりだな」

「本当に久しぶりだ、アディン。なんだか大きくなったように見えるな」

 怪訝そうに言ってみると、冗談と知ってアディンはけらけらと笑った。良家の息子らしい、屈託のない性格の男である。

「それは弟を見慣れたからだろう。家に帰ったら、兄弟がひとり増えてるんだから驚いたよ。しかも昔の僕にそっくりときた」

 エ・ヒオスもにやりと笑う。たしかに、彼とリツィが最近になって集落に連れ帰ってきたアルハは、アディンの少年時代にそっくりだった。そうだからこそ、彼らは大きな都の中でアルハを見つけることができたのだ。

 それを再会のあいさつとして、ふたりは椅子に落ちついた。

「僕からも礼を言うよ。弟を探してきてくれて、ありがとう」

「アルハだけじゃなくて、セリツも見つけてきたけどね」

 ああ、そうだ叔父さんも…とつけ加えて、ふとアディンは何かを思い出したような顔になった。

「そういえば、君がセリツの後任を務めるかもしれないと、父から聞いたんだが、本当なのか?」

「ああ…」

 アディンの叔父、セリツは15年間にわたって、帝国のある貴族との連絡役を務めてきた。正式な役職ではなく、いわば間諜である。その後任を内々に決めようという話が出ている。

