そのときのターメリック校長の顔は、なかなか見ものだったと、後になってカルダモンは思った。
 校長に客人があると伝えてくれたのは、この学校に唯一の事務員で、変な男が訪ねてきたが、校長先生はどこか、と最初につかまえたカルダモン教師に聞いてきたのだ。
「今の時間なら、自室にいらっしゃるんじゃ…」
「ああそう。じゃあ、お客さんは応接室に通してあるんで、校長先生呼んできてもらえますか?」
 形こそ懇願だが、白髪の数にみあった貫禄をもった事務員の言葉が、命令であることは若造のカルダモンには分かりきっていた。
「…分かりました」
 この校舎でおそらく二番めに、雑用を押し付けられる人間である。一番はオレガノ神官だが。
「それにしても、変な奴だったよ。校長先生に何の用なんだか」
「どんな方なんですか?」
「20をいくつか越えたくらいの若い男で、にやにや笑って嫌な感じだよ。この学校をよく知ってるみたいな口ぶりだけど、私が勤めて20年以上たつのに、あんな奴見たことないからね。変な男さ」
「はあ…」
 年齢からして、生徒の保護者でも、入校希望者でもなさそうだった。地元出身の事務員が知らないのだから、この辺りの人間でもないのだろう。
 何の用件なのだろうか。
「その方、名のられましたか?」
「ああ、だけど上の名前だけね」
 短い名前を教えてもらって、カルダモンはターメリック校長を探しに行った。

「リッズ? 知らないな、誰だいそれは」
しかし、その名を告げても、校長は首をひねるだけだった。
「さあ…校長先生のお知り合いではないんですか?」
「全然知らん。来客の予定もなかったんだが…まあとりあえず会ってみよう。カルダモン、君も来てくれ」
 どうやら、自分が関わらなくてもいい用件で、客人が来ているのだったら、自分は途中でひきあげてカルダモンに任せようと思っているらしい。
 カルダモンは内心ため息をついたが、もちろん返事は一通りしかなかった。
 ふたりで客人を待たせている応接室に入ると、古びたソファには金髪の男が、泰然として座っていた。
「お待たせしましたな。校長のターメリックです」
「いえいえ、突然に伺いまして、すみません。リッズといいます」
 男は立ち上がって挨拶した。カルダモンは、自身も挨拶しながら、かるくその男を観察した。
 長い金髪をたばねもせずに背中に流している。白い服を着ていて、旅装にしては軽装だ。年は事務員が言っていたとおりに見える。
 口にはたしかに笑みが刻まれているが、聞いたような嫌な感じの笑いではなかった。むしろ快活な印象をうけ、カルダモンの目には好ましく映った。
 客人にソファをすすめて、全員が腰を落ち着けると、さっそくターメリックが「それで、今日はどういった…」と切り出そうとした。
 しかし、それをリッズがさえぎる。
「あ、これお近づきの印に、どうぞ」
 懐から何かを取りだし、校長に軽い調子でさしだす。
「……」
 彼が持っていたのは、無色透明の薔薇だった。
 ガラスか何かの細工物なのだろうが、実に精巧でいきいきとしたつくりだった。その透明感も目をひくものがある。
 それにしても、本物の薔薇にしてもなかなか大輪のほうである。これがどうやって懐に入っていたのか、謎なところだった。
「これは…見事な」
 出鼻をくじかれて、少々機嫌をそこねたターメリックが、それでもその細工の見事さに手をのばしかけた。だが、今度はターメリック自身がその手を止めた。
 どうしたのか、とカルダモンが隣の校長の顔を見やると、彼は何か重要なことを思い出したかのように目を見開き(校長はなかなかの肥満体質で、平素はまぶたすら重そうにしているので、カルダモンは校長がそれほど目を開いているのを見たことがなかった)、硬直していた。
 ついで、ターメリック校長はリッズの顔を凝視した。そしてまた薔薇。何度か、その二点をくりかえし見て、最後にはさらに目を大きく開けて、喘いだ。
「あなたは…」
 その間、リッズはにこにこと、変わらぬ笑顔を浮かべているだけである。
 何事だ?とカルダモンがいぶかしんでいると、ターメリックは隣の教師の顔も見ずに言った。
「カルダモン先生。君ちょっと、お茶をもってきてください」
「は?」
「あ、どうぞおかまいなくー」
 あまりに唐突でカルダモンが聞き返すと、リッズが笑顔で形ばかりの遠慮をする。これは茶を催促しているのだろう。もしくは、席をはずすことを。
「…ただいま」
 不可解な思いを味わいながら、カルダモンは席を立った。
 厨房に行き、少々よけいに時間をかけながら彼が茶の用意をして行くと、すっかり校長と客人はくつろいだ雰囲気に戻っていた。いや、くつろいでいるのはリッズだけで、実は校長はまだ動揺しているのが、うけとったらしい薔薇を持つ右手の震えから読みとれた。
「あ、カルダモン君、君、オレガノ先生と一緒に、客間の用意してくれる?こちら、お泊りになるから」
「え?」
「どうもお邪魔しますー」
 ふたたび、まったく悪びれない様子のリッズの声に見送られて、カルダモンは部屋を出ていった。
 扉を閉めるとき、「それにしても、この校舎も古くなってきましたね…」と、リッズが世間話をはじめたのが聞こえた。
首をかしげながら教員準備室に行くと、案の定オレガノ教師はそこで仕事をしていた。
オレガノはカルダモンより年かさの神官で、校長がああなのでカルダモンはかえってこちらの先輩のほうを頼りにしているふしがある。
「オレガノ先生、すみませんが校長先生に頼まれたので、客室の準備を手伝ってもらえますか」
 カルダモンが頼むと、オレガノは不思議そうな顔をした。
「客間?誰か来たんですか」
「ええ、校長先生に突然のお客様が…。リッズさんとおっしゃって、金髪の若い男性ですが…ご存知ですか?」
 尋ねると、オレガノは首を横にふって知らないと答えた。
「とにかく、客間を整えに行きましょうか」
 オレガノの提案に、カルダモンはひとつ頷いて、今するべきことのために客室へむかった。

