食事が終わり、生徒達は、渡り廊下を通って、別棟にある各々の部屋に戻っていった。
 それぞれの思いを胸に抱いて。

 グリッセとヴァニラの二人も、他の生徒達と同じように自分たちの部屋に戻ると、一息ついたように椅子に腰を下ろした。
 二人とも、夕食は結局、ひとかけらも口にしなかった。
 また、それについて語り合うつもりも相談し合うつもりもない。
 お互いがお互いの罪を知っている。
 慰めも気休めも、何の足しにもならないことも。

 どのくらいそうして黙っていただろうか。いや、そうした沈黙の夜は、もう既にいくつか越えていた。この学校で殺人が起こったあの日から。それまでの、お茶会や勉強会でキラキラしていた時間はもうとうに暗闇の向こう側へと押しやられて、まるで別の世界の出来事のように薄い記憶になっていた。
 だから、今までと同じようにまた沈黙を二人で抱えて闇の中へとじわじわ沈んでいくだけのこと。そうした夜だったはずが、今日はいつもと少し違っていた。

「グリッセ、ヴァニラ」
 控えめな扉のノックに続き、自分たちの名を呼ぶ声があるのに気づき、級長はのろのろと腰を上げた。
「…クローブ?どうしました?」
 扉の向こうに立っていた級友の姿に、グリッセは意外そうな顔をした。今はまだ生徒達は謹慎中で、勝手に部屋を出てうろうろしているところを見つかったら、叱られるはずだからだ。
「…今日…夕食食べてなかったよね?どっか悪いの?」
 クローブのその言葉に、グリッセは少し寂しそうに微笑んだ。
「…そんなことは、ないですよ。少し食欲がなくて」
「そう…あの…講堂で、守護神官様が呼んでるんだ」
 クローブの言葉に、グリッセは僅かに眉を上げた。
「そうですか…じゃあ、行ってきますので、ヴァニラ、先に寝ててください」
 部屋の中に彼が声をかけるのを聞いて、クローブは慌てた。
「いや、待って、二人共だよ、二人とも呼ばれてるんだ」
「…取り調べは終わったはずですが…」
「あの、新しく来た守護神官様が、聞きたいことがあるんだって…」
「………そうですか」
 グリッセは一旦部屋の中に入り直し、ヴァニラを連れて戻ってきた。

 謹慎中で人気のない廊下を、三人の少年がただ歩いていく。
 グリッセは、途中、校内に描かれてあった天使ネルティスの紋章が、随分と傷つけられているのを見て眉をひそめた。
 廊下の壁のものも扉のものも、見るもの見るもの、殆ど全てに、上から十字の形に傷が加えられている。誰のいたずらなのだろうか。

 講堂に着くと、三人の守護神官と、担任であるカルダモンが待っていた。
「じゃあ、オレはこれで…」
 クローブが出ていこうとすると、それを守護神官の一人がとめた。
「お前もここにいろ、クローブ」
「え?なんでですか?」
「私の助手だからな」
 白いローブの守護神官のセリフに、少年はあからさまに嫌な顔をすると、講堂内に残った。

「…何故呼ばれたか分かるな?グリッセ、ヴァニラ」
「いいえ」
 確か、夕食時に「エル」と紹介されていた守護神官が、刺すような目で二人を見る。まただ、この目で見られると、心臓が冷たい手で握りつぶされたかのように力が抜け動けなくなってしまう。
 グリッセは必死で彼の目を睨み返した。
「…なんでしょうか?」
「ずいぶんと強心臓だ」
 エルは口元だけで皮肉げに笑う。
「二人とも、何故今日の夕食に手をつけなかった?」
「食べたくなかったからです」
「育ち盛りに夕飯抜きで我慢できるのか?」
 エルが一歩近づいてくる。グリッセとヴァニラは、突然言いしれぬ恐怖に襲われた。
「さ、殺人事件が起こったばかりなのに、食欲など起きません」
「ほほう…」
 エルはコツ、コツ、と足音を立てながら、彼らの周りを回った。二人はエルに視線を向けることも出来ず、足下の床を見つめている。エルに受け答えするグリッセに比べ、ヴァニラは怖じ気づいたのか口も聞けずにいる。

「お前達の気持ちは分かる」
「…何がですか?」
「殺人事件が起きて、しかも犯人を知っているのに誰にも言えないと来たら、食欲が失せて当然だ」
「私たちが犯人を知っているとでも?」
「勿論」
 守護神官は断言すると、視線を落とし、悼むような表情でゆっくり首を振った。
「お前達だ」
「…………………」
 グリッセとヴァニラは苦い顔をして、反論もせずに立ちつくしている。

「おい!」
 ラッセル・ハウンが少し苛ついた声でエルをとがめた。
「まだ二人が犯人と決まったわけじゃないんだろう、そう決めつけた言い方をするな!」
「こいつらが犯人だ」
 エルディークがまったく動じずに答える。
「何故そう言い切れる?」
「夕食を食べていなかった。態度が変だった…他に理由が必要か?」
「断定できる材料ではないだろう!いくら犯人以外は校長が刺された凶器を知らないからと言って…」
「そうですよ」
 ラッセルの声を遮って級長がエルに向かって言った。
「あなたは間違っています」
「…ほう」
 エルは面白そうに歪めた笑顔を浮かべる。
「どこが、どう間違っている?」
「犯人は、私たち二人じゃありません…私だけです」
「グリッセ!」
 ヴァニラとクローブが二人同時に悲鳴のような声を上げた。
「何言ってるんだ、グリッセ!」
「私をかばう必要はありませんよ、ヴァニラ」
 グリッセは優しく微笑んで片手でヴァニラを制すると、エルを睨み上げた。
「…いつか分かってしまうと思っていました。校長先生は、私が殺しました」
「……………」
 エルは黙って彼を見下ろした。

「…グ…グリッセ」
 カルダモンが絶望に満ちた声で首をゆっくりと横に振った。
「な、何を言ってるんですか?そんなわけないじゃありませんか…グリッセ」
 グリッセは、そんなカルダモンを見て少し辛そうに顔を歪めた。
「…カルダモン先生…」
「あなたは…あなたは虫一匹殺せないほど優しくて…そして、成績優秀で…とてもしっかりしていて、みんなの頼れる級長で…そうでしょう?あなたが人を殺すなんてことするはず…ないじゃないですか…」
「…ごめんなさい、カルダモン先生」
 グリッセは担任から目をそらしてうつむいた。

「…何故、殺したんだ?」
 エルディークが訪ねると、グリッセは少し間をおいてから答えた。
「私の…私の成績が…下がって…聖癒祭の準備のせいで…それで…パプリカに、成績を抜かれてしまったんです…。校長先生に呼び出されて…親に報告すると言われました…。やめて欲しいと頼んだのですが聞き入れてもらえず…更に、級長をパプリカに変えると…」
「それで…?」
「…女に級長の座を奪われるなんて、許せませんでした。また、両親がこれを聞いてどう思うか…。そう、思うと…頭の中が真っ暗になって…校長先生さえ、いなければ…と、思って」
「………」
 エルは眉を寄せた。
「申し訳ありませんでした」
 ぽつりと、付け足すように、グリッセが呟いた。

「…………し、信じられない…」
 カルダモンは首を振りながら、小刻みに震えてグリッセを見ている。
「…では、どうやって」
 そこにラッセルが口を挟んだ。
「校長を、時計に吊した?いや、何故あんなことをしたんだ?」
「それは」
 グリッセは口ごもった。眉のあたりが曇る。
「そ、それは…」
「こいつは、湖に校長の遺体を落とそうとしたんだ」
 そこに、エルが口を挟んだ。
「湖に?」
 クローブ、カルダモン、そして守護神官たちが驚いたように声を上げる。
「校長を、そこのカーテンの動力を使って一旦屋根の上に上げ、それから湖に落として死体を隠そうとした。ところが、間違えて…反対側に落としてしまったんだ」
「………そうです」
 グリッセはやや苦しそうな表情で、エルの言葉に頷いた。
「カーテンの動力を使って?」
 ラッセルとフロールァが、ワケが分からないという顔をする。
「そこの、カーテン、閉まっているのが通常の状態だから、閉めるときはおもりで引っ張った状態にしてあるらしいのだが、開けるときは地下の水脈を利用した歯車の仕組みになっている」
 山の上の方から集まった水脈が、この学校の裏手に大きな湖を作っている。また、そこから地下を通って、かなり大きな水洞穴が出来ている…この学校はその上に立てられている。
「水脈を使って水道を引いたり、はたまた水車を取り付けてカーテンの開け閉めに使ったりしているのさ。その水車の動力を利用すれば、死体のひとつくらい引き上げるのはワケもない」
「なるほど…」
 クローブは思わず呟いた。
 死体を湖に投げ入れようとして、一旦高い場所に引き上げ…逆に落としてしまった。それで時計にひっかかった…ということらしい。『この学校のことを知り尽くしていて、臆病な人間が犯人』とはそういうことか。
「間違いないな?グリッセ」
「…………はい」
 グリッセは無表情で頷いた。

「…そんな理由で殺人を…理解出来ない…しかし…」
 ラッセルは曇った表情でグリッセの肩を掴んだ。
「なんにせよ、子供だからと言って罪を逃れることは出来ない…一緒に来て貰おう」
「覚悟してます」
 グリッセは、神妙に言いながらも、年齢に似合わず凄みのある暗い笑みを浮かべた。
「あの男を葬るためだったら…何も怖くなんてない…」
 フロールァがラッセルに習い、グリッセの背後に立つ。
「…では、行こうか」
「…グリッセ…」
 クローブは、級友が司法の手に委ねられようとしているのを、信じられない面もちで眺めた。

