帰郷 〈2〉         日向夕子

 

 帝都の下町は、木目をそのまま見せる住居が多い。したがって町並みは茶色を基調としている。石畳の道が多いので、足元から視線を上げていくと、白がかった灰、濃い茶、そして頭上の空色というふうに目に入る色が変わっていく。

 下級貴族や富豪の住む区域に行くと、通りごとに石畳の色が変えてあったり、建物自体も石造りのものがあったりと、色彩の違いが多々あるが、こちらはアルハにはあまり馴染みのないところだった。上流貴族、王族の住む王宮付近になると、まったく知らない世界である。

 そして一転、王宮に背をむけ、ひたすら帝国を端まで走ると、景色はだんだん横に広がり、緑を主張するようになる。

 都のすぐ南には、もう帝国の街はない。かつて何度も戦場になったという草原がえんえんと続き、一応の街道が横たわっているが、この先に街がないことを考えれば、街道というのはおかしいし、実物もその名にそぐうほどのものではない。

「しばらく行けば関所がある。我々はデル・レハナだと証明できるし、単なる旅人だから、すんなり通してくれるがね」

 馬上のエ・ヒオスが言うように、ややしてから、遠くに小さく関門らしきものが見えてきた。

 そこを越えると、いよいよ「南部」に入る。いくつもの部族が住む、都の人間たちにとっては未知と野蛮の入り混じる土地だ。そのもっとも広い部分を占め、そして帝都に隣接しているのが、デル・レハナである。

 アルハたち三人が関所を通るのは、実際簡単だった。関所にいた役人が二、三の質問をして、エ・ヒオスが何かデル・レハナから来たと示すものを見せた後は、「気をつけて」とあいさつまでつけて通してくれた。

「これから、どれくらいですか」

 帝都を発ってから、三日が過ぎていた。アルハが乗っているのは、エ・ヒオスとリツィが都で調達した大人しい馬で、アルハにもよく慣れてくれたが、見たこともない広々とした草原を移動しつづけて、騎手のほうが疲れてきたのは仕方のないことだった。

「安心して。夕方には最寄の集落につくから」

 そう言ったのは、アルハの姉だというリツィだ。彼女は見た目に違わず、短気で怒りっぽい性格らしく、道中アルハ以上に文句が多かったので、そのリツィが安心したような顔をしているのは、信用できるだろう。

「デル・レハナは大きいから、いくつもの集落に分かれているんだ。俺たちが向かっているのは、一番大きくて、族長がいらっしゃる主集落」

「まだ遠いんですか?」

「起伏がないところを選んで行くから、それほど遠くない。あと五日もすれば着くよ」

 この後、さらに五日間、馬に乗り続けるのか、と思うとさすがにアルハはうんざりした。

 

 空が赤くなるころ、一行は予定通りに、最北の集落に着いた。

 アルハは物珍しそうにあちこちを眺めた。建物が低い。二階建てのものがほとんどないのだった。そして、都の密集ぐあいからは想像もつかないほど、家々の間隔が広かった。帝国でも田舎のほうはこんなものだったのだろうが、あいにくアルハは都とその近辺ばかりに住んでいたのだ。

 外部からの人間を迎えた関所は、帝国のものよりも重々しい態度で対応しているように見えたが、エ・ヒオスとリツィが名を明かすと、門番はかえって慌てたように通過させてくれ、さらに集落の預かり役を呼んできてくれることになった。関所の中で座って待っていてほしいと言う。