 ややあって、ふたりの神官の努力によって用意された客間に、突然の来訪者が入った。
 ベッドに腰かけ、苦笑ぎみに嘆息する。
「ふう、やれやれ。これからしばらくは、また落ち着いて眠れませんねぇ。闇王様の怒りが漏れでている」
 独りごちて、彼は壁にとりつけられた、天使ネルティスの紋章の入った木枠を見上げた。これはどの部屋にもつけられている。就寝の前に祈るためだ。
 しかし、ずいぶん長い年月をそこで過ごしていたため、その紋章は目だたないながらも少々損なわれてきていた。
 この校舎のあちこちに、探せばいくらでもネルティスの紋章は見つかる。それらも、この部屋のものと同じ状況だった。
「いけませんね。校舎にある紋章は、しょせんは気休めとはいえ、こうも形が不完全になっていては…」
 封印の紋なのだから…と、彼は声には出さず、頭の中だけで続けた。
 いつのまにか、どこからか取り出した透明の薔薇をもてあそんでいる。校長に渡したものとは別の一個らしい。
「やはり年月の脅威か。前回にくらべて、ずいぶん綻びが大きい…」
 これは面倒なことになりそうですねえ、などと言いながら、依然としてその口元には、薄い笑みがはりついていた。

 


 その晩。
 自分の受け持つ生徒が、一人を残して全員いることを確かめた後、就寝前の点呼が終ってお休みの挨拶をする前に、カルダモンはお知らせがひとつあることを生徒たちに告げねばならなかった。
「実は今、この学校にお客さまが一人来ています」
 どんなー?と、パラパラ声があがる。
 クローブも、昼間あったとんだハプニングに気をとられてて、それどころではなかったが、ぼ〜っとしながらカルダモンの話を聞いていた。
「校長先生に用事があって見えられているのですが、今夜は泊まられるそうなので、お会いしたらご挨拶をするのですよ。リッズというお名前だそうなので…」
 ボーっとしていたはずのクローブが、急に飛び上がった。
「クローブ?」
 カルダモンは不思議そうにしている。
「クローブ、どうかしましたか?」
「え、いやそのローリエが…いや何でも…ゴニョゴニョ」
 ローリエの名前を聞いて、カルダモンは憐れみに満ちた表情になった。クローブのルームメートでもある親友のローリエが、父親が危篤とかで急に帰省したという事情は彼らの級長から聞いていた。
 クローブもさぞ心配していることだろう。少しくらいの情緒不安定は大目に見てやらねばならない。
「クローブ…ローリエが心配でしょうけど、気をしっかり持ってくださいね…」
「あ…はい…」
 クローブは曖昧に、口の端を引きつらせながら笑おうとした。なんせ、視界一杯に怨霊のような表情をした半透明のローリエが映っていて、カルダモンを見るには、それを透かして視点を合わせるしかないのだ。
『ちょっとクローブ!聞いてるの!?』
 返事をしようにも、こんなに大勢の前では、相づちも打てない。
『今、確かにカルダモン先生、リッズが来てるって言ったよ!リッズって例の人でしょ!?』
「え、えーと…」
 例の人?
クローブの頭の中はハテナハテナになっていた。カルダモンのセリフの途中に飛び上がったのも、耳元でいきなりローリエが『リッズ―――!?』
と叫んだからである。
『その人をこの建物から追い返したら、ボクの体を返してくれるって、あの悪魔が言ったじゃない!もう、クローブったらなにぼさっとしてるのさ!?ボクがこんなに大変な時に!』
 もちろんクローブも大変だからこそ思い悩んでいたのであるが、肝心の人名を忘れる辺り、迂闊としか評しようがない。
(あ、そーかそーか…ってあれ?)
 昼間の悪魔の言葉を思い返して、クローブは慌てた。
(確か、訪ねてきたらすぐに追い返せって言ってなかったっけ!?)
 しかし、カルダモンの言うところによると、既に学校内にその人物が来ており、今晩泊まることが決定しているというのだ。
「せ、先生―」
突然手を上げてことばを発したクローブを、カルダモンは不思議そうに見返した。
「どうしたのですか?クローブ」
「その、リッズって人、どこの部屋にいるんですか?ご挨拶したい…」
「まあ…」
 カルダモンは、嬉しいような困ったような複雑な表情をした。トラブルメーカーのクローブがそのような気遣いを見せてくれたのは嬉しいが、普段が普段だけに、また何か問題を起こされでもしたらと思うと、不安も捨てきれないといった心情だ。
「クローブったら…。いい子ですね。リッズさんは、下の階の一番右端の客室に泊まってらっしゃいますが、くれぐれも無礼のないようにするのですよ?今日はもう就寝ですから、明日の朝食の時にでもご挨拶なさい」
「はーい」
 一旦素直に返事をしたクローブだが、勿論そんな言葉に従うような彼ではない。生徒が各々自室に入り、カルダモンが背を向けて去る頃には、しっかりと頭の中で客室まで忍び行く計画を練っていた。



