「カマンベールの香り」              刈谷真裕美  

 

不思議な香りが辺りを取り巻いていた。

 一歩足を踏み出すごとに、その芳香は強くなる。いや、もう芳香なんていう上品な言い方はこの香りには似つかわしくない。
「足の裏の香り。」それがこのニオイを呼ぶにふさわしい香りの名称であった。
「ご主人様!」
 少な目の長い髪を、うなじの後ろでまとめた青年、ビガーは、主人の名前を呼んだ。
 金色の長い巻き毛を、惜しげもなく肩の下まで垂らした「ご主人様」であるところの青年…実は誰もが知るところの身分、この土地の領主であるのだが…は、呼ばれて振り向いた。名をリッカスという。
「ご主人様、なんなんでしょう?この臭い…いや、現象は、一体どういうことなのでしょう?」
「ええい、落ち着けッ!」
 リッカスは、冷や汗を流しながら辺りを見渡した。
 ここは、昨日まで…。いや少なくとも、彼が寝間着にナイトキャップに靴下に身を包み、大好きなキリンのぬいぐるみを抱いてベッドにはいるまでは、確かに彼の部屋の窓からは、見慣れた風景が広がっていたはずなのだ。
 見慣れた風景。少しぱさついた赤茶けた土に、申し訳程度に草木がパラパラと生え、ないよりはマシかな…という程度の小川がちょろちょろと流れた、控えめな…(というか貧しげな)風景が。先祖代々、この地の領主として、リッカスの家系はここに住みついていたのだ。
 それが、今はなんとしたことだ。
 
 パルメザンチーズの砂。
 ブルーチーズを実らせた木。
 どろりと流れるカマンベールチーズの川。
 辺りに立ちこめるのは、少量でなら美味しく楽しめるが、ここまで自己主張が強いとただの悪臭でしかない、恐ろしいばかりのチーズ臭…だった。
 あまりに強いチーズの香りに、結構チーズ好きだったはずのリッカスでさえも、胸がむかむかしてくる。
 ビガーなどは、チーズ嫌い…特に、ブルーチーズが世界で一番嫌いだったはずなので、もうほとんど気も遠くならんばかりに違いない。
 その世界で一番嫌いな食べ物が、ここよここよとばかりに、木の上から鈴なりに臭いをまき散らしているのだ。…それもあちこちで。
「おのれっ!悪霊の仕業か!?」
 リッカスは足元の木の枝を拾うと、端を両手に持ってへし折ろうとした。ぐにっ。「何ッ」引っ張る。ぶちぶち。
 木の枝だったはずのその物体は、ちぎれて裂けた。…ストリングチーズに変わっていた。
「お…おのれ…」
「ご主人様!?」
 ビガーが目の色を変えて主人を見た。リッカスが、手にしたチーズを口に運んだからである。慌てて止めるビガー。
「食ってやる!チーズめー!食ってやるぅぅぅ」
「おっ、おやめ下さいご主人様!拾い食いは行けませんーっ!!」
 