「預かり役?」

 アルハがそっと尋ねると、リツィが説明してくれる。

「集落ごとに、そこを束ねている長がいるのよ。村長みたいな。族長から集落を預かっているという意味で、預かり役というの」

「わざわざ、そんな人を呼びに行ってくれるなんて。偉いんですね」

 どうやら自分たちは貴賓扱いされているらしいと気づいて、アルハが少々驚く。エ・ヒオスはそれに苦笑した。

「リツィと君の家は、族長の傍流と言っただろう? 俺もその親戚筋で、一応家名を持つからね。ダ・シャハンほど高位じゃないが…カハルって」

「じゃあ、エ・ヒオス・カハル?」

「そう。私がリツィ・ダ・シャハン。あなたがアルハ・ダ・シャハン」

 へえ、と呟いたが、まるで別人の名前のようだ。

「アルハっていう僕の名前は、誰がつけたんですか」

「父様じゃないかしら。…そうそう、あなたは…」

 リツィが何か言いかけたとき、外からひとりの男が入ってきた。

「リツィ様!」

 南部に特徴的な赤毛が、かなり淡くなった、初老の男だった。驚きと喜びを顔中にうかべて、三人に近づいてくる。

「久しぶりね、デ・コウンの。また寄らせてもらったわ」

 彼らが帝国に来る際にも、必然的にこの集落には寄ったのだろう。デ・コウンの預かり役らしい男は、リツィとエ・ヒオスに挨拶を終えると、アルハのほうに向きなおった。

「では、アルハ様を見つけなさったんですね。ああ、間違いありません、アディン様にそっくりだ。はじめまして、アルハ様!」

「どうも…」

 誰にそっくりと言ったんだろう、とアルハは首をかしげる。

「アディンは、私たちの兄よ。長男。さっき言いかけたけど、私たちが食堂で働いているあなたを見つけたときにそうと分かったのも、兄が少年だった頃にそっくりだったからなの」

「え、そうなんだ」

 だからエ・ヒオスは「どこかで会ったことがないか」などという言い方をしたらしい。はじめに会った夜、ふたりはアディンにそっくりな少年のことを話し合い、やはりアルハだろうという結論になったのだ。

「こんなに立派な若者になって…。かえすがえすも、帝国などで育たれたのは本当に残念です。年成りの儀式も満足にできなかったでしょう? 剣舞や詩歌も…」

「あ、年成りの儀式って、14歳のお祝いのことですか? それならセリツがちょっとやってくれたし…剣舞も、少しなら習ってます。ヴァントーは上達しなかったけど」

 それはセリツが、ひとつしかない楽器を惜しがってあまり触らせてくれなかったからだ。

 アルハの言葉に、預かり役はふと表情を改めた。

「そういえば、セリツ様は見つからなかったのですか?」

「見つかったけど…」

「逃げたんです」

 アルハがあっさり言うと、預かり役は目をまるくする。

「なんと…。あいかわらず、よく分からない方ですね」

 故郷の人間にも同じように思われていたのか、とアルハは少しだけ溜飲が下がった気がした。

「では、今夜はどうぞ私の家においでください。長旅で疲れたでしょう」

 預かり役の労わるような様子に、ようやくアルハは気づいたのだが、彼が数日前に住処を発ったのにくらべて、あとのふたりは数ヶ月間、自分と保護者を探して旅の途にあったのだ。自分より、よほど疲れていてしかるべきである。

「アルハ様、夕餉のあとには、ぜひ剣舞のほうを披露してください」

「え!?」

 預かり役が自分の家に案内しながら、孫に甘い祖父のような顔をしてそんなことを言い出すにいたり、アルハは自分が失言をしてしまったことに気づいた。

 

 デル・レハナの夜は、どこか幻想的だった。

 空気が違うのは、着いたときから感じていたが、夜になると、光も違うな、という気がした。正しくは、灯を反射するものの色が違うのだろう。

 預かり役は、自分の家族と客人とで、ささやかな祝宴を開いてくれた。その後に、本当に剣舞をしなくてはならなくなり、アルハはどっと汗をかいた。

「そんな、習ったといっても、本当に少しで…とても人に見せられるようなものじゃ」

「じゃあ俺が並んで一緒にやろう。いくらか舞いやすいはずだよ。デ・コウンの、ヴァントーを頼む」

 エ・ヒオスがもう一振りの剣を手に、アルハを伴って皆から少し離れた場所に出た。そこまでされては仕方がない、腹をくくるまでだ。

 エ・ヒオスが、だいたいの流れを口で説明してくれたので、アルハは頭の中で舞いを思い出す。なんとかできるかもしれないと思うと、相方はにこりと笑ってはじめの型をとった。

 アルハもそれにならう。それを見はからって、預かり役が弦を弾いた。

 観客がいることを、ひとまず忘れた。幼い頃にはじめてセリツに剣舞を教えてもらった日のような気分で、頭を空っぽにして舞う。

 ふと舞いの最中に我にかえり、アルハは、自分がひどく懐かしさを感じていることに気づいた。

 理由はすぐに分かった。ヴァントーが奏でているのは、よくセリツが弾いていた曲なのである。それとも、1歳の頃に自分はこの曲をこの空気の中で聴いたのだろうか?

