誓約の緋帯                       日向夕子

 

 

20数年前の、真夜中―。

 部族の祖霊神を祭る神殿に、ひとりの女がそっと足をふみいれた。腕に赤子を抱いている。

 祭壇の前にひざまずき、女は一心に祈った。

「どうか、どうか、この子を男の子にしてください。族長のダ・ルトになれるように…。この子の死んだ父親のように、立派なダ・ルトになれるように、男の子に姿を変えてください。どうか―」

 そして、その願いは叶えられた。

 

*     *     *

 

 デル・レハナの主集落では、照りつける真昼の暑さに、誰もが大庇の下に入り、家の風通しをよくして過ごしていた。

 弱冠15歳という若き族長も同じように、格子状に編まれた日よけ屋根の下で、客人と茶を楽しんでいた。長く帝国の都で育ったアルハに、一族の色々なことを説明しているのだ。

「…まあ何にせよ、まずは慣れることだね。帝都とは気候も違うだろう」

「そうですね。あっちじゃ、正午からこんなに暑いことはなかったから…」

 アルハが辛そうに言うと、少年族長はおかしそうに微笑んだ。

そこに、「レハナ様、失礼します」と族長の側仕えのティトウが近づいてきた。何か楽しげな表情である。

「後で、カンナの婚礼の式について、打ち合わせをしたいそうです。一刻ほどでこちらに通しますが、よろしいですか?」

「ああ、カンナのね。とうとう一週間後か。いいよ、私の大事なダ・ルトの婚礼式だ。盛大にやりたいからね」

 族長レハナも、ティトウと顔を見合わせてニヤニヤ笑っている。アルハは首をかしげて、耳慣れない言葉を尋ねた。

「ダ・ルトって?」

「ああ、族長専属の護衛兵のことだ。近衛というか。武芸達者で忠誠のあつい者がなれる、私が言うのも何だが、名誉な役職だ。デル・レハナの男児なら、一度は憧れるね」

「へえ、それで、そのダ・ルトのカンナという人が、今度結婚するんですね」

 すると、レハナはまたも、ふふっと意味深げに笑う。

「そうそう。あの人が結婚にいたるまでには、色々あってね。面白い話だから聞いてくれ。ティトウ、茶のおかわりを持ってきてくれないか」

 

*     *     *

 

 カンナは、はやる気持ちをおさえながら、主集落の関門の前に立った。

 長年鍛えられた体躯に、赤みの勝った茶の髪が彩りをそえ、激しい気性をそのまま表している。

戦時ではないので、集落をかこむ柵は低く、しようと思えば簡単に出入りができるようになっている。しかしもちろん、外の集落から訪れるときなどは、こうして門を通るのが礼儀だ。

 カンナの持つ槍にまかれた、赤い帯に気がついたのだろう、門番がにこやかに声をかけてきた。

「新しくダ・ルトに選ばれた者か? よく来たな。名前は?」

「どうも、カンナです。デ・クスの小集落から来ました」

 緊張しながらカンナが答えると、門番はほがらかに笑って、ぽんぽんとカンナの肩をたたいた。

「そう肩をはるな。小集落も主集落も、同じデル・レハナだ、そう変わらないさ。それになー、ダ・ルトと言ってもはじめは見習いみたいなもんで、その時期にうまく務められないと、お役御免なんだ。がんばれよ」

「えっ…はい」

 ダ・ルトになることは、母と自分の悲願だった。先の武術会で小集落の預かり役に推薦してもらい、みごと最多勝を記録して、ここまで来たのだ。田舎育ちなので見習い扱いはある程度覚悟していたが、免職までは勘弁してほしい。

「じゃあ宿舎に入るんだな。誰かに案内を…お、いたいた、エイハ!」

 門番は、ちょうど近くを通りかかった人間に声をかけ、カンナを案内するように頼もうとした。

 呼び止められてやってきた人物に、ドクン、とカンナは自分の心臓が大きくはねたのを感じた。

(なんて綺麗な女なんだ)

 エイハはこのあたりには珍しく、北方の顔立ちをしていた。血が混ざっているのだろう。日に焼けてはいるが、地肌が白いので、北の人間を見たことがないカンナには白い鳥のように見えた。

 髪も淡い。ほとんど金に近い色をしていて、耳を隠すていどに切りそろえられていた。面立ちは優しく、見るものをほっとさせるような笑みを口元に浮かべている。

「ああ、新しいダ・ルトの。よろしく、エイハです」

「カ…カンナだ。よろしく」

「族長が、あなたが来たらまず挨拶したいと言っていたから、族長のところに案内しましょう。こっちです」

 族長が、と驚いて問いかえす間もなく、エイハは歩いていく。あわてて後を追った。

 並んで歩きながら、そっと隣をうかがった。エイハは、男のようにさっぱりした身なりをしている。あるいはこういう格好が、こちらでは流行っているのかもしれない。服装からは、既婚という感じはしなかった。

 そこまで観察して、カンナははっと我にかえった。

(既婚かどうかなんて。何を考えてるんだ、俺は)

