帰郷 〈1〉         日向夕子

 

 

 

 小さい頃に、お父さんとお母さんはどこにいるの、と泣いて彼を困らせた記憶がある。どこかに行くたびにできる友達が、かならず両親のところへ戻っていくのを見て、淋しくなったのだろう。

 彼は困って少年をあやしながら、ずっと先になれば会えるよ、と言った。

「今は会えないけど、アルハが毎日いい子にして暮らしていれば、我慢したぶんだけ神様が見ていて、ある日会わせてくれるからね」

 そのときあえて「ずっと先」と言ったのは、もしかして両親が既に亡くなっているからではないか、と思いいたったのは、それから何年か経ってからのことだった。

 

 

 目を覚ますと、借り部屋にはアルハひとりだった。よくあることなので特に気にせず、のろのろと寝台を起きだして、昨夜の食事の残りを食べる。

 今日はいい天気のようだった。それがアルハの気分もよくしたので、彼は軽い足取りで階下へとおりた。通りに出る前に、大家のカティがあいさつしてきた。手をふって応える。

 石で舗装された通りを、仕事先の食堂まで歩いていく。途中ですれ違うのが鍛冶屋の徒弟たちで、アルハはうらやましそうに彼らに視線をなげた。

 鍛冶屋でなくともよい、どこか職人に弟子入りして、修行をしたかった。そうして技術を手に入れて、安定した職につきたかった。日雇いに毛が生えたていどの、今の仕事よりは。

 今彼がしているのは、食堂の手伝いである。注文取りから料理の下ごしらえから掃除から、何でもして給金をもらっているが、所詮は手伝いにすぎない。たとえば、この食堂を将来継ぐようなことは考えられない。そもそも、継ぎたいほど立派な食堂でもないが。

 アルハが不本意に現在の状況にあるのは、保護者のせいだった。

 アルハが一緒に暮らしているのは、セリツという30歳ほどの男で、彼がアルハを16年間育ててくれた保護者である。しかし、どうやら親というわけではないらしく、その間柄は、アルハも知らない。

 とにかくこのセリツが、どこにも弟子入りすることは許さないというので、アルハはこうして食堂で働いているのだった。

なぜ弟子入りしてはいけないかというと、それはセリツがどんな場所にせよ、定住しないからだとアルハは理解していた。アルハが小さい頃から、彼らはよく移動したので、長期間ひとつところに住みつかなくてはならない修行は都合が悪いのだった。

セリツに尋ねても、アルハの予想通りのことを言っていた。実は他にも思いあたる理由はあるのだが、それは口にするのがはばかられて、いまだ確かめたことはない。

「おはよーございます」

 食堂につくと、店の主人夫婦にあいさつして、まずは掃除にとりかかる。

 厨房からは、朝の定番であるスープのいい香りがしている。掃除から客が入ってくるまでの短い時間、アルハはこのスープを一杯分けてもらえることになっている。

「アルハ、まだしばらく、ここにいられそうかい?」

 店の女主人が尋ねてくるので、アルハは首をかしげてみせる。

「分かんない。親代わりのセリツ次第だけど、まだどこかに行くって話はでてないです。でも、セリツはいつも言い出すのが唐突なんだけど」

 アルハはよく働くので重宝されている。食堂の主人夫婦の息子は、学院に行っていて滅多に家に帰らないのだそうだ。

「その親代わりの人は、何の仕事してるの?」

「さあ…俺が小さい頃から、あちこち移動してましたけど、たまに日雇い仕事をとってくるくらいで」

 こう言うと、たいていの人は眉をひそめる。女主人も例外ではなく、「変な人じゃないだろうね」と心配そうだ。

「それが、酒も煙草もやらないんですよ。脳天気だけど生活はきちんとした人で。詳しくは知らないけど、南の人だから、転々とするのにも何か思うところがあるんじゃないですか?」

 そう言うと、ああ、と女主人は納得した顔をする。アルハもセリツも、肌色が濃く、髪が暗い赤茶である。一目で南方の部族出身と分かる容貌だった。

 生活習慣のまったく違う部族からやってきたのだから、多少変わった暮らしをしているのもありか、と誰もが納得するのである。もっとも、アルハはずっと、ここ帝都とその近辺で育ったので、南方の諸部族も遠い異国のようにしか感じない。

「ほら、どうせまた固いパンかじってきたんだろ、食べな」

 もうすぐ客が入ってくる。アルハは笑顔でスープをうけとると、はやく食べるためにふうふうと息をふきかけた。

 

 この日も食堂は繁盛していた。客席と厨房とを忙しく立ちまわり、昼時を大きく過ぎてから、ようやく客の数がへって、空気がおちつく。

 その時になってようやく、アルハは客のひとりがやけにこちらを注視していることに気づいた。

(? 何かしたかな?)