 自分は、異邦に来たのではない、帰ってきたのだ。ようやく、アルハはそのことを知った。

 

 翌日は昼にデ・コウンの集落を発つことになった。預かり役は別れを惜しんで引きとめてくれたが、やはり両親もはやく息子の顔を見たかろうと、新しい馬を用意してくれた。

(両親ね…本当に僕の顔を見たいものかね?)

 皮肉な言葉を、アルハは礼儀正しく心の中だけにとどめた。

 そこからの道は平野ばかりではなく、起伏のある見通しの悪い場所が多くなった。馬を飛ばすことは難しいので、ペースを落として進むことになった。

 その道中で、年長のふたりがアルハにデル・レハナの色々なことを説明してくれる。ふたりはアルハのいままでの生活についても聞きたがったが、そちらの話題はすぐに失踪中のセリツにつながるので、なかなかはずまなかった。

 アルハの父や族長の不可解な態度についても、話にのぼったことはあったが、結局本人たちに聞いてみないと本当のことは分かるまい、ということで、三人の間ではほとんど議論されなかった。

 しかし、ある晩、アルハが疲れはてて横になった側で、「少し考えてみたんだけど」とリツィがいつになく抑えた声色で言った。ほとんど眠りの谷間に落ちこんでいたアルハは、朦朧としながら何となくその言葉を耳にしていた。

「セリツが昔、失踪した理由。族長の事故に関わっていたなら、謎は解けるんじゃない?」

「何? どういうこと」

「…アルハには内緒よ、まだ仮説なんだから。つまり、詳しくは知らないけど、族長の怪我が事故ではなくて、襲撃だったら。暗殺を狙ったものだったら? そして、その犯人がセリツだったら、つじつまがあうんじゃないかしら」

 エ・ヒオスが黙る。

「セリツは先代を暗殺しようとして、失敗。父様あたりに、自分が犯人だとばれそうになって、とっさに逃げることにした。そのとき、あとを追ってこられないように人質をとったのよ。…アルハという」

 意識は着実に沈んでいっているのに、そのとき、アルハの心臓は大きくはねた。

「父様に対して人質をとって逃げることで、他言も追跡も封じた。だから父様は叔父を追うことを禁じたのよ。ひとつには人質のため、もうひとつは、刺客を身内から出してしまった弱みのため…」

 少しの間、沈黙があった。その後で、エ・ヒオスがますますひそめた声で反論した。

「それはないんじゃないか。そうだとしたら、セリツがクルツ様をかばう理由がない。それにリツィだって言ってただろう、あの人の性格で、不義ができるはずないって。そんな人が暗殺なんて、馬鹿らしい」

「でも、話は通るでしょう? 先代暗殺に関わっていたなら、当代がセリツたちを探す命を出した理由だって分かるわ」

「彼が断固として逃げつづける訳もか…」

 いまいち納得がいかないようでエ・ヒオスが唸るので、リツィもそれ以上自説を固持することはなかった。

「ま、そんな考え方もあるってこと。たしかにあの叔父さんの性格からいってありえにくいけど」

 忘れることにしよう、とふたりは言いあって、その晩は眠った。アルハは、少し嫌な夢を見た。

 

 そうしているうちに、ふたつほどの集落を行きすぎて、三人はようやく主集落にたどり着いた。

 あまり大っぴらに入っては、大勢の人間に囲まれてしまうだろうということで、三人はできるだけこっそりとダ・シャハンの本家まで行った。

 はじめに迎えてくれたのは、使用人らしい少女だった。本家の長女が突然に帰ってきた、ということくらいしか事情はのみこめなかったらしい。リツィの指図をうけて、主人夫妻を呼びに行った。

 リツィにとっては久しぶりの実家のことで、慣れた調子で残りのふたりを一室に招き入れると、いかにもくつろいで椅子に腰かけた。

「ああ長旅だった! ようやく帰ってきたわね」

 ここが自分の生家なのか…と、アルハはゆっくりと周りを見回した。民族的な普請と内装。身の中に流れる血が感じる懐郷はあるものの、やはり見慣れぬ屋敷という感がぬぐえなかった。