 グリッセが一歩足を踏み出したその時、
「…違う」
 今まで沈黙を守っていた少年が、ぽつりと呟いた。
「…ヴァニラ?」
 クローブが怪訝な顔で聞き返すと、ヴァニラは守護神官達を見上げ、叫んだ。
「違う!違う、違う!違うーーーっっ!!」
「ヴァニラ?」
 カルダモンもとまどって、思わずヴァニラに近寄る。
 温厚な性格で知られていたはずのヴァニラは、今やそんな雰囲気の欠片もない鬼気迫った顔で、全身に力が入り、ガクガクと震えていた。
「ヴァニラ!」
 グリッセが険しい顔で、激しく首を横に振る。
 ヴァニラはそんなグリッセの方には目もくれず、守護神官達に向かってきっぱりと言い放った。
「校長先生を殺したのは…僕だ!」
 その場にいた全員が、今度は驚愕の目をヴァニラに向ける。
 動揺していないのは…一人だけ。
 エルディークが、クククッと咽喉の奥で笑った。
「真犯人のお出ましだ…」

「な…何を言うんですか?ヴァニラ…」
 カルダモンが、耐えきれない様子でゆっくりと首を振った。
 優秀な級長に引き続き、更にもう一人自分の生徒が、「殺人を犯した」と言い出した事実が受け入れがたいのだろう。目の焦点が合っていない。
「ヴァニラ…嘘だろ?」
 クローブも困惑して聞き返した。グリッセ以上に信じられない。彼が、人を殺すだなんて。
 ヒューライ神殿の守護神官達は、戸惑ってグリッセとヴァニラを見比べた。グリッセが辛そうに唇を噛んでうつむいているところを見ると、ヴァニラの言葉は…おそらく真実なのだろう。
「…何故…?何故です…?何故です、ヴァニラ…」
 泣きそうな声でカルダモンがヴァニラに訪ねた。
「どうして、なのです?何故、校長先生を?」
「校長先生は…」
 ヴァニラは大きく顔を歪め、吐き捨てるように動機を告げた。
「あの男は、僕の…僕の両親を殺したんだ!」
 その言葉に、その場にいた全員が戦慄した。
 校長が、殺人を?
 あまりにも非道な仕打ちを、この少年に対して先におこなったのは、校長の方だというのか?
「だから…だから、だから僕はあいつを…あの男を…」
「違うだろう」
 エルディークが、静かにヴァニラの言葉を遮った。
「父親を殺したのは…お前自身だろう?」
「…………」
 一瞬、ヴァニラの目が大きく見開かれた。そしてゆっくりと視線がエルディークに向けられる。
「…知ってる…のですか…?何故…」
「…見れば分かる…」
 エルディークは静かに目を閉じた。
「お前とあの死体が親子関係にあることは」
「…ははは…」
 ヴァニラの目から涙が落ちた。
「…親…子?校長先生と、ヴァニラが?」
 クローブは完全に混乱していた。他の人間には見えないだろうが、宙に浮いて今この話を傍らで聞いているローリエも同じようだった。
「……話してくれまいか」
 ラッセルが重い口を開いた。
「…どういう経緯で…何故…君は校長を?」
「…分かりました…」
 ヴァニラは静かに語り始めた。聖癒祭の前夜、一体何があったかを。

 

 あの日、聖癒祭の前日。
 ヴァニラは、お茶会を終えたクローブが部屋に戻るのを見送ると、そっと部屋の扉を閉めた。
「ヴァニラ、お茶のおかわりは、もうよろしかったですか?」
 グリッセがカップを手に聞いてくる。ヴァニラは微笑みながら、もう結構、との意思表示をした。

「…それにしても、知りませんでした…ヴァニラにお父様が居なかったなんて」
「あ…」
 グリッセに話を蒸し返されて、ヴァニラは少し気まずい表情になった。
「ご、ごめん、今まで黙ってて」
「何を言うのですか、とんでもないです…私の方こそ…今まで、そんなあなたの事情も知らずに、自分の父親に関して無神経なことを言っていたのではないかと…。申し訳ありません」
 グリッセは頭を下げた。
「そんな、全然そんなことないよ。あ…それに…父は、一緒に暮らしてないだけで、生きては…いるんだよ」
「あ…そうなのですか…お会いしたことは…?」
「ある…っていうか、毎日会ってる…でも、向こうは僕のこと、知らないんだ」
 グリッセは戸惑った顔をした。
 この寄宿制の学校でヴァニラが顔を毎日合わせる相手と言うことは、グリッセや勿論他の生徒達にも同じ状況と言える。まさか、ヴァニラの父とはこの学校の教師か誰かなのだろうか?
 ヴァニラは、その時、ふと…何故かこのルームメイトに全て話してしまいたい気になった。
 どうしてそう思ったのかは、結局最後まで分からなかったが。

「僕のうちって、貧乏だろ、でも、母さんが神官の資格を持ってるから…なんとか食べて行けて、今こうしてこの学校に通えるだけの蓄えも…あるんだけど」
 あ、勿論、そのお金は、母さんが死んだあとに僕を育ててくれた親戚の人が管理してくれてるんだけどね、と注釈をつけてから、ヴァニラは先の説明を続けた。
「父さんのことは、小さい頃から何も聞かされてなくて、僕は死んだと思ってた…それが、母さんが死んだあとに親戚の人が教えてくれて…身分違いで結婚できなかったけどまだ生きていて、今…神官学校の教師をしてるって…」
「え…では、あなたの父とは、ここの神官なのですか?」
 ヴァニラはこくりと頷いた。
「そう、それで僕は、父に会うためにこの学校にやってきたんだ…父に、母の最期を伝えるために…」
「あなたのお母様が亡くなったと、お父様は知らないのですか?」
「…ううん、知ってる…」
 ヴァニラは悲しげな表情で呟いた。グリッセはどう言葉を続けたらよいのか分からず、口ごもった。
「知ってるけど…でも…僕が息子だってことは…知らないみたいで…分からない…みたいで…僕、伝える勇気がなくて…」
「ヴァニラ…」
 グリッセはかぶりを振ると、ヴァニラの肩に手を置いた。
「話すべきですよ」
「え、でも…」
「私はずっと父を憎んできましたが、でも心のどこかで父親というものに憧れてもいました。もし彼と私の間に確執がなかったら…私の心に父を憎む気持ちがなかったら…父の胸に私を疎う気持ちがなかったら…と…。でもそれはしょうがないと、そう思っていました。…そんな私の分までは、とは言いませんが…でも、障害がないのでしたら…あなたとあなたのお父さまとの間に、なんの諍いの種もないのでしたら」
 名乗るべきです、とグリッセははっきりした声で断言した。
「グリッセ…ありがとう」
 ヴァニラは微笑むと、今夜、打ち明けてみる、ありがとう君のおかげで勇気が出た、と続けた。
「ヴァニラ、記念すべき日に、まず私に教えていただけませんか?あなたという孝行息子を持った幸せな父親は、この学校の中にいるのでしょう?一体誰のことなのですか?」
 微笑みつつ尋ねるグリッセに、ヴァニラははにかんだ表情で、校長先生だよ、と答えた。

 その日、他の教諭たちに紛れて、打ち合わせなどで忙しそうな校長になかなか時間を作ってくれとヴァニラは言い出せず、また自分も聖癒祭の準備で忙しく。夜の日付が変わる前に話したいことがあると、ようやくヴァニラは教諭たちに悟られぬよう、こっそり校長に伝えることが出来た。そんな遅い時間になってしまうのは、点呼後でないと時間がとれないためと、就寝前の湯浴み、また、教諭たちの仕事の都合からだった。

 時間の少し前に、ヴァニラは部屋を抜け出して、音を極力立てないようにこっそり約束の場所に向かった。場所は、すでに聖癒祭の支度が終わっていて、誰も入らないであろう講堂。他人に聞かれて困る話ではないけれど、でも出会って何年も経っている校長が、自分の父親なのだと今更告白するのは、やはりどこか気恥ずかしかった。
 どくっどくっどくっ
 心臓が早鐘のように胸を打つ。
 ヴァニラは重くなりがちな足を引きずりながら、ようやく講堂にたどり着いた。薄ぼんやりと、ランプの明かりが浮き上がらせる丸い人型は確かに校長その人だった。
「先生…」
 囁くように呼びかけると、校長は気付いたようで、ヴァニラを見た。
 校長の手元を見て、ヴァニラは少々幻滅した。彼が手に包丁と大きなソーセージ、またリンゴを持っていたからだ。ソーセージの片端が欠けていて、校長が口を動かしているところを見ると、今ここに自分が来るまでの間に頬ばったに違いない。
「や、やあ、腹が減ってしまって、君も食べるかい?」
 照れたような口調で頭を掻きながらターメリックは言った。厨房からちょろまかしてきた、明日のための食材だろうに悪びれもせず。ヴァニラは微かに苦笑して、「結構です」と答えた。

「で…話って…?」
 ようやく聞く気になってくれたのか、口を動かすのをやめて、彼の方から聞いてきた。ヴァニラは意を決して、校長を見つめ返した。
「先生…あの…クミン・エストラゴンを…知っていますか」
「…エッセン君、何故、君がその名を?」
「…僕の…母です」
 その言葉に、ターメリックは凍り付いた。
「…おお……」
 のどの奥から絞り出したようなうめき声が微かに聞こえる。だが、それきり彼は言葉を発しなかった。