 もしかしてこれは…とひとりで顔を赤らめていると、

「あそこです。…どうかしました?」

 案外に低くおちついた声で、エイハが聞くので、カンナは顔の前で大きく手をふった。

「い、いや、何でも」

 族長の住居は、石造りの神殿の前にある。二階建てになって大きいが、他の人家と同じく、木造だった。神殿と長の家の位置関係は、カンナの出身集落の神殿と預かり役のそれと同じだった。

衛兵や側仕えらしきものが二、三人、目に入ってきたが、それほどものものしい感じもない住居だった。

エイハは物怖じすることもなく、側仕えのひとりに族長の居場所を聞いて、そちらにどんどん進んでいく。部族の頂点にある人に会おうというので緊張している自分との差に、カンナは驚いていた。

「レハナ様、エイハです。失礼します」

 ある一室の前で声をかけて、ゆっくりと中に入る。カンナもそれに続いた。

「新しいダ・ルトのカンナを連れてきました」

「やあ、いらっしゃい」

 迎えたのは、予期したとおり、まだ少年の声だった。

 現族長は、14歳の年成りの儀式を終えたばかりの少年である。それはもちろん知っていた。そして、その容貌についても。

 レハナの名を世襲する族長たちは、それぞれ呼び名を持つ。今の族長は「漆黒のレハナ」と呼ばれていた。由来は見事に流れる黒髪と、君主的な強さと知性をたたえる、黒の瞳だ。

少年は、座っていた椅子から立ち上がって、カンナに向かい合った。

(この方が…)

 想像以上に子供らしさのない、族長をとりまく空気に、カンナの胸にはあらためてダ・ルトになれたという実感がわいてきた。

「カンナか。君の父親もダ・ルトだったと聞いた。私が生まれる前に亡くなったそうだけどね。君がダ・ルトになることは、君の両親の願いでもあっただろう。おめでとう、期待している」

 亡き父のことを族長が知っているとは思ってもみなかったカンナは、かるく目を見開いた。ついで、感動に胸を熱くする。

「そういえば、エイハの父親もダ・ルトだったね。同じ年代だったんじゃないか?」

「そうですね」

 カンナの斜め後ろにひかえているエイハが、族長の言葉にやわらかく答える。カンナとエイハは同じ年頃のようだったから、その父親がダ・ルトだったとすると、互いに知り合いだった可能性は高い。

「カンナ、エイハは君の一年先輩だ。色々教えてもらうといいよ」

「はいっ。……は?」

 元気よく答えてから、思わずカンナは聞きかえしてしまった。

「先輩?」

「ああ、こう見えてエイハは、去年の東の武術会の優勝者だ。君の集落は西の大会に分けられるから、知らなかっただろうけどね。見た目に騙されると痛い目を見るぞ」

「えっ!? エイハがダ・ルト!?」

 会ったばかりの族長の前で失礼なことに、カンナは大声で確認していた。

(まさか、だって女はどんなに頑張ったってダ・ルトになれないぞ!)

 そのカンナの驚きように、エイハは誤解されていることに気づいたらしい。諦めたような苦笑で、残酷なことを言った。

「ああ…よく間違われるんだけど、俺、男です」

 あらためてよろしく、と差し出された手は、たしかに剣を扱う節の太さがあった。

 

 宿舎は族長の住居のすぐ近くにあった。

「ここが君の部屋だな。俺の部屋はあそこだから、何か分からないことがあったら聞いてくれ。とりあえず今日は夕食を食べて、仕事について説明しよう。覚えることはたくさんあるよ」

 男だと知ったときの驚きぶりがよかったのか、エイハはかなりカンナに打ち解けたようだった。一方、カンナはこの人物が男だとは、まだいまいち信じられない思いだった。

 カンナの心が読めるのか、宿舎内を案内しながら、エイハはなぐさめるように言う。

「そう落ち込まないでくれ。俺は母親似なんだ。これでも20を越えたからそれなりに男らしく見えるかと思ったんだけどな。そうだ、俺にそっくりな妹がいるから、今度紹介しようか」

「…ぜひ頼みたい」

 生まれたときから武芸一筋で来て、先ほどはじめて抱いた淡い気持ちが、あれほど短時間で無惨な結果となったことは、外から見えるよりもカンナを打ちのめしていた。

 調理場で、他のダ・ルトや兵に紹介された。食事は基本的に、外からの数人の手伝いと、宿舎に住む人間の当番でつくるらしい。簡単だがそれなりに旨い食事で、すこし心が和んだ。

 カンナのダ・ルトとしての一日目は、こんなふうだった。

 

 出会いが強烈だったにもかかわらず、カンナとエイハは仲良くなった。

 エイハのほうがひとつ年上で先輩だったが、偉そうにふるまうわけでもなく、むしろ新しい環境に不慣れなカンナをよく助けてくれた。

 任命されたばかりのダ・ルトが見習いだというのはけして誇張ではなく、衛兵というよりも側仕えとして使われた。どこにこの書簡を届けろ、だの、こんな書類を探してこい、といった雑用を命じられるのだ。

 物足りなさはないではないが、族長の周りの勝手を知るためなので、カンナに不満はなかった。そもそもが平和な時期なので、武術を見せる機会もそうないのだ。毎日鍛錬の時間はあり、そこで他の兵と手合わせもできるので、それで十分だった。