 荷物を肩から下ろした、ただそれだけの時がたっただけだったが、もつれるように近づいてくる足音がした。

「アルハ…!?」

 部屋に入ってきたのは、中年の女性。黒髪に黒い瞳の、上品な雰囲気のする人が、驚愕と緊張をあらわにして飛び込んできたのだ。

 彼女は部屋に入る前から、アルハが立っている位置を知っていたかのように、少しも人影を探すことなく少年に近づいた。

 状況で察した。この人が母なのだろうと。

 彼女は、自分の目の前にこの少年がいるのが信じられない、本当は蜃気楼なのではないだろうか、とでもいうように、こわばった面持ちで何度か首をふった。

「…お母さん…?」

 おずおずとアルハが尋ねると、女性はその言葉に堰をきられたように涙を落とし、いつのまにかアルハはこの人の腕の中におさめられていた。

「アルハ…アルハ…! 帰ってきたのね!」

 きつくも暖かい抱擁。なぜだか、子供時代のことが思い出された。

「あ、父様」

 リツィがいくらか引き締まった口調でそんなことを言い、アルハはぴくりと眉を動かした。母親が腕をゆるめる。

 戸口をちょうど今入ってきたらしい、赤茶の髪の男性がいた。

 するどい目をしている。その色は茶だった。アルハやセリツと同じ色である。顎をかざる髭もまた同じ赤茶だった。一筋縄ではいかなそうな厳しい印象の面立ちだが、一文字にむすばれた口元とは裏腹に、瞳の奥はわずかに揺れていた。

 この人が、父か。

何と言ったものか、とアルハは複雑な気持ちになった。話に聞いていれば反発する心もあったが、それを素直にぶつけるつもりにもなれない。

 むしろこの人は、何と言うのだろう。

 父親のクルツは、夢遊病者のように無自覚なようすでアルハに近づくと、まじまじと我が子の顔を眺めた。

「…大きくなったな…」

 眩しいものでも見るかのように、目を眇める。一瞬、涙をこらえたのかと思った。

 その言葉は思わず出てしまったようだった。大家の家長である彼は、はっとすぐに我にかえると、さらに口元をひきしめて、今度は深々と頭を下げた。

「悪いことをした。…親が頭を下げるなどあらざることだが…リータにも、このとおりだ。長い間、すまなかった」

 息子の横に立つ妻にまで頭を下げる。部屋の中にいた他の人間がひどく動揺したのも無理はない。

「と、父様? どうしたの?」

 長女は、父親には叱られたことは数限りなくあったが、頭を下げられたことなどなかった。何が目の前で起こったのだ、と瞬きをする。

 それにはクルツは答えなかった。代わりに、戸口のほうを振り返って、そのむこうに声をかける。

「お前も入って来なさい。そんなところで愚図愚図したって結果は同じだ」

 いったい誰に、と思うと、部屋に入るのをためらっていたらしい人物は、俯きがちに姿を現した。

「セ…」

「セリツ!?」

 信じられない、と声を上げたのは、今度はアルハだった。

 

 あまりに予想外なことで、再開したらどんなふうに怒りをぶつけてやろうか、と思っていたアルハも、とっさに動きかねた。代わりにエ・ヒオスがもっともな質問をしてくれる。

「どうしてセリツが。いつここへ?」

「昨日の早朝に…。寄り道したから急いだんだけど、なんとか君たちより早く着けた」

 口ごもるセリツは、アルハに視線をあわせようとしない。

「…どういうことですか?」

 アルハは、父に向きなおって尋ねた。

「あなたは知っているんでしょう、セリツが僕を連れて失踪した訳を」

「ああ、それは…」

 言いかけて、クルツは少し眉をひそめた。「長くなる」と。立ち話ですむような問題ではないと言いたいのだろう。

 ではどこかに腰を落ちつけて、、とエ・ヒオスが促すと、今度はセリツがおずおずと口をはさんだ。

「あの…その前に。兄さん、その理由を族長はご存知なんですか?」

 その問いに、クルツは息をはいて首をふった。

「しかと伺ったわけではないが。私と、リータと、お前の三人が誰も他言していないのであれば、あれは私たちの胸の中の事情。誰に聞いたわけでもなく、自ら悟られたのだろう。聡い方だからな」

