かくして、五人目の来訪者は門戸を叩いた。
 来訪者、と言うべきか否か。彼はもう100年も前から実はその建物の地下に住み着いていたのだから。

「エ、エルディークさんってここに封印されているんじゃないんですか?」
 クローブが仰天して訪ねると、かの悪魔は意味ありげに笑った。
「封印されてるとも?私の魔力がな。強大すぎて、ここまで大仰な重しを上に建てられるとあだになる。身動きもかなわん」
「ええっ、じゃあ、どうやって…事件を解決…するんですか?」
 恐る恐るローリエが訊くと、
「何、一時的でいい…魔力を手放せばいいのだ。丁度今は魔力を入れておくのにおあつらえ向きの器もあることだしな」
 ドキ。
 ローリエは、自分の口角が引きつるのを感じた。
 何故…こんな話をしながらこの悪魔は自分の方を見ているのだ…何故…ああ…まさかまさかまさか神様。
 …そう…ここ最近で彼が手に入れたものはひとつだけ。

 

 何故こんな時に限って来訪者が多いのだろう…と思いながら、カルダモンは来客用の出入り口に向かった。
 途中で誰かとぶつかり、カルダモンはひっくり返りそうになった。
「すっ、すみません」
 お互い言い合ってから自分にぶつかってきた相手を見ると、それは茶髪の問題児。
「クローブ、ここで何してるんですか!お部屋で謹慎中のはずでしょう!?」
「先生、中は外、外は中ですよね」
「はあ?」
 いささか緊張した面もちの教え子に向かって、思わず聞き返す新米教師。何を言っているのだろう?この子は。
 面食らっている間にクローブは去っていった。
「もう…どうしたんでしょうね?クローブは」
 ふう、と息をつきつつ、改めて自分が急いでいた理由を思い出す。再び慌てて駆け出すカルダモン。もう目的地までは扉はないので、一気に駆け抜け、呼び鈴が鳴った客人用出入り口へ。
「お待ち下さい」
 少々声を張り上げながら走り寄り、鍵で扉を開けると、瞬間足下がぐらっと心許なく揺れた。
「あ、あれ?」
 体勢を立て直して見ると、自分の正面に今出てきたはずの神官学校がある。
「おかしいな?」
 いつの間に外に出たのだろう?呆然としていると、肩にぽんと手を置かれた。
「もし…こちらの学校の方ですか?」
 振り返ると、闇をそのまま人型に練り直したかのような禍々しい美貌。
 一瞬魅入られてのち、自分を取り戻すと、カルダモンは「お客様ですか?」と聞いた。頷く客人。
 艶のない、しかし痛んでるわけではなく、暗闇を直接紡いで細くしたような漆黒の長髪。その黒髪に縁取られたかんばせは日にあたったことがないかのように白く、片方だけ髪の間から覗いている目は赤紫の光を含み、強烈な存在感を放っていた。白い神官様のローブをまとっていたが、それが非常に似合っていなかった。
「実は、こちらで殺人事件があったと聞いて、王都の方から応援に参りました」
 唇に微細な笑みを浮かべながら紡ぐ言葉は、一瞬カルダモンの頭に入らなかった。何故か、呪文のように、力はあるがそれ自体に会話の意味はない声のように聞こえた。
「え…と…、ではあなたも守護さま?」
「そうです」
 即答する男性は、とても神官のような印象は持っていなかったが、見かけで人を判断するのはいけないと思い返してカルダモンは片手を差し出した。
「ようこそ…。聖ネルティス神官学校へ」
 何故か、男性は「ネルティス」という単語を耳にしたとき、口元に微かに歪んだ笑みを浮かべたように見えた。そして、カルダモンの手を取り、ふと怪訝な顔をした。
「…動かないで」
「はい?」
 急にどうしたのかとカルダモンが目をぱちぱちさせていると、エルディークはカルダモンの耳のあたりに顔を寄せた。
「ああ、これは…いえ大丈夫ですちょっと」
 言いながら男はカルダモンの肩をパタパタはらうと、
「幻惑キノコの胞子がついていましたよ。生徒のいたずらでしょうか…?」
 にっこり笑った。
「は、はあ…」
 初めて聞くキノコの名前に、カルダモンは戸惑い、そして間近にある整いすぎた美貌に一瞬重力を見失った。それから自分の手がまだ男性と握手をしたままなのに気付き慌てる。
「あ、す、すみません」
「いえ、よろしかったらすでに来ている守護神官に紹介をお願いしたいのですが」
「はい、勿論です、こちらへどうぞ」
 カルダモンは慌てて男性を中に案内しようとし、方向が逆なのに気付きまた門をくぐり直した。
「すみません、殺人事件なんか起きたせいか気が動転してしまって」
 ははは、と笑いながら困ったように言い訳するカルダモン。エルディークも本当のことを教えてやる気は勿論更々ない。
「私はカルダモン…といいます。あなたのお名前は?」
「エルとお呼び下さい」
 若き神官はついに気付くことはなかった。
 今自分が構内に招き入れたこの悪魔が、実ははじめから敷地内に立っていたのだということに。

 