 特に失敗した覚えはない。それにその客―それこそ南方出身であるらしい若い男―は、悪意ある視線はむけてこなかった。

 持ち物から判断すると、旅行者らしい。黒髪の女性が連れのようだが、こちらはアルハからは背中しか見えない席に座っている。

 何か文句を言われたわけでもなし、まあいいか、と無視することにすると、ちょうどその客に運ぶ料理ができた。

「お待たせしました」

 料理をテーブルに置くついでに、女性のほうをちらっと見てみると、目もとのくっきりした美人だった。南方の民族は顔立ちがはっきりしているので、女性であるていど整った顔だと、非常にもてる。

「君…」

 アルハに声をかけてきたのは、さきほどからアルハを見ていた男のほうだった。声をかけるどころか、人好きのする笑顔に隠れて、しっかり腕をつかんでいる。

「どこかで会ったことないか?」

 それは女の子を誘う常套句では、と思いつつ、アルハは首をふった。

「ないですね」

「そうか…」

 アルハと女性がじっと、アルハの腕をつかんでいる男の手を睨んでいるので、男は手をはなした。

 どんな関係かは知らないが、仮にも女性を同伴していながら、先のような言葉を(男にではあっても)かけるのはどうしたものか、とアルハは冷たく思ったが、男はさらにとんでもないことを言い出した。

「下心があるんだけど、君、ちょっと僕につきあってくれないか?」

「…はあ?」

 女は知らない顔をして、他所をむいていたが、テーブルの下からした鈍い音と、男の身のすくませ方で、アルハは彼女が男のすねを蹴ったことに気づいた。

「ごめんなさいね、冗談よ」

 アルハから顔をそむけていた女は、蹴られて口をつぐんだ男の代わりに、ふりかえってにっこりと笑う。とても魅力的であったが勝気そうな笑顔だった。

 その彼女に免じて、アルハも冗談で返すことにした。

「変なバイトは禁じられてるもので。次の料理、すぐ持ってきます」

 身をひるがえすと、後ろで女が男の頭を叩いてるらしい音がした。

 とりあえず、その日はそれで済んだのだが。

 

 アルハが帰宅すると、セリツはもう借り部屋にいた。夕食のしたくを終えて、手慰みにヴァントーという弦楽器をいじっていた。

「ただいま」

「おかえり。ご飯できてるよ」

 アルハが食卓に夕食を並べる間、セリツは南国の香りのする曲を一曲弾きおえた。口の中で何か呟いているから、歌もあるのだろう。

「セリツ、この街、いつまでいる? 食堂のおばさんに訊かれたんだけど」

 言いながらアルハが椅子に座ったのを合図に、セリツも楽器を横に置いて食卓に近づいてくる。

「まだ、しばらくはいる予定。特に急ぐことがないから」

 じゃあ今まで、一度でも何かに急いだことがあったのか?と言いたいのを、アルハはこらえた。この保護者の考えていることは、彼にはよく分からない。いつものんびりした話し方をしているし、風のふくままに住処を転々としているように見えるのだ。

 ふたりの容貌は似通ったところがいくつかあったが、セリツの妙に茫洋とした雰囲気は、絶対に自分には共通していない、とアルハは思う。

「…そういえば、今日、変な客が来たよ」

 世間話のつもりで、アルハは南方からの旅人のことを口に出した。

「南部の民族の二人連れで。見た目がいい、男女の二人づれなんだけど、男のほうが、俺の腕をつかんで、『会ったことないか』とか『下心があるんだけど、ちょっとつきあってくれないか』とか、変なこと言うんだ」

「へー……」

 気のない返事のようだったが、セリツの持つスプーンは、それからしばらく動かなかった。しかし、アルハは気づかない。

「南の人って、みんなああなの?」

「さあ…そんなことはないと思うけど。その人が、ことさら変だったのかな。どんな人だった?」

「どんな人って…旅行者らしくて、男のほうは俺たちみたいに赤茶の髪と目で、女の人は、黒髪に黒い目の、きれいな人だったよ。ふたりとも20いくつってとこで」

「へー…」

 今度もセリツは、聞いているのか分からないような反応だった。

 