 喜んでくれるかと思ったのに、でもそれは自分だけの都合のいい妄想だったのか?
 ヴァニラはターメリックを見つめ返しながら、ただ彼の反応を待った。口の中がいつの間にかカラカラになっている。
 だが、ターメリックは悄然とした面もちになり、項垂れてしまい、何かを言うような素振りは見受けられなくなってしまった。
「…あの、僕…お分かりだと思いますけど…僕…」
 なんて言えば良いんだろう。ヴァニラは足下を見つめながら、モジモジと手を揉み合わせた。口に出すべき言葉が見つからない。
「あの、エッセンは、母の死後、僕を引き取ってくれた親戚の家名で…その…」
 ああ、なんで校長は何も言ってくれないんだろう。ヴァニラはだんだん苛立ってきた。わざわざこの学校に入学してまで会いに来た自分に、もう少しかける言葉があるのではないか?いや、ここに来たのは母と同じ神官になりたかったのと、自分も同じくネルティスの信徒であると、それも理由の大半ではあったのだけれども。
「先生、あの…!母が亡くなったのは…ご存知だったんですよね?」
「……知ってた」
 ぼんやりとした目つきと口調で、校長は呟いた。その鈍そうな動きにまたヴァニラは苛立った。こんな人が僕のお父さんだなんて!ああ、なんで母はこんな人を愛したりしたんだろう?ヴァニラは日頃、生徒の中でも特に悪ガキで知られている連中が、影でこっそり校長を馬鹿にして嘲笑っていたことを思い出して歯噛みした。それを見たときは肉親としての校長に対してそんな態度をとる連中の方に対して腹が立ったものなのだが、今は何故か校長と自分が血縁関係にあるということの方が恥ずかしく思えた。
「先生…あの…」
 何を言ったらいいか分からないまま、ヴァニラは口を開いた。何を言えばいい?何を?何を?もう校長は悟った様子で、それなのに何も言ってくれないというのに、一体自分からどんな言葉を発すればいい?
 急に、思い出してはいけないことを思いだした。親戚たちが日頃から自分に言っていたセリフ。「お前の母親はお前の父親に殺されたようなものなんだ」と、詳しい事情は話してはくれなかったけれども苦々しそうに何度も何度も…。そして、それを聞く度に心の中で耳を覆い、必死で否定してきた自分を。過去のその何度も何度もの繰り返しを。
 だってまさかそんなはずはないんだ、母は父のことを何も話してはくれなかったけれども、父はきっと立派な人で…母が生きている頃からずっと心の中で思い描いていた父はとても立派な人で…母を愛していて、僕を愛していて、母と別れたのはやむにやまれぬ事情があって。今も僕たち親子のことをきっと気にかけていて、もし会いに行ったら僕の名を呼んで、抱きしめてくれて、どんなに母のことを心配していたかそしてどんなに僕に会いたかったかと話してくれて、そして僕はどんなに父に会いたかったかと…
 それは、はじめてこの学校に来て、あれが父かと思ったときは思い描いていた父親よりずっと年を取っていて太っていてガッカリもしたけれど、でもそんなことは関係なくて…外見なんて関係なくて、父はきっと立派な人で、僕のことを愛していて、僕が名乗ったらきっと物凄く喜んで、僕のことを抱きしめてくれて、そしてそれは立派な人で…

「あなたが母を殺したんだって、本当ですか」
 けれど、ヴァニラの口をついて出ていたのはそんな言葉だった。

 言葉を発した途端、ヴァニラは何も考えられなくなり、真っ白な頭のまま自分の父親を見つめた。否定してくれ。頼むから。あんたは僕がどれだけ母が死んだあと、心の中の父親像を生きる支えにしてきたか知らないんだろう、違うと言ってくれ、頼むから!それが僕の心のたったひとつの堰なのだから!
 なのに、目の前の動作の鈍い男は、ヴァニラの言葉に一拍間をおいてから、ゆっくりと頷いた。悄然とした面もちのまま。
 一気に頭に血が上り、ヴァニラの目の前が真っ赤になった。
 目の前に居るのは、父じゃない。…母を、死なせた犯人だ。

 

「ヴァニラ!」
 グリッセが悲痛の叫びをあげたとき、ヴァニラは足下に転がった校長の身体を呆然と眺めていた。…何が起こったのだろう?校長の頷きにカッとなったのは覚えてる。そして…
 そのまま彼の持っている包丁を奪って、校長を刺したんだということを思い出すのに、しばらく時間がかかった。
「あ…あ…!僕は…」
「ヴァニラ…ヴァニラ、なんてことを…」
 グリッセが震えながら、ヴァニラと校長を見比べた。すぐに校長の身体を苦労して仰向けにしたが、胸には包丁が深々と刺さっており、もう彼が死んでいるのは素人目にも明らかだった。
「ああ…私の、私のせいです、私が名乗るべきだなんていわなければ…」
 青ざめて涙ぐみながら、グリッセはゆっくりと頭を降った。虫の知らせなのか、どことなく気になって様子を見に来たのだとグリッセは言った。

「…グリッセ…僕…」
「ヴァニラ…しっかりしてください」
 人心地を僅かながら取り戻したのか、グリッセが少し芯の戻った声でヴァニラに向かって言った。
「何があったのかは知りませんが、このままではあなたは人殺しになってしまいます…校長先生のご遺体を隠しましょう」
「え…!?」
 ヴァニラは思いもかけなかったグリッセのセリフに驚き、首を横に振った。
「そんな。グリッセ…僕はいい、自首する」
「いけません…!こんなことのために人生を棒に振ってはいけません」
「だって…一人じゃとても…でもグリッセを巻き込むわけには」
「私は構いません」
 どうしてか、その時グリッセの瞳の奥に昏い光がともった。
「隠すなんて無理だよ…校長先生の体は大きいし…」
「…………………」
 グリッセは校長の身体を見下ろしながらしばし逡巡し、それから講堂のなかを見回した。
「…ひとつだけ…方法があります」
「え?」
「このあいだ、講堂の飾り付けのために簡単なエレヴェーターを作れないだろうかと考えていて、ふと思いついた方法があるのです。ヴァニラ、講堂の入り口を、誰も居ないのを確認してしっかりと閉めてきてください。あと、脇の用具入れから出来るだけ長くて太いロープを」
 ヴァニラは言われたとおりにしたが、講堂の入り口には鍵がなく、誰も入ってこない状態にするのは無理だった。
「…入ってくるような人はしばらくは居ないはず…さっと片付けてしまえば大丈夫でしょう。ヴァニラ」
 ヴァニラが持ってきたロープの強度を確かめながら、グリッセはそれをターメリックの身体にグルグルと巻き、しっかりと結びつけた。ターメリックの巨体は非常に重く、生を失った今、その重さには磨きがかかり、ロープを結びつけるために上半身を起こすだけでも大変な苦労で、二人の少年たちはそれだけでもう汗だくになった。

「ではヴァニラ、このロープの端を持って、梯子を上がり、天窓からこのロープを外に出し、端を、下におろしてください。私はそこの窓から受け取ります」
 息を弾ませながらグリッセは立ち上がり、湖がある方の壁の窓を指さした。
「でも、静かに…。反対側のあちらの屋根では、時計の修理が行われているはずですから、修理工さんに気付かれないように…そおっと」
「わ…分かった」
 グリッセが何を考えているのかよく分からないまま、ヴァニラは彼の言うとおりにロープをもち、梯子を登った。梯子を登るときは両手が使えないととても無理だったので、ロープの端は口にくわえた。固くて太いロープをくわえているとすぐに顎がだるくなり、唾液が口角から流れ落ちた。それでもロープを離すことは出来なかった。やがて天井に辿り着き、梯子の角度が屋根と天井に添って斜角になったが、腕でぶら下がるようにして苦労してヴァニラは梯子を伝い、屋根の真ん中の天窓に辿り着いた。天窓を片手で何とか開け、くぐって顔を出す。満天の星が見えた。あまりの美しさにヴァニラは一瞬、自分が今置かれている状況を忘れ、そして思い出すと星が滲んでぶれた。
 夜気の中、時計工が修理している音が響いて聞こえる。ヴァニラはなんとか屋根の上に登ると、講堂を覗き込み、グリッセを見た。ランプの明かりに薄く照らされて、彼が自分を見上げているのが何とか分かった。ヴァニラはグリッセに手振りで合図すると、屋根の上を這うようにして湖側の際に移動し、グリッセが指さしていた窓に見当をつけると、そこに向かって持っていたロープの端を下ろした。引っ張りながらどんどん下ろすと、やがて窓が開いて、そこから突き出たグリッセのものであろう腕がロープを掴んで中に引っ張り入れた。ヴァニラはそれを見ると息を整え、天窓の所に戻った。

 グリッセはカーテンの下をくぐって窓から手を出し、ヴァニラが下ろしたロープを掴むと、窓枠に足をかけてよじ登って身体を伸ばし、そのロープを、カーテンの端の、滑車の輪の部分に結びつけた。この輪がまたもう一つの金属で出来た鎖に繋がっており、それが地下の水源の動力を利用してカーテンを動かしているのは分かっていた。いつもカーテンが開け閉めするところを見ていたから。そのからくりに感嘆さえしていたから。死体隠蔽に利用するつもりなど今日までは一切なかったが。
 ロープがしっかり結びついたのを確認すると、グリッセはカーテンの開け閉めに使うレバーの所まで行き、それを引いた。カーテンがぞろりと動き出す。
 そして校長の遺体まで駆け戻り、ロープをしっかりと掴むと、校長の遺体の上に乗った。
 すぐにロープの遊びの部分はなくなり、カーテンはビン、とロープを引っ張りながら動き、引っ張られたロープは窓枠、屋根、天窓を経由して校長の身体をグリッセごと宙に持ち上げた。想像していたよりも速い速度で、校長の身体は上に登っていく。遺体が天窓の真下になかったせいで遺体は揺れ、グリッセは恐怖と共にロープにしがみついた。
 屋根のすぐ下、天窓の寸前で天井に押しつけられるように、校長の身体はぴたりと止まった。グリッセも天井との間に潰されないようにうまく天窓の所に身体を乗り出すことが出来た。
 カーテンが開ききったのだ。グリッセが目測で計算したとおり、ややカーテンの幅の方が長さがあった分はロープに遊びをつけたことでうまく行った。だが、グリッセは現状を喜ぶ気になれなかった。自分の犯している罪の重さと、胃がひっくり返りそうな緊張に眩暈がしていた。
「ヴァニラ、遺体を引っ張り上げるのを手伝ってください。そして、屋根を滑らせ、湖に落とすのです」
 時計工に聞き取られぬよう、グリッセが低く囁く。屋根のすぐ下の湖を指さしながら。屋根から勢いよく落としたら、確かに遺体は湖に落下して、これ以上ないくらいうまい隠し場所にその身を投げると思われた。ヴァニラは頷くと、グリッセが屋根の上に出るのを待ち、それから二人でまたも汗だくになりながら校長の身体を引っ張り上げた。まだカーテンが校長を引っ張る余力が少し残っていたので、それを利用してなんとかなりそうだった。
「あともう少し」
 そう言いながら、なんとか校長の身体を屋根の上に半分ほど引っ張り出したとき。グリッセが講堂を見下ろして固まった。
「大変…!カルダモン先生!」
「…えっ…!」
 二人の少年は凍り付いた。彼らの担任が講堂に入ってきたのだった。おそらくは、校長を捜して。
 講堂の中は暗く見渡しがきかなかったため、カルダモンは床に流れたりこすれたり飛び散ったりしている血の跡や、窓からのびてカーテンに添ってピンと張っているロープには気付いていないようだった。勿論、開いた天窓とそこに居る二人の少年、また変わり果てた校長にも。ただ、カーテンが全開になっていることだけはさすがに目にとまってしまったらしく、首を傾げたり肩をすくめたりしながらカーテンの開閉をするレバーの所に歩み寄った。
「校長先生の身体を押さえて!」
 グリッセが鋭い声で囁く。
 ヴァニラは慌てて校長の服と、ロープを掴んだ。
 カルダモンがレバーを動かす。
 今度はさっきよりも勢いよく、カーテンが閉まり始めた。先刻とは逆方向の力がロープに加わり、張りつめたロープが緩む。思っていたよりもロープの校長の遺体を支えていた力は強かったらしく、途端ずるりと遺体が動いた。
「押さえて!しっかり!もっと!」
 切羽詰まったグリッセのささやきが闇夜に響く。ヴァニラは遺体がずり落ちないように、さっきよりも強く校長を押さえつけたがその力が強すぎた。また、屋根の角度が鋭すぎたのか。
 校長の遺体が、屋根を伝って滑り出した。なんと、目的のとは反対方向に。
「あ…!あ…!待って!」
 グリッセが慌てて校長の身体を掴もうとするが、慌てた手は胸に刺さった包丁の柄を掴み、はずみでそれを引き抜いてしまう。「しまった…!」すでに脈拍を失った校長の身体から、こごった血がだぷりと溢れて衣類を濡らし始めるのが視界の端に映る。
「遺体が!」
 ヴァニラが慌てたようにずるずると引きずられてのびていくロープを掴んだ。校長の身体はすでに屋根の端までずり落ちていっている。
「ダメだ!」グリッセはヴァニラが掴んだロープを、手にした包丁で断ち切った。パツーンと勢いよくロープははね、校長と一緒に屋根のへりを越え、そして見えなくなった。二人の少年は、その様子を呆然と見送った。
 …なんということだろう