 守護神官二人の滞在している部屋に行くと、カルダモンは扉をノックした。
「もし、…よろしいでしょうか?」カルダモンの呼びかけに、室内から承諾の声が上がる。部屋にはいると守護神官二人はテーブルを前に腕組みをし、なにやら議論の最中のようだった。
「あの、こちら、今し方王都から、今回の事件の解決のために応援にいらしたそうなのですが…」
 カルダモンが言うと、不機嫌顔のラッセル・ハウンは「はあ?」と声を荒げながら顔を上げた。
「なんだそりゃ?聞いてないぞ」
「王都からここまで、こんなに早く来られるはずがありませんわ」
 口々に言うその口調からすると、両名、この闖入者を歓迎する気はなさそうである。
「偶然この近くに来ていたものでな、おたくらの上司から入った報告を見た守護官大神殿の方から、たまたま出張中だった私に命が下ったのだ。事件のあらましから、一筋縄ではいかないと踏んだのであろう」
「ふうん?」
 確かに伝書鳩や伝令のみならば、短時間での通達も可能である。今までに前例はなかったが、中央のお偉いさんがやりそうなことだと踏んで、ラッセル・ハウンはそこで納得した。
「この事件を解決することが、何か守護官大神殿の利益につながるんですの?」
 未だ合点をえていないフロールァは表情をゆるめないまま聞き返した。
「…今までにないケースだから、資料として詳しいことを知りたいとのこと…今後の操作の発展のためと言うことだが」
 プロファイリングのため…と、自称・応援の彼は言った。確かに今までに見たことのない殺され方だった…あの校長の殺害現場は。もしこれが犯人の残虐的嗜好や性倒錯(?)に寄るものだとしたら、ここで仮に犯人を逃したら今後も同じケースの犯罪が現れてくる可能性がある。中央が早く解決したいと応援をよこすのであれば、地方のラッセルやフロールァにとっても願ったり叶ったりだった。

「…王都の、守護官大神殿から来たのだとしたら、…あそこは…シャリーヌをあがめていたはずだな。おたくもシャリーヌの信者なのか?」
 ラッセルが大地の女神の名を口にした。守護官大神殿…通称「王宮神殿」では、「大地の女神シャリーヌ」を主として崇め奉っており、また、シャリーヌはこのエイルランスという国で、崇めている国民が一番多い精神体だった。
「いや?」
 しれっと答えるエル。
 その神殿に属しているからと言って、神殿が奉っている精神体を個人が崇める必要はないので、(また、信仰は自由、というのがこの国のしきたりなので)別にそれは不自然なことではなかったが、ラッセルは片眉を上げた。守護神大神殿の神官と言えば、資格を得るのも大変な名誉であり、努力が必要だったはずだ。神殿と異なる主を崇めて、はたしてあの大神殿に勤める事なんて可能なのか…?
 ひっかかる…という表情でラッセルが訝しんでいると、エルはつっと視線を逸らすと、右後方に向かってぼそっと独り言を言った。
「ハア!?」
 思わず聞き返すラッセル。今、「なんであんなおばはんを」とか言わなかったか?
「何でもありませんよ」
 微笑で返すエルを、思い切り怪しげな視線で上から下までじろじろと見ると、ラッセルは眉間のシワをますます深くした。
 …それにしてもこのエルという男、白いローブが異様に似合っていない。
「…参考までに聞いていいか?おたくが崇めている神の名を」
 エイルランスの民であれば、必ず自分の主を持つはずだ。
 エルはフッと微笑むと、予想もしなかった名を口にした。
「シルバーミクスチャー」
「!?」
 ラッセルとフロールァの間に緊張が走る。
「冗談も大概にしていただきたい!シルバーミクスチャー…とは、銀の…」
「信仰は自由」
 指を一本立てると、エルはラッセルの顔の正面に、つっと突きだした。
「私には私の神がある。この国の人間はそれぞれ自分の主を持ち、それは誰に否定されることも侵されることも、批判されることもない…そうであろう?」
「……」
 ラッセルは面白くない顔で、自分の顔の前にあるエルの手を払った。その手が恐ろしく冷たいのに気付き、瞬間ぎょっとする。
 確かにこの国で他人の信仰を否定することは、人権を侵害することに等しい。この件について、ラッセルにこれ以上エルに何か言う権利はなかった。
「…で、事件の説明を…していただいてもいいか?」
 ああ、そうだ、とついでのように言いながら、エルディークは右手をかざし、中指にはめられた金の指輪をさした。一応、守護神官の証。と。
 ラッセルはふうっとため息をつくと、自分の同じ位置にある金の指輪を軽く爪でひっかいた。勿論それは最初に確認済みである。守護神官を名乗る悪党が居ないでもないから、守護神官は全て特殊な指輪を右手の中指にしている。特殊な方法で精製した金属で、一見しただけでは金の指輪だが、よく見ると透き通った中に炎の龍が踊っているのが見える。炎の神、エンデュランを崇める守護神殿で特別に生成しているもので、偽装も偽造も不可能だ…この指輪はエルが姿を現したその瞬間から確認済みだ。だからこそ彼が守護神官だという事実を疑う余地はない。
「…ひとつだけ、言わせてもらっていいか?」
 ラッセルの言葉に、エルは頷いた。
「どうぞ?」
「あんた、その服、恐ろしく似合ってないぞ」
「…放って置いてくれ」

  事件のあらましを聞くと、誰か生徒に校舎内を案内してもらいたい、と言って自称エルは部屋を出ていった。では私たちも、と守護神官のふたりは立ち上がったが、それはふたりにとって二度手間になるから、とやんわり断られた。
足音が離れていくのを確認して、ラッセルとフロールァはいぶかしげに目をあわせる。
「変な人ですわね」
「変どころじゃない。銀の混合物だと…? 悪魔崇拝じゃないか」
 銀の混合物とは、神ではなく、魔界を統べる王の名前だった。人間界ではふつう「魔王」と呼ばれているが、シルバーミクスチャーが正しい名であり、崇拝者にとってはそれが最高の尊称であるらしい。
「そんな危険分子がどうして大神殿にいるんだ!?」
「まあ、うちのビーストも出自は魔界ですけれどもね〜」
 ラッセルは顔をしかめた。こんなふうに、自分の知らないところで神官界は魔族に侵されつつあるのだろうか。
「…そういえば、お前のペットはどうした?」
「なんだか、エルが入ってきたら、ずいぶん大人しくなってますわね…」
 ふたりは、まさに今の男の存在がハインツを抑制しているとは、知る由もない。