 翌日、アルハが目を覚ますと、セリツが寝台の脇でパンをかじりながら、とんでもないことを言い出した。

「やっぱり、この街出てこうかな」

「はあ!?」

 起き抜けにそんなことを言われたアルハは、自分の耳を疑った。大きな声に驚いたのか、セリツは落ちつかなげにパンを両手で何度も持ちかえる。

「何言ってるんだよ、昨日の今日で。いったいいつ行く気なの」

「今日にでも…」

「はあー!?」

 今度こそアルハは呆れかえった。

「そんなことできるわけないだろ、食堂のおじさんおばさんに何て言えばいいのさ。こんな急にやめるなんて。…セリツだって、仕事ないのかよ?」

「昨日まで、代書屋の手伝いしてたけど…」

 今日は行く気がないらしい。昨夜にくらべて、どういう心境の変化か。

「…とにかく、何考えてるんだか知らないけど、急ぐことがないっていうんなら、ちょっと頭冷やして。俺は食堂に行くからね。近々ここを離れるにしても、今日明日はやめてくれよ」

 セリツは、不承不承といったかんじで頷いた。納得していないのかもしれない。アルハは、食堂の主人たちに近く辞めることを話さなくては、と内心でため息をついた。

 

 そして実際、客が入る前にそのことを話したのだが、「そんな急に、どうして?」と訊かれても、首をかしげるほかない。なんだかもやもやした気持ちのまま、仕事をすることになった。

 そんなところに、またしても昨日の奇妙なふたりづれがやってきた。今度は、夕刻近くなってからだった。

 ああまたいるな、と思っただけで、特に注意をはらっていなかったのだが、料理を運んでいくと、またしても男に腕をつかまれた。

「お客さん…」

「こんばんは! ねえ君、仕事終るのいつ?」

 アルハはそっと女のほうを見たが、今度は彼女も助けてくれなかった。諦めたのかもしれない。

「夜には終ります。暗くなる頃には。…お客さん、他の仕事がありますから…」

「え、夜まで働いてるの? 親御さん心配するだろ?」

 渋面を隠そうともしないアルハに、しかし男は食い下がった。

「別に心配してません。放してもらえませんか」

「あ、ごめん」

 けして申し訳なく思っていないのが、ありありと分かる謝罪だったが、アルハは何も言わずにその席をはなれた。その後できるだけこのふたりには近づかないようにしたので、彼らが妙に真剣な様子で、何事か話しているのも、アルハの目には映らなかった。

 

 仕事からの帰り道、アルハは今朝のセリツの豹変ぶりについて考えながら、機械的に足を進める。

 そういえば、前から唐突なところのある人だったな、と様々な事例を思い出してみると、少しは気が晴れた。考えていることを顔に出さない人なので、よけいに急な印象をうけるのだろう。今回のはいささかやりすぎだったが。

 昔からこんなふうに振り回されていたのは確かだ。どこにも弟子入りできないことにしても。アルハが、そういうことに理不尽さを感じる年になったということもあるのか。

 考えごとをしながら歩いたため、いつのまにか借り部屋の扉の前に来ていた。足音が聞こえたのだろう、扉は中から開かれる。

「おかえ………」

 「り」はいつになったら出てくるんだろう、とアルハは思っていたが、セリツは扉を開け、「え」の口をしたまま、その場に凍りついていた。

 どうしたの、とアルハが言おうとしたとき、

「…セリツ!?」

 アルハの背後から、驚きに充ちた誰かの声が飛んできた。

 ふりむくと、なんとそこには、例の珍妙な客、ふたりづれがいる。

「つけてきたんですか!?」

 条件反射的に叫びながら、アルハは何かおかしいぞ、と心の中にひっかかるものに気づいた。たった今、このふたりは、自分の保護者の名前を呼んでいなかったか?