 キイ…
 ゆっくりと自室のドアを開けると、クローブは廊下に誰も居ないのを確認して外に出た。
 時刻はそろそろ日付も変わろうというところ。
 本当はすぐにでもリッズという男に会いに行きたかったのだが、仮に教師の誰かに見つかって、自室に連れ戻されるならともかく、反省室送りにでもなろうものなら、しばらく身動きが取れなくなってしまう。そんな事態は避けたかった。
 そういうわけで、自室で息をひそめて寝たふりをしながら、学校中が寝静まるのを待っていたのだ。

クローブは出来るだけ足音を立てないようにしながら、小走りでカルダモンから聞いた場所まで急いだ。下の階、一番右端の客室。
 灯りを全て消してしまった夜の廊下は暗い。窓から差し込んでくる淡い月の光だけが、ぼんやりと壁や床を照らしだしている。それとて非常に弱いもので、ふと気を許すと曲がり角に気づかず、ともすれば頭でもぶつけてしまいそうだ。
 明かりがないとローリエの姿は見えにくくなるらしく、部屋の消灯と同時に掻き消えてしまった。しかし気配は伝わってくる。今も、声や物音は一切ないが、クローブの後ろにぴったりとついてくるのが分かる。
 階段を下り、手探り・壁伝いでゆっくりと目当ての部屋までたどり着くと、クローブは扉の前に静かに立った。
 この部屋の中に、例のリッズという男が居るのだ。…もう寝ているだろうか?それとも…もしかして自分の気配に既に気づいて、部屋に侵入者が訪れるのを今か今かと待っているのだろうか。扉に耳をつけてうかがおうとしても、中の様子は杳として知れない。
 クローブはしっかりとドアノブをにぎり、極力音がしないようにゆっくりと回した。カチャリとかすかな音がして、わずかに開いた隙間から部屋の中の空気がじっとりと流れ出してクローブの首周りに巻きつく。
 まず、そうっと部屋の中を覗いてみるが、動く人影は見えない。やはりもう寝ているのだろうか?クローブとしてはその男を、この建物から出て行くよう説得しなくてはならないのだから、起きていてくれるほうがありがたいのだが。それとも、寝込みを襲って問答無用で叩き出す方が有効な手段だろうか。いやそれでは戻ってきた男が、学校側に怒鳴り込みそうだ。
 一番いいのは怖い目に会わせるなどして、もう二度とここに来たくないと思わせることだろうが、果たして。幽霊騒ぎを起こそうにも仕度がないし、ローリエだって自分にしか見えないのだ。
 そんなことを延々考えながら、クローブは少しだけ部屋の中に顔を突っ込んだ。見た感じ、目のとどく範囲にリッズという男は居ないらしい。
ベッドについているか、もしかして外出しているのだろうか?
 もし寝ているのだとしたら、大きな音を出して起こすわけにはいかない。他の人間に悟られてはまずいのだ。側まで行って揺り起こすしかないだろう。
 やはりここは頼み込みか…。クローブはふうっとため息をつくと、部屋の中に忍び込んだ。
 室内は窓があるものの月とは正反対の方向で、明かりも一切点けておらず、暗い廊下を歩いてきたクローブだからこそ少しは目が慣れているものの、それでもせいぜい物の輪郭が分かる程度で、もし物陰から急に襲われでもしたらひとたまりもないだろう。
 そう考えると、急に心臓が爆発したかのように鼓動を打ち始める。
 クローブには、リッズがどんな男かも分からない。
 あの悪魔が特徴をなにやら言っていたような気がするが、既に覚えていない。言いつけられたこの仕事が危険なものではないという保証はどこにもないのだ。
(あああっ!ローリエについで俺の方まで完全な幽霊になっちゃったらどうしようっ!)
 緊張のあまり泣き出したいのをこらえ、クローブはベッド脇に立った。…しかし。
 暗い中で目を凝らしてよく見ると、ベッドの中は空の様だった。
 しかし…
 それでは一体、客人はどこに消えたのだろう?