 エルディークは、大勢の人の気配がするほうに迷わず足をむけた。廊下のそこここに浮き上がる紋章に舌をうちつつ。
「リッズはどこにいる」
 常の者には聞こえない声が、『今は教師棟のほうにいました…』と答える。少々ばてきみのローリエだった。
『あの、エルディークさん、なんか動きにくいんですけど…』
「それはそうだろうな」
 自分の魔力をローリエに移した張本人が、しれっと言い放った。絶句するローリエ。
「今は体と分離しているから、ましなほうだろう。恨むならリッズとその主人を恨むんだな」
 それは明らかに違う、と思ったが、賢明なローリエはあえて口には出さなかった。
 エルディークが来たのは図書室だった。両開きの扉を無造作に開けると、生徒たちの目がいっせいにこちらを向く。どうやら今は、図書の修繕作業中だったようだ。監督の教師はいなかった。
 いったい誰だろうといぶかしむ視線を無視して、エルディークは手近に座っていた生徒を指さした。
「そこの間抜け面のお前」
「は、はいぃ!」
 指名されたクローブは飛び上がって敬礼する。
「校内を案内しろ」
「はいただいま!」
 右手と右足を一緒に出して、クローブがぎくしゃくとエルディークの横にならぶと、さすがに見かねて委員長のグリッセが立ち上がった。
「あの、失礼ですがどちらさまですか」
 見知らぬ男が突然入ってきて、10秒で生徒ひとりを連れ出そうとしているのだから、これは至極当然の対応だったろう。
 しかし、もう去ろうとしていたこの怪しい人物は、肩越しに一睨みするだけで、グリッセを黙らせた。委員長は、背中が凍りつくような寒気を感じて、崩れるようにして椅子に座りこむ。
「グリッセ、大丈夫?」
 扉が閉じられる音と同時に、隣にいたパプリカが呼びかけた。
「ええ、大丈夫です…」
 とは言ったが、ともすると声が震えそうだ。
 本当はまだ追っていって問いただすか、教師に報告するべきなのだろうが、今はそんな気力がわいてこなかった。周囲の級友たちも、多かれ少なかれそんな様子だ。
 パプリカだけは平然としていた。どうしてこの人は、いつも平気な顔をしていられるのだろう、とグリッセは漠然と思った。

 図書室を後にしたエルディークは、まずは現場だ、とクローブを促した。
 歩きながら、守護神官がおこなった聴取について話す。
「さっきのがグリッセ・ニートロで、その横がパプリカ・タイムか。なかなか優秀そうなのがそろっているではないか」
「え、もうみんなの名前を?」
 学校関係者の名前は覚えた、とエルディークは言った。ただし、全員の顔と一致するわけではないと。何人かはラッセルが特徴や証言を詳述したので、推測がついたのだそうだ。
「生徒の中で独特な証言をしたのは、お前と委員長と淡白な赤毛だけだったらしいぞ」
「淡白な赤毛…」
 パプリカのことだろう、言いえて妙だ。
「ヴァニラ・エッセンやカルダモンは、死者を悼んで泣き暮らしているそうだな」
 泣き暮らすとは少々言いすぎな気もするが、それに近いものはあるだろう。
「演技にしては…」
 臭すぎる、と続けるエルディークに、さすがにクローブは反駁した。
「演技って! ヴァニラやカルダモン先生は本当にいい人なんですよ。演技で悲しむふりなんか、できっこないですよ」
「では犯人はリッズということにしよう」
「………」
 この人、本当に犯人を探す気あるのかな、と思いながら、クローブは正面玄関の扉を開けて校庭に出た。

 当然、地面には、もう人死にのあった形跡は残っていない。守護神官たちが白墨で書いたらしい印が何箇所かにあるだけだった。
 時計盤には血の跡がまだ残っているのが、目をこらすと分かる。その高さを確かめるように、エルディークはいくつかの距離から時計を見上げた。
「ふん。で、殺人現場もまだ分かっていないわけか」
「そうですね。えーと、俺、ここでリッズさんと校長先生が言い争ってるとこ見たって言っちゃったんですが…」
 おそるおそる言うと、悪魔ははーっとため息をついた。
「お前を見ていると、教師がかわいそうになってくるな」
「………」
 追及はしないほうがいいだろう。
 次にエルディークは、大時計の覆い幕に結ばれていたロープが、どの木につながっていたかを知りたがった。しかし、クローブもしかとは覚えていない。
 そこに都合よく、ある人影が門からこちらに近づいてくるのが見えた。
「あ、修理工の!」
 カーオン・テルメオツだった。今日は修理道具は持っていないようで、ぶらぶらとこちらに歩いてくる。クローブに気がついてかるく右手をあげた。
「大時計を修理した男か」
 エルディークも彼の登場を歓迎したようで、挨拶をかわすまえから、中指の指輪を示してみせる。
「守護神官だ。ちょっと話をきかせてもらいたい」
「はあ…?」
 唐突なことに、修理工は面食らったようだが、大人しく立ちどまった。「支払いの残りを取りに来ただけなんですけど」とこぼすのは忘れずに。エルディークはかまわずに続ける。
「時計に幕をつけたのも、お前なんだな?」
「そうですよ。それを支えるロープもね」
「ロープを結んだのはどの木か覚えてるか?」
 多分覚えている、とカーオンは、時計の左右にある数本の木をひとつずつ示していった。最後まで数えてから、ふと首をかしげる。
「あ。でも一本だけ、結びなおしたから、違うかな」
「結びなおした?」
 エルディークの左目が光った。どうやら、望む情報にいきあたったらしい。
「うん、帰り際に」
「その話を詳しくきかせてもらおうか」
「?」
 なぜそんなことを、と思いながら、カーオンは記憶をたどり、ロープを結びなおしたときのことを説明した。
 時計の修理が終わったとき、すでに深夜になっていた。翌日の準備もあって屋内外に灯りはあったが、神殿を出ると村までは月明かりのみの道である。カーオンはうんざりしながら正面玄関を出た。
もう一度正面からできばえを確認しようと、校庭の半ばでふりかえり、彼は覆い幕から垂れたロープの一本が、木からほどけているのを見つけた。
 危ない、一本くらいではどうにもならないが、うっかりすると幕が落ちてしまうかもしれない。暗かったので元の木を選ぶ気にも、もともとどのロープだったのかも確認するつもりにもなれず、手近なところに結びなおした。
「それにしても、誰だよ、ほどいたの…」
 ロープが勝手にほどけるとは思えない。誰かのいたずらだろうか。
 しかし、たいした問題ではなかったので、守護神官に尋問されたときも忘れていた。今ちょうど思い出したのだ。
「新しく結びなおしたのは、どの木か分かるか?」
「うん、多分…これでしたよ」
 カーオンが選んで指さした木に、クローブは眉をひそめた。
 その幹には、白墨によって、印と文字が書かれていた。