 アルハの声で我にかえったセリツは、少年の肩を抱いて部屋の中にひき入れ、扉を閉めようとした。

 すかさず、そうはさせるかと、ふたりづれの男のほうが走ってきて、体の半分を滑りこませる。

「セリツでしょう!? やっと見つけた、探してたんですよ!」

「え、な、なんで?」

 うろたえながらも、セリツは扉を開かれないよう、取っ手をひっぱっていた。しかし、外側から女性が反対にひく。さすがにふたりがかりで攻められては、彼の努力は無駄に終った。

 男女のふたりは、余裕綽々に部屋へ入ってきて、後ろ手に扉を閉める。セリツが圧されるように一歩下がったので、アルハも何が何だか分からないながらも、つきあいで後退した。

「なんでも何もないでしょう。いきなり集落から出奔しておいて」

「しかも、自分ひとりでは飽き足らず…」

 女性のほうが、アルハに意味深な視線をむける。

 この状況に、当然ながらアルハは混乱した。セリツが集落を出奔した? それはいったい、いつのことなのか。そして、今の女の言葉は、どういう意味だったのか。

 彼は今まで、保護者と自分が南部の部族を離れ、放浪している理由を、何となくではあったが、まったく別のように考えていた。思わず、その推察を口にする。

「俺、セリツと俺の部族は、小さくて帝国につぶされたか何かしたんだと思ってた…だから、俺には親がいなくて、都で転々としてるんだって。…違ったのか?」

 何故なら、アルハの目から見ても、セリツはけして好き好んで部族を離れたようには見えなかったからだ。都の暮らしに慣れてはいたが、機会あるごとに、故郷の歌を歌い、ヴァントーを鳴らし、アルハに剣舞を教えた。部族の風習や規律をいまだに守り、生活していたのだ。

 だから彼は帰るところを失ってしまったのだと、そしてその一般的な理由といえば、帝国かどこかに部族を滅ぼされたのだろうと、思っていたのだ。

 養い子の言葉に、セリツはひどく悲しげな顔をした。まるで、自分がついた嘘がばれて、後悔しているかのような表情だ。自分が勝手に誤解していたことで保護者を傷つけるつもりはアルハにはなく、あわてて言いそえる。

「いや、そうかな、と思っていただけで、確信してたわけじゃないし…セリツが何か言ったわけじゃないだろ。俺が想像しただけだよ」

「…いや…すまない、色々黙っていて」

 セリツはいたたまれなさそうに俯く。そんなふたりのやり取りを見て、闖入者の男女は、顔を見合わせた。

「何となく、状況は分かりました。もしよければ、ゆっくり腰を落ち着けて話したいんですけど」

 男が、至極まっとうな調子で提案した。それをうけ、セリツは浮かない表情でふたりに椅子をすすめる。

 ようやくアルハも、この男の昨日からの奇行が何であったか分かった気がした。彼がセリツとアルハを探していたのだったら、何らかの方法で、彼らは、自分が探し人であると気づいたのだ。それで散々、詮索と接近を試みたのだろう。

「さて、と…」

 普段は使わない椅子も出してきて、四人が食卓のまわりを囲むと、珍客の男のほうが場を改めた。

「まず、自己紹介からいきましょう。俺は、デル・レハナのエ・ヒオス」

「私は、同じくデル・レハナのリツィ。分かってると思うけれど、クルツの娘です」

 クルツという名は知らなかったが、アルハもデル・レハナという名はよく耳にしていた。南方にあるいくつもの部族の中で、最大を誇るひとつだ。南方部族といえば、デル・レハナと言ってもいいほどである。アルハが生まれてからこちら、帝国側と南部側で大きな諍いがないのは、このデル・レハナの政治力によるところが大きいと聞く。

「さてと、この中で一番状況を飲み込めていないのは、君のようだからね。アルハ、だよね? 君がこの人や自分のことを、どうとらえて育ったのか、教えてくれる? 説明しやすいように」

 請われ、アルハは困惑しながら話した。物心ついたときから、セリツに育てられたが、両親については何も知らないこと。セリツとの関係も知らないこと。定住はせず、ほとんどその日暮らしをしていたこと。

 アルハがその簡単な説明を終えると、ふたりは「そうか…」と息を吐いた。リツィのほうが、先に口を開く。

「間柄でいえば、」

 まっすぐにアルハを見つめ、彼女は思いもよらなかったことを告げた。

「セリツはあなたの叔父にあたるわ。私の父の弟だから」

 アルハは、その言葉を反芻し、その不可解さに眉をひそめる。

「私とあなたは姉弟なの」

「…ええっ!?」

 愕然として、隣に座るセリツに問う。

「叔父だったのか!?」

 すると彼は不安げに頷いた。視線を微妙に養い子からはなしている。きまりが悪そうに。

 そんなにひけ目を感じなくてもいいのに、と思いつつ、アルハの心情は複雑だった。今まで関係が不明であった保護者との、血縁を教えられて安堵するような、あるいはかえって実際の血のつながりが、今まで育ててきてくれたセリツとの絆を無粋に俗化するような。