 講堂の中からカルダモンはすでに姿を消しており、また、先程までは耳にうるさいほどだった時計修理の音も何もなくなっていて、辺りはしんと静まりかえり、完全に夜の闇とどっぷりした沈黙に覆われていた。
 湖に落とすつもりだった遺体は、よりにもよって建物の反対側へ…。あそこは、そう、大時計の下。
 すぐに大騒ぎになるだろう。だって校長の身体はすごい音をして地面に激突するに違いないし、そうしたらみんな起きてきて何事かと騒ぎになるし、そうしたら校長の遺体もすぐに見つかるし、どこから落ちてきたのかも、そこに誰が居たのかも、自分達の服にどんなに血が付着しているかも全て分かってしまう。二人はその瞬間を真っ青になったまま待った。
 だが、何も起きなかった。しばらく沈黙が続き、やがてグリッセはハアッと大きく息を吐いて、湖の方に向き直り、大きく腕を振った。ぽちゃん、と音がして、ヴァニラはグリッセが投げ入れたのが先刻の包丁だと悟った。
「…無駄だと思いますが、血やロープを片付けて…。それから、帰りましょう」
 それから二人はロープを外して回収し、汚れた上着を雑巾がわりにして血を全部ふき取り、痕跡を全部なかったかのようにぬぐい取ることに神経を使い、そして、部屋に戻り、ベッドに入った。
 全然寝付くことなど出来なかったが。
 明日の朝には、みんな地面に激突した校長の死体を発見しているに違いない。そうしたら誰が殺したか、すぐに知られるだろうか?分かってしまうだろうか?守護様が来て自分達を捕まえるだろうか?
 まんじりともしないまま夜が明け、二人はまだ遺体が見つかっていないのを知った。
 もしかして夢だったのだろうか、あれは悪夢だったのだろうか?と少しだけ思い始めた…何故なら、二人はお互いに夕べにあったことについては一切口にしなかったし、また別のことで口を開くこともなかったから確かめても居なかった。あれが現実だということを。

 だから、顔を洗ってしばらくしてから、二人はあれは悪夢だったんだと自分に言い聞かせだした。だって、あんまりに現実離れしているではないか?あんな恐ろしい夢、内容が内容だったから、リアルに覚えているだけで…でも、やっぱりありえない。だって、まさか、校長先生を殺しただなんて!あまりにばかげてる。そんなことがあるわけない!
 聖癒祭の開式前にはグリッセも気を持ち直し、だんだんと落ち着きを取り戻していた。校長が居ないと聞いて、探しに行ったりもしていた。それは決して芝居などではなかった。
 ネルティス様、どうか今日も平穏と安らぎをくださいませ!
 二人とも心で強くそう願っていた。

 …時計から、覆いが外されるその瞬間までは。


 告白が終わって、講堂は愕然とした沈黙に覆われた。
 カルダモンは必死に嗚咽をこらえている。クローブとローリエは衝撃の告白についていくことができないし、ふたりの守護神官はいたましげ眉をひそめていた。
 告白したヴァニラとグリッセの陰鬱な様子から、たった今告げたことこそが真実だったのだと知らされる。
 ややあって、はじめに口を開いたのはエルディークだった。
「と、いうことだ」
 なんの感慨もなく、ふたりの守護神官に事件の解決を告げる。その無遠慮さに、ラッセルは少なからずむっとした。
「…じゃあ、グリッセはヴァニラをかばおうと?」
 フロールァが尋ねると、グリッセはかたく口を結んだままだったが、ヴァニラがゆっくりと頷いた。
「そうです…。成績が落ちたからグリッセが殺したなんて…。グリッセは、ただ僕を心配して、罪を隠そうとしてくれただけなんです。裁かれるようなことなんて何も……」
「守護様!」
 突然、グリッセが友人をさえぎって顔を上げた。
「私は…何の罪に問われますか?」
 思い詰めたような少年の目の光に、ラッセルは少々怯んだ。両脇の同僚を見るが、そしらぬふりをしている。
「まあ、何の罪に問われるかというのは…事実関係を確認してからだ。今の状況では、容疑者の自白だけだからな。目撃者はいないから、現場をあらためて、ヴァニラ君の関係者からも話を聞いて、裏付けをとらないとな」
「面倒だな、何日かかるんだ」
 エルディークが心底うんざりしたように呟くと、ラッセルはさすがに憤慨して怒鳴った。
「あんたががさつすぎるんだ!」
 最初の慇懃な態度をとっていた時から気にくわなかったが、今や馬脚を現しているエルの隣で仕事をするのは、フロールァと組むこと以上にラッセルの神経を摩耗させた。
「目撃者がいればいいわけだな?」
「は?だから、それがいないから…」
 反駁するラッセルを無視して、偽神官はクローブの方をふりかえった。
「リッズを呼んでこい」
「えっ、は、はい……」
 首をひねりながらローリエと一緒に講堂を出ていくクローブ。背後から、「やっぱりあいつが事件に関わっているのか!?」というラッセルの声が聞こえた。
 講堂の扉を閉めた途端、ひっそりとした夜の空気がふたりを包んだ。信じられない告白劇。まさかあの猟奇的な殺人に、あんなに悲しい事情があったのだとは、思ってもいなかった。
「ヴァニラが言ってたこと…本当なのかな」
『うん……』
 クローブは足をひきずるようにして進んだ。ローリエもその速度にあわせてついてくる。
「でも…ひどいよ、校長先生も」
『校長先生がヴァニラのお母さんを殺したって、本当だと思う?』
「分からない…さすがに神官がそんなこと、しないと思うけど…でも、もう真相を知る人はいないんだ……」
 リッズは客室にはいなかった。慣れたもので、人目に付かない一画を探してみると、案の定、ネルティスの紋章の修繕をしているところをつかまえられた。
「リッズさん、エルディークさんが呼んでるんですけど…」
 クローブが声をかけると、蜂蜜色の髪をたばねた(気合いの表れだろう)リッズは、泣きそうに顔を歪ませた。
「勘弁してくださいよ。もはや、闇王様が復活するか、私の首がつながるかという瀬戸際なんです。崖っぷちなんです。これから徹夜で作業なんですよ。嫌がらせはよしてください」
「いや、そんな…」
 少なからず同情する点はあったが、今はその嘆願をきいている場合ではなかった。ローリエが言葉を重ねる。
『リッズさん、殺人事件の犯人が分かったんです。そのことで、話が聞きたいって、守護様が』
「殺人事件の犯人…?そうですか」
 そういうことなら、とリッズは渋々、クローブのほうにやってきた。それでもまだ警戒した様子で、
「まさか、闇王様が私に罪をかぶせる絶好の言い訳を考え出したわけじゃないでしょうね?」
「さあ……」
 違うとは断言できなかった。