 黒髪の偽神官の背を追いながら、クローブの頭の中は疑問符でいっぱいになっていた。
「エルディーク、さん。今って、どういうこと?」
「次は校内の主だったところを見せろ。特に時計に近い場所をな」
「いやあの、修理工さんの言ってたのって、どういう意味があるの?」
 クローブが負けじと食いつくと、悪魔はくるりとふりかえった。怒らせたか、それとも説明してくれる気になったか、と思うと、
「私が先に歩いてどうする。お前が案内するんだ」
 クローブをおいたてる。ローリエはまたリッズの居場所を偵察に行っているので、心細いことこのうえないが、どうやらこの悪魔は事件の真相に近づいてきたらしい。
「あの木には、守護神官がつけた死者の印があった」
「はい」
「つまり、死体を吊るしていたロープが縛られていた木だ」
 クローブが先に立つと、一応答えらしきものはくれたが、やはりよく分からなかった。
「あと、どうして守護さまの指輪を持ってるんですか? 偽物なの?」
 守護神官の証は偽造不可能だと聞いたが、それも魔界の実力者にはたやすいことなのだろうか。問うと、エルディークはつまらなそうに右手をふってみせた。
「これか。エンデュランには貸しがあるからな。造らせた」
「え?」
 ますます分からないことを言われた気がする。しばらく考えてみたが、どうも理解できない。忘れることにした。
 クローブが、玄関から入って手近なところの扉を開くと、「ここは?」と後ろからエルディークが尋ねる。あまり立派な扉ではなかった。
「トイレです」
「……」
 黙ってこの少年を見る目が、どこか憐れみを宿しているのは、気のせいだろうか。
「そうか、お前たちの校長は、夜中に不浄で密会する気だったのか」
「あ」
 そういわれてみれば、ここが殺人現場とは、どうも考えにくい。いや、可能性がないわけではないのだが…。
「で、でもうちの学校のトイレはすごくてですね! ほら、水洗で、つくりがしっかりしてるので、こんなふうに建物の内部に組み込んであるんですよ! 俺の故郷の神殿なんて、本殿とトイレが10mくらい離れてたし。これも湖につながる水脈のおかげでですね…」
「分かったから、他に案内しろ」
「…はい」
 次は郊外活動の用具が収められた物置や、教室、それに講堂や厨房が続いている。
 では教室から、と足を運ぼうとしたところへ、ローリエが戻ってきた。
『リッズさんは校舎の反対側にいるから、まだ全然気づいてませんよ』
 ふん、と鼻をならして、エルディークは少年の生霊を労う。
「親友がこれだけ働いているぞ?お前も頑張ったらどうだ、クローブ」
 実際は大して期待していなさそうな口調でエルディークが言う。クローブは返す言葉が見つからず、肩をすくめた。地下で見つけたこの悪魔が、こんなに口数が多かったとは。今まで抱いていた印象とはまるで違う。それとも今まで感じていた威圧感は、背負っていた強大な魔力のせいだったとでも言うのだろうか?
 教室へ向かう途中、カルダモンとすれ違った。
「ああ、先ほどの…守護さま」
 カルダモンが弱々しく顔をほころばせる。
「事件は解決を見そうですか?」
 信頼しきった口調。クローブは自分の担任が可哀想に思えてきた。実は彼が守護神官だと思って話している相手は、…悪魔なのだ。
「ああ、教師殿…どちらへ?」
「今、厨房に行こうと思っていたところです。時計の修理工さんが、頼んでいた新しい包丁を買ってきて下さったので」
 手に持った包みをエルディークに示した。
「ああ…」
 ラッセル達が、殺人の凶器に使われたと思われる「紛失した肉切り包丁」について、話していたのをエルディークは思い出した。もっともそれが凶器と踏んでいるのは、守護神官達だけで、学校の教師や厨房スタッフ達は結びつけることはしていないようであったが。学校の関係者が犯人だと認めたくないからだろう。
「失せものを戻してくれるのはネルティスの加護の本分では?新調してしまうのですか?」
 エルディークが、カルダモンに向かって少しだけ皮肉げに言った。癒しの天使であるネルティスは、怪我や病気の治癒に手を貸してくれるばかりではなく、破壊されたものの修復や、失せものの探索に対しても加護があると言われている。
「せっかく、加護力が一番強まる聖癒祭だったのに…」
 エルディークの言葉に、カルダモンは暗い表情でわずかに目を伏せた。
「聖癒祭…そうですね…でも、その当日に、癒しとはほど遠い出来事が起こってしまった…」
 さすがに泣き疲れたのか目に涙がにじむことはなかったが、眉間のあたりが曇る。まだ若くスレンダーな神官は、心労で身体が折れてしまいそうに見えた。
「…ネルティス様は…何を考えてらっしゃるのか…」
「人の生き死には彼の領分ではなかろう…天使だろうと、領分が違えば管轄外だ。ネルティスでも人の運命をとめることは出来まい」