「俺に決まりだ。今さっき、レハナ様から直々に命をいただいた」

「じゃあ…もうずっとデル・レハナに帰らないのか?」

「そういうことになるな」

 デル・レハナの集落とのやりとりは、やはり役目を言いつけられた商人を介して、手紙で行われる。セリツのように、数年は故郷の土をふむこともないだろう。

「そうか…」

 あからさまに悄然としてしまった友人のようすが嬉しくて、エ・ヒオスはその肩を抱きよせた。

「そんなに淋しいなら、俺の嫁になって一緒に来るか?」

「ははは、そうしたいのは、やまやまだけど…」

 じゃれていると、お茶を運んできたリツィがちょうどそこに入ってきて、眉をひそめてみせる。

「本当にエ・ヒオスの冗談って…。ちょっと、兄さんに変な病気を移さないでちょうだい」

 茶器の盆を卓の上において、犬でも追い払うようなしぐさをする。

「エ・ヒオス、よくこんなのと半年近くも一緒に旅できたなぁ…」

 感心したようにアディン。実の妹に対して、あまりな発言である。

「そう言ってくれるのは君だけだ。みんな、俺が紳士だったか、そればかり気にしてる。俺は色気より食い気の旅だったけどな」

「そうね、色々なもの食べられたわ。人探しで、長かったから疲れたけれど、けっこう楽しかったわよね」

「そうだね…」

 ふたりで様々な町をまわった数ヶ月を思いかえす。たしかに、ひとりではなく、異性だから四六時中一緒にいるわけでなく、いい旅だった。

「リツィが、あちこちで男に声をかけられなかったら、もっと楽しかったろうな。嫁入り前のお嬢さんを預かる手前、追い払うのが大変で」

 茶碗を手に、ため息をつくエ・ヒオスをにらみ、むっとしたようにリツィが返す。

「それを言うなら、あんただってあちこちで女の子に声かけてたじゃない」

「あれ、そうだっけ?」

 ふたりのやりとりに笑いをこらえていたアディンが、「そういえば」とリツィに視線をむけた。

「もうひとりの探し人は見つかったのか?」

「もうひとり…?」

 ふたりが探しに行ったのは、リツィの弟アルハと、叔父のセリツである。他に探していた者などいなかったが、と考えていると、リツィの面がみるみる朱にそまっていった。

「アディン…! その話はしないでよ」

「そのようすだと、見つからなかったみたいだね。無理だって言ったろ?」

 なんの話だ?と無言で友人に尋ねると、アディンは神妙に、エ・ヒオスの耳に囁いた。

「初恋の人が、帝都にいると信じてるんだ」

「アディン!」

 ふたたびリツィが怒声をあげるので、ここは笑わないほうがいい、とエ・ヒオスは瞬時に判断した。卓の上で震えている彼女の拳をくらいかねない。

「え、その人も見つけるつもりだったのか…? でも無理だろう、あんなに人がいる中で」

「分かってるわよ」

 憮然としてリツィが言い捨てる。怒りは冷めやらぬらしく、つづいて冷たい口調で、

「ところでエ・ヒオス。もうそろそろ、夕食の仕度をしなくちゃならないんですけど。あんた、うちで食べていく気?」

「いや、まさかそんな。お暇するよ。アディンの顔を見にきただけだし」

「そんな、エ・ヒオス。まだ来たばかりじゃないか」

 本当に立ち上がった友人を、アディンはあわてて引きとめようとする。

「いや、本当に顔を見たかっただけなんだ。帝都に行くことを、これから叔父にも報告しなくちゃならないし。まあ、他の家族には、本当のことは秘密のままになるだろうけど」

「帝都に? エ・ヒオスが行くの?」

 リツィも今までの態度を忘れ、驚いたように目をみはる。

「ああ、族長から命じられた。遠からず、主集落を発つよ。引き継ぎのために、行きはセリツについてきてもらうだろうな」

「そう…」

 さすがにリツィもいくぶん淋しそうだ。それよりも淋しげな兄が、帰り支度をするエ・ヒオスの腕をつかむ。

「エ・ヒオス、明日は暇か? もっとゆっくり話そう」

「明日は…父の墓参をしようかと思ってる。このあいだ行ったら、草ぼうぼうで何がなんだか分からなかったから、その掃除を」

「ああ、じゃあ手伝うよ。朝食をとったら迎えに来てくれ」

 快諾して、エ・ヒオスはダ・シャハンの家を後にした。アディンに言ったとおり、家長の叔父に報告をし、身辺の整理もしなければならない。

 エ・ヒオスが帰ったあと、友人にながく会えなくなることが淋しいからか、アディンは少し沈みがちだった。

「兄さん、お茶片づけるから、飲んじゃってくれる?」

 妹に言われて茶碗を持ち上げるが、飲みほすかわりに、ふう、と嘆息する。

「あいつ、叔父さんたちに遠慮があるんだよな…」

「え?」

「エ・ヒオスの父上が亡くなって、叔父さんが跡を継いだろう? それで自分は、いわば厄介者になったんだと思っていて…だから、この役目を自分から受けたんじゃないかな」

「そう…なの?」

 リツィの知るエ・ヒオスは、いつも余裕綽々で冗談を口にしている。とてもそんなふうに、家人に遠慮を感じる殊勝さを持っているようには、見えなかった。

「結婚もしないって言ってた。せめて、叔父さんの長男に息子が生まれるまでは、って」

「完全に、自分の血筋をカハルの跡目から排除するため?」

 アディンは黙って頷いた。数年前に、エ・ヒオスは彼にもらしたことがある。叔父たちは、エ・ヒオスにカハルを襲名させないほうがよいと分かっている。不祥事を起こした家長の息子だから。しかし、エ・ヒオスが正統な後継者であることも忘れられないのだ、と。

 だから彼は、こんなふうに完全に身をひける機会を待っていたのだろう。

「どうせ都に行って帰ってこない気なら、結婚したっていいと思うがなぁ」

「だからって、兄さんが嫁に行かないでよね」

 妹の言葉に、アディンはようやく笑って、茶碗を空にした。

 

 アルハ探しの旅から帰ったときにほどいた荷を、ふたたびエ・ヒオスはつめなおしていた。今度は、何がしかの職を探しながら色々な町を転々と移り住むことになる。

 そうしながら、さきほどのアディンの言葉を思いかえす。

 リツィは、帝都に初恋の相手も探す気で行ったという。

「ああ、そうか…」

 ふりかえってみると、思いあたることはあった。

 いくつかの町をまわり、南方出身の人物がいないか尋ねていたときである。南からきた奴なんていくらでもいる、どんな奴だ、と聞かれて、アルハとセリツの特徴を述べるのが毎回だった。