「遅い!」
 三人が講堂に入っていくと、エルディークとラッセルが声をそろえて出迎えた。
 あいかわらずカルダモンは泣いていたし、ヴァニラとグリッセは暗い顔でうつむいていた。
「あんたが目撃者か!事件があった夜に何をしていたか、隠し立てせずに言ってもらおう!」
 ラッセルがつめよろうとするのを、フロールァがまあまあと止めた。
「そういえば、あなたと校長先生が、事件の夜に口論してたって証言もあるんですわ。そのとき、あなたが校長の首を絞めていたとか」
「えっ…!?」
 三人の守護神官以外は、驚きの声をあげてリッズを注視した。証言をしたクローブさえ、そのことを忘れて(どういうことだ!?)と混乱した。ではヴァニラの告白は何だったのか?
 リッズにむいていた視線が、一瞬の後に、今度はヴァニラへと向かう。少年は、何も知らないというように困惑して首をふった。
「いったい、どういうことですか…? その、ヴァニラさんが自白したっていうのは、道々クローブさんから聞きましたけど。校長先生と口論した覚えはありませんよ」
 どうして私が?と面々に問いかけるリッズ。内心で、エルディークの陰謀に違いない、と怪しんでいた。
 ラッセルがさらに問いつめようとしているとき、クローブは、エルディークがしきりにこちらに目配せしているのに気付いた。
(??何だろう)
 戸惑っていると、隣からローリエが助け船を出す。
『クローブ、君、嘘言ってたじゃないか…リッズさんが校長先生の首しめてるの見たって』
「ああ!」
 ぽん、と両手を打ち合わせたクローブの方に、皆がいぶかしげに顔をむける。
「あ、あの…あれ、実は、嘘でした…」
「何だって…?」
「ご、ごめんなさいぃ。でも、リッズさんがあんまり怪しかったから、怖くて、はやく学校から出ていってもらおうと思ったんです!」
 必死に言いつのるクローブに、リッズとふたりの守護神官は、「まあそんなことだろうと思った」というように溜め息をついた。もとからあまり信憑性のある証言だとは思っていなかった。クローブの言葉が偽りだとしたら、ヴァニラの告白にも矛盾はなくなる。
 肩をすくめるリッズの前に、エルディークが立った。リッズは思わず一歩下がる。
「リッズ。実は、容疑者の自白だけでは事件は解決をみないそうでな。目撃者を捜しているんだが、心当たりがないか?」
「え、ええ〜?目撃者ですかぁ?」
 とぼけた表情で目をそらし、頭をかいてから、にやりと笑ってみせる。
「たとえば…殺された校長先生ご自身、とかですか?」
 言って懐から取り出したのは、塩でも入っていそうな大きさの、ガラス瓶だった。不思議なことに、中に螢でも入っているような光を宿している。
「やはり確保していたか」
「そのへんをフラフラしていたので、帰るときに連れていこうかと」
 エルディークは、リッズの手からその瓶を奪うと、満足そうに笑みを浮かべて蓋をとった。
「何…?なんの話だ」
 他の五人は訝しげだったが、その目の前で、瓶の中から煙か陽炎のようなものが現れ出た。
 その光る気体が形を整えるのを見て、誰よりも早く驚愕したのはヴァニラだった。
「校長先生……!」
 ローリエのように半透明の姿で宙に浮いているのは、確かに見覚えのある巨体。死んでも肉が落ちた様子のない、ターメリック校長その人だった。
 唖然として、むしろ恐慌状態で、ヴァニラは父親の幽霊を指さした。
「校長先生…ぼくは…とりかえしのつかないことを……」
 みるみるうちに、少年の瞳に涙がうかんだ。それが次々にこぼれ落ち、謝罪しようにも咽がつまって話すことができない。
「こ、校長先生!ほんとうに校長先生なんですか…?」
 カルダモンが、幽体につかみかからんばかりにして問いかける。ターメリックは戸惑ったようすだったが、素直にうなずいた。ラッセルが、「どういうことだ!」とエルディークを睨みつける。
「見てのとおり、校長の幽霊だ。死んだばかりで記憶もたしかだろうから、いくらでも事件のあらましを聞くがいいよ」
「まさか!」
「王都では主流の捜査方法だ」
 そんなわけないだろう!という怒号を、ラッセルはなんとか飲み込んだ。何にせよ被害者から直接に証言をとれるほど、ありがたいことはないのだ。
 しかし、調書にはどう書けばいいのだ!?
 そんな同僚の葛藤に気づきもせず、フロールァが手帳を開く。
「じゃあ、せっかくだから事情聴取させてもらいますわー」
「ビーマス、そんなあっさりと…」
「いいから任せてですわ。つまんない男ですわね」
 ラッセルはその一言で撃沈された。平然としてフロールァは取り調べをはじめる。まず、自分の身分を明らかにするために指輪を顔の前にかかげた。
「あなたはターメリック校長に間違いありませんか?」
『はい…』
 守護神官の調査とあってか、さすがに平素とは違って、校長はやや緊張した面もちだった。
「あなたは三日前に、何者かに殺されました。それは分かりますか?」
『…はい…』
 ターメリックは、固唾をのんで見守る皆の視線を避けるように、下をむいた。
「あなたは夜中の12時頃、この講堂で誰かに刺されて死んだ、ということで間違いないでしょうか?」
『そう…だと思います』
「ここにいるヴァニラ君に殺されたんですか?」
『それは……』
 見るからに校長は動揺した。答えることにひどく躊躇っているようだったが、まったく的はずれのことを言われたから、という反応ではなかった。
 ローリエは泣き伏しているヴァニラのほうを心配そうにみやって、その隣のグリッセがターメリックを凝視していることに気づいた。恐ろしいほど険しい目で、ターメリックの返答を待っている。先程のように激するよりも、こちらのほうがよほど怖いとローリエは思った。
 そんなグリッセと目をあわせることもなく、ヴァニラを見やることもないまま、校長は口ごもりながら答えた。
『…それが……覚えていません』
 はっとしてヴァニラが顔を上げる。
「なんですって? 自分を前から刺した人間を、覚えていないんですか?」
『はい…。私を刺したという刃物も、私が厨房から持ち出したものですし……刺された時前後のことは、混乱したせいか覚えていません…』
「またそんな。犯人をかばってるんですわね」
『いや、けしてそんなことは…』
 震える声で弁明しようとするターメリックを、エルディークがするどくさえぎった。
「茶番だな」
 びくっと身震いして、ターメリックは異色の守護神官を困惑のようすで見つめた。不機嫌を隠そうともしないエルディークは、いつもにまして禍々しく映る。
「そんなくだらん偽証をするくらいなら、殺人事件の証言などもうしなくていい!」
「そんな、闇…エル様、あなたが校長を出せっておっしゃったんじゃありませんか」
 リッズのもっともな言葉にも、「黙ってろ!」と一喝する。
「私はこんなところで時間を無駄にする暇はないのだ!そこのふたりが、犯人はヴァニラだと言うのだったら、ヴァニラで決定だ!そのことでお前に聞くことはもうない!」
「何を無茶なことを…!」
「黙れ」
 ラッセル・ハウンまでもを一睨みで黙らせ、怒れる闇王はつかつかとヴァニラに歩み寄ると、その顎をつかんで顔を上げさせた。カルダモンとターメリックが、慌てて止めようとする。
『その子に乱暴はやめてください!』
「死人は黙っていろ!いいかヴァニラ、この肥満体に聞きたいことがあるのは、守護神官よりもお前だ!最後の機会だ、好きなことを訊くがいい」
「………」
 訊くがいい、と言われても、エルディークのあまりの剣幕に、ヴァニラとその横のグリッセは驚きを通り越して恐怖している。言葉もないようだった。無理もない、とクローブは思いつつ、そんな悪魔にも自分はいくぶん慣れてしまったことを意識した。
「こ…校長先生」
 思わずクローブは、先刻からどうしても気になっていたことを尋ねた。
「ヴァニラのお母さんを…殺したって、本当ですか?」
 ターメリックはふたたび言葉を失って視線を下げた。そのようすから、生前にヴァニラとかわした会話を覚えていることは間違いないと思われたが、何も言わない校長に、何人かが苛ついた表情を見せる。
「なんとか言ってください、ヴァニラがずっと気に病んできたことなんですよ!」
『そう…そうです、クミン・エストラゴンは、私のせいで死んだのです…』
 苦痛に満ちた低い声で、校長が告白する。生徒たちはそれを聞いて息をのんだ。しかし、言葉の欺瞞に慣れている守護神官などは、それがずいぶんと曖昧な返答だということに気付いていた。
「校長先生」
 静かにたしなめたのはリッズだった。
「ご子息に、きちんとお話ししなくてはいけませんよ。あなたはもう死んでしまったのだから、ヴァニラさんがあなたを殺したという事実を消してあげることはできません。でも、ヴァニラさんを苦しめているもうひとつの事を、あなたが納得させてあげることはできるんです」
「というより、それしかできないだろう、この死人が!」
 リッズが情にうったえ、どうにも破壊的なエルディークが脅すと、こっそりとフロールァが校長に耳打ちする。
「素直になったほうが、身のためですわよ」
『もう身はありませんがね…』
 ターメリックが苦笑して、それで彼の心はいくぶん和んだらしい。深呼吸して、「お話ししましょう…」と呟いた。