 会話をしながら厨房に向かっていると、カルダモンがふと立ち止まった。
 大きな扉の前で。扉の上に「講堂」と書かれた札がかかっていた。
「そういえば…何故…」
 カルダモンは囁くように言った。
「カーテンが開いていたのだろう…」

 厨房でカルダモンと別れ、物置、教室と見て回ったあと最後に、クローブとエルディーク、そして他人には見えないローリエは講堂にやってきた。今まで見た場所に、事件の解決に関する収穫はないようだった。少なくともエルディークの態度を見る限りでは。
「あと、生徒達の部屋は別棟になるんですが…そっちも行きますか?」
「いや…いい」
 エルディークは講堂の中を歩きながら、肩をすくめた。思うような情報が得られないので、脱力しているのだろう。
 校内で一番広い空間である講堂は、全校生徒200人どころか、その倍も収容できるほど広い。
「やっぱり、殺害現場は外なんじゃないかと思いますよ」
「…………だが、外にはあの修理工がいたのだろう…みんなそれを知っているのに、あえて危険な場所を選ぶ必要があるのか?」
 エルディークは天窓を仰ぎながら言った。
「…この講堂は、他の部屋より天井が高い位置にあるのだな」
「…ああ、そうですね、一階から、二階の天井までぶち抜きです…」
 クローブは学校の構造を思い浮かべながら言った。この建物内で主だった部屋は、まず二階の教室、校長室、図書室、客間。一階の厨房、大食堂、教師達の部屋。そして、この講堂。基本的に、教室など、日中の明かりが必要な場所は、天窓のついた二階にある構造になっている。
 講堂は一階にあるが、二階までぶち抜きの高さを持っており、曇った天窓から日光が中に差し込んでいた。
「…講堂があるのに、聖癒祭の食事は外でとったのか?」
「ここはお祈りする場所ですもの」
 同じ場所でしちゃダメなんですよ。と、クローブが説明した。それが聖癒祭の決まりだ。雨が降ったら、普段と同じ食堂での食事になっていただろう。
「あの天窓は開くのか?」
「開きますよ、そこの梯子を使って」クローブは、壁に備え付けられた梯子を指さした。「外に出られます。ちょうど、屋根の天辺あたりかな。…あ、もしかしてエルディークさん、校長先生を、ここから上に持っていって、上から吊したとか思ってるんじゃないでしょうね?無理ですよ、あの校長先生を抱えてこの梯子を登るなんて…梯子だったら物置にありますし、ここの天井より時計の位置の方が余程低いもの。時計に吊すんだったら、外からやった方が絶対楽ですよ」
「…だが、ここから出て準備したのなら、あの修理工に見つかる可能性が低く…」
 言いながらエルディークは壁により、梯子を掴んで足をかけた。
「…確かに無理だな。並の体力で、100キロの巨躯を抱えてこの梯子を登るのは」
「そうですよ、それに、時計はそっちの外側ですよ」
 クローブが、エルディークの掴んでいる梯子と反対側の壁を指さした。梯子のついている壁とは大分離れている。
 クローブの言い分に納得したらしく、エルディークは講堂を出ようとした。そして、ふとさっきクローブがさしていた壁の、ほぼ壁全域を覆うカーテンに目を向ける。側に寄って重いカーテンをめくると、大きく壁にもうけられた窓の向こうに外の景色が見えた。
「窓は…。ああ、回転式か」
 エルディークは鍵を開け、窓の上の方を押した。キイ、と微かな音がして、上部と下部が僅かに開き外気が入り込んできた。
「…さっき、教師が言っていたのは、このカーテンのことか?」
 講堂の前でカルダモンが言っていたつぶやきを思い出し、エルディークは眉をひそめた。
「カーテン…」
 エルディークはクローブを振り返った。
「クローブ、このカーテンはどうやって開け閉めするのだ?ひもを引くのか?」
「ここのは自動なんですよ」
「自動?」
 エルディークは目を見開いた。どういう技術なのか。
「そこのレバーを動かすんです。それで開いたり閉まったりします」
 クローブは祭壇の近くに駆け寄ると、棒状のレバーを握り、ガクンと動かした。その途端、キリキリキリと歯車の回る音がして、カーテンがさーっと動き出す。壁一面にかかっていた重いカーテンは、ほんの十秒くらいで窓の端にまとまり、途端に白昼の光で講堂の中は倍も明るくなった。
「…歯車のからくりか?」
 クローブがカーテンを閉めようと思ってレバーを戻すと、急にエルディークが動き出したカーテンを掴んだ。
「ちょっとエルディークさん、カーテンが破れちゃいますよ!」
 クローブが慌てると、エルディークはニヤッと笑ってクローブを見た。
「大丈夫だ、そんなヤワな作りではない様だぞ…だが…70…80…100キロはないな」
「何がですか?」
「重りだ、このカーテンは重りで動かしているんだろ?」
「あ、ええ、砂袋です、閉めるときは、ですけど」
「…開けるときは違うのか?」
「さっきも言った水脈ですよ、地下に水車があるんです。このレバーで歯車が切り替わるんですよ」
 エルディークはクローブを見てしばらく黙り込んだ。