 カンナを落ち込ませたのは、ティトウのため息である。

 事務的なことばかり命じることになるので、カンナに指図するのは側仕えの束ね役、ティトウの役目だった。蔵書を整理しろと言われて、要修繕の書物を増やしてしまったり、儀礼用の服飾がしまわれている倉を見せられたときも、伝統ある品を破損してしまったりと、カンナは背筋が寒くなるようなことを続けてしまったのだ。

 そのたびにティトウが重い表情でため息をつき、「ダ・ルトはもともと武に優れた衛兵だから、細かいことは苦手だとはわきまえているつもりだったが…これほどの人材はなかなか…」と呟くのだ。

 エイハは苦笑しながらなぐさめてくれた。

「まあ、本当に畑違いなことなんだから、仕方ないさ」

 夜になって、夜勤でない人間は寝ることになっている時間である。実際は寝ているものばかりのはずがなく、エイハもカンナの部屋に来ていた。

 身長は自分の頭ひとつ分小さく、筋肉がついているとはいえ、周りに比べれば華奢とさえ見えるエイハを、カンナは恨めしそうに見る。

「だけどエイハはそつなくこなしていたって、ティトウ様は言ってたけどな」

「そりゃあ、得手不得手はある。…物を壊さないこつは、本当に大事なものだと思って、神経を集中させて扱うことじゃないかな。親の形見だと思うとか…」

 親の形見か、と呟いてから、カンナは、エイハの父親と自分の父親が知り合いかもしれないという話を思い出した。そういえば似たような境遇なのだった。

「エイハの父親は、まだ生きているのか?」

「いや、やっぱり俺が生まれた頃に死んだよ。妹が生まれる前だったみたいだな」

 境遇もやはり似ている。エイハの母親もきっと、息子を父親のようなダ・ルトにすることを切望しただろう。

そうでなければ、こんな優しげな風貌をしたエイハが、武人になろうなどと思うだろうか。

「そういえば、今度妹が訪ねてくるんだ。紹介するよ」

「ああ、そっくりだっていう?」

 出会った頃に聞いたことを思い出して言うと、エイハは花のように笑む。

「そう。年は君と同じだな。俺の顔が気にいったんだったら、妹も気にいると思うよ」

「もうその話はやめてくれ…」

 今でも、ふとした瞬間にエイハに見とれてしまうことがある。エイハが冗談のつもりでからかってくるので、いたたまれなくなる。

 エイハは仕草が女らしいわけでもないし、体型も、細くはあるが男のものである。今になって冷静に見ると、女と間違うはずもないので、なおさら恥ずかしい。初対面のときは、よほど緊張していたのだろう。

「そういえば、この傷はどうしたんだ?」

 エイハが、自らの左目の下をなぞる。カンナの目の下には、切り傷の痕があるのだ。

「ああ、子供の頃に、チャンバラをやってて傷ついたんだ。子供の遊びだから、それほど名誉の負傷でもない」

 ダ・ルトに選ばれる条件のひとつに、体に傷を持っていれば好意的に考えられる、というものがある。少々の傷は勲章であるし、その傷に耐えても武術を続けたという意志がうかがえるからである。

「目だつから、有利になったろうね。人相は悪くなってるけど」

「けっこう言うな…。エイハはどうなんだ?」

「俺は鍛錬のときについた、二の腕の傷と、山で転倒したときの足の傷跡かな。誰でも傷のひとつやふたつ、持っているものだけどな」

 そうだな、と頷きながら、カンナは他のことを考えていた。彼がこの目の下の傷を負ったとき、母親がどんな顔をしてカンナを見ていたか。

 なんとも表現しようのない、複雑な表情だった。母親自身もどんな顔をしているか、どんな気持ちでいるか分からない、そんな表情だった。

 心配するなら心配する、叱るなら叱るで、分かりやすい反応をしてくれれば記憶に残ることもなかったろうが、あのときの奇妙な顔つきは、何年もたった今ですら、脳裡に焼きついている。

 

 ティトウが、カンナでも問題がなさそうな仕事を探して試行錯誤し、数日が過ぎた。予告どおり、エイハの妹のウナがやってきた。

 主集落に住む親族のところに用事があり、そのついでにエイハに会いに来たらしい。昼に時間を空けてもらい、三人で宿舎の近くに待ちあわせた。

「はじめまして、ウナです」

 思った以上に、エイハとウナは似ていた。髪や目の色が同じだけでなく、顔立ちもそっくりだった。ウナのほうがやはり女性的にまるみをおびているが、やわらかい表情などは鏡に映る影のようだ。

(あれ?)