「はいそこまで」
 唐突に声をかけられ、クローブは硬直した。心臓が早鐘のように胸を撞く。見つかった…?教師?反省室に入れられたらどうしよう?
「どちら様ですか?」
 しかしクローブには聞き覚えのないその声の主は、部屋の中心まで歩いて来ると、ぱっとランプに火を点けた。急に部屋の中があかあかと照らしだされる。
「誰ですか?ここの生徒ですか?」
 ランプの明かりでくっきりと暗闇から現れたその顔は、クローブの知ったものではなく、やはりくだんの客人だろうと思われた。長い、蜂蜜のような色の髪を肩口から流し、瞳の小さいその目はなぜか異国を思わせる。口元には人なつっこいとも取れる笑みが張り付いていた。
『リッズだ…!この男だよ!』
ずっと沈黙を守っていたローリエが、クローブの背後で激しい口調で囁いた。
「それにしても変わった組み合わせですね」
 男は失笑すると、
「この学校は幽霊の生徒さんまでいらっしゃるんですか?いやあ、個性的だなあ」
 と、言った。視線は、明らかにクローブを通り越している。
(ローリエが見える!?)
 クローブは一瞬目を見張ると、それからあわててローリエの方を振り返った。リッズに出会えたことで、目的は半ば達成したと見なされ、エルディークがローリエの身体を返してくれたのでは?と期待したのだ。しかし、そこにはやはり、宙に浮かぶ半透明のローリエの姿しかなかった。
「あ、あの、あなた、リッズさんですか?」
「そうです」
 クローブの問いに、男はにっこりと笑って答えた。
「ローリエが…見えるんですか?」
「ええ、見えますよ」
 軽い口調だが、しっかりとローリエを見据えたその視線が、嘘ではないことを物語っている。
「で?あなた方は誰ですか?ここに何しに来たんですか?」
「え、…と…」
 クローブは返事を濁しながら拳をきつく握った。ああ、こんな押し問答をしている場合ではない。早くこの男を学校から追い出さねば。
「お願いします!」
 クローブは叫びながら、いきなりリッズの前に土下座した。
「はい??」
「ここから出て行ってください!でないと親友が死んでしまうんです!」
「は…あ?」
 頭を上げると、リッズは微笑んだ表情のまま、何がなんだか分からない、といった顔をしている。
「何の話ですか?」
「く、詳しいことはちょっと」
「そんなことを言われましてもねえ…」
 リッズは皮肉っぽい表情でクローブとローリエを見比べ、
「そもそも私が何者で、ここに何をしに来たか、知ってそうおっしゃるんですか?」
「う…」
 知っているわけではない。詳しいところは何も聞いていない。
 ただ、親友の身体を返してほしければ、リッズという男が来たら追い返せ、と言い付かっただけなのだ。
『クローブ、クローブ!』
 ローリエがクローブの耳元で囁いた。
『あの悪魔の名前を!』
「え?」
『エルディークの名に置いて命令しろと、あの悪魔が言ったろう!』
「あ…!」
 クローブはリッズを睨みつけると、人さし指を突きつけた。
「エ、エルディークの名に置いて命令する!ここから立ち去れ!」
 すると、リッズは途端キョトンとした顔になり、次の瞬間、急に吹き出した。
「…!…アッハッハッハッハッ!…なるほどね!闇王様も意地の悪いお方だ!こんな子供を利用するなんてかわいそうに…!」
 大声で笑い出してしまったリッズに、クローブは何も言い返せずに硬直してしまった。
「あの…っエルディークの名に置いて!」
「はいはい、それは分かりましたよ、小さな召使さん。しかし、私にも私の都合というものがありましてねえ。正直言って、闇王様より自分の主人のほうが怖いもので。このまま帰るわけには行かないのですよ、お手数ですが闇王様にそうお伝え願えますか?」
「そっそんな」
 クローブは泣きたい気分になった。それではローリエの身体は返してもらえないのではないか?
「お願いします…お願いします…!親友の命がかかっているんですよ!」
「うーん、そうですねえ、では、私もここに用事があって来ている訳ですから、その用事が終り次第、すぐに出て行くことにしますよ、それではダメですか?」
「ほ、本当ですねッ!?」
 約束ですよっ!?と必死な形相のクローブを、リッズは微笑を浮かべて眺めた。
「微笑ましいですねえ…。親友を助けようと必死になっている貴方に嘘などつきませんよ、用事が終ったらすぐ出ると約束いたしましょう」
「よかったっ」
 すぐさま追い出すというわけには行かなかったが、それでも精一杯の譲歩だろう。クローブはとりあえず胸をなでおろした。
「では、もうそろそろお部屋に戻ったらいかがですか?先生に見つかったらまずいのではないのですか?」
「あっはいっ」
 クローブは慌てたように背筋を伸ばすと、部屋の入り口に向かった。出しなに振り向き、もう一度とばかり、
「約束ですよッ!絶対!」
「ええ。約束は守りますよ」

 しかし、クローブが部屋を出て行ったあと、リッズはしばらくの間 高笑いを続けたのだった。おかしくて仕方ないとでも言うように。


 その一日の、尋常でない緊張から解放されて、クローブは泥のように眠った。翌朝になって、彼を目覚めさせたのは、部屋の扉を叩く音だった。
「う〜ん…うるさいな…あと五分寝かせてくれよ…」
 しかし、扉のむこうの人物は容赦なかった。
「クローブ!はやく起きないと朝食抜きだよ!」
 その声を聞いたとたん、クローブは反射のように飛び起きた。
「パプリカ!?」
「まだ起きないのか? 入るよ!」
「うわ、起きたよ。着がえるから入らないでくれ!」
 クローブは焦って返事をしながら、長年の研究によって最も最短と分かった順序で身支度を整えた。20秒で完了した。
「おはよう」
 息を乱してクローブがドアを開けると、あざやかな赤毛の級友が静かに挨拶をした。
「…おはよう。どうしたんだよ、朝から」
「ローリエがいないから、私が代わりに起こしにきた」
 当然のように言うパプリカに、はっとクローブは昨日のことを思い出してふりかえった。そうだ、ローリエは。
 ローリエは、足がないままベッドの上で寝ていた。
「ローリエ…!」
「ローリエは昨日、実家に帰ったんでしょう。しっかりしなよ」
 ベッドの上のローリエが見えないパプリカは、少し眉を上げてたしなめた。なんと言っていいものか、クローブは困ってふたりの級友を交互に見やる。
「さ、早く行かないと朝食に遅れるよ。明日は聖癒祭なんだから」
 うながされながらも、クローブは最後にもう一度だけルームメイトをふりかえった。すると、布団の上で親友が手をふるのが見えた。どうやらローリエは休暇のつもりで惰眠をむさぼるつもりらしい。
(ずるい奴…)
 しかし何を言えるわけもない。クローブはおとなしくパプリカの背を追った。