16歳くらいの、赤茶の髪と、茶色の目の男の子。それから、似たような容姿の、30から40くらいの男の人なんだけど、知らないかしら?」

 いつもリツィはそう尋ねていた。あるとき、なぜ30から40なのか、と訊いたことがある。

「セリツは、今32歳のはずだろう? 40というのはあんまりなんじゃないか?」

「分からないわよ。苦労して外見が老け込んだかもしれないでしょう。探し漏らすことがないように、ちょっとは幅を持たせておいたほうがいいわ」

「まあ、そう言われればそうかな」

 つまりあれは、リツィの探し人の年齢を、セリツを探すときに混ぜて訊いていたのだ。してみると、相手はリツィよりずいぶんと年上である。

 まだあった。念願かなってアルハを見つけ、デル・レハナの集落に帰ってくる途中である。

 帝都を離れたところで、昼食をとるために馬をおりて休息することにした。そのときに、ふと視界に入ったリツィが、帝都をふりかえり遠く何かを想う目をしていた。

 何をそんなに切なげに、と首をかしげた覚えがある。リツィは都に行ってみたいと、自分からアルハ探しを名のりでたほどだから、帝都を離れるのが淋しいのだろうかとも思った。

 実のところは、帝都に行きたいと主張したのも、その人物を探すためだったのだ。なるほど、とエ・ヒオスは何度も頷いた。

 リツィが初恋の美しい思い出を追いかけるとは、意外な気がしたが。そんなに熱心に追いかけるくらいなら、結婚の約束でもしていたのだろうか? それにしては、リツィにそんな男の影があったという噂は聞いたことがなかった。

 まあ詳しい話は、明日アディンから聞けるかもしれないな、と結論して、エ・ヒオスはその日はそこで眠ることにした。

 

 

 実はリツィは、その相手の顔をよく覚えていなかった。

 片手であまるほどしか会わなかったからもあるが、そもそも会ったのがずいぶん昔だから、という理由もある。そして、彼女がその当時のことを全般的に忘れがちであるというせいでもある。年齢も、覚えている印象から推測するしかなかった。

 淋しそうな人だった。そればかりは、忘れようにも忘れられない。

 その人に会った頃は、リツィも淋しかった。ちょうど、弟がいなくなった後だったのだ。

 叔父が弟を連れていなくなり、それに前後して父の機嫌が悪くなった。リツィを叱りつけることがあったわけではないが、家にいる時間が少なくなり、リツィに声をかけてくれることも稀だった。

 母は見るからに落ちこんでいた。息子を失ったのだから当然だった。リツィをかわいがってはくれたが、その沈んだようすを見ていると、母がいつも弟を気にかけていることが分かり、かえって悲しくなった。

 事情は、今なら分かっている。当時、族長が大怪我を負ってしまい、部族全体が揺れていたのである。あちこちで起こる小競り合いを鎮め、集落を守るために、大家ダ・シャハンの当主である父は奮戦していた。母も、デル・レハナのために、生まれたばかりの息子との、何年になるかも分からない別離をうけいれたのである。

 しかしもちろん、そのときは分からなかった。家の中も外もなんとなく空気がぴりぴりしていた。

 兄は彼女より5歳年長で、まだ分別があった。その兄が「父様や母様の負担になってはいけないよ」と言うので、リツィは極力、その言葉にかなうように過ごしていた。

 父を煩わせず、母を不安がらせず。

 幼子にして、ずいぶん努力したのだろうと思うが、そんな緊張と不安のせいだろうか、その一年ほどのことは、彼女はほとんど覚えていないのである。それ以前やそれ以後は、わりと記憶に残っているのに、だ。