「…おい…クローブ」
「はい?」
「さっきの、教師を呼んでこい」
「カルダモン先生ですか?」
「そうだ」
「は、はい」
 クローブは弾かれるようにその場を離れると、カルダモンを探して厨房に向かった。カルダモンは厨房をすでに離れたらしくいなかったので、今度は彼の部屋に向かう。
「先生!」
 扉を叩くと、探し人が顔を見せた。
「どうしたんですか、クローブ」
「あの、さっきの守護様が呼んでます」
「え…?」
 首を傾げながらも、カルダモンはクローブに従って講堂にやってきた。
 講堂に戻ると、エルディークはカーテンのレバーを見下ろしてなにやら考え込んでいるところだった。
「クローブ」
 悪魔が呼ぶので近づくと、エルディークはカーテンのレバーを動かし、急にクローブの身体を抱えて走り出した。何事か?と目を白黒させていると、エルディークは床を蹴り、動いているカーテンの上部を掴んでぶら下がった。
「カ、カーテンが破れますってば…!」
 驚き、エルディークの腕の中でもがくクローブ。カルダモンも、いきなりのことに呆気にとられて開いた口がふさがらないでいる。
 二人分の体重の負荷がかかっても、カーテンの動きは減速することもなく、何事もなかったように規定の場所にまとまった。
「ははは!」
 カーテンに捕まったまま、愉快そうにエルディークが笑った。
「すごい馬力だ。さすがだ、オールローヌ」
 エルディークが水の精霊の名を口にした。

「教師殿」
 床に降り立つと、エルディークはカルダモンに真剣な顔で詰め寄った。
「さっき、何故カーテンが開いていたのか、と言っていたが、いつだ?それは」
「え?あ…あの、聖癒祭の前夜です」
「何時頃」
「ちょうど、深夜の…日付が変わる頃だったでしょうか。校長先生を捜しにこの講堂に来て…そうすると、使わないときは閉まっているはずのカーテンが何故か全開で、それで、閉めました」
「このレバーで?」
「はい」
 カルダモンは頷く。
「…丁度、校長が殺された時分だな」
「そそ、そうなのですか!?」
 殺害方法や時刻などの詳しいことを、守護神官達から何も聞かされていなかったカルダモンは青くなって震えだした。
「で、では、近くに殺人犯が…この壁ひとつ隔てた場所にいたかもしれないのですか…?」
 震えながらカルダモンは窓に近寄ると、外の風景を見た。大時計は、カルダモンのいる場所のすぐ上にある。そこから守護神官達が地面に描いた、白墨の印も見ることが出来た。

「…そう、同じ位じゃないか…。何故気付かなかったんだ」
 エルディークが天窓とカーテンを見ながら呟いた。
「あの、何が同じ…なんですか?」
 クローブが恐る恐る聞くと、エルディークは浮いているローリエとクローブに向き直った。
「事件の全貌が見えたぞクローブ。何故、時計に死体を吊したのかも、だ」
「えっ本当ですか!?」
 クローブは勿論、空中のローリエも仰天して叫んだ。
「犯人は誰なんですか!?」
 カルダモンも驚いたようで、瞬きを繰り返している。三日かかって未だ事件の謎が解けないでいるラッセル達に比べ、ごく短時間で解決を宣言したエルディークがあまりに意外だったのだろう。
「犯人は…」
 そこまで言って、エルディークは黙り込んだ。
「エルディークさん?」
「犯人は分からん」
「ええっ」
「だが、リッズではないのは間違いなさそうだ…」
 苛ついた口調でエルディークは吐き捨てるように言う。
「犯人はこの学校のことを知り尽くしていて、…そして臆病な人間だ」
「学校のことを知り尽くしていて臆病?」
 クローブは思わず担任の顔を見た。
「えっ、なっ、なんですかクローブ!?私じゃありませんよ…!」
 教え子の視線に気付いたのか、カルダモンが慌てて手を振った。
「何故、臆病な人間が、時計に死体を晒したりするんですか?」
 クローブが聞くが、エルディークからの返事はない。黒い悪魔は片手の親指の先を噛み、片方しか見えない眉をひそめてしばらく考え込んでいた。
「…教師殿」
 ややあって呼ばれ、カルダモンは「はいッ!?」と飛び上がった。
「今夜の食事の際に、お願いしたいことがある」

 「犯人が分かった!?」
 ラッセル・ハウンは、オレガノ神官がもたらした伝言をきいて目をむいた。ちょうど、校長の私室を捜索しているところだった。フロールァは、露骨に怪しいリッズという人物の情報が得られないか、ヒューライ神殿にハインツを遣わせているはずだ。
「いえ、犯人はまだ分からないそうですが、校長先生をあんなふうに殺した理由が分かったとか何だとか…」
 伝えるオレガノも、よく分かっていないようである。
 ラッセルは眉間をよせずにいられない。いくらなんでも、つい先ほど来たばかりの守護神官に、あっさりと真相が解明できるものなのだろうか。
 もちろん、その疑惑の根底に、王宮神殿から来た悪魔崇拝者、という、どうにも好意をもてないプロフィールの影響があるのは否めない。リッズも怪しい男だと思っていたが、その影がかすむほどに、エルというのは異様な人物だった。
「私も、詳しいことは聞いていないのですが…」
 とまどいながら、神官がつづける。
 あの悪魔崇拝者は、夕餉の際に犯人が分かる、と言ったという。