 しかし、カンナは内心、首をかしげていた。

「どうも。俺はカンナ。このあいだ、ダ・ルトになったばかりなんだ」

「カンナは、西の武術会の優勝者なんだよ。見るからに強そうだものな」

 ついでに、エイハはいらないことまで付け足してくれる。

「初対面のとき、俺を女と間違ったんだよ。面白い奴だろう」

「エイハ! それは言わないでくれって…!」

 カンナがエイハの口をおさえると、ウナの笑い声が、心地よく耳に入ってくる。

「仕方ないわ。兄さんて、子供の頃から女の子と間違えられたもの。周りに馬鹿にされるのが嫌で、強くなったんじゃないの?」

 エイハが「さあね」と両腕を広げてみせる。仲の良い兄妹のようだった。

「カンナ、あまりウナに見とれないでくれ。俺が恥ずかしくなる」

「見とれてない!」

 おかしいな、とカンナはいぶかしんだ。

 エイハにからかわれるのには閉口していたが、実際はカンナは、エイハにそっくりだというウナに会うのを楽しみにしていたのである。今度は本当に女性なのだから、好意をもっても問題はないのだし。

 ところが、楽しみしていて、期待にたがわずエイハにそっくりであるにもかかわらず、カンナは特に何も感じなかったのである。

 性格が悪いというわけでもない。おっとりとしていて、気がきく娘だった。ただ、はじめてエイハに会ったときのように、目がはなせなくなるような気分にならないのだ。

(エイハを見慣れたせいかな)

 カンナは、そう結論づけることにした。残念に思うようなことではない。ウナは、友人づきあいをするにも、気持ちのいい子なのだから。

 立ち話しかできなかったが、しばらくして、エイハとカンナは仕事に戻る時間になった。そう長い間、休みをもらってもいられないのだ。

「兄さんが元気そうでよかったわ。じゃあ、カンナさん、兄さん、また来るわね。お元気で」

 朗らかに挨拶して、ウナは帰っていった。その後ろ姿を見送りながら、エイハが問いかけてくる。

「あまり気にいらなかったようだね?」

「は? そんなことはないけど」

 しかし、エイハが言っているのはもっと深い意味だったらしい。

「カンナと兄弟になれるかと思ってたんだが…」

「はあ!? そんなこと考えてたのか?いつから見合いの席になったんだ」

 心中で考えていただけとはいえ、本人の意思もなく、よくまあ勝手に、とカンナが呆れると、エイハは悪びれず、艶やかに微笑んだ。

「カンナのこと気にいってるから、そうなってもいいな、と思って」

 ウナには何も感じなかったのに、エイハのこの笑顔に胸がざわつくのを抑えられず、カンナは動揺した。

(何で俺は、エイハにばっかり…)

 

*     *     *

 

「それで、カンナはエイハと仲良くなったんだ」

「え? それで結局、誰と誰が結婚するんでしたっけ?」

「まあ、まだ話は前半なんだから、聞いていてごらん」

 デル・レハナ族の若き族長、「漆黒のレハナ」は、ティトウの運んできた冷たい茶を飲みながら、またゆっくりと話の続きをはじめた。

「ダ・ルトになってしばらくしても、カンナは雑用をやらされていたんだ。というのも、ちょっと怪我をしてしまって…」

 そこでふと思い出したように、口調をあらためる。

「ところで、この辺がここしばらく平和というのは、デル・レハナが帝国と協定を結び、自治を保てるようにしているからだが、他の部族ではそう平穏でもない。特にもっと南の方の部族などは」

「あくまで帝国の干渉をこばむ一派ですね。かえって容赦なく侵略されそうなものだけど」

 大陸の大部分を平定する帝国の都で育ったアルハは、肩をすくめてみせる。

「うん、しかし彼らが帝国と一戦交えようとすると、地理的にも、間にあるのは我々デル・レハナだ。まして、私たちは帝国と協定を結んでいる、彼らに言わせれば『裏切り者』なわけだから、憎悪の対象なんだね」

 デル・レハナは南部民族の部族としては、最大を誇る。帝国に「迎合」する部族に対しては、デル・レハナの族長の首級は、いい見せしめになる。

「というわけで、ある日、私を狙った刺客がやってきたんだ」

 

*     *     *

 

 その晩、カンナの持ち場は、族長の住居入り口の見張り番だった。前日に狩りに行ったものが、複数の人間が野宿した跡を、主集落から少し離れたところに発見したというので、族長の周りは、少々警戒していた。

 ようやく族長の衛兵ダ・ルトらしい仕事をわりふられ、カンナは気をはっていた。おかげで、屋敷の角に放たれた炎に気づくことができた。

 火はまだ大きくなかったが、木造の建物である。はやく鎮火させないと大変なことになる。カンナは大声で援けを呼んだ。

「火事だ! 誰か!!」

 屋敷内で不眠番をしていたダ・ルトたちが、いっせいに走ってきた。手際よく、すでに水や鉈を持っているものもいた。

 これなら大丈夫だ、と安心した瞬間、カンナはぎょっとして族長の居室のほうをふりかえった。

 これは、陽動だ。刺客がいるとすれば、その目的は族長「漆黒のレハナ」なのだ。

(族長のところに…!)