 ただ、その人とのやりとりは覚えている。

「何をしているの?」

 そこは、古い神殿の跡だった。ほとんど瓦礫の山のようになっていて、あたりは若木の林になっている。陽はよけられるし、人がなかなか近づかない、いい場所だった。

「ひとりぼっち、してるの」

 リツィは、わずかに残った石の壁にかくれ、膝を抱えていた。

 声をかけてきた人物は、できるだけ自分がリツィの視界に無理なく入るように、身をかがめていた。彼女の言葉に、困ったように苦笑する。

「ひとりぼっち、か…。じゃあ、私は一緒しちゃいけないね?」

 リツィはその人物をじっと見つめた。ここは、彼女が緊張をとくための隠れ家だった。だから、なぜそのときそう答えたのかはよく分からないが、気がつくと彼女は言っていた。

「いいわよ」

 その男は、破顔した。

「ありがとう。隣に座っていいかな」

 リツィが黙って頷くので、彼は彼女と同じように、壁にもたれかかった。

 横目でちらりとうかがい、父様よりちょっと下くらいの年かしら、と検討をつける。

 会ったのは、三回か四回だった。互いに名のらず、なぜこんなところで時間をつぶしているのかも言わなかった。

 それでも、リツィはなんとなく感じとった。彼も、何かから逃れるために、ここに来るのだと。

 たわいもない話はたくさんして、毎回、次に会う約束など当然ないままにあっさりと別れた。

 そして、最後の日。

「もう、ここともお別れだな…」

 そのときの彼は、いつもとは少し違っていた。いつもより感傷的に見えた、と言ってもいい。

「おじちゃん? どうしたの?」

 彼はうすく笑んで、リツィを見た。

「君にも会えなくなるな。…遠くに行くんだ」

「どこ? みやこ?」

 叔父が行ってしまったという場所を思い出して、彼女は尋ねた。

「ああ、そう。帝都に……」

「行きたくないの?」

 彼は、ゆるゆると首を横にふった。肯定のような否定。

「そんなことはない。行くよ、ひとりで」

「…ひとりで行くのが嫌なの? あたし、ついていこうか? 弟もそこにいるもの。そうだ、お嫁さんになってついていこうか」

「君みたいなかわいい子を連れて行ったら、きっとお父さんが怒ってしまうよ」

 彼がくすりと笑ったので、リツィはいくぶんむきになった。

「あら、あたしが小さいから? じゃあ大きくなったら、お嫁さんになってあげる。約束よ」

「うん、ありがとう…」

 その人は、一度も淋しい、とは言わなかったけれど。

 忘れられない青い瞳が、わずかにも潤むことがないまま、彼がリツィの同族であると語っていた。

 そして、それ以来、二度と彼を見かけることはなかった。

 

 エ・ヒオスがアディンを尋ねてきた翌朝、約束どおりにふたりはエ・ヒオスの父親の墓を掃除しにでかけた。

「リツィまでついてくることはなかったのに…」

「何、その言い方は。私が来るといけないような話をする気だったの?」

 エ・ヒオスの呟きを聞きとがめて、ふたりに同行したリツィが唇をとがらせる。エ・ヒオスはとんでもない、と両手をふった。

「まさかそんな。リツィの初恋の話を聞こうなどとは、思ってもいなかった」

 リツィが舌打ちをしてエ・ヒオスを追いかける真似をしたので、彼は手近な墓石の後ろに隠れた。

 このあたりは、処刑された罪人の墓場になっている。だから墓参する者も少なく、草は伸びほうだい、割れた墓石さえある。それも粗末な墓石ばかりだが、それでも墓標をつくってもらっただけ、感謝しなくてはならなかった。

「さあ、ここだ」

 エ・ヒオスが立ちどまったところの墓は、先日彼が来たというだけはあって、比較的まともに見えたが、やはり背の高い草でほとんど隠れるようになっていた。

「とりあえず、大ざっぱに草を刈ってしまいたいな…」

 どうせ自分が帝都に行ってしまえば、あとは来る者もなく土に還るばかり。最後に少しはきれいにしていこう、という言葉は、のみこんだ。

「ちょっとエ・ヒオス、兄さんが何か変なこと言う前に、ちゃんと言っておくけど…」

「お、リツィが自分の口で説明するらしいぞ、エ・ヒオス」

 口は関係のないことに動かしながら、兄妹はてぎわよく鎌で草を刈っている。それを持参した桶につみあげていった。

「黙っててよアディン。…だから、その人は、昔私が淋しがってたときに、なぐさめてくれたおじさんなのよ。帝都に行くって言っていなくなったから、今頃、どうしてるかなって…ちゃんと奥さんもらって幸せになってるといいなと思ってたの」

「ふうん…そんな人、いたっけ? いつの話?」

「アルハがいなくなって、ちょっとしてから」

 思わずエ・ヒオスは、草を引き抜きながら立ち上がった。

「それじゃ15年くらい前ってことか! 執念深いなリツィ!」

 失言だった、と気づいたのは、リツィがふりあげた鎌を見てからだった。

 命からがら逃げていく友人とそれを追う妹を、アディンは笑って眺める。

「久しぶりに働くと、暑いなぁ…」

 草の根を引き抜きながら、額の汗をぬぐった。

 これからどんどん日差しが強くなる季節である。草の成長の勢いもすさまじかったが、そこに落ちる汗も玉のようだった。

「それにしても、聞くところによると、ずいぶん年上なんだな」

 エ・ヒオスがようやく逃走から戻ってきて、やはり雑草の始末に精を出すリツィの、初恋話にまた水をむける。彼女は少し嫌な顔をしながらも、今度はのってきた。帝都でも見つからなかったし、もう過去のことと割り切ってきたのだろう。