 そのような進展があることなど露とも知らず、謎の男リッズは、地道に封印の紋章の修復作業をしていた。
 紋章のひとつひとつは気休めのようなものだったが、それが幾何学的に配置され、目には見えない封印の結界を支えている。それを立て直していく作業は、ふと終わりがないものに思えることもある。
 なにしろ、黒き闇王エルディークという悪魔は、彼などの手におえる相手ではなかった。本当は、彼の主人でさえも敵うはずのない大物なのだから。かつて封印はしたものの、これまでについた封印の綻びは、思った以上に進んでおり、しかもクローブたちが歩き回って、リッズの仕事をふいにしている。
 自分がどこから遣わされたか、心得ていたターメリック校長を失って、動きにくくなってしまったのは、多少の痛手だったかもしれない。今さら何を言っても仕方のないことだが。
 しかしまさか、この任務に失敗してエルディークを解き放ってしまうわけにはいかなかった。主人が怒り狂って何をするか分からない。
 と、リッズは見知った茶色の頭を発見した。
「クローブさん…」
 ため息まじりに呼ぶと、相手はよほど驚いたらしく、「わひゃあ」と叫んで、飛ぶようにこちらにふりむいた。
「あまり、あちこち歩かないでくださいよ。紋章が磨耗するんですから。あなた、授業中でしょう? さきほど級長さんが探してましたよ」
「あ、いやそれは、案内してたので…」
「? どなたをですか?」
「えと、えーと…守護さま…を」
 少年は言いにくそうに視線をはずした。おそらくそれは口実で、どこかでさぼるか、またエルディークにでも呼ばれていたのだろう、とリッズは思った。
「そうですか。ま、とにかく用事が終ったのなら、ふらふらしないで教室に戻ってくださいね。勉強が本分でしょう」
 リッズがまともなことを言ったのが意外だったのか、いくぶん気味悪そうにしながら、クローブは教室へ帰っていった。リッズにとっては、クローブがそれくらい挙動不審なのはいつものことなので、特に何とも思わなかった。
 そのリッズの背後で、彼の目を避けるようにして廊下をわたっていった人影があった。
「さて、準備もすべて終ったことだし」
 満足げな偽神官、エルディークである。案内の任からといたクローブを帰し、今はローリエを従えている。
「さきほど言ったものは」
『これですけど…』
 ローリエが、苦労して持ってきた鋏を手渡す。その気になれば物に触ることはできるものの、やはり何かを運ぶのは骨が折れた。
『どうするんですか?』
「最後の晩餐までの時間を、有意義に過ごそうと思ってな」
『最後の晩餐…?』
 なにを不吉な、とローリエが顔をひきつらせるのに、エルディークは人の悪そうな笑みで応えた。
「犯人にとっての。そして、リッズにとっての最後の晩餐だ」
 言って、手近にあった壁の紋章を、鋏でえぐる。
『……あああ…』
 なんとなく、予想はしていたのだが。
 それからしばらくの間ローリエは、リッズの努力の結晶が、校舎ごと傷つけられていくのを、呆然と見ていた。

 夕食の時間になって、パプリカとグリッセ、ヴァニラが連れ立って食堂に行く途中、廊下の真ん中で脱力しているリッズを見つけたのは、そういう事情からだった。
「リッズさん?」
 首をかしげてパプリカが尋ねると、ふらり、と虚ろな目でリッズは立ち上がった。それでも口元にはかすかな微笑がある。
「ふふふ…いやもう、何と言っていいのか」
「大丈夫ですか?」
 子供たちに心配されて、リッズは「大丈夫ですよ〜」と気力で立ち上がった。
「そういうグリッセさんこそ、顔色が悪いようですよ」
 とりあえず、嫌なことを忘れるために、矛先を変えてみる。実際、グリッセは顔色がすぐれなかった。横にいるヴァニラが心配そうにしている。
「ああ、なんだかさっき、守護さまに睨まれてから、調子が悪いみたい」
 本人のかわりにパプリカが答えて、リッズは首をかしげる。守護神官といえば、あの二人づれだろう。男のほうは仏頂面ではあったが、それほど怖い相手だったろうか?
 ともあれ、調子が悪そうなのは確かなので、リッズは黒髪の少年の額に手をかざし、祈った。
「ネルティス様のご加護がありますように」
 グリッセはうすく笑って礼を言おうとし…目を見開いた。本当に、今まであるともなしにまとわりついていた寒気が消え、体が温まったように感じたのだ。
 驚いて金髪の青年を見やると、もう彼は歩きながらパプリカと話をしていた。
「リッズさん、ネルティス様の信者じゃないでしょ」
「ははぁ、そういうパプリカさんこそ、実は」
 ひとつの神に傾倒しても益はないでしょう、と悪びれずにパプリカは答えている。リッズが、ふりむいて訊いた。
「お二人は?」
「えっ…私は、本当はシャリーヌ信仰でした…」
 思わずグリッセは、ネルティスの神殿において言うべきでないことを口にしてしまった。まだ都にいた頃は、シャリーヌの神殿に通っていたのだが、父親によってこの学校に入れられてしまったのである。
 別に、生徒たちが皆、熱心なネルティス信者というわけでもない。パプリカなどがよい例だ。しかし少々の罪悪感はあった。
「僕はネルティス様を信仰していますけど…」
「おや、じゃあ三人の中でネルティス様の信者はヴァニラさんだけですか。まあそのほうがいいのかもしれませんが…」
 謎なことを言うリッズに、少女が「でも校長先生の信仰の度合いも知れたもんでしたよ」と不穏な冗談を返しているうちに、四人は食堂についた。