 消火する仲間を背にして、カンナは走った。

 カンナは正しかった。ちょうどそのとき、族長の寝室に、複数の刺客が押し込んでいたのである。そして、その凶行をひとり刃で受け止めていたのが、エイハだった。

 火事の知らせを聞いたとき、エイハは迷わず族長のもとに走った。案の定そこには敵が襲撃してきたのだが、多勢に無勢。四人はいる刺客を相手にするのが簡単なはずもなく、エイハが来たことすら無駄足になりそうだった。

「レハナ様! 大丈夫ですか?」

 背後にかばった少年の無事を確認しながら、エイハは敵を睨みすえた。ひとりは、すでに足元に転がした。後三人。しかし、これを何とかしながら、族長を無事に逃がしきるのは難しい。

「レハナ様!!」

 そこに、エイハが誰よりも望んだ男の声が飛び込んできた。カンナだ。

 一瞬の動揺を見せた敵に、エイハは容赦なく切りかかった。紙一重で逃げられたが、反す刃でさらに追いつめる。

 もうひとりは、部屋に飛び込んでくるなり、カンナが切り伏せた。恐ろしい男だな、とエイハは頭の片隅で苦笑する。

「エイハ!」

 叫んだのが、カンナだったか、レハナだったか、覚えていない。

 だが、次の瞬間、最後のひとりの凶器からエイハをかばったのは、カンナの左腕だった。

 鮮血が飛び散った。エイハは目の端でそれをとらえ、奥歯をかんだが、怯まず目前の敵の喉笛をつらぬく。

「カンナ…!」

「レハナ、覚悟!」

 ふりむくと、最後のひとりは、腕を切られてたたらを踏んだカンナの横をすりぬけ、族長に斬りかかる。

だが、その一撃目を族長は長剣で受け止めた。鋭い金属音。

「貴様ぁあ!!」

 逆上したカンナとエイハが、はからずも同時にその刺客に切りかかった。

「ぐぁっ…!」

背後からふたりに斬られた刺客は、首と肩から血を降らせ、倒れた。

「レハナ様! ご無事ですか!?」

 息をつくことさえせずに族長につめよるふたりに、「漆黒のレハナ」は無理のない笑顔を見せた。

「もちろんだ。ありがとう、助かった。あまり褒められたやり方ではないが…」

 結果として、前にひとり、背後からふたりがかりで敵を倒した形になり、少々卑怯だと言いたかったのだが、カンナは素朴な疑問として尋ねた。

「どっちがですか?」

 刺客をさしむけた敵と、それに応戦した自分たちと、どちらが、と問う衛兵に、族長は笑って答えず、代わりに「腕を手当てしてきなさい」と命じた。

 

「よかった、それほど深い傷じゃない。しばらく動かさないほうがいいが」

 他のダ・ルトを呼んで後始末を頼み、カンナとエイハは宿舎に戻って怪我の手当てをしていた。カンナほどではないが、エイハもいくらか負傷していたのだ。

 カンナの腕に布をまく、エイハの表情が暗い。族長を守れたことに興奮しているカンナは、その友人の様子に気づき、心配した。

「どうした?」

 尋ねると、エイハは複雑な顔でため息をついた。

「…俺をかばってくれてありがとうと、言うべきなんだが…。どうしても素直に言えない」

「別に言わなくていいぞ?」

「それどころか、どうして俺をかばって怪我をするんだとか、俺じゃなくて族長のために怪我をしてくれとか、文句をつけたい」

「ああ…」

 エイハの言いたいことが分かって、カンナも神妙に頷いた。たしかに、自分がエイハの立場だったら、同じように思うだろうと推察できた。

 だが、もう一度さきほどの状況を考えてみても、どうしても、エイハをかばわずにはいられない。それは確かなことだった。

「族長は守る。この命に代えても。だけど、エイハが危なかったら、どうしてもかばってしまう。エイハは大事だから」

 エイハは、自分のつま先を眺めて、考えてみた。もし先ほどの状況で、地文とカンナの立場が逆だったら?

(あ、同じことしてたな)

 エイハは照れるような微笑をうかべ、カンナの腕の包帯を撫でた。

「降参だ。…ありがとう」

 

 カンナの手柄は高く評価され、時期的にも雑用係から解放されるはずだったのだが、不運なことに、腕の怪我のために続けて側仕えの仕事をすることになった。

「そんな…」

 今日は、神殿の掃除。族長の住居の後ろにある、白い石造の建物にむかいながら、鬱々と呟いた。こんなはずではなかった。

神殿の中は暗く、涼しかった。夏のことで、暑さから逃れられるのは嬉しかったが、こんなところでひとり掃除をしていては、ますます気が滅入る。

「あーもう、くそっ!」

 悪態をつきながらも、カンナはできるだけ丁寧に掃除していった。エイハに、本当に大切なものだと思えば、物は壊さないと忠告されたように。そうでなくとも、たしかに祭壇は祖先神を祭った、やんごとないものなのだ。

 祭壇は大きいので、上のほうもきれいにしなくては…と思い、足場を組んで、飾りが多い、祭壇の上部も清掃していくことにした。

 片腕しか使えないので、なかなかはかどらない。勢い、大きな手振りになってくると、ろくな足場ではなかったので、その上でバランスを崩してしまった。

「うわっ…」

 慌てて腕をのばしたが、それは使えない左腕であったうえに、つかんだのが固定されていない飾りだった。

 次の瞬間、派手な音がして、掃除したばかりの床上に、ひとりの人間が落ちていた。

 