 食堂にはすでに生徒たちや先生方が集まっていた。教師の端に、クローブとパプリカは金髪の青年を見とめた。
 朝日の中でにこにこと笑っている。リッズだった。
 極力視線をあわせないようにしてクローブが席につくと、食事の前に客人の紹介があった。
 「校長の知り合いの伝手でこちらに見聞を広めに来た」リッズは、「聖癒祭や日ごろの生活などを見学して帰る」のだそうだ。詳しい身分などについては、一切説明がなかった。教師の中にさえ、不可解な表情のものがいるほどだ。
「てことは、聖癒祭が終ってもしばらく滞在するんだね」
 パプリカが横で言うので、クローブは複雑な気持ちになった。それが長いのか短いのか、判じにくいところだ。
 食事の後は、明日にそなえた清掃となった。
 パプリカの誘いで、クローブは図書室の清掃係になった。ふたりで図書室に行くと、さっそくパプリカはほうきを壁に立てかけて、読書にふけりだす。
「パプリカ、明日は聖癒祭だからちゃんとしろって言ったの、自分のくせに。いきなりサボりかよ」
「勉強なんだからネルティス様も許してくれるよ。クローブもたまには本でも読んだら?」
 自慢ではないが、クローブは教科書以外の本をろくに読んだことがない。ひとりで掃除をする気にもなれず、パプリカが押し黙ってページをめくる側で、並ぶ背表紙などをなぞっていた。
「あれ…」
 ひとつの書名が目についた。黒に近い紺の布地に、銀の箔でおされた短い文字列。
『魔界について』
 クローブは書棚からその本をひきぬいていた。どこかにあの悪魔のことが載っているかもしれない。
 中にはたくさんの説話があり、その後に語や名称の解説があった。列をなす見出し語を指でたどって、クローブは「エルディーク」という名を探す。
「あった…!」
『エルディーク・黒き闇王』
 ―魔界創世から存在するという大悪魔。黒髪で常に黒衣であることから黒き闇王と呼ばれる。魔王の腹心で、魔王に次ぐ力を持つ―
 その解説の下に、どうやらこの本のページ数であるらしい数字がいくつか記されている。そちらは見ずに、クローブは首をひねった。
「たしかにあいつ、黒き闇王って言ってたよな…。でも、闇王と別に魔王がいるんだ?」
「魔王というのは魔界の王ですが、黒き闇王というのは称号ではなくて、単なる尊称なんですよ」
 何の前ぶれもなく、背後で男の声がして、クローブは身体をこわばらせた。
「おや〜びっくりさせてしまいましたか」
 確信犯だったに違いないリッズが、意地悪く笑っていた。思い返しても、ここまで彼が来る足音を聞いた覚えがない。
「リッズ…さん」
「書いてある本には、もっと詳しく書いてありますよ。黒髪に赤紫の瞳。妖精族の滅亡に関わり、スレウズ家の内乱の火種となり…。大物ですから」
 昔話に聞いたことがあるような、ないような。昨夜のリッズの口調は、彼自身が闇王を知っているようだったが、今は一般知識のような調子で話している。
「悪魔の話ですか?」
 来訪者に気がついたパプリカが、会話に加わった。この客人がどういう人間なのか探る意図もあるのだろう。
「聖癒祭を見に来たのに、悪魔にも詳しいんですね」
「各地の伝承に興味がありまして」
 パプリカが軽く切り込むと、リッズは好事家のようなことを言ってかわした。その言葉をうのみにしたかは分からないが、彼女はきらりと目を光らせた。
「妖精界が滅んだっていうのは、破壊王という悪魔のせいって伝承もありますよね」
 クローブは苦い顔を隠せなかった。どうやらパプリカは討論の体勢に入ろうとしているらしい。彼女はこの学校の紅一点であるとともに博覧強記で知られていた。都会の英才教育学校に籍を置いていたのだと、ひそかに噂されている。
「あー赤き破壊王ですね。なるほどそういう説もあるでしょうね」
 金髪の青年は、何をしに来たのか知らないが、別段嫌そうな顔もせずにパプリカと語りはじめた。ほとんどがクローブには理解できない。
 得体の知れない男の側にいるのに耐えられず、クローブはふたりの目をぬすんでこっそりと図書室を抜け出した。
 そっと扉を閉めたとき、何かが彼の手を弾いた。
「痛っ…」
 とっさに腕をひいてから、それが静電気のような衝撃だったと気づいた。扉を装飾する紋のあたりを触っていた部分だった。
 おや、と装飾を眺めながら彼は首をかしげる。それは、利用こそしないが日常的に目にする木の扉だ。しかし、こんなにはっきりと紋章が出ていただろうか?
「ネルティス様の紋章、こんなところにもあったんだ」
 ふと周りを見ると、廊下のところどころに、同じ紋が見られる。しかしその紋はどこか違和感を覚えさせた。いつもはこれほどはっきりしていなかった。あることに気づかないほどだったのだ。
 なぜだか、リッズのせいかもしれない、と思った。
 そもそも昨日の晩、リッズはクローブに声をかける前、何をしていたのだろう。明らかに彼は部屋の外からやってきた。そしてクローブは彼の部屋まで、それなりに注意を配りながら行ったのだ。どこかでクローブを待ちかまえていたとは思えない。
(学校の中を歩いてたんだ、夜中に。何やってたんだ?)
 あの男はもちろん、聖癒祭を見るためにやってきたのではない。何か他の目的を果たすために来たのだ。それを深夜にしていたのだ。
 しかし、彼がいったい何なのか、エルディークが彼を追い払おうとしているのは何故なのか、考えても分かるものでもない。クローブはいつのまにか自室の前に来ていた。