 ………一体、何がどうしてこんなことになってしまったのか。
 
 なんとか落ち着いたリッカスは、最寄りの農家に行くと、戸を叩いた。
 誰か、事の顛末を知らないかな、と思ったのである。
「もし!伺いたい!家人はご在宅か!」
 戸を叩きながらリッカスがわめいていると、静かに戸が開き、中からこの家の住人が出てきた。
「あれ、ご領主さま〜」
 リッカスが治める土地の住人たちは、みなリッカスの顔を知っている。なんせ、リッカスの領地には家屋が20しかないのである。
 リッカスも、一日中ぶらぶらしているわけには行かないので、剣の稽古、馬の遠乗りなどをしている時以外は、農家に遊びに行ったりしていた。時には偉そうに高笑いしながら、農作物の収穫を手伝ったりもした。だから、リッカスと領地の住人たちは、顔見知りであり仲良しでもあった。
「ご領主さま、今日はどうかなさいましただか?」
 素朴な口調で、平凡な顔立ちのその男はリッカスに聞いた。
「どうしたこうしたもヘチマもあるものかっ。お前の目にはこの非常事態…いや、臭いがわからんのかっ」
 あくまで偉そうに、領主であるリッカスは外を指さした。
「あれま…!」
「あれまもまれあもあるかー!お前たちの目と鼻は節穴なのかー!」
「どうりで、朝起きたら、変な臭いすると思ってただよ…。家の壁も、ほれ…こんなに柔らかくなってしもうて」
 男が家の壁を触ると、壁は簡単に凹んだ。昨日まで石積みだったはずの壁は、なんとプロセスチーズになっていた。
「落ち着きすぎなのだ!」
 一通りわめいて気持ちを落ち着かせると、リッカスは彼に尋ねた。
「…で…この現象について心当たりはないか?」
「うーん…。といってもなあ」
 男は腕を組んで、しばらく考えると、「あ、そうだ」と言った。
「むっ。なんだ?」
「あそこの洞穴に住みついてる魔女が居るでねえすか」
 男は、リッカスの家の方を指した。領主の館のすぐ隣りに、ちょっと陰気くさい雰囲気を漂わせた、深く暗い洞穴があるのである。
「うむっ、そう言えば!あそこの住人は夜行性らしく、規則正しい生活を送っている私は、顔を見たことはないが!」
 リッカスは、夜の十時には、キリンちゃんと一緒にベッドにはいるのが習慣なのである。
「あの魔女が、昨日、『あ〜、チーズフォンデュ食べたいな〜』って、言ってただよ」
「何ッ怪しい!」
「そうだか?」
「ああっ。限りなく黒に近いグレーだ!」
 見る間に鼻息が荒くなってきたリッカスは、例を告げると男に背を向けた。
 スタスタと、自分の家…もとい、洞穴に向かって歩き出す。
「ちょっ、ご主人様!」
 慌ててビガーが後を追う。
「き、危険じゃありませんか?魔女だなんて…」
 一応、言ってみながらも、ビガーは主人が一度言い出したら聞かないことを知っていた。この青年の執事になってから、すでに20年が経つのである。(ようするに、ビガーは生まれた時から執事なのである)主人の性格は知っていた。
「ならばお前は、このチーズまみれになってしまったわが領地を、放っておけというのか!?」
 案の定、言い返してくる領主。
 ここは、先祖代々、自分の家が治めてきた土地なのだ。そこをいいようにされるのは、まったくもってリッカスのプライドが許さなかった。
 