「どうした? 大丈夫か?」

 頬をかるく叩かれて、カンナはようやく目覚めた。神殿の床の上だった。

 目の前に、明るい色の髪があった。エイハだ。

「頭を打ったんじゃないかな。ゆっくり動いたほうがいい」

「………エイハ…」

 いつもにまして優しいエイハに、もう大丈夫だと答えようとして、カンナはぎょっとした。まるで自分の声ではないような、高い声が出たのだった。

 何事か、とカンナは口元に手を持っていった。その掌が、やけに小さい。触れた頬が、まるく柔らかい。自分の顔ではなかった。

「大丈夫? 何があったの?」

 呆然としてエイハを見つめるカンナに、エイハは根気強く声をかけた。

「エイハ…」

 自分はどうしてしまったんだ、と訊こうとすると、親友は不思議そうに軽く微笑む。

「あれ、どうして俺のこと知ってるの? このへんの子じゃないよね、どこかで会った?」

「何言って…」

 カンナは年がいもなく泣きそうになった。そんなカンナに気づかず、エイハは手を貸して立たせてくれた。

「それにしても君、女の子が神殿なんかで何してたの? まさか密会じゃないよね」

「は……?」

「ところで不躾だけど、決まった相手いる?」

 頭が混乱のきわみに達したカンナは、そのエイハの一言に、一目散に逃げだしていた。

 

 エイハは、ものすごい勢いで逃げていった相手を、いささか唖然として見送った。一瞬、追いかけたくなったのだが、ここにきた理由を思い出して、すんでのところで留まった。

 カンナが神殿の掃除をしているからというので、手伝いに来てみたのである。しかし見回してみると、友人は神殿内にはいないようだった。

 掃除用具が転がっている。それを片付け、祭壇を整理しながら、いったいカンナはどこに行ったのだろう、と首をかしげた。

エイハが神殿を出たとき、彼を呼び止めたのは、渋面のティトウだった。

「どうしました?」

 なんとなく、カンナのことではないかと思った。

「カンナが急に里帰りをしたんだが」

「え!?」

 あまりに唐突な話で、エイハは耳を疑った。

「今しがた、カンナの実家からの遣いだという女が、カンナの母親が重病だという知らせを持ってきたんだ。その女が言うには、カンナはその知らせを聞いたとたんに、荷も持たずに飛び出して行ったとかで、女が荷物をまとめていた」

「それは…短い赤毛の女の子ですか?」

「ああ。しかし、いくら母親が病気とはいえ、何も言わずに職務を離れていく理由にはならない。ましてダ・ルトともあろうものが。カンナには罰則を与えなくてはならない。エイハ、連れ戻してきてくれ」

「え…俺がですか?」

「ああ。母親が本当にどうしようもない状況なら、落ち着いてから戻ってくればいいと、族長は仰っている。とにかく、カンナの後を追って、ダ・ルトのとるべき行動を教えてやってくれ」

 エイハは呆気にとられながら承諾すると、ふと何かに気づいて眉をひそめた。

「…そういえばティトウ様、俺はその遣いの女の子に会ったんですが…カンナと同じ左手に、包帯を巻いていましたね?」

「ん? そうだったかもしれないな」

 他にもいくつか、気になる点があった。どういうことだろう、と彼は首をかしげた。ともあれ、今はカンナを追わなくては。

 

 その頃―。

主集落を後にしてまっすぐ森にむかったカンナは、小さな湖に己の姿を映して、あらためて愕然としていた。

「なんで、女になってるんだ…?」

 

*     *     *

 

「湖に変わり果てた自分の姿をみとめて、カンナはおののいたらしいよ」

 それまで大人しく族長の話を聞いていたアルハは、どうしても横やりをいれずにはいられなかった。

「待ってください…男が、女になっていたって? そんなこと本当に起こるわけないじゃないですか。お話だったんですか?」

「事実だよ。まあ実際に見るまでは、私も、それにカンナ自身も、そんなことが起こるなんて夢にも思ってなかったんだけどね」

 

*     *     *

 

 左目の下に、古傷がある。腕の傷も残っている。ほくろや、痣になった傷痕も記憶にあるままだった。ただ、顔の形は著しく変わっていた。背も低くなっているし、なにより、胸にはっきりしたふくらみがある。

(やっぱり、祖霊神様を怒らせたんだろうか…!?)

 動転して自室に戻ったときに気づいたのだが、カンナは左手に、折れた祭壇の飾りをしっかりと握り締めていたのだ。飾りをもぎ取ってしまったのだと悟るのに、少々時間がかかった。

 変わり果てた姿を他のものにさらすわけにはいかず、とっさの機転をはたらかせて、主集落を逃げてきてしまった。

 カンナは本当に、実家に戻るつもりだった。どんな事情にせよ、男しかなれないダ・ルトの務めをこのまま続けられるはずがない。どこかに身をかくして男に戻るしかないが、その間身をよせる場所が、実家しかないからだ。

 湖面を見ていると、先ほどのエイハのことが思い出されて、また気分が重くなった。エイハは、カンナが分からなかったのだ。

(…仕方ないさ。こんなに変わってて、自分でも分からないくらいだ。家でなんとか男に戻って、なにくわぬ顔で主集落に戻ろう)

 そして、全部忘れてしまおう。と勢いよくカンナは立ち上がり、故郷デ・クスにむかった。

 衝撃の真実が、そこで自分を待ち受けているとも知らずに。

 