「そう…ですか、それで私を連れ戻そうとお考えに。…しかしそれなら、今ここで事情を話すよりも、族長の前で明かしたほうがよいのでは」

「それもそうだな。では今日は無理だ。明日、お前たちが戻ったことの報告という形で謁見しよう。それでいいな?」

「え……」

 後に延ばされた、という不満は湧く暇もなく、あまりにてきぱきと決められて、一瞬ついていけなかった。他の人間たちが固まっているうちに、クルツは母のリータに「客室を」と指示して、部屋を出ていった。

「族長のところに、明日の謁見の許しをもらいに行くんだね」

 セリツが兄の行動を説明する。そんなに堅苦しいところなのか、とアルハが思ったのが顔に出たのだろうか、叔父は苦笑して、「兄さんは規律に厳しいんだよ」とつけ加えた。

 どうやら自分の説は間違っていたらしい、とリツィは内心で肩をすくめた。先代族長の暗殺を試みたというなら、こうも平然と実家に舞い戻っているはずがない。まして兄とあんなふうに話せもしないだろう。

 それともアルハのためを思って観念したのだろうか。罪を認めて族長の前にかしづき、アルハを一族に頼む。けじめをつけることを、昨日のうちに兄のクルツと話し合っていたのなら、まだ納得はいく。

 そんなことを考えているうちに、エ・ヒオスが暇乞いをした。自分の家に戻って、また明朝こちらを訪ねるということだ。彼にとっても久しぶりの実家である。

 リータがいくぶん落ちついたようすで、アルハを客間に案内する。

「で、どうだった? 父様の人情は」

 母親の背中についていきながら、リツィにそう尋ねられて、アルハは唇をすこしとがらせる。少々悔しいが、本音を言うならば、

「及第点…かな」

 姉は、ふふっと笑って離れていった。

 彼女自身、先刻の父の姿には、胸が温かくなる思いだった。

 

 夕食は母のリータが大喜びで腕をふるってくれた。こちらの食卓事情に詳しくないアルハから見ても、さりげなく贅をつくしていて、しかもアルハの好物が添えられている。セリツから聞き出したのだろう。

 おいしい?口にあうかしら?と何度も聞くリータに、アルハはすこしはにかみながらも、心から頷いた。

 アルハの寝室も、リータが手ずから整えたらしい。就寝まで何くれとなく世話をしてくれて、たしかに嬉しいが気恥ずかしく、本当にここでゆっくり休めるだろうかと疑問に思った。