「…で、姉だって!?」

 問題発言をしたリツィのほうに向きなおると、黒髪の美女は真顔で頷いた。ついでに家族構成をつけ加えてくれる。

「両親に、あと兄がひとりいるわ。あなたを入れて、三人兄弟。あなたは末っ子なの」

 思いもよらない真実に、アルハは何も言えなかった。自分という人間が生まれている以上、過去にしろ現在にしろ両親がいるのは分かっていた。しかし、兄弟のことは不思議と念頭になかったのだ。

「私たちの一族は、族長の傍流で、大きな家だから家名があるの。ダ・シャハンという。父のクルツはダ・シャハンの本家の長。跡取りは兄のアディンよ」

「俺はダ・シャハンのさらに傍系で、まあ遠縁です」

 親切なことに、リツィの横に腰かけているエ・ヒオスが、紙と鉛筆をとりだして、名前が出た分の系図を書いてくれた。

「こんなに生きてる家族がいるなんて、思わなかった…」

 アルハが呟くと、セリツがますます身を縮めた。

 そちらに気を遣う余裕もなくなってきて、アルハはずばり尋ねることにした。

「で、どうして俺はセリツに育てられたんだろう?」

「あなたが一歳になったころ、セリツがいきなり、あなたをさらって失踪したからよ」

 リツィの言い方も情け容赦がない。

「そのころ私は5歳くらいで、何があったのかよく分からなかったけど…。母様は沈んでるし、父様はなんだか、ぴりぴりしてるし。セリツが弟を連れて出奔したってことは、外部にはできるだけ秘密にしていたみたいだけど、そんなの簡単に漏れるものね。ちょっと大きくなったら、変な噂が耳に入ってくるの」

「…どんな?」

 聞きたくないけれど、気になる、といったふうにセリツが尋ねる。

「アルハは母様とセリツの不義の息子で、それが父様にばれそうになったから逃げたとか。あるいは、父様がふたりを殺して、それを隠蔽したとか」

 聞かなければよかったと思ったらしい。セリツは頭をかかえて力なく反論した。

「だって、あのころ僕はまだ17歳だったじゃないか…それだと、15のときにもう密通してたのか?」

「年成りの儀式から一年か。まあ、無理じゃないけど、叔父さんの性格じゃありえないわね」

「ひどいなあ」

 そう言って笑ったのは、セリツではなくてエ・ヒオスだった。当事者は姪にやられて食卓につっぷしている。

「不思議なことに…これも私は覚えていないんだけど…その当時、父は叔父さんを探すのを禁じたらしいの」

「書き置きがあったし、当時は部族も大変だったみたいだからね。まあその頃、俺も10歳ですが」

 エ・ヒオスの補足に、アルハは首をかしげる。

「書き置き…? それに、何が大変だったって?」

 エ・ヒオスが説明してくれたことによると、何の前ぶれもなく出奔したセリツだったが、手紙を残していったのだそうだ。曰く、部族での生活に馴染めず、都への憧れを打ち消しがたい。簡単に部族を離れることを許される身でもないので、黙って出て行く。それでも故郷を想う慰めに、身勝手にも甥を連れて行くことを謝る…と。

「うわぁ何それ。すごい身勝手」

 いくらなんでも、本当にそんな書き置きしたの? と隣の保護者を見やると、かつてないほどの情けない顔である。思わず目をそらした。

「で、部族が大変だったっていうのは?」

「その当時の族長、今では先代の族長になるんだけど…その方が、事故で怪我を負われて、ちょっと危なくて。主集落が騒然としていたんだ」

「そのときは持ちなおされたんだけど、結局お身体が弱くなられて、数年前に亡くなられたの」

「へえ…」

 そういえば、何年か前にそんな噂を聞いたかもしれない。所詮は他の国のこと、と興味をもっていなかったが。

「そういう不穏な時期だったから、だと思うんだけど、父様はふたりを探さないように、と命じたの。そちらに数を裂いて、主集落を手薄にすることを恐れたのね。それで、これまでの間、私は弟の居場所を知らずにいたのよ」

 そういえば不可解な話だ。15年も前にいなくなった自分を、当時は子供だったというこのふたりが、今になって探しだした理由は何だろう?