「そうだけど、その頃で、今のエ・ヒオスくらいだったと思うわ。子どもだから年かさに見ていたし。『おじちゃん』なんて呼んで、悪いことしたわね」

「傷ついたかもね。…それにしても誰だろうな…。主集落の人間じゃなかったのかな? そんなにぶらぶらできて、その頃帝都に行ったまま帰らなかった人間なんて、いたかな」

「…でもきっと、15年前にちょっと会った子どものことなんて、もう忘れてるんだろうけどね」

 草を投げ入れた桶が、いっぱいになった。一度それを離れたところに捨ててから、三人はさらに丹念に草をむしる。虫が現れては、そのたびに驚いて逃げていった。木々をわたる風の音が、あたりを包む。

「ついでだから、ここに花を植えないか」

言い出したのはアディンだった。

「花? 雑草の花で充分だが…」

「こいつらは花なんか咲かせない。適当にみつくろってこよう」

 そこまでしなくていい、と止めるエ・ヒオスを無視して、友人は花を咲かせる草を探し出した。諦めてエ・ヒオスは墓石を撫でた。他の部分は自然にまかせてよいとして、せめてここに眠る死者を示す文字と、その魂を鎮める紋は、苔の侵食から救ってやりたい。

「私、その人の名前も知らないから、誰かに素性を尋ねたりしたこともなかった。…そういえばその人、面白いことをいっぱい知っていたわ」

 ようやく他人に話す気になったので、今度は次々に言葉が出てくるのだろう、リツィが懐かしそうに語った。

「そう、ずっと遠くから来た人だったのかもしれない。だって、こんなことを言っていたもの」

 

 私たちの故郷は、本当はもっと南なんだよ、と。

 彼は足元に落ちていた、朽ちた神殿のかけらを拾い、そこに残った波の文様を指し示して、話しはじめた。

「君は信じないかもしれないけれど、昔々は、私たちはもっと南東に住んでいた。帝国とデル・レハナはそんなに離れていないのに、そこに住む人間の肌の色が違うのは、そのせいだ。南に行くと、人の肌色は濃くなるんだ」

「あら、でもあたしは色白ねって言われるわ」

「うん、でも北の人間と比べると、やはり少し違う。…それから、だんだん血が混ざったので白くなったのかもしれないね」

 血が混ざる、という表現がよく分からなかったので、リツィは内心で首をかしげたが、口をはさむのはやめておいた。続きが気になったのだ。

「デル・レハナだけじゃない、この辺りに住む部族はみな、もっと南東で、そして多分、多くは今よりも海の近くに住んでいた。ほら、昔話には海がよく出てくるし、神殿の壁にも海の絵が描かれるだろう? だけどこの主集落からだと、海はずっと西に行かないとない。きっと、忘れられるほど昔に、何かがあって、大勢の人たちがこっちに移動しなくてはならなかったんだろう。それを示唆する歌もある」

「へええ…」

 彼は、少女が興味を示したことで、多少気をよくしたようだった。いつもの陰鬱さもうすめて、流暢に喋った。

「そして、この土地に落ちついた。それから、北の人々…まだ帝国はなかったかもしれない、土着の人々と交流した。はじめは戦争ではなく、平和的に商いでね」

「でも、戦争もあったって聞いたわ」

「そう、戦争もあって、だから今は帝国側と部族側との間には、広い隙間がある。戦争を終らせようと、緩衝地になったところだ。その前はもっと近づいていたらしい」

 そのあたりの歴史は、大人が話しているのを聞いたことがあった。耳新しいのは部族の生まれた土地がここではなかったという点で、そんなことは今まで誰も聞かせてくれたことがない。

 それを言うと、その人はうんうんと頷く。

「なぜだろう、昔の人々はそれを忘れようとしたようにも思える。海の伝承も戦の歴史も残っているのだから、移動してきたときのことも、もっと伝承にしてくれればよかったのにね」