「ローリエ、いる?」
 部屋に入ると、ルームメイトはあいかわらず半透明で宙に浮かんでいた。さすがに起きている。
「ローリエ、あのリッズって人やっぱり、しばらく学校にいるらしいよ。さっきは何するでなく、うろうろしてたけど」
『ええっ!? 長くなるのかな?』
 ローリエの反応は、思いのほか激しかった。
「え、何か問題あった?」
『僕の身体って、もしかしてそれまで飲まず食わずなんじゃない?』
「あっ…」
 ふたりは思わず黙った。あの光の射さない地下で、何も口にしないで、人間の身体が持ちこたえられるものだろうか?
「あ、でもほら、きっと魔法で何とかしてるんだよ。大事な人質なんだから」
 確信のないなぐさめを口にして、クローブ自身の顔がひきつっている。ローリエは一度絶望的にうつむいてから、探るように親友を見つめた。
『…ねえ、またあの地下に行ってみない?』
「えっ…!やだよ!」
『でも、リッズが来たとか、用事が済んだら出てくとか、報告しなくちゃいけないでしょう? そのついでに、リッズが出て行くまで僕の身体を生かしておくように頼もうよ』
「そ…それもそうか」
 リッズは用事が終ったらすぐに帰ると譲歩してくれたのだ。それはあの悪魔に伝えるべきだろう。
 昨日の今日であの空間に再来することになろうとは、あまり嬉しい話ではなかったが、クローブは仕方なく心を決めた。

 二度目の訪問は、一度目よりも簡単だった。
 こっそりと例の地下倉庫に忍びこむと、クローブはまた戸棚に隠されていた扉を開いた。
 すると、それを待っていたかのように、続く全ての扉が開いていく。ぼんやりとした灯りまでが足元を照らした。その様に、ふたりはかえってしりごみした。昨日の恐怖を思い出したのだ。
「い、行こうか」
 どうしてこんなことに…と、何度めかの痛切な後悔を抱きながら、クローブは機械のように足を進めていった。
 そして、爪先が最後の段を下りたとき、深い闇が彼を迎えた。