 感傷的なことは言いますまい、と校長は昔を懐かしむ目をした。
『私とクミンは昔、結婚を考える仲でした。しかし、身分が違うということで、私の家のものが強固に反対した。詳しいことは伏せますが、ずいぶんと辛いめにあった。クミンは私以上だったでしょう』
 ヴァニラもグリッセも、ようやく校長自身の口から語られる過去に、真剣な顔つきで聞き入った。
『色々あって…結婚を諦めよう、と言ったのは、クミンの方でした。そのとき、多分クミンは…おなかに子供がいることを、知っていたのではないでしょうか。ヴァニラがクミンの子だと分かったとき、すぐにそう思いました』
「子供がいると分かったら、結婚も許されたのでは?」
『いえ、もっと苛烈な反対にあうでしょう。それどころか、うちの家人はクミンに堕胎をせまったに違いありません。万が一に結婚できたとして、生まれた子供がどれだけ苛められるか。おそらく、そのとき実際に辛酸をなめていたクミンは、自分の子供にそんなめにあってほしくないと考えて…私の家人の前で、今後、私と一切の関わりを断つと誓ったのです…私たちが信仰していた、天使ネルティスに』
 最後の一言に、リッズとエルディークが意味深に眉を上げたが、誰も気づかなかった。
『クミンは私にも誓いを求めました。私はショックでしたが…彼女がそれだけ傷ついていたのだと思って、同じようにネルティス様に誓いました。二度と彼女に会わず、連絡もとらず、行方を調べることもしない。彼女にけして、関わらないと』
 自分の両親の間でかわされたという、あまりにも厳格な誓約に、ヴァニラは青ざめる。
『別れ際にクミンに言われました。これからは、ネルティス様への信仰だけが自分達をつなげる。細い絆だが、それだけは大切にしようと。…信仰は私にとって悲しいものになりましたが、それでも捨てられなかった。数年後には私はここの校長になっていました』
 誓いを破ることなく、ターメリックはずっとクミンの動向を知ることはなかった。
 しかし、数年前、用事のために生家に戻ったターメリックは、家人がクミンのことを話しているのを聞いてしまった。
 病にふしているという。薬を買うような金もないだろうと、特に感慨もなく語っていた。
『驚いて、なんとかしようと思いましたが…家族は、それに気づいて、誓いを破るのか、と私を責めました』
 会うことも連絡をとることもできなければ、薬や金を送ることも許されないのだ。そう、皆が戒めた。すでにクミンの住む場所も知らないターメリックに、それを教える者はいなかった。
『クミンが最後に私に求めたのは、ネルティス様への信仰だけでした。だから、その誓いを破るわけにはいかなかった。それに、クミンを助けることを、家人に知られるわけにもいかなかった。何か方策はないかと、私は悩んで……』
 そしてある日、実家から知らせが届いた。
 クミン・エストラゴンは死んだと。
『目の前が真っ暗になりました。すべて、私のせいだと思った…。クミンの墓がどこにあるのか、私は知らなかったから、墓参もできませんでした。いや、たとえ知っていても…行けませんでした。とても、あわせる顔がなかった。何を捨てても、彼女をたすけるべきだったのに、私はそれができなかった。私が、クミン・エストラゴンを殺したのです……』
「こ、校長先生…」
 カルダモンが、体中の水分を使い切ってしまうのではないかというくらいに泣きながら。
「そうだったのですか…。私がここに赴任する以前には、やる気のある先生だったという話は、嘘だとばかり思っていました…申し訳ありません…。そんなご事情で、自棄になってらしたんですね……」
『いや、すまなかったねカルダモン君…』
「だったら、どうして!」
 校長とカルダモンのささやかな親交を、さえぎったのは少年の叫びだった。
「だったらどうして、自分の子供だと分かったときに、すぐ受け入れてくれなかったんですか!」
 その悲痛な言葉に、聞いた者はそれがヴァニラの発したものだと思った。
 しかし、実際に肩で息をして、涙のにじむ目でターメリックを射抜いていたのは、グリッセ・ニートロだった。
『グリッセ君…』
「答えてください。ヴァニラはあなたを憎んでなんかいなかった。ずっと、あなたに息子だと認められることを夢見ていたんです。それなのにあなたは、ヴァニラの名のりを聞いても、喜ぶそぶりさえ見せなかったなんて! そんなあなたの言葉を、どうやったら信じられるんです!?」
 グリッセは、見た目こそ激昂していたが、その実、ひどく傷ついた声色をしていた。
「どうして、ヴァニラに、あなたを憎ませるようなことをしたんですか…!」
 少年の糾弾に、ターメリックはまたも何も言えなくなり、申し訳なさそうに俯く。
 そのとき、グリッセの震える手に、そっと誰かの手が重ねられた。
「もう、いいんだ、グリッセ」
 不思議なほど穏やかな、それはヴァニラの声だった。
「もういいんだよ、ありがとう、僕のために怒ってくれて…僕を助けてくれて…。僕、分かったんだよ…だから、もういいんだ」
「え…?」
 瞬いた拍子に、目尻にたまった雫が落ちた。そんなグリッセの肩を一瞬抱いてから、ヴァニラは青白い顔色で、数歩、校長に近づいた。
「お父さん……」
 ためらいがちに、はじめて本人にむかって、その呼び名を舌にのせる。呼ばれたターメリックは、動揺したようにピクリと肩を揺らした。
「お父さんって…はじめに、ここに来たときに、そう呼んでいたらよかった…。僕、お父さんがどうして、僕の話を聞いたときに嬉しそうな顔を見せてくれなかったのか、分かりました。きっと…母さんが死んだ原因が自分にあるから、僕の父親になる資格がないって…そんなふうに、思ったんですね」
『…………』
 居心地悪そうに両手をくむ校長を見ると、ヴァニラの言うことは図星なのかもしれなかった。
「僕が、お父さんのことを恨んでいるだろうと思ったんですね…。だけど僕は…そんなお父さんの気持ちが分からなくて、信じられなくて、ひどいことをしてしまった……本当は…」
 涙に濡れたヴァニラの頬に、また新たな一筋が流れた。
「本当は僕、お父さんに、母さんの事を話したかったんです。お父さんに会いたくて来たって、言いたかったんです。ちゃんとそう言って、母さんのお墓に、一緒に行けばよかった……」
『ヴァニラ君…』
 呼びかけるターメリックの声も湿っていた。
『私が、本当に悪かったんだ…。すまなかったね、ずっと、君のことを気づいてやれなくて……あのとき、怖くてうまく言えなかったけれど、とてもとても嬉しかったんだよ…』
「お父さん!」
 感極まって、ヴァニラはターメリックに抱きついたが、幽体をすりぬけてしまい、実際にヴァニラを抱き留めたのはリッズだった。
 号泣するヴァニラの背をなでてやるリッズを、ターメリックは悲しそうに見つめた。できれば身体がなくなる前に和解したかったと思っているようだった。
『守護神官様…』
 ターメリックは、あらたまった声で、ラッセル・ハウンとフロールァにむきなおった。
『先程言ったように、私は、自分が刺されたときのことは覚えていません。誰がその過ちを犯したのかも分かりません…ですが、きっとその誰かは、私を刺そうと思ってしたのではないのです…悪魔がその耳に囁いたのでしょう。どうか、寛大な裁きをお願いいたします』
 フロールァと視線をあわせた後、仕方ない、というようにラッセルは溜め息をついた。
「…分かった。力を尽くすから、心配しないで逝ってください」
『ありがとうございます』
 深々と頭を下げてから、校長は講堂に集まった人々の顔を、ゆっくりと眺めていった。
『皆さん、すでに死んでしまった私に、語る機会を与えてくれて、ありがとうございました。後始末もつけずに去ってしまいますが、どうかこの学校と、ヴァニラを…どうぞ、よろしくお願いします』
「お任せください、校長先生…!」
 泣きはらして真っ赤になった目のカルダモンが、もう役立たずになったハンカチを捨てて袖で目尻をふきながら言った。
『さようなら…。水先案内、お願いします。ネルティス様の使者殿』
「たしかに保護しましょう。あなたがこの次、転生するまで」
 使者殿と呼ばれて、リッズが完爾とする。そのやりとりに、周りの人間はぎょっとした。
 すっ、とターメリックの身体が、エルディークの持つ瓶に近づいていく。
 その途中で、ふとターメリックの目が、ローリエのそれとあった。
(あ、やば)
 おや?という顔をして、ターメリックが何か言いかけた瞬間。
「一件落着!」
 と大声でしめくくって、エルディークが瓶の蓋をしめた。その一瞬で、校長の幽霊は瓶の中に吸い込まれた。
『あ、危なかった…』
 苦笑いで、ローリエとクローブが顔をみあわせた。あそこでターメリックに「君はジンジャー君じゃないか。どうした、半分透けて」とでも言われていたら、何かと大変だった。
 エルディークがそれを察していたのかは謎だが、ひどい場の終わらせ方に、「どうしてあんたはそうなんだ!」とラッセルに嫌味を言われていた。

「今夜のうちに、僕を連れて行ってくれませんか」
 エルディークが、リッズにガラス瓶を返してから、ヴァニラが言った。
「ヴァニラ、そんな…」
 カルダモンがおろおろと止めに入るが、ヴァニラは涙をぬぐってきっぱりと言った。
「父は、ああ言いましたけど…僕が殺人事件の犯人ということは、もう間違いないと、守護様も分かったと思います。朝になって、クラスのみんなと顔をあわせる前に、いなくなっていたいんです…」
「まあ、詮索されるのも嫌ですものねー」
 夜道を村までくだることの難はあったが、まだ少年であるヴァニラの気持ちを慮って、ふたりの守護神官はその希望をいれることにした。
 部屋の整理や、学校をはなれる支度をするというので、それにフロールァがつきそう。ラッセルは、講堂で現場検証をすることにした。
 ヴァニラとフロールァが出て行ってから、ラッセルは血のあとを確かめようと、グリッセに殺人のあった場所を尋ねた。
「守護様、私は何の罪に問われますか?」
 グリッセは、ラッセルの問いは無視して、先程の質問をくりかえした。
「…遺体を隠そうとしたことは罪になるが…それも未遂だ。君はまだ少年だし、友人をかばおうとしてのことだ。まあ、せいぜい厳重注意ですむから安心していいよ」
 ラッセルとしてはグリッセをなだめるつもりの発言だったのだが、グリッセは納得しなかった。
「ヴァニラと同じ罪にしてください」
「……何を…」
 いぶかしんで眉をひそめるラッセルに、グリッセは疲れ切ったようすで訴えた。
「私は別に、ヴァニラを助けようと思ったわけではないんです…。自分の、父親に対する恨みを、ヴァニラに仮託していただけなんです。だから…ヴァニラと同じ罪に。ヴァニラにはなかった殺意が、私にはあったのだから」
「……」
「そんなグリッセ…何を言うんですか!」
 カルダモンがまた泣きそうになるが、グリッセは、嘆願など聞く耳持たない、というように首を横にふった。
「守護様に捕まえてもらうのは、本当にあなたがお父さまを殺してからにしなさいよ」
 困り果てた守護神官と教師のかわりに、茶化すように言ったのはリッズだった。
「リッズさん!なんてことおっしゃるんですか!」
「でもまあ、ヴァニラさんの気持ちを考えたら、そんなこと簡単にはできないでしょうけどね?」
 続いた辛辣な言葉に、グリッセははっとしたように顔をこわばらせた。
 たしかに、親子の情愛があったにもかかわらず、悲しい誤解によって殺人の加害者と被害者になってしまったヴァニラとターメリックのことを考えると、とても実父を殺すことなどできないだろう。ヴァニラのことを想うなら尚更に。グリッセがそんなことをしたと聞けば、ヴァニラはどれだけ傷つくだろうか。
 それからリッズは、エルディークの方にもにやにやと視線をむける。
「ねえ、闇王様? 耳が痛かったですね、校長先生の告白!」
「一言多いんだお前は!」
 何が気に障ったのか、エルディークは力の加減もせずにリッズを殴り飛ばした。「うぎゃ」とか「おぎょ」とかいう小さな悲鳴とともに、リッズは講堂の壁まで飛んでいって、どうやら頭を打ったらしい、動かなくなった。
「ちょ、ちょっとエルディークさん…!」
「軟弱な奴めが!それで死んだら寿命だ、寿命!」
 あまりにも酷薄なエルディークに、ラッセルとカルダモンが色めきたった。
「寿命のはずあるか!あんた、いくら大神殿の者といっても、傷害罪でひっぱるぞ!?」
「そ、そうですよー!それに校長先生が『ネルティス様の使者』と言っていた方ですよ!?なんということを…!」
「ああー、分かった分かった!生きてればいいんだろう!」
 まったく問題とする場所を間違えているが、エルディークは不承不承リッズに近づいていって、「生きてるぞ」と憎しげに吐き捨てた。
 リッズが心配で一緒にその側によったローリエには、そのときエルディークが「ネルティスの従者だからむかつくんだろうが…」と毒づいたのが聞こえた。
『え?』
「あ、本当だ…意識を失っているだけですね…」
 すぐに追ってきたカルダモンも、リッズの容態を見て、ほっと息をついた。外傷はそれほど酷くはないようだった。しかし、ここ数日の心労が仇なしたのだろうか、目を覚ます気配はなかった。
「あーあ、リッズさん、今夜は徹夜で作業しなきゃ、首がとぶって言ってたのに…」
 同情するクローブの呟きをききつけて、耳ざとい闇王は目を輝かせた。
「ほおー。好都合じゃないか!」
 喜色満面。そんなエルディークを見て、クローブとローリエはぞっとした。ついにエルディークとリッズの攻防は、今夜このときに終幕したのかもしれない。邪魔者が気を失って、これからエルディークはやりたい放題だ。
「何が好都合か知らないが、証拠集めを手伝ってくれ!」
 後ろから声をかけてくるラッセルに、エルディークは心外極まりないという表情でふりむいた。
「私が証拠集めごときに手を貸すこともあるまい。こいつらを使え」
 言って、クローブ、グリッセ、カルダモンを顎で指した。
「何を言うか!れっきとした守護神官の仕事だろうが!あんたなぁ…」
 さらにラッセルは言いつのろうとしたが、そんなものはまったく聞かずに、闇王はクローブに耳打ちした。
「考えてもみろ…友人の身体を取り返したいだろ?私の魔力の器にされて、今ごろどうなってるか、心配だろう? ここで私が捜査の手伝いなんぞをしていたら、それだけ友人が戻ってくるのが遅れるんだぞ? お前はそれでいいのか、ん?そんなに友情が薄い奴なのか?」
「あああ…ううう〜…」
 クローブは泣きそうになりながらも結論を出した。仕方ない。背に腹は代えられないのだ。
「しゅ、守護様…俺、捜査のお手伝いしたいです〜!」
「何だって?君、脅されたんじゃないのか!?あ、おいこら、どこ行くんだ!って、離せガーリック君!」
 クローブが必死になってラッセルにしがみついている間に、エルディークはローリエの生き霊を連れて、悠々と講堂を出ていった。