「アルハ。起きてる? 疲れがとれる薬草茶持ってきたよ」

 とりあえずは寝具の中に転がっていると、セリツがやってきた。

「おー。よくも、のこのこと顔を出せるね。でも飲む。ありがとう」

 アルハの冷たい口調にセリツは一瞬ひるんだが、冗談で言っているのが分かったようで、気をとりなおして床におちついた。

「セリツはどこで寝るんだ?」

「隣の隣。昔、僕の部屋だったところ」

 木目の床に胡座をかいてアルハに茶碗をさしだすセリツは、体の芯がほっとこの場に馴染んでいるように見えた。やはり、待ち望んだ帰郷なのだろう。

 帰りたくないばかりに、でたらめの書き置きをして逃げるとは、この人にかぎってありえないことだったようだ。

「本当にどこかに寄ってきたの? どこ?」

「ええと…僕が帝都に出て行ったとき、おせわをしてくれた人かな。帰ることになったからと、挨拶を」

 うけとった茶碗から、変わった香りの茶をすすり、アルハは首をかしげてみせる。

「ふうん。そんな人のこと、聞いたことなかったけどな」

「あまり、お会いできる人ではないからね」

 その言いようで、どうも身分の高い人物らしいことはうかがえた。

 都にそんな知人がいたとは、アルハには本当に初耳だ。意外だった。

「ところで、どうして俺はセリツに連れて行かれたかっていうのは、やっぱり今聞いちゃ駄目なの?」

「うう…兄さんが明日って言ったものを、抜け駆けするのもなぁ。族長の前で話したほうがいいと思うし」

「なんだか聞いていると……」

 実家に帰ってからの様子は、帰路に想像していたものとは少し違っていた。父親の謝罪は、どういう意味があったのか。

「セリツと、俺の両親…が、一致団結して俺をここから連れていくことにしたように思えるんだけど。というか、あの人の命令か」

「あの人って兄さんのこと?」

「いきなり親父とは呼べないだろ」

 言うと、セリツは軽く吹き出した。

「ダ・シャハンの当主を親父よばわりする息子か。強いなぁ…」

 けして、目の前にいる養父の育て方のせいではないな、とアルハは半眼で確信する。この昼行灯に似なくて本当によかった。

「ごまかすなよ」

「ごまかしてるわけじゃ。…ええと、そういうことも、明日話すよ。前情報はなし」

「ちえー」

 大いにふてて、ちょうど茶を飲み干したアルハは、茶碗をセリツに投げるように返して、あらためて寝具に横になった。体が温まり、落ちついている。四肢が布団に吸いつくようで、どうやらよく眠れそうだ。

「じゃあいいよ…。おやすみ」

「おやすみ…」

 目を閉じたアルハに微笑んで、セリツは静かに立ち上がった。

 15年は長かった。それだけの間、育ててきたこの子どもを、親元に返せる安堵はある。しかし、手放してしまう淋しさも、たしかにあった。

 

 翌朝は、積雲と蒼穹がいりまじり、晴天というか曇天というか迷うような空模様だった。風はあたたかい。

 族長を訪ねるのは、クルツとセリツ、それにリツィとアルハの兄弟で行くことになり、リータは留守役となった。それに、クルツの誘いでエ・ヒオスも加わることになった。

「本当は父の墓参でもしようと思ってたんですがね…」

 アルハを探しにいった張本人だから、と言われて同行するエ・ヒオスは、それほど乗り気ではないようである。しかしクルツは、他で無用心な噂を流されては困るから、と半ば強制的に彼を連れてきた。

「お父さん、亡くなってるの?」

「ああ、うん。今は父の弟が家を継いでるんだけど」

 ふうん、とうけながすが、そういえばこの男はダ・シャハンの傍流だというのだから、アルハの親戚筋である。そしてこれから会う族長もだ。つくづく、突然出てきた縁故の多さに戸惑わされる。

 族長の住居は、帝都の城のように壮麗でも華美でもなく、実用的であり実戦的だった。ダ・シャハンの本家よりも格段に広く、警備もしっかりしている。裏には石造りの神殿がある。

 門番にとりつぎを頼み、通された間でしばらく待たされる。

 アルハが族長とはどんな人なのだろう、と思っていると、隣に座るセリツはアルハなどよりよほど緊張しているようである。

「何、族長ってそんなに怖い方なの?」

 問われてセリツは、驚いたように顔をあげる。そして、壁際に立って何事か考えごとをしている兄をふりむいた。

「え、さあ…兄さんは、聡明な方だって言ってたよね?」

「ああ」

「え? セリツ、会ったことないの?」

 あいまいに頷く叔父に、アルハは少なからず驚いた。族長の傍流という家に生まれつき、これほど目と鼻の先に住まっておきながら、会ったことがないとは。族長かセリツが、よほど外に出なかったのだろう。

 そのあたりを尋ねようかと思っていると、「お待たせしました」と一人の男が入ってきた。

「クルツ様…」

 族長の側仕えだというその壮年の男は、困惑しているようだった。

「申し訳ないのですが、族長のお姿が見当たらないのです」

「見当たらない?」

「はい…朝の日課のお散歩に出られたきり。最近は地下壕に興味がおありでしたから、もしかしたらその中で迷われたのかと」

「…護衛は?」

「ついております」

 クルツが黙ったのは一瞬だけだった。次に口を開いたときには、もう決断を下して連れをふりむくばかりだった。

「私たちも探すぞ。セリツとエ・ヒオスは私と一緒に地下壕に来い。リツィは神殿と裏林を。アルハは不案内だからここで待っていろ」

「え!? まさか。俺も行きますよ」

 こんなところに、手持ちぶさたで待たされてはかなわない。アルハはあわてて、すでに歩き出していた四人を追った。

「…では、迷わないように、セリツと一緒にいなさい。地下壕のつくりは覚えているな、セリツ?」

「はい、小さい頃に遊びましたから」

 屋敷を出て、すぐにリツィは裏へとまわった。アルハたち四人はそのまま門を出て、いくつかある中で手近な入り口から地下壕に入った。手には、族長の側仕えから借りた灯りがある。