「リッズが来た」
 まだ姿の見えないうちから、冷ややかな声でそう投げかけられ、ふたりはびくりと身をすくませた。青白い灯がゆっくりと円を描いていき、目が次第に薄闇に慣れ、そこにあの漆黒の悪魔の姿が浮かぶ。
「それなのに、なぜ追い返さなかった?」
赤紫の目は、今は斜め下方にむけられていた。
 あっさりとした、感情を思わせない口ぶり。けして激しい叱責ではないが、その代償は分かっているだろう、と言外の脅迫を、たしかにクローブは聞いた。
「あの…言われたとおりにエルディークの名において命じる…って言ったけど、リッズって人は、用事があるから出て行けないって」
「ほう」
 ようやく悪魔はクローブに視線をくれた。口元に微笑をうかべている。どこか艶然とした笑みだった。
「それで…いっぱい頼んだら、用事がすんだらすぐに帰るって、言ってくれて……」
 交渉で多少の成功はあった、と説明しようとしたのだが、それはほんの小さな、悪魔の笑い声で留められた。
 くっくと咽で笑っている。だがよくやったと褒められる気は、不思議としなかった。クローブとローリエは、背中が寒くなるのを感じながら、次の言葉を待った。
「ひとつ、教えてやろう」
 優しげにすら見える表情で、黒き闇王は呟く。
「リッズが目的を達成したら、お友達は一生元に戻れないぞ」
『えっ…!何で!?』
 ローリエが青ざめると、エルディークは少し首をかしげてみせた。
「理由はリッズに聞くといい。…もとから期待はしていなかったが、親友の命がかかっているなら、はったりのひとつで人ひとり、どうにかできないものかな?」
「そ…そんな」
 簡単に言ってくれるな、とクローブは泣きそうになった。
「親友の命が惜しければ、何をしてでも追い出せ。追い出せないなら、せいぜい奴の行動を邪魔することだ」
「邪魔…?」
 問い返しても、それにはもうエルディークは答えなかった。
『あの、僕の身体は…生きてるんですか? 死んじゃったりは…』
「私は欺瞞はしない」
『でも、何日もこんな状態だったら…』
「人間を生かすのなど難しいことではない。侮るな」
『………』
 こうまで言われては引き下がるしかない。ローリエが言葉を失ったという気配を見せたとたん、ふたりの視界が変わった。
 闇に浮かぶ灯りや冷徹な悪魔は瞬時に消え失せ、変わりにネルティスの紋章がついた扉が目の前に立っている。扉は固く閉じられていた。
「あれ…?」
『追い出された?』
 急に場所が移ったようで動揺したが、よく見ると、それは地下への階段を下りた、一番最後の扉だった。つい先程いたところから、数歩下がって、扉の外に出ただけである。
 だが自分の足で出てきたわけではない。ローリエの言うように、悪魔に追い出されたのだろう。
「帰れってこと?」
 足から力が抜けそうになったが、ひやりとした壁に片手をつき、クローブは何とか耐えた。二回目の会見は終ったのだ。
 ゆっくりと、重く足を階上へと運びながら、ふたりは考えた。いったいこれから何をすべきなのか。
 今回は具体的なことは何も言われなかった。「期待していない」というのは本心なのだろう。だが、エルディークの言うことが本当ならば、早々にリッズを追い出さないと、ローリエは元に戻れない。
「なあ俺思うんだけど…ローリエが、ずっとあのリッズの側で『出て行け〜出て行け〜』って言ったらいいんじゃないか? 食事のときも寝るときも。皆には見えないから、リッズも困ると思うよ」
『………』
 ローリエはしばらく嫌そうな顔をしていた。しかし、クローブはいたくこの案を気にいったらしい。
「そうだよ! 四六時中つきまとうっていうのは、いい考えだよな! それで、あいつがする用事っていうのを邪魔するんだ」
『えー…僕がやるの?』
「だって俺は色々、授業とか、あるしさ。皆に見えないっていうのはこういうとき便利だよ!利用しない手はないよ!」
 たしかに悪い手ではないかもしれない。というより一介の学生にできることといったら、それくらいだ。
 ひとつため息をついて、ローリエは『分かったよ』と頷いた。
『それより、その授業はどうしたのさクローブ』
「今は清掃の時間なんだ。昼食まで」
 悪魔を尋ねた緊張もなくなってきて、クローブの足は次第に快活になっていく。もう少しで地上だった。
『もうそろそろ昼ごはんなんじゃない?』
 だって時計が鳴ってない、と言おうとして、その大時計が壊れていることを、クローブは思い出した。実は気づかなかっただけで、もう昼食の時間かもしれない。
「やばっ…」
 少年は残りの階段を一段とびで駆け上がった。ろくに扉を隠さずに表へ飛び出ると、廊下を歩いている人間がひとりも見えない。これは本当にそうかもしれない、と走り出した。
 角を曲がったところで、反対側から来た誰かに正面衝突する。
「いったぁ!」
 相手のほうが体格がよかったので、クローブは床にころがってしまった。思わず悲鳴をあげると、聞きなれぬ声が頭上からふってきた。
「大丈夫か? 廊下は走るなよ」
 若い男だった。手をさしのべてくれるその姿を仰ぐと、黒髪が目に入ってぎょっとした。エルディークを思い出したからだ。
 しかし、そこに立っていたのはごく普通の青年だった。どこかで見覚えがあるので、村の人間なのだろう。
「えっと、すみません。…村の人ですか」
「ああ。時計直しに来たんだ。昨日は下見にきて、今日中にやってしまうよ」
 さしだされた手をとって立ち上がると、青年はたしかにもうひとつの手に、大きな仕事道具入れを持っていた。
「あ、そうなんだ。よかった、あの時計が壊れてると何かと不便で」
「だろうな。鐘の音も、できるだけ綺麗になるようにしてみるよ」
 どうやら大仕事になるらしい。青年は、少し苦笑しながら時計への上り階段のあるほうへと立ち去った。

 食堂に駆けこむと、やはり昼食は始まっていた。カルダモンがクローブに「後でお話があります」と説教の告知をし、席をとっておいてくれたパプリカにも軽く睨まれた。
「どこ行ってたの? 清掃サボるにしても、図書室にいなかったらまずいでしょ」
「鐘が鳴らないから、うっかりしてて…」
 言い訳をしながら、クローブは無意識にあの迷惑な金髪の男を探した。今朝は座っていたはずのところに、今はその姿はなかった。
「リッズさんは?」
「さあ。昼食はいらないって言ったんじゃない?」
 クローブは、横に漂っている親友に、こっそりと目配せした。
『分かったよ。さっそく行ってくるね』
 リッズにとりついて「出て行け」と連呼する作戦開始だ。目標を探すため、足のない身で級友たちの間をすりぬけていくが、誰もローリエに気づかない。
(やっぱり嫌だなぁ、これ…)
 だから朝食のときも部屋に残っていたのだ。一刻も早く、生身でみんなに会いたかった。

 リッズは客間にはいなかった。人気のない校舎を探して回ると、ややあって見覚えのある後ろ姿を見つけた。
 講堂のすぐ近くの、広い回廊である。遠目にはしゃがみこんで何かしているようだったが、近づいていくと立ち上がり、しきりと右手をふって何か言っていた。
「やはり封印が甘いから抵抗が激しいですね…」
 そんなふうに聞こえた。
 間近で見ると、彼がふっている手は真っ赤になっていた。火傷か、と見てとった瞬間、リッズはふりかえった。足音が聞こえたわけはないのに、背中に目があるかのようだった。
「こんにちは。エルディーク様に伝言してくれたようですね」
『えっ…なんで』
 先攻をとられてひるんだローリエがいぶかしむと、リッズは笑って赤い手をかかげてみせた。
「昨晩より闇王様はお怒りのようですから」
 よく話がのみこめない。が、とにかくローリエは作戦を開始することにした。
『昨日の今日ですけど、出てって下さい。あなたが長居すると本当に困るんです』
「そう言われましても。昨夜も言いましたが、仕事を放って帰ると、主人に怒られてしまいます」
『怒られるくらい。僕なんか身体とられたんですよ。出てって下さいよ!』
「うちのご主人様は怖いんですよー。何かあると、それはもうすごい折檻をするんです。どんなかって言うと…」
『で、出てって…』
「生爪を」
 ローリエはとっさに両耳をてのひらでふさいだ。幽体で音を遮断する効果があるのかは不明だが。
するとリッズはそれ以上口を動かそうとしない。おそるおそる、手を耳から離してみる。
「なま」
『ぎゃー!!』
 クローブはまだ食事が終らないうちから、敗北感にうちひしがれた親友を迎えることになった。大勢の手前、視線だけで理由を問うクローブに、ローリエは『痛い話は苦手なんだ…』とだけ呟いた。