「どういうことだ? 犯人が分かったっていうのか?」
 食堂では、ラッセル・ハウンがエルディークを問いただしていた。
 三々五々、人が入ってきている食堂の、教師・来賓席でだった。ラッセルのさらに横で、フロールァも不審そうにしている。
「犯人はまだだ」
「はあ? ではどうして、この席で犯人を摘発するなんて言えるんだ。一同が集まる場で説明をするってことじゃないのか?」
「黙っていてくれ。後で分かる」
 黒髪の偽神官は、相手を見ることもなく、うるさそうに手で追い払う仕草をした。視線はずっと食堂の入り口に固定されている。
 その横では、人の目には見えないローリエが、入ってくる生徒や教師の名を読み上げていた。
『…で、今きたのがパプリカ・タイムと、ヴァニラ・エッセンと、グリッセ・ニートロ…』
 ローリエが言い終わる前に、蜂蜜色の金髪の青年が、こちらに気づいた。この世のものとは思えない化け物を見たかのように、ぎょっと立ちすくむ。
「おっと、見つかったな」
「?」
 何のことだか分からない守護神官たちが首をかしげている間に、リッズはものすごい勢いでこちらに近づいてきた。
「や、や、闇…!」
 闇王、という名を出す前に、エルディークの手がその口をふさぐ。似合わない白の袖を持ち上げ、守護神官の指輪を示した。
「偶然だなリッズ。今まで黙っていたんだが、実は私は守護神官だったんだ。今回の事件を解決するために遣わされた。協力を頼むぞ」
 状況を察したようだ。リッズは、口をふさがれたまま青ざめた。
「お知り合いだったんですの?」
 当然のようにフロールァが尋ねるので、エルディークはあいまいに笑った。
「顔見知り程度で。こちらの身分は明かしていなかったので、驚いたのだろう」
「ふぅん」
 そこでようやく手をはなしてもらえたリッズは、席につきながら呟いた。他の守護神官には聞こえないように。
「愚かなことを…。そんな無防備な状態を、我が主に知られたら、今度こそ殺されてしまいますよ」
 不幸なことに、リッズの席はエルディークの横に配置されていた。リッズ、エルディーク、ラッセル、フロールァの順に並ぶことになる。
「ではお前が早速報告しにいけばいいだろう」
 面白そうに促す闇王に、リッズはため息で答える。ついで、同情したように、横に浮かぶローリエを見上げた。ことさら小さな声で、
「ローリエさん、あなた今がんばれば、魔王にだってなれますよ」
『ええっ!?なりたくないですよ、そんなものに!』
「そんなものとは何だ!貴様、魔王様を侮辱するのなら許さんぞ!」
『ひぃぃ。ごめんなさい!』
 突然怒りだし、魔王の美点をつらつらと挙げはじめたエルディークの横で、ラッセルとフロールァは顔を見合わせて、肩をすくめた。どうもこの助っ人は、あまり期待できそうにない。
 係りの生徒によって、食事が運ばれてきた。今晩のメニューは愛想のないパンに野菜の酢漬け、それに赤の美しいミネストローネと山でとれる果物だった。質素をよしとする神官学校なのだから、これくらいが妥当であろう。

 生徒たちの注意は、もちろん客人の席にむけられていた。四人もの客人があり、そのうち三人が、殺人事件のためにやってきたのである。
 全員が配膳を終えて席につくと、カルダモンが立ち上がった。食前の祈りの前に、アナウンスがあるためだ。新しい来客のことであろうとは、誰もが予想できた。生徒たちの多くは、図書館での出来事でその存在を知っていたが。
「夕食の前に皆さんにご紹介します。守護官大神殿からいらっしゃった、守護神官のエルさんです」
 エルディークがそれに応えて頭を下げる。守護神官がなぜまた、というようなざわめきが、生徒間どころか教師の間でもおこった。
「それからもう一つお知らせが…」
 紹介が終って、食事だろう、という予想を裏切り、カルダモンはここ数日なかった嬉しそうな様子で、つけたす。
「先日、厨房から包丁が一本なくなったのですが、今日それが見つかりました。今夜の食事も、その包丁で調理されたものです。これもネルティス様のご加護でしょう。皆さん、今夜はそのことも感謝して、ネルティス様にお祈りしましょう」
 そして食前の祈り。簡素なそれは、カルダモンの言うとおり、少し長めに行われた。
 全員が目をふせている中で、ラッセルは隣のエルディークの足を軽く蹴った。
 どういうことだ?と、暗に尋ねる。教師たちや生徒は気づいていないようだが、その包丁とは殺人に使われたと目されているものだ。
「虚言さ」
 エルとなのる神官は、ほとんど口を動かさずに呟いた。他の誰にも聞こえないような小さな声であったにもかかわらず、言葉ははっきりとラッセルの耳に届いた。
 祈りが終わり、食事がはじまる。
 食事中の私語は褒められたことではないが、遊び盛りの少年たちの集団であり、またセンセーショナルな事件のあった直後でもある。それなりに言葉がかわされ、エルディークたちも自由に話せるほどになった。
「物証から犯人を特定するのは難しそうだったのでな。罠をかけることにした」
「…包丁が見つかったと?」
「あれは嘘だ。本当にあったら厨房などに返すものか。だが、犯人はどう思う? 自分が殺人に使った凶器、自分が殺した者の血がついた刃物で、調理された料理がでてきたら」
 はたして平然と口に運べるかな、と言って、彼はパンをちぎった。
 それを聞くともなしに聞きながら、リッズはやはり食欲がなかった。そもそもエルディークの横で食事をするなど、胃痛の原因にしかならない。
 そこで、食堂に集まった人々を観察してみる。校長の死体が見つかった時にしたように。あのときは、誰の顔にも怯えと驚きがあった。それはけして偽りのものではなく。
 ラッセルとフロールァも、慎重にひとりひとりの様子をうかがった。様子がおかしい者はないか、平気な顔をしながら、包丁を使った料理をたくみに避けている者はいないか。
 …それほど穿って見る必要などなかった。いるではないか、血のような色のミネストローネには手をつけず、ましてパンすらも口に運べず、ただ青ざめて硬直している人物が。
『まさか…』
 ローリエがあえぐように呟いた。そして、その驚きは、その人物の正面に座っていたクローブも同様のようだった。
 エルディークはその様子をちらりと見ると、冷酷に、何の感慨もなく言い放った。
「ヴァニラ・エッセンと、グリッセ・ニートロ。彼らが犯人だ」

 目の前に、校長の死体そのものがあるかのように、ふたりはただ凍りついていた。


 

続く