 背筋を凍らせるような暗闇。
 何の臭気もない、言い換えれば生き物の気配がまったくしないその空間に、ローリエは幾度めかの訪問を果たした。
 以前にも見たように、青白い灯が何重もの円を描いていく。それが闇王を縛る結界の一部なのだと、今はローリエにも分かっている。
 そして、その中心に、今は自分の身体が横たわっているのが、薄明かりの中に見えた。
 照明のせいなのか、顔色が死人のように青い。角や翼が生えているようなことはなかったが、生気のない自分の身体のようすは、充分ローリエの不安を誘った。
『エルディークさん…僕の身体…返してもらえるんですか…?』
 恐る恐るローリエが尋ねると、エルディークは何も言わずに悪魔的な微笑を浮かべた。
 地上で守護神官を名のっていたときは、単なる怒りっぽい乱暴者のように見えたのに、この闇の中にあると、どうしてこうも妖しげに映るのか。ローリエは思ったが、とてもそんなことは口に出せなかった。
「もう少しで結界が完全に崩壊する」
 空恐ろしいことを涼しげな口調で言われて、ローリエはその場を逃げ出したくなった。元の身体に戻れるのは嬉しいが、解放されたとき、いったいこの悪魔はどうする気なのだ…?
 ローリエの心配をよそに、エルディークはどこに隠し持っていたのか、杖のような大きさの棒を出した。
 否、杖ではなかった。長い縦の一本から、垂直にやや短いもう一本がのびている、それは明らかに、講堂に飾られていた十字架だった。
『そんなもので何を…』
「これは聖別された十字架だ。幸いなことに、あの紋章もない」
『ええそれは…何年か前、他の神殿から寄贈されたものですから…』
 聖別されたものだ。悪魔には毒だろう、と思ったが、魔力を手放した今の状態では、十字架の聖性はエルディークに影響しないらしい。こともなく掴んで、そして結界の一部に突き立てた。
 キシッ
 何か固いものがたわむような、不安をかき立てる音をたてて、灯のひとつが消えた。
「これはネルティスが編んだ結界。聖なるものには弱い」
『え…?何を…』
 混乱して、ローリエは頭をふる。そんなローリエには構いもせず、闇王はまた他の一画に十字架を突き刺す。
 ギシッ
『エ、エルディークさんを封印したのは…リッズさんの主人は、ネルティス様なんですか?』
「そのとおり。だからここはネルティス神官学校だろう?」
 ギシッ
 外郭を構成していた円は、三点を突かれると完全に消え去った。一歩中に入り、エルディークは中の円にまた同じことを繰り返す。
 カーン…
 今度は、先程よりも強靱なものを叩いた音がした。金属を突いて鳴らしたような音が響く。ローリエは、この響きは、学校中の封印の紋章に伝わっているのではないか、という気がした。
『待って下さい…だって…ネルティス様がつくった結界が、聖なるものに弱いはず、ないじゃありませんか』
「何故だ」
 …カーン…
『何故って…だって、ネルティス様は癒しの天使です。ネルティス様自身、天界に属するものですもの』
 一瞬、エルディークは黙った。
 機嫌を損ねたか、とローリエは身構えたが、どうもその背中は笑っているように見えた。
「癒しの天使ねぇ…」
 何かを含んだ声で呟きながら、確実に結界を崩していく。
 円が最後のひとつになったとき、エルディークは十字架を持つ手を下ろし、ローリエをふりむいた。
「リッズは、主人が恐ろしい奴だと言ってはいなかったか?」
『言っ…てましたけど…。でもまさか、ネルティス様が』
「あいつの主人は、人の魂を集める。それゆえ魔界ではこう呼ばれる。悪魔の三代実力者が一、白き霊王と」
『え…?』
「その名も……」
 皮肉げに笑って、エルディークは結界の最後の砦に、十字架を容赦なく振りおろした。
「堕天使、ネルティス」
 カシャーン………
 薄いガラス板が割られたような、繊細な、それでいて神経に障る音がした。
 そしてその音が、四方八方に広がっていく。何重ものガラスが次々に破壊されていくような、胸に苦しい響きだった。
 それらの破壊音を、ローリエはいつしか、生身の身体で聞いていた。

 梯子を登って屋根の上を検分していたラッセル・ハウンは、足下であがった悲鳴に、慌てて天窓を覗き込んだ。
「どうした!?」
 講堂の中では、残されていた三人が、てんでバラバラの方向を見て呆然としている。
「いえ…」
 戸惑ったように、カルダモンが答えた。
「今、ネルティス様の紋章が…燃えたように見えたので。でも、すぐに火は消えました。幻覚だったのでしょうか…」
「燃えた?」
 その場の誰にも分からなかったが、クローブにだけは、何が起こったのかが理解できた。
 エルディークが、結界から解き放たれたのだ。
 恐怖におののいて、倒れているリッズをうかがい見ると、何かを感じたのだろうか、リッズはいつのまにか覚醒して、愕然と目を見開いていた。
「リ…リッズさん…」
「なんということ…」
 この世の終わりが来た、というように、リッズは頭をかかえた。
「ネルティス様に殺される」

 100年近くもの間、この学校の地下に封印されていた悪魔が、その夜自由を得た。
 しかしその復活は、その近隣の地までを荒れ地にするような派手なものではなく、一部の人間以外を恐怖させることはなかった。
 ただ、数人の生徒が翌朝、「昨日、悪魔が高笑いする夢を見た」と言ったくらいだった。


 朝食の席で、オレガノは久しぶりの生徒の顔を見つけた。
「あれ、ジンジャー君。きみ、いつ帰ってきたの?」
 ローリエは、少々やつれた顔をして、オレガノに挨拶した。
「昨日の夜遅くに…。門をよじ登って入りました」
「よじ登って? そんなことしなくても、村に泊めてもらえばよかったのに」
「はは…」
 隣に座ったクローブと、曖昧な笑いを浮かべる。そんなことより、ローリエは久しぶりの食事を楽しみたかった。パンとスープと卵料理、それに付け合わせのサラダ。そんなささやかな朝食でも、今はとても嬉しい。
「ローリエ!いつ帰ってきたのですか?」
 カルダモンもローリエに気づいてやってきて、彼はまた同じ返事を繰り返した。そのカルダモンの目がものすごく腫れていることに、他の生徒たちはぎょっとする。
「先生」
 カルダモンの顔にあまり動じず、声をかけたのはパプリカだった。
「グリッセとヴァニラは? 出てきていないみたいですが…」
「ああ…」
 カルダモンとオレガノが表情を曇らせる。教師陣は、早朝のうちに事情を聞いたのだろう。
「ヴァニラは、夜のうちに親戚から急な知らせがあって、朝を待たずにそちらに行ったんだよ。グリッセは…風邪でもひいたのかな」
 とても話せない、という風情のカルダモンのかわりに、オレガノが嘘臭い笑顔で言い訳する。
「ふうん…。後で朝食を届けてあげてもいいですか?」
「ああ、よろしく頼むよ」
「守護様もいなくなってますね」
 クローブとローリエは、パプリカのその発言に、ふたりの教師が(ぎくっ)と思ったのが実にはっきりと読みとれた。
 正確には、いなくなってはいない。減っている。
 三人のうち、後から訪れた守護神官が、昨日よりもパワーアップして、それでいて上機嫌で、客席で食事をとっている。隣にいるのは、廃人のように、適当に口角を上げているリッズである。
「ふたりの守護様は…昨日、帰っちゃったんだよ。後のことを、あの守護様に任せてね」
「ふーん。縄張りとか、権力争いでも絡んでるんでしょうかね?」
「さ、さあね…?」
 ヴァニラの要望通り、ラッセル・ハウンとフロールァは、彼を夜のうちにヒューライ神殿に連れて行ったのだ。
 去り際、エルディークにむかって「あんたのやり方なんか、絶対に認めないからな!」とか「まあまあ。気を悪くしないでくださいねー、ラッセルは礼を言うのが照れくさいだけなんですわー」とか言いながら。
 そんな中で、ひとり大時計を見上げていた、ヴァニラの静かなまなざしが忘れられない。
 月明かりだけの夜空にぼんやりと浮かぶ文字盤に、彼は何を見ていたのだろうか。
 それにしても…と、クローブはエルディークを盗み見た。あの悪魔が、教師たちに事件の顛末とその処分を説明したらしいが、彼がそこまで後始末をしていってくれるとは、意外だった。やはり、長年ぶりに解放されて、機嫌がよくなっているのだろう。