 文字は北の住人たちから譲り受けたらしいが、南方部族には伝承歌がある。弦楽器のヴァントーは誰でも習うたしなみであるし、それにのせて語り継げばよかったのに、と彼は残念がった。

「それに、北と交流することによって、あまりにも私たちの古い風習や言葉などが失われたと思うよ。今でももちろん、生活習慣は違うが、こちらの人間が帝国に働きに出て、困るほどではない。食べ物も似かよってきているし」

 どうやら彼は、部族と帝国とが、時を経て相互に似てきているのを、あまり快く思っていないようだった。仲良くなれてけっこうなことではないか、とリツィは子ども心に思ったが。

 彼はしばし沈黙した。何か嬉しくないことに思考が飛んだのかもしれない。

 リツィはまだ知的な興奮の中にあった。彼の沈んだ顔を見て、ことさらはしゃいだ声を上げる。

「でも、あなたの話、面白い。あたし、これからは海の出てくる歌、もっとちゃんと聞いてみる」

 その人は、弱々しく微笑んだ。青い目が、この一瞬で年をとってしまったようだった。知られざる過去を物語るときは、もっと生き生きとしていたのに、今は疲れをおびた色をしている。

 それを、リツィは大人の目だ、と思った。日頃彼女を囲んでいる、両親や親族、大人たちの重い目だった。

「風習が似れば似るほど、帝国はデル・レハナをとりこみやすくなる。文化の異なるところを征服し統治するのは、難しいことだから…」

 でも、流れは止められない、逆行はできない。

 そんな意味のことを呟いて、彼はそれきり口をつぐんだ。

 

「小さい頃は話の半分も理解していなかったけれど、かなり頭のいい人だったみたい。最後に会ったときは、遠くに行くんだ、帝都に…って」

 思い出しながらそこまで話して、やけに周りが静かになっていることに、ようやくリツィは気づいた。

「エ・ヒオス?」

 見ると、友人はいつもの明るさを忘れ果てたように、呆然として立ち尽くしていた。この陽気にもかかわらず、心なしか青ざめている。

「あれ、エ・ヒオス、どうしたんだ?」

 近場から見つけられるかぎりの花を持ってきたアディンも、そのようすに首をひねった。

「それは…」

 石のように固まったエ・ヒオスは、その一言を吐き出して、かすかに震えた。冷たくなった指先で、こわばる口元をおさえる。

「リツィ、それは……おそらく、俺の父だ」

 

 周囲が荒れて暗い雰囲気だったその時期を、リツィはほとんど記憶にとどめなかったという。

 エ・ヒオスはしかし、けして忘れなかった。父が族長に刃をむけた、裏切り、弾劾、誹謗、驚愕、悲しみ、罪悪感、恩赦、困惑、嫌悪のもろもろを。そして父の処刑、死を目前にした父の、空虚な青い瞳を。

 忘れはしなかったが、いつでも、あえて思い出そうとはしなかった。

 扉のむこうにその思い出があり、鍵も錠におさまったままと意識しながら、その扉を開こうとはしなかった。

 

 兄妹はしばらく、エ・ヒオスの言った意味が理解できなかった。

「なん…冗談でしょう?」

 もちろん、冗談のはずがなかった。そうでなくてどうして、エ・ヒオスがアディンに支えてもらわなければ崩れそうなほどに、動揺するだろうか。

「そんな…」

「………あの人は、はるか昔の物語だけを探って生きていたなら、どんなにか幸せだったろうと…叔父も言っていた」

 けして荒事が得意な人ではなく、むしろ文人の象徴のような人だった。

 ときには息子を膝にのせて、伝承を語り、そこに隠れた意味を語ってくれたものだった。

 そして、古いものがどんどん消え去り、やがてデル・レハナのすべてが帝国に呑みこまれることを恐れていた。

「…君が、少しはあの人の心を救ってくれていたんだな…」

 もう大丈夫だ、とアディンに軽く微笑んでみせて、エ・ヒオスは墓石の前に膝をついた。

 そう言われてみると、たしかにエ・ヒオスの目は、あの思い出の人と同じものだった。ただ、今まで彼のこんな瞳を見たことがなかったのだ。

「エ・ヒオス…彼の好きな花はなんだった…?」

「さあ…白い花かな。白ければどんな花でも」

「分かった。探してくるわ」

 語尾をふるわせないように気をはって、リツィは急いでふたりに背をむけた。本人が眠るその前で、えんえんと思い出を語っていたとは。

 どんなに探しても見つからなかったはずである。成長して部族の大人たちの顔を覚えても、旅立ったはずの帝都に求めてみても、見つかるはずがなかった。彼が行ったのは、もっとずっと遠い国なのだから。