 やがて、例の洞穴の前に着いた。暗く深いその穴は、真っ昼間だというのに不気味な雰囲気を辺りにふりまいている。
「御免!!」
 リッカスは穴に向かって声を張り上げた。
「誰かおらんのか!御免!!!!」
 しかし返事はない。顔を見合わせようと思って、ビガーはそろそろと主人に不安そうな視線を向けたが、リッカスはビガーの方を見ようとはしなかった。ただ、憤懣に満ちた目つきを、洞穴の奥に向かって鋭く光らせている。
「入るぞ!」
 一応断ってから、リッカスは洞穴に足を踏み入れた。
「わっ、わひゃっ?さすがに勝手にはいるのはまずいですよ、ご主人サマッ!」
 ビガーが慌てるが、リッカスは聞く耳も持たない。どんどんと洞穴の中に進んでいく。
 やがて、殺風景だったはずの岩肌が、床に絨毯が引かれたり、壁にタペストリーが下がったり、もしくは絵はがきが止められたりなんだりと、だんだん人の住む場所のようになってきた。…それも少女趣味全開。壁のくぼみには、色とりどりの飴がつまった、キャンディーボックスまで置いてある。
 そしてやがて、行き止まりに着いた。
 そこにあったのは、ホタテ貝の形を模した天蓋付きの豪奢なベッド、そしてそこに横たわる一人の美少女だった。
「むにゃむにゃ…もう食べられな〜い」
 とは、その美少女のセリフである。寝言であるらしい。ふと見ると、ベッドの脇にはあきらかに「チーズフォンデュ」を供したと思われる形跡があった。チーズのこびりついた鍋や食器…そういうものである。
 ビガーは、心配そうに主人を見た。
 リッカスは黙って少女を眺めていた
 納得行かない。リッカスはそう思っていた。
 魔女と言うからには、自分は、てっきりしわくちゃの婆を想像していたというのに、目の前にいるのは、どこぞの姫君かとも思えるほどの、見目麗しい少女なのだ。人形のように長いまつげ、絹のようになめらかな金髪。白く柔らかそうなきめ細やかな肌に、バラのようなくちびる。文句一つない美少女である。目を閉じていてもこれほどの美しさだというのに、これで目を覚ましたら、その美しさはいかばかりか。
(はっもしかして)
 リッカスは、ある一つのことに思い至った。
(この少女は、魔女にさらわれてきた、どこかの国の姫なのかもしれない!)
 しかし、チーズフォンデュをお腹いっぱい食べて、だらしなく寝ているのは明らかにこの美少女なのだ。…これはやはり本人に聞いてみなければ分からない。
 と、リッカスが捨てた可能性が、まだビガーの頭の中には捨てられずに生きていた。
「お姫様!起きてください!」
 ビガーは、彼女を、魔女にさらわれてきた姫だと思いこんだのである。「惑わされるな!」と、リッカスが言うヒマもなかった。
 だからコイツはバカなんだよな…と、リッカスは思った。
「うーん…」
 100年の恋も冷めそうな勢いで寝こけていた少女は、ビガーに揺さぶられて目を覚ました。
「えっ!あんた方、誰!?」
 案の定、彼女は驚いてはね起きた。目を覚ましたら、ベッドの側に見知らぬ人間が二人も立っていたのでは、当然の反応であろう。
「ご安心下さい!助けに来たのです!さあ、魔女の戻らぬうちに…」
「はあ??」
 まだ寝ぼけまなこのまま、少女は不機嫌そうに聞き返してきた。
「何ワケの分からないこと言ってんのゥ。アタシが魔女だっちゅーのゥ」
 想像していたとは言え、その答えに、リッカスの眉がぴくりと動いた。
「ええっ!そ、そうなのでございますか!」
「もう、うるさいんだっちゅーのよゥ。アタシは寝るから、ほっといて欲しいっちゅうのゥ」
 魔女はそう言うと、ひらひらと手を降って、布団を引っ張り上げて潜り込もうとした。
「…そうは行くかーっ!」
 リッカスはベッドの側に歩み寄ると、彼女から布団をガバーッとはぎ取った。
「私の領地を、チーズまみれにして置いて、なんという言いぐさだー!さっさと元の土地に戻せーっ!」
「はにゃにゃっ?」
 リッカスのさすがの大声量に、魔女も我慢出来ず再度はね起きた。
「えーっとぅ、あんた…誰?なわけぇ?」
「この土地の領主だっ!!私の土地を、元に戻せー!」
「えーっ、だってぇ。それじゃあ、いつでも好きなようにチーズフォンデュ出来なくなるじゃないのよォ」
「やっぱり貴様の仕業か〜!?」
 怒り心頭に達したリッカスは、魔女の胸元を掴むと、ぐいっと引き上げた。
(むっ…)
 間近で見ると、魔女のこれがまた美しいこと。
 その美しさに、リッカスは一瞬、クラクラと自分を見失いそうになった。
「よく見ると美形ジャン!」
 魔女は、胸元を掴む、自分より幾回りか大きい男にも憶せず、リッカスの黄金の巻き毛を一房掴むと指先で弄んだ。
 そして、
「アタシの名前はベーグル。もしアタシと結婚してくれたら、魔法を解いてあげてもいいよっ!」
 と、とんでもないことを言った。
「なっなんですとーーーっ!!??」
 急にビガーが大声を張り上げた。
「冗談じゃありません!ご主人様は、ご主人様は…ッあなたのようなどこの馬の骨ともしれない娘と結婚出来るような方ではありませんっ!」
「え〜〜〜〜〜っ」
「おいおいビガー…いやはっはっはまいったな」
 何故かまんざらでもなさそうなリッカス。
「いいですかっベーグルさま!どうしても、誰かと結婚なさりたいのなら、…この私ではどうですか」
「え〜あんたみたいな酸っぱそうな顔の人いやだよぅ」
「ううッ」
 2秒で失恋したビガーは、傷心を押さえて洞穴の隅にうずくまった。
 