 朝食の後、パプリカに誘われて、クローブとローリエも、グリッセの部屋に食事を届けにいった。
 昨夜のことを知っているふたりは、グリッセに会うのは気まずいな…と思っていたのだが、今避けてしまうとこれからずっと気まずくなるので、あえて行ってみることにした。
 扉をノックすると、「どうぞ」という声が中からする。食事を持ってきた旨を告げながら扉を開いて、驚いた。
「グリッセ…?」
 すでにヴァニラの分の私物が片付けられたその部屋で、グリッセは荷造りをしていた。
「おはようございます」
 昨夜の取り乱しようなど忘れてしまったかのように、グリッセはにっこりと天使のように微笑む。
「どうしたのグリッセ、君まで出ていくつもりなの…?」
「ええ、ちょっと実家に里帰りしようと思って…。ローリエ、帰ってきたんですね。お父さまは…どうでした?」
 ベッドからはがしたシーツをたたみながら、グリッセがちょっと首をかしげる。
「え?あ、ああ…あれ、何かの間違いだったみたい。ぴんぴんしてたよ」
「そうですか。それはよかった…本当に、よかったですね」
 グリッセが心の底からほっとしたようなので、ローリエは胸が痛んだ。ここにヴァニラがいたら、きっと同じようにローリエの父親の無事を喜んでくれたことだろう。
「里帰りして、気持ちが落ち着いたら、復学しようと思います」
「そう…」
 クローブは頷きながら、そっと隣のパプリカをうかがった。グリッセが何のことを言っているか、パプリカは知らないはずだが、彼女は勘もいい。何か勘づくかもしれなかった。
「パプリカ、私がいない間、級長を頼んでいいですか?」
「喜んで」
「もしかしたら、私が復学した後も」
 目を丸くするクローブとローリエに、グリッセはいたずらっ子のように笑った。
「優等生でいるのも疲れるので…。…パプリカ、もしかしたら、校長先生を殺したのが誰か、あなたは気づいていたんじゃありませんか?」
 何気ない口調のグリッセの問いに、ふたりはぎょっとしてパプリカを見た。
「さあ…。あんたとヴァニラのようすがおかしいとは、思っていたけど」
 そうですか、と、実際はどちらでもよさそうに、グリッセは荷物を肩に背負った。
「私も、あなたのように何事にも動じない人間になれたらいいのに」
「買いかぶりだよ」
 肩をすくめて、パプリカもふっと笑った。

 グリッセは、教師たちに挨拶を告げると、生徒には何も言わずに出ていく、とそのまま正門にむかった。
「あーっ、ちょっと待って下さい!」
 校舎から、明るい色の髪をたなびかせて、誰かが走ってくる。リッズだった。
「送りますよ!子供の一人旅は危険ですから」
「はあ…ありがとうございます…」
 いらない心配をされているのかな、といぶかしむ顔で、グリッセは礼をした。クローブとローリエは「ちょっとちょっと」と、リッズの襟をつかんでグリッセ達に背をむけ、内緒話の体勢をとった。
「あの…ネルティス様のところに、帰らなくていいの? エルディークさん、復活しちゃったとか報告しに…」
「報告したくないんですよー。何されるか、考えるだけでも怖いんです。ちょっと時間をつぶしてから帰ります」
 なんとも情けない声でリッズ。クローブには、その気持ちがいたいほどよく分かった。自分も、教師に叱られるのはできるだけ後回しにしたいと常々考えているほうだからだ。
 それにしても。
「リッズさん…俺たちのこと、騙してたでしょう?」
「は?何がですか?」
「自分は悪魔払いだって言ったじゃない!ネルティス様が堕天使だなんて聞いてないよ!堕天使って、つまり悪魔のことなんでしょう!?」
「言ってませんよ、悪魔払いだなんて! ネルティス様が今も天使だとも言ってません! あなたがたが勝手に勘違いしてたんです!まあ、何も知らずにネルティス様を信仰している皆さんは気の毒だと思いますけどね…。異端審問には気をつけてくださいね!」
「何それ!ひどいよリッズさん!」
 興奮のあまり、いつのまにか声が大きくなっていることに、クローブたちは気づかなかった。
「へぇー…

 背後から、そんな不穏な相づちが聞こえて、三人はぎょっとして振り返る。
 そこには、グリッセとパプリカ、それにいつ来たのかエルディークが立っていて、やけに楽しそうに頷いていた。
「面白いこと聞けましたね」
 グリッセとパプリカが顔を見合わせて、朗らかにそんな言葉をかわす。エルディークも親切そうにクローブの肩を二、三度たたいた。
「安心しろ。あの守護神官たちも、私がシルバーミクスチャーを崇めていると知っても何も言えなかったからな。信仰は自由だ」
「そ…そんな…」
「あ、あとリッズ? そこの少年を送り届けてから帰るんだったな? ネルティスには私のほうから復活の挨拶にうかがっとくからな。ついでにお前の親切な行いのことも伝えておいてやるよ」
 闇に包まれると紛れもなく魔界の眷属に見えるエルディークは、何故か陽の下では傍若無人な人間のようになる。だがそれでもリッズにとっては脅威らしく、頬をひきつらせた。
「あー…それはー…破壊王様のところに先に行った方がよろしいのでは?ほら、最近見ないなーっておっしゃってましたよ?」
「あんな馬鹿とはしばらく絶縁だ!カードゲームに負けたからってネルティスに力を貸しやがって!あいつ、ネルティスどころか猿にだって勝てるはずがないぞ馬鹿だから!最近見ないって、当たり前だ!あいつのせいで封印されてたんだからな!」
 クローブは、魔界の詳しい勢力関係は分からないながらも、エルディークが封印された状況が、かなりいいかげんだったのだと推察できた。だからこそ、封印されながらもエルディークがあれだけ好き勝手できたのだろう。
 闇王は言いたいだけ言うと、「じゃあな」と手を上げて踵を返した。
 歩幅も大きく正門のほうに行くエルディークを、クローブがあわてて止める。
「エ、エルディークさん!守護神官の仕事は?」
「終わった。犯人は神殿にて事情を斟酌された上で、適正な処分をうける。この学校の中では、結局侵入者による犯罪だったと報告される。犯人はすでに守護神官たちが連行したとな」
 立ち止まったエルディークは、そういえばもう守護神官の白い服ではなく、漆黒のマントをまとっている。指にも守護神官の指輪は見あたらなかった。
「そうですか…」
「ああ、あとローリエ。魂が身体と離れていたせいで何か後遺症があったら…」
「は、はい!?」
「ネルティスにでも祈っておけ」
 にやりと意地悪く笑うと、ふたたび黒いマントを翻す。門をこえてから、
だけこちらにむけて、
「二度と会わないことを祈っているぞ」
 そんな別れの告げ方をすると、霞のように姿をくらました。
「あっ……」
「消えた…」
 残された生徒四人は驚いて、エルディークが立っていた場所を見つめたが、リッズにとっては何ほどのことでもなかったらしく、「さあ、私たちも行きましょうか」とグリッセをうながした。
「あ、はい…」
 エルディークとは違い、グリッセはひとりひとりに向き合って、きちんと別れの挨拶をした。
「グリッセ…きっと戻ってきてね」
「…そうですね、多分」
 清涼ながらも儚げな表情を残して、グリッセ・ニートロは学校を後にした。

 そして、神官学校には以前のような平穏が訪れた。

 校長先生を殺した犯人については、エルディークが言ったとおりに生徒たちに説明された。ヴァニラとグリッセの不審ないなくなりかたに、真相を推量したものもいたかもしれないが、誰も表だっては口に出さなかった。
 新しい校長をどうするかという議論が教師間でもたれたらしいが、結局外部から迎えるということになったそうだ。
 エルディークが封印されていた地下室の入り口は、その後クローブとローリエが隠しにいってみた。しかしどうしたことか、はじめから何もなかったかのように、そこには壁しか残っていなかった。
 あとは、実はもう天使ではなかったというネルティスに祈る不安だけが残ったが、もとから信仰心の薄いクローブは、まったく気にしなかった。パプリカなどは以前よりもネルティスに興味を持っている。悩んでいるのはローリエだけだったが、実害はなさそうだった。
 きっとグリッセも遠からず学校に戻ってくることだろう。そのときには、皆笑顔で迎えられる自信があった。なにしろ級長を代行するパプリカは、史上に残る鬼級長ぶりを発揮しているのだ。

 そんな平穏な学校生活の、ある朝。
「おはようクローブ。早くしないと、時間なくなるよ」
「ローリエ…俺、夢見たんだよ…」
「何?また悪魔の夢?もうやめてよ、あんなことに巻き込まれるのはもうたくさんだよ」
「悪魔の夢じゃないんだ!いいから聞いてくれよ。俺が森の中を歩いていると、湖から緑色の変なものが現れて…『貴様の願いをひとつだけ叶えてやろう…』って!」
「もういいよ!遅刻するよ!」

 今日も神官学校は平和である。
 大時計が、耳に心地よい音で、時を告げた。





 完