 本当は、再会よりも、その幸せを願っていた。今はかつての同族として、せめて花をたむけよう。

「エ・ヒオス」

 アディンが、友人に心配そうに声をかける。

「…俺のこの青い目は、父親譲りなんだ」

「ああ…瓜ふたつだったそうだな、俺とアルハのように」

「そう、年々似てくると言われたよ。皮肉なことに、父は古いものが新しいものにのっとられることを嫌がっていたけれど、この目は混血の印だった。息子も青い目だから、ちょっとがっかりしたって言ってたよ」

「そうか…」

 口調はゆっくりとしていたが、衝撃も去り、どうにかいつもの雄弁さをとり戻したようだった。

 しばらくしてリツィが花をかかえて還ってきたときには、三人は少々しんみりしながらも、平素のように話せるようになっていた。

 

「それにしても、もう30歳で妻も子もいたとは…」

 ていねいに植えられた花の前に座りこみ、リツィがため息をつく。その両脇には、同様にエ・ヒオスとアディンが腰かけていた。

「結局、私が大きくなったからって、お嫁さんにはなれないわけじゃない」

「あの人、若作りだったからね」

 エ・ヒオスは自分の言葉に笑うが、さすがにまだ多少、元気がなかった。

「遠くに行くって、どういう意味だったんだろうな…」

「え?」

 アディンとリツィが目をむけると、エ・ヒオスは墓石の紋を眺めながら、深く考えこんでいる。

「なんのつもりで言っていたんだろう。本当に帝都に行く気だったはずはない。だからって、死ぬつもりだったとも思えない…」

「失敗すれば…おそらくは、成功してもだが、死罪になるということは、分かっていただろうが」

「覚悟をしていたっていうのか? まさか…そんなに馬鹿だったのか」

 リツィが憤慨したふりをして、私の初恋の人に失礼だと思わないの、と言うので、エ・ヒオスは失笑した。そのはずみで腹がなって、ようやく三人は昼をまわっていることに気づいた。

「戻って食事にしよう」

「賛成」

 当初の予定より、墓はよほどきれいになっていた。リツィとアディンが選んできた、白を基調とする野花にかこまれ、とても討ち捨てられた罪人の墓とは思えない。

 エ・ヒオスは、去り際にもう一度ふりかえる。

「…そんなに、不器用だったのか」

 

 

 夜、エ・ヒオスは水鏡に自分を映してみた。

 父が処刑されたときに、彼の持ち物や、生前書き残した色々なものは、すべて処分されていた。父を偲ぶものといえば、自分のこの顔くらいである。

 だが、思い出すのは今日これきりだ。明日からは、また今までと同じように扉を閉め、考えることをせずに過ごす。

 盥にはった水を流し、エ・ヒオスは寝台に入った。墓参のおかげで体はほどよく疲れている。よく眠れそうだった。

 そして、彼は夢を見た。

 

 彼は、見慣れたデル・レハナの主集落を歩いている。空は青く、木々は緑においしげっている。風にはためく洗濯布がまぶしかった。

 この主集落も、もうすぐ去らなければならない。ながの別れとなることは、ほとんどの人間に告げずに。

(見納めか…)

 こんなにゆっくりと見てまわることは、もうないだろう。そう思ったので、彼は家々の外縁をめぐり、林の中にも目をむけた。

 古い神殿の跡地がある。石造りの壁がくずれ、ほとんどはなくなっているが、まだ形を残していた。子どもの頃に遊んだことを思い出しながら、彼はそちらに行ってみた。

 小さな女の子が、低く残った壁の内側にすわりこんでいる。

 何をするでなく、近づいてきた自分に反応するでもなく、ただぼんやりと前を見て涼んでいた。

 彼は、この少女を知っていた。

 そのつややかな黒髪は、彼女が大人になればもっと長く、まっすぐになり、持ち主の魅力をひきたてるだろう。

 黒曜石のような瞳も、今は放棄している勝気な性格を、たしかに映し出す鏡になるだろう。

 しかしどうやら、今の彼女は本来よりも大人しくなっているようだ。

「座っても?」

 彼が尋ねると、少女は無言で自らの横を示した。言葉がないからといって、拒まれている感じはしない。むしろ、彼女の隣に腰かけると、今まで見てきたどの場所よりも安らいだ。