「あんた、馬鹿じゃないのっ!?」

 という怒号が、故郷で彼を迎えたものだった。

 他人の目につかないようにこそこそと生家に戻ると、母親は驚きながらも「カンナ、いったい何をしたの!?」と叫んだので、さすがに母は我が子を見間違わないのだ、と安堵したのもつかの間。

 カンナが事情を話すと、母親はまさに怒髪天をつく勢いで怒り狂ったのである。

「あんたが生まれたとき、期待はずれに女の子だったから、私は祖霊神様にお祈りしたのよ!『この子がダ・ルトになれるように、男の子にしてください』って! 祖霊神様は願いを叶えてくれた! なのに、その恩恵を自分からふいにするなんて、頭がおかしいんじゃないの!」

「ちょっと…何だって? 今何て言ったんだよ!」

 あまりに意外なことを聞かされて、カンナは声をあらげた。

「俺がもともと女だったぁ!? 聞いてないぞそんなこと!」

「聞いてなくたって、祭壇を損なうんじゃありません! 祖霊神様からの恩恵を一度むげにしたものは、二度と同じ恩恵にあずかれないって伝承はいくつも残ってるでしょう! それを知らないの、この馬鹿!!」

 正論をかけられて、カンナはうっとつまった。

「こんな馬鹿ガキ知らないわ! せっかく苦労の甲斐あってダ・ルトになれたのに、最悪の結果にして! あんたなんか勘当よ!出てって!!」

 突然の変態と、明かされた事実にショックをうけている息子に対して、あまりな対応ではあったが、カンナの母は、かつてダ・ルトを主人に持ち、そしてひとりでダ・ルトになる子を育てた、強烈な女性だった。カンナは気がつくと、家から放り出されていた。

「え…ええっ!? ちょっと…!」

「知らん!」

 唯一居場所があるはずの生家からも追い出され、やむなくカンナは故郷の小集落を出て行った。来たときと同じく、ひっそりと。

 もう行くところなどなかった。小さい頃によく遊んだ大木の下で眠ることにし、夜中になるまで、膝をかかえていた。

 怒ればいいのか、泣けばいいのか、分からない。不安と虚無感が、目の前でぐるぐると回っていた。

 

 ひと月がたって、結局カンナは、帝都に来ていた。

 集落が無数にあるとはいえ、デル・レハナの領域に残る気にはなれなかった。北からも南からも人間がやってきて混ざりあう、広い都の人並みの中に、埋没していたかったのだ。実際に来たのはこれがはじめてだったが、たしかに人間が多いだけ、誰もが周りに無関心だ。今はかえってそれがありがたかった。

 往来のすみに並ぶ屋台に腰かけ、ぼんやりと道行く人々を見ながら、思いをはせるのは、どうしてもデル・レハナのことだ。

(やっぱ、母さんは勝手すぎるよな! 俺はそうしてくれって言ったわけでもないのに、男にしてくれて。まあ、ダ・ルトになりたかったから、そこまではいいとしても、いきなり勘当はないだろ!? 傷心の息子に、あんな形で事情説明して、勘当? どんな親だっ!)

 客が来ると、言われたとおりに野菜をとって、金をうけとる。そのくりかえしは、屈辱的とまでは言わないが、ダ・ルトの誇らしさにくらべて、ひどく虚しい仕事だった。

 もちろん、働かなければ食べていけないので、都に着いたすぐに雇ってくれた老爺には、ひじょうに感謝している。

(どうせなら、はじめから女として育ててくれれば)

 あれから、どんなに祖霊神に謝り、ふたたび男にしてほしいと願っても、聞き入れられる気配はなかった。折った飾りを元に戻さないからかもしれないが、それこそできないことだった。真相が知れるのが怖くて、主集落に行けないからだ。

(女だったら、ダ・ルトになることなんか望まずに…集落の誰かと婚礼をあげて、それを普通の幸せとして喜べたかもしれないのに…よりによって、こんなタイミングで)

 性別が変わるというのは並大抵のことではなく、このひと月で、あまりの格差に気が遠くなったことなど数知れない。この先、もし結婚などすることになっても、それに耐えられるか謎だ、と思った。

 そのとき、頭に浮かんだのは、なぜかエイハのことだった。

(なんで、あいつのことを思い出すんだ)

 神殿で起こされて、逃げ出して以来会っていない。あのときのショックが、まだカンナの胸の中に、鈍い痛みを残していた。

(あいつの方が女みたいな顔してたくせに。俺のこと分からなかったしっ。しかも、よく考えたら、あいつ俺のことナンパしてなかったか?)

 無害そうな顔して、あのスケコマシ…!とこぶしを握りしめる。

 夕闇がせまる頃になってようやく、カンナは店をしまって、世話になっている雇い主の家まで帰る仕度をした。

「よぉ、姐さん、一緒に飲まないかー?」

 時おりあることだが、気もはやく一杯ひっかけた男が、不躾にカンナの肩に手をかけてきた。普段はカンナのひと睨みと、目の下の傷に怯んで去るのだが、この日は考えごとをしすぎて疲れていたのか、あまり眼光が威力を発揮しなかったようだ。