 アルハの疑問は、リツィに続いて説明をしてれるエ・ヒオスが晴らしてくれた。

「先代族長の後は、今の族長、『漆黒のレハナ』が継がれた。族長は、レハナの名を世襲するんだ。その『漆黒のレハナ』が、数ヶ月前に、セリツを探してほしいと依頼してきたんだ…」

「族長が?」

 これはセリツも意外だったらしい。聞き返して、何事か考えている。

「じゃあ、俺の父親だっていう…クルツって人は?」

「クルツ様は、…まあ探すなら探すでいいんじゃないか、という感じで…あまり積極的ではなかったかな」

さすがにこれは、エ・ヒオスも言いにくそうだった。リツィも浮かない顔をしている。

「そうですか…」

 なんだか急に、興ざめした。

 あまりにも急な話で驚きはしたが、家族ができたのだ。それは喜ぶべきことだった。セリツの自分勝手な行いについては怒るべきだろうが、それよりも、強い虚しさを感じるのは。

 我が子を失ったというのに、それを探そうともしない、実の父親。

 ほとぼりが冷めて、探しだそうという動きが出てさえ、消極的な態度の父親のもとへ、自分は「故郷だ」と言って帰らなければならないのか?

「そんな家長だから、セリツも逃げだしたんでしょう」

 憮然としてアルハが呟くと、セリツははっとして顔を上げ、泣きそうな目で養い子を凝視した。30歳を過ぎてこの人は、とアルハは嘆息する。

「違うんだアルハ、そうじゃなくて…兄さんは…」

「いいんじゃないの」

 戸惑いながら兄をかばおうとするセリツを、遮って皮肉に苦笑したのはリツィだった。

「私も今回のことについては、父様は非情だと思ったもの」

 それでもセリツは言葉をさがし、言いつのる。

「そうじゃないんだ。兄さんは、自分の責任にとても厳しいだけなんだよ。…アルハ、こんなことを僕が言うのも、本当に身勝手だって分かっているけれど、デル・レハナに戻って、兄さんと話してみてくれ」

 アルハは、食卓の木目をじっと見た。そして、次に育て親の不安げに揺れる双眸を見た。この男の、理解しがたい厭世のおかげで、どれほど自分の運命が変わったことか。

 だが…と、もう一度木目を眺めた。

アルハが漠然と考えていたことを、エ・ヒオスが代弁してくれた。

「それにしても、子供を持ったこともない17の若造が、故郷の思い出とはいえ、よく乳飲み子を手放さずにこれまで育ててきましたね。…もうとっくに、どこかに養子に出しているかと思っていました」

 そうなのだ。アルハを子供のころから育ててくれたセリツは、けしてそんな自分本位な人間ではなかった。たしかに、理不尽と思うようなことは多々あったが、アルハをまっとうに育ててくれたことは確かだ。

「分かった。とりあえずデル・レハナに行って、無事だったことを報告して、話してみるよ」

 その言葉に、セリツはほっと安堵の息をついた。

 それは、今日のこの出来事に対する安堵というよりは、15年間背負い続けた荷物を肩から下ろしたような、そんな吐息だった。

 

 とりあえずデル・レハナに行くにしても、数日の猶予をくれ、とアルハが言ったのは、もちろん食堂の仕事があるからだった。

 リツィとエ・ヒオスのふたりは快諾し、その晩はそれで帰っていった。

 ふたりが泊まっている宿屋に帰る夜道、石畳をこづく足音はあたりに響き、その合間からリツィがふと呟く。

「セリツは、本当にあんな訳の分からない理由で出奔したのかしら」

 エ・ヒオスが返答するまでに、わずかな沈黙があった。沈黙には色々な意味があるが、このときのそれは、同意を表すものだった。

「…どういうこと?」

「だって、いくら部族が嫌になったからって…いえ、出て行くのはいいの。けど次男なんだから、逃げ出なくちゃいけないほど、反対されたかしら。長男が家を継ぐのは、原則だけれど…。それに、さっき言ったみたいに、彼はたった17歳で、子育ての経験は皆無だったのよ?」