「もう、ここともお別れだな…」

 数々の思い出を出してはしまいながら、彼は思わずつぶやいた。

 そのようすにいささか驚いたか、黒髪の少女は彼のほうにふりむく。

「おじちゃん? どうしたの?」

 彼はうすく笑んで、少女を見た。

おじちゃんとは。たしかに今の彼女となら年の差があり、そう言われても仕方がないが、まだまだ若い気の彼としては、少しばかり傷つく。

「君にも会えなくなるな。…遠くに行くんだ」

 そうして、帰ってこないかもしれない。

「どこ? みやこ?」

 遠くというと、小さな少女にとっては都が浮かんでくるのだろう。地理的なことは何も知らないながらも、大人の話を聞きかじって覚えたのが分かるような、舌足らずな言い方だった。

「ああ、そう。帝都に……」

 言い方がまずかったのか、少女はさらに心配そうにつめよってきた。

「行きたくないの?」

 彼は、ゆるゆると首を横にふった。肯定のような否定。いや、否定のような肯定だろうか。

「そんなことはない。行くよ、ひとりで」

 けして、迷いがあるわけではない。だがひとりで旅立つことが、どこか寒いのだ。

ふと、赤子のアルハをさらって帝国に逃げた、セリツの気持ちが分かるような気がした。真偽がどうであったにせよ、故郷を想うよすがを何ひとつ持たぬまま行ってしまうのは、とても…。

すると、少女は驚くようなことを言った。

「…ひとりで行くのが嫌なの? あたし、ついていこうか? 弟もそこにいるもの。そうだ、お嫁さんになってついていこうか」

 彼は思わず、くすりと笑った。彼女に、こんな親切で嬉しくなることを言われたのははじめてだ。

「君みたいなかわいい子を連れて行ったら、きっとお父さんが怒ってしまうよ」

「あら、あたしが小さいから? じゃあ大きくなったら、お嫁さんになってあげる。約束よ」

「うん、ありがとう…」

 ありがとう―

 

 エ・ヒオスは、自分の呟きで目がさめた。

 ほんの短い睡眠のようだったが、もう陽はのぼったらしい。鳥のさえずりが、にぎやかに室内まで届いてきていた。

(あの神殿は…もう10年も前に、片づけられたのに)

 夢の余韻にひたったまま、まっさきに頭に浮かんだのはそれだった。

どうして、今さらあの神殿跡の夢を見たのだろうか。しかも、幼い少女のリツィが出てきた。

「どういう意味だろうな」

 いつものエ・ヒオスに対する態度からは想像もつかないが、なんと夢の中で彼女は、彼の妻になると約束してくれた。思い出して、エ・ヒオスは笑い出しそうになった。

 崩れた神殿と優しいリツィ。なんという組み合わせか。

 だが、その奇妙さにもかかわらず、胸の中にはあの暖かさが残っていた。

(ありがとう…)

 階下で、エ・ヒオスを呼ぶ声が聞こえた。いとこが朝食のために下りてこいと言っているのだ。

 返事をして階段を下りながら、エ・ヒオスは夢の意味について、ひとつ思いついた。

 今日、リツィに会ったら尋ねてみよう。

一緒に帝都に来てくれないかと。

 それが、あの夢のひとつの答えだった。

 

                            終  

 

 

本当は「デル・レハナ三部作」最終話、「リツィが主人公の恋愛もの」のはずだったのが。

思いついて、相手役をエ・ヒオスの父親にしたら、あきらかにリツィは主役じゃなくなってます。ごめん…。

夢の部分は、解釈の予知を残してみました。

エ・ヒオス父の主張が正しいとしたら、民族大移動が起こったのは本当に何百年とかの昔かと思うのですが、それにしても口伝さえ伝わってないなんてありうるのか。