「そー怖い顔しないで。美人がぁ台無しだぞー」

 ふぅ、とため息をつくと、カンナはするりと腰を落とし、野菜の入った籠を使った遠心力で、回し蹴りを男のこめかみにくらわせた。

 声もなく男は昏倒した。周りの人間は、一部始終を見ていて含み笑いをするか、突然の暴行に逃げていった。

 ひとりだけ、踵をかえしたカンナに話しかけてきた男がいた。

「強いね、あいかわらず」

 けして大きくないその声は、しかしカンナの足を地面につなぎとめるのに十分な拘束力があった。

「エ……」

 ふりかえると、夕日の中で明るい色の髪が光っている。それよりも眩しいのは、懐かしすぎるその笑顔だった。

「エイ、ハ……」

「探したよカンナ。けっこう苦労した」

 なぜここに、と言いたくて開いた口をそれ以上動かせない。

「まあ、詳しい話は後でするとして。これを受けとってくれないか?」

 エイハがさし出したのは、赤く細い帯だった。

 ダ・ルトに任命されるときにもらう帯だった。たいていのものは、武器につけている。

 そして、ダ・ルトの間の伝統として、この帯を他の人間に渡すことの意味は―。

 

「君がいきなり里帰りしたんで、ティトウ様が怒って、俺を迎えに行かせたんだよ。そこで、君の母上に事情を聞かせてもらった」

「あんの、クソババァ!!」

 エイハにばらすなんて、どこまで非道だ、とカンナが机を叩くと、茶を運んできた雇い主の老爺が、気を変えて盆ごと持ってかえってしまった。

「そんなこと、言うもんじゃないよ。君のことを心配していたよ」

「心配!? あいつは人のことを勝手に男にしたあげく、俺が事故でこうなったら、いきなり激怒して勘当してくれたんだぞ!?」

「それは、驚いたあまり言い過ぎたんだって、反省していたよ」

 本当に自分勝手だな、と心の中で毒づいて、カンナはかえって冷静になった。そんな人間と同じ土俵に立つのはやりきれないと気づいたのだ。

「それに、君が子供のときにできたっていう、その目の下の傷…そのことも」

「この傷が何だよ」

「祖霊神様が願いをかなえてくれて、君は男の子になっていたから顔の傷はかえって喜ばしいことだったけど、もし万が一女の子に戻ってしまったら、大事な顔に傷がついたことになる。って、心配していたみたいだよ」

「理解できない思考だ」

「嫁のもらい手がなくなるって」

 カンナは固いものでも飲み込んだように、黙りこんだ。

 笑顔でエイハは、先ほどカンナが往来で受けとってくれなかった帯を、もう一度さし出した。

「俺と結婚してくれないか」

 ダ・ルトが女性に自分の帯を渡すのは、結婚を申し込む印なのだ。

 自分があまりにも情けない顔をしている自信があったので、カンナはうつむいて頭をかかえこんだ。

「だって…じゃあ…何でだよ?」

「実を言うと、女になった君を見たとき、一目ぼれした」

 君もそうだろう、と目で聞かれると、エイハをはじめて見たときの気持ちが思い出されて、カンナは赤面した。あのとき、カンナは男だったので、エイハが女だと信じていた。

「俺だって、気づかなかったくせに…」

「さっきまで男だった友人が、女になってるなんて、誰が思うんだよ」

 それはたしかにそうだ。自分自身でも、しばらく信じられなかったのだ。

 エイハが黙って返事を待っているので、カンナはいたたまれなくなって、紅潮したままの顔を両手でおおった。

「……いきなり女になって、まだショックから立ち直ってない俺に、そんなこと言うか?」

「他の男に先こされないようにと思って」

 他の誰が俺に求婚するか、と言いかけて、カンナは、エイハ以外の誰かに申し込まれたとしても、きっと一笑にふすだろうと思いいたった。

 これでは仕方ない。観念するしかなかった。

「今は、無理。もうちょっと…落ち着くまで、時間をくれ」

 たどたどしい口調でカンナの口から出てきたのは、ごくごく控えめにだが、一応承諾の返事だった。エイハは破顔して、赤い帯をカンナの手首に結んだ。

 今度こそ、老爺が茶を運んできてくれた。

 

*     *     *

 

「エイハが女になったカンナを、主集落に連れて帰ってきたときは、みんな仰天したよ。しかも結婚するときたからね」

 話はこれでめでたしめでたし、としめくくる族長だが、やはりアルハは釈然としない様子だ。そもそも、男が女に変わるなど信じられない。

「いくらなんでも…そんな不思議なこと、ありえないですよね。作り話でしょう?」

「ま、本人たちを見てごらんよ。ほら、ちょうどやってきた」

 族長がさし示すほうを見やると、たしかにひとくみの若い男女が、ティトウに伴われてこちらにやってくるところだった。

 男のほうは、金茶の髪の、女性的な優しい風貌。女のほうは顔に傷痕のある、どこか野性的な感じの姿で、しかしけして不美人ではなかった。

 ふたりは、それぞれ右腕の手首に、赤い帯をまいていた。

 ダ・ルトでしか持ちえない、誓いの帯を。

 

  

 

 

   もとは前・中・後編で書いた作品です。

   「デル・レハナ恋愛もの三部作」の第一話らしい。恋愛もの…?

   単にべたべたな性別トリックをやりたかっただけでしょう。

   「アルハ」って「ゲド戦記」の巫女の呼び名じゃないですか。