「わざわざ生まれて間もない子供を持っていく理由が分からない、か…」

「嫌な想像だけど、私を連れて行ったほうが、いくらか楽だったと思うわ。まあ女の子だし、誘拐されたら騒ぐ年だろうから、問題がないわけではないけど…」

「リツィの脅威は、赤子への負担を凌駕したというわけか」

「あんたってときどき本当に失礼ね」

「すみませんね」

 悪びれないエ・ヒオスは放っておいて、それに、とリツィは続ける。

「どうして族長は、いまになってあのふたりを探そうなんて言いだしたのかしら…。だって、当時はダ・シャハンの中でこそ、一族の名折れだとか何とか、話題になったけれど、族長側からしたら、所詮は昔の話だし、部下の一族の内部問題じゃない」

「そうだね。ダ・シャハンの不肖の次男坊がいようがいまいが、いままで15年間滞りなく部族は守られてきたし、別に問題は起こっていない」

「でしょう? どうしてかしら…」

 それは多分、「何故セリツはアルハを連れて失踪したのか」という謎とつながっている。ふたりとも、口には出さないが確信していた。彼らの頭上にある、黄白の月ほどにはっきりと。

 

 アルハはなかなか寝つけなかった。何度も寝台の中で寝返りをうち、あまりにも唐突に、あまりにも大量にもたらされた、自分の身の上話が頭の中を巡って、消えないのだ。

「…セリツ? 起きてる?」

 小声で訊いてみたが、返事はなかった。しかし同じ部屋で寝ているはずの叔父の寝息は聞こえない。眠ったふりをしているのだった。

「なあ、どうして俺を連れてくることにしたんだ?」

 あいかわらず、沈黙しか返ってこない。

「赤ん坊を連れて逃走なんて、大変だと思わなかったのか? 思い出の品として持っていくなら、ヴァントーだってあるのにさ…」

 アルハは、できるだけ責めているような口調にならないように努めながら、どうして自分がこんなに気を遣わなくてはならないんだ、と思った。

「どこにも弟子入りさせてくれなかったのは、俺がデル・レハナ以外のところに故郷を持ってしまうのが嫌だったんだろう? セリツにとって、デル・レハナが故郷だったんだから」

「…そうだな…」

 ようやく、囁くだけの返答がやってきた。

「定住もできなかったし…。うん、やっぱり、アルハがどこかに落ち着いてしまうのが、嫌だったのもある」

「どうして俺を連れてきたんだよ?」

 もう一度そう尋ねると、今度は恐る恐る、うかがうような声だ。

「赤ん坊だったら、自分の境遇に疑問を持たないかと思って…やっぱり、独りで集落を出るのは、寂しすぎたから」

 それにしても、とアルハは枕の上で、頭をセリツのほうにむけて口をとがらせた。

「両親はもうとっくに死んだんだと思ってたよ。どうして昔、『ずっと後にならないと会えない』って言ったんだ?」

「え…ええ? だって、あれは…」

セリツが驚いたように声を大きくした。身じろぎしたのが伝わってくる。

「何だよ」

「アルハが『お父さんとお母さんはどこにいるの』って言うから、『遠くにいるけれど、いつか会えるからね』って答えたら、それから毎日、『いつかっていつ? 明日?明後日?』って聞いてくるからじゃないか…。子供に、具体的に何年後、って教えても、そんなの永遠にやってこない時を指してるだけなんだって分かったから、『ずっと後』って言わなきゃいけなかったんだよ。覚えてないの?」

「…忘れてた」

 いまだに思い出せないが、もしそれが本当だったとしたら、ずいぶんこの保護者には迷惑をかけたものだ。それにしても、「いつか会える」と教えたということは、将来アルハを親元に返す気があったらしい。

「前々から、分かりにくい人だとは思ってたけど…本当に変な人だね」

「ええ…? そうかな…」

 叔父の困惑ぶりに密かに微笑んでから、ようやくアルハは心地よい眠りにはいっていった。

 まどろみの中で、「ごめん」という養親のつぶやきを聞いた気がする。

 

 翌朝、目覚めると部屋には自分ひとりだった。いつものことか、と思ったが、食卓に何か紙が置いてある。何だろう、と見ると、叔父の端麗な文字が並んでいた。彼は代書屋で働くだけはあり、達筆である。

「…?…」

 書き置きなど滅多にしない人なのだが、と不審な面持ちで、アルハはそれを読んだ。一度目を通してから、もう一度最初から読み返す。もう一度。結局、三度読み直した。

 その置き手紙の内容をすっかり理解した瞬間、アルハは激情にかられて、卓の足を思いきり蹴っていた。

 