 縄梯子で地下に下りてみると、そこはあまり広い空間ではなく、どこかへの通路になっているようだった。人が二三人は立って歩けるようになっていた。そして、道は左右に続いている。

「私たちはこちらを行く。族長を見つけたら指笛か何かで知らせろ。見つからなくても、二の鐘がなったらここに戻れ」

「あと半時ほどですね。分かりました」

 二手に分かれ、左右に散ってから、セリツがアルハに壕のことを教えてくれる。もともとは貯蔵のために掘られたものが、戦時に拡大されて通路のようになった。今は一部を貯蔵庫に利用している他は、もっぱら子供の遊び場だと。ただし本当は、危ないからと遊ぶのは禁止されているらしい。

「時々、道が分かれているから、気をつけて…」

 行ったとたん、そのセリツが何かにつまずいて転びそうになった。

「危ないなぁ、ぼおっとしてるんだから…」

 アルハが呆れて、叔父の足元を角灯で照らしてやり、ふたりは同様にぎょっとして息をのんだ。

 セリツがつまずいたのは、倒れふす人間だった。ひとりだけではない、数えると三人はいた。あきらかに戦闘の跡がある。

「あの一番奥の人は、レハナ様の護衛だ」

 他のふたりは、護衛ではなさそうだな…と言いながら、セリツはひとりずつ検分していった。ひとりは事切れているようだが、護衛ともうひとりはまだ息があった。

 暗闇の中、角灯の灯りで照らされる血に、アルハは眉をひそめた。

「兄さんたちを呼んだほうがいいか」

 叔父が険しい顔で立ち上がるのを、アルハが制止した。

「待って。族長は?」

「護衛が逃がしたんだろう。この位置からすると、奥に逃げたようだから…。兄さんたちがあちらを探しても意味がない」

「そうじゃなくて。この人たち…族長を狙ってきてるんだろ? これで全員とはかぎらない。現に、族長はまだ逃げていて戻ってこない。うかつに指笛をふけば、敵も呼びこむんじゃないのか?」

 セリツはしばし黙った。そしてすぐに頷く。

「分かった、でも僕のほうに敵をおびき寄せられる。アルハ、君はここにいて。もっと兄さんたちの方に近づいてから音を出す」

「え? え、そういうことになるか?」

「そういうことだ。ここを動かずに。気をつけてね」

 有無を言わせずぬまま、セリツの姿はすぐに見えなくなった。どうも自分が庇われたらしいと気づいたのはその直後だ。あっと思ったが遅かった。いつもは頼りない叔父だったが、土壇場になると、どうやらあの父の弟としての血がさわぐのか。

「でも…ここでじっとしている法はないよな」

 護衛の男は、見たところ剣による傷は大したことがなかった。頭でも打ったのだろうか。ならばここで彼をどうこうするよりも、族長を探しに奥に行ったほうがよさそうだ。

 あの父にしてあの叔父ありなら、さらにこの息子ありとしてみようではないか。何もしないでは男がすたる。

 アルハは、足早に、しかしできるかぎり気配を殺しながら、族長が逃げたと思われる通路の奥へと進んだ。迷わないように、常に左手を壁につけておくことにした。

 見わたすかぎり、灯りはない。耳をすませば、一度高い笛のような音が聞こえた。セリツだろう。

 いったいどれほどの広さがあるのだ、と思ったところで、左手が虚空をかいた。曲がり角かくぼみがあったらしい。

 曲がり角であるなら、道に迷わないように曲がらねばならない。いったい何だろうと手でさぐってみると、その手首が何かにつかまれた。

「!」

 心臓がはねた瞬間に、強く腕をひかれ、口はふさがれる。気がつけば後ろ手に床に転がされており、背中に誰かの体重があるのを感じた。

 奪われた角灯が、アルハの顔の横に、音もなく置かれる。

「誰だ?」

 冷たい、誰のものとも知れない声が、アルハの耳元で囁いた。

                          続く