「うむっ、では、お前と結婚してやろうではないか!だから、早く魔法を解くのだ」
 何故かすっかりその気になっているリッカス。ビガーは慌ててリッカスの腕を引っ張り、耳打ちした。
「な、なに言ってるんですか、相手は魔女ですよ魔女ッ」
「う、うむ、しかし、王宮に行くと毎回、貴族のブス娘どもとの縁談を迫られて、正直厄介なのだッ」
 岩塩と香料で細々と生計を立てている貧しい土地の領主なれど、由緒正しい血族の美形ともなれば、お婿さんを求める貴族の娘さん方が放っておかないのだ。リッカスは休廷では意外と女子人気が高かった。
「ではまず、美しい花嫁の血筋と年齢を聞いておかねばな!」
「フォンドワーズ家の末娘、16歳でっすゥ、結婚相手を捜して旅行中ですぅ」
「何ッ、では私よりも8つ下ではないか!」
 歳が、である。またしても主人の袖を引っ張るビガー。
「ご主人様、ヤバイ!やばいですよ犯罪ですよ、8歳差!四つくらいならまだしも、八歳差!」
 四つというのは、彼女とビガーの年の差である。
「えええええい、う、うるさいッ!」 
 反対されればされるほど、燃え立つのが恋愛というものなのだ。

 

 「わあい、この屋敷に住んでみたかったんだッ!」

 洞穴を出て館を見上げると、ベーグルは諸手を上げて大はしゃぎした。
「今日から奥方サマだぞゥ」
「いいから、早く、このチーズの魔法を解いてくれっ!」
 少しイライラしながら、リッカスは未だものすごい異臭を放つ、チーズ化した土地を指した。
 洞穴の中ではさほど気にならなかったのだが、再び表に出てみるとこれがまた…物凄い。
「分かったよぅー」
 ベーグルはくちびるをとがらせると、なにやら呪文を言い始めた。歌のような呪文、そして踊りに、リッカスとビガーはつい我を忘れて見入ってしまう。そんな、魅力を持った魔女の呪文の、最後の一言がベーグルのくちびるからもれたあと。パシーンと、耳をつんざく音とともに、景色が急激に一転した。
「…………あっ!」
 思わず目を覆ったリッカスとビガーは、その手をよけてから呆然とした。
 チーズはなくなっていた。
 しかし、目の前に広がっていたのは、見慣れた風景でもなかった。
 ふさふさと風にたなびく豊かな緑、瑞々しい果物をたわわに実らせた樹木、水が気持ちよく流れる澄みきった河。それは見覚えのない、まるで夢のような風景だった。
「ありゃあ、ちょっと間違えたかな」
 ベーグルがちろりと舌を出した。
 
 
 その後、その土地は作物が豊かに実り、住人も増え、素晴らしい領主を持った美しい国へと発展を遂げていった。
 尚、領主夫妻の結婚記念日には、決まってチーズフォンデュが食卓に出されたという。

終わり。

 

 

小説サークル「AQUA」の年末企画号用に書いた話です。
1.主と下僕が主役
2.「不思議な香りが辺りをとりまいていた」ではじまる」
3.「惑わされるな!」というセリフを入れる
と言う条件付きです。楽しかった〜〜〜。

魔女を、婆にするか美少女にするかで悩んだんですが、趣味で美少女に…しかもロ(以下略)
初めは、カマンベールチーズの滝の中に入っていくという話のつもりだったような。何ヶ月も構成練ったわりに半日で書き上げた…