 リツィとエ・ヒオスのふたりは、その日もアルハの働く食堂に顔を出した。昼時を過ぎた頃である。仏頂面のアルハを見つけ、エ・ヒオスは笑顔で席からひらひらと手をふった。

「いらっしゃいませ」

 微塵の愛想もないアルハに、エ・ヒオスは苦笑した。

「機嫌が悪そうだね。嫌な話を聞かせたから?」

「いえ、昨日のことは、別に怒っていません。特に、あなたたちには怒る理由がありません」

 注文をとりながらアルハは憮然と言う。

「じゃあ、デル・レハナに行くのが嫌になった?」

「いいえ。約束どおり、行きますよ。ただ、僕だけですけど」

「え?」

「セリツは行きません」

 メニューを眺めていたリツィが顔をあげた。ふたりの視線が、アルハのよせられた眉間に集中する。

「…何で?」

「またもや失踪したんですよ」

 言いながら、身につけていたセリツの書き置きを取りだし、卓にのせた。ふたりが読み終わったころを見計らい、苦々しく口の端を上げてみせる。

「で、ご注文は?」

 

「なんて人なの! 呆れたわ」

 アルハが注文をとって厨房に引き返してから、リツィは破りそうな手つきで置き手紙を握りしめ、吐きすてた。

「そんなにデル・レハナに帰るのが嫌なのかしら? アルハの口ぶりだと、故郷を慕ってはばからないようなのに?」

「もともとデル・レハナを厭って出て行ったとは言うけどね。まあ、族長が直々に探索を命じられたんだから、一度帰って弁明のひとつもするべきだと、分かっているはずなのにねぇ…」

 エ・ヒオスはなんとか無事に、置き手紙をリツィの手から抜きとり、もう一度まじまじと見た。

『寄らなければいけない所があるので、一緒には行けません。君はあのふたりに連れて行ってもらって、デル・レハナに行ってください』

「だけど、これだったらデル・レハナに帰りたくない、とまで読むのは穿ちすぎかもよ?」

 エ・ヒオスが中立的なことを述べると、彼のもつ手紙の上に、ドン、と大きな音をたてて、熱い料理ののった皿が置かれた。

「あの人に寄るところなんてあるわけないでしょう。ずっと各地を転々として、落ちつかずにきたんだから」

 怒りを含んだアルハの低い声。いつのまに来ていたのだろう。エ・ヒオスは心中おののきながら、そっと皿の下から紙片を取り出そうとする。

 まだアルハが何か言うかと思ったが、予想に反して少年は料理を置いただけで去っていった。

「…しかし、まあ、常識的に考えれば、これは帰りたくないんだろうね、デル・レハナに」

 努めて何もなかったようにエ・ヒオスが言うと、リツィはすでに運ばれてきた料理を口に運んでいた。

「本当にアルハがセリツの子供なんだったりして。それだと、セリツと父様の態度には説明がつくわ」

「族長については謎だが…」

 さらにセリツを探して、四人そろってからデル・レハナに戻るか、それともこのまま三人で戻るか、選択の余地はある。しかし前者はどれだけ時間がかかるとも知れない。運良くセリツを見つけ出しても、本人に帰る気がないのでは、時間の無駄にもなりかねない。

 ここは、ひとまずアルハだけでも連れ帰ろう、とエ・ヒオスは心中で決めた。もとより、アルハやリツィはそのつもりのようである。

 

 数日後、三人は無事に帝都を発つことができた。食堂の主人夫婦は、アルハがいなくなることを残念がったが、本当の親が分かったのだということを話すと、我がことのように喜んでくれて、食堂の仕事なんてなんとかなるから、早くに行きなさいと言ってくれたのだ。

 実際、次の日にはもう新しい人間が、アルハの代わりをつとめていることだろう。

「馬は乗れる?」

 エ・ヒオスが尋ねる。アルハはなんなく頷いてみせた。彼を育てるうえで、セリツはたいていのことはできるように仕込んでくれたのだ。たとえばそれは、部族に伝わる剣舞のような、実用性のないものも含んだが、それも、将来デル・レハナに帰ることを見越してのことだったのか。

 今、アルハをデル・レハナに向かわせているのは、真実を知りたいという欲求がひとつと、もうひとつは、セリツや父親に対する何とも言いがたい怒りだった。特に、セリツに対して。

(仰せのとおりデル・レハナに帰って、いつか散々罵倒してやる…)

 

セリツが謝った理由を、アルハがすべて知るまでには、まだ少し時間がかかることになる。

 

続く