 ローリエが戻ってすぐ、食事後に別室に連れて行かれたクローブは、そこでカルダモンに散々しぼられた。
「もう…どうしてどうしてあなたはそんなに落ち着きがないのですか!?昨日と言い今日と言い、あまりに遅刻が多すぎます。どういう心構えで居るのですか!課題を投げ出して一体どこに遊びに行っているんですか?」
 悪魔のところに行っていた、などとは言えるはずもない。
「あなたに欠けているのは協調性と、集中力と落ち着きです。いいですかクローブ。あなた自身が変わりたいと思わなければ、何も変わらないんですよ?そこのところをちゃんと分かっていますか?」
「はい…」
 気もそぞろでクローブは答えた。反省しようにも落ち込もうにも、自分とカルダモンの回りを、ローリエが宙に浮いてグルグルと飛び回っているのだ。説教に集中するにはいささか厳しい環境だった。
「クロ〜〜〜ブ…」
 溜息混じりに彼の担任は自分を困らせてばかりの問題児の名を呼んだ。ゆるゆると首を振りながら、じっとりとした視線で睨んでくる。
「あなたに反省の意思が見られない限り、私はお説教をやめるつもりはありませんよ」
「は…はい」
「クローブ!」
 立ち上がり、カルダモンは、
「明日は聖癒祭なんですよ!」
 ひときわ高く声を上げる。が、その仕草も、立ち上がった拍子にカルダモンの頭部がローリエを突き飛ばしたのに比べれば、インパクトも薄れるというものだった。
「??どうしました?」
 自分を見上げ、あわあわと慌てているクローブに、カルダモンは不思議そうに小首を傾げた。
「クローブ?」
「いえ…あの…すみません…ホントにすみませんでした…」
 困惑するクローブの表情を、カルダモンは反省していると取ったらしい。フッと柔らかい顔になると、また椅子に腰を下ろし、クローブに顔を近づけた。
「クローブ、ローリエが心配なのは分かっています」
「あっはっは…い」
 確かにローリエが心配ではあるのだが。ローリエはカルダモンに頭突きではねとばされた拍子に天井にぶつかり…いや、天井をすり抜けて部屋から居なくなっていた。
「…仕方ありませんね、今日は明日の聖癒祭に免じて許して上げますよ」
「はい…」
「でも、もう一度遅刻したら、もう許しませんからね」
「はい…ッ」
 一体どう許さないというのか、生徒に甘いカルダモンのこと、大した罰則はないだろうとは思われたが、居なくなったローリエを探しに行きたくてクローブは必死で頷いた。
「では今日のお説教はこれまで。クローブ、出ていってよろしい」
「はい〜〜っ」
 立ち上がると、クローブは部屋を出た。同時にローリエがふわふわと近寄ってきた。
「ローリエ!大丈夫だった?」
『う、うん…』
「オレ、ローリエは何でもすり抜けちゃうのかと思ってた」
『ボクもそう思ってたんだけど…すり抜けようと思って通らなかったらダメみたいで…先生すごい勢いで…』
 グッタリした様子のローリエ。
『とにかく、クローブ、またリッズのところに行って説得を試みてよ!』
「え〜〜〜」
 クローブはいやそうな声を上げた。
「オレダメだよ、あっちの方が弁が立つもん」
『そういう問題じゃないだろ!親友が死ぬか生きるかの瀬戸際なんだよ!』
「うううっ」
 それを言われると辛い。
『じゃあさクローブ、リッズさんに、あと何日くらいで目的を果たし終えるか聞こうよ、それで残りの執行猶予が知れるってもんだよ』
「あ、そうか」
 要はリッズがここに来た目的を果たし終えるまでに彼を追い出せば、あの悪魔から与えられた任務は完了するのだ。
 彼の仕事の進み具合を聞いておけば、傾向と対策の練りようもあるというもの。
「分かった、探しに行ってみよう」
 昼食後の昼休みは半分ばかりカルダモンの説教でつぶれたが、まだ時間はあるはずだった。時計が鳴らないことを考えると少しばかり不安ではあったが、そんなことも言っていられず、クローブはリッズを探して駆けだした。

 しばらくのち、壁に向かってなにやら呪文を唱えているリッズを発見したクローブは、側に駆け寄って名を呼んだ。
「リッズさん」
「おや、昨日のカワイイ小悪魔さんじゃありませんか。幽霊さんもご一緒に」
「小悪魔??」
 彼の口からもれた思いもかけない呼称に、クローブは目を丸くした。
「なんで小悪魔なんですか?」
「闇王様に使役されているから小悪魔ですよ、私の見る限りではもう二割方、性質が闇に変化なさっておられる」
「!!??」
 リッズの言葉に戦慄し、クローブは思わず自分の手を見た。
「ははは、御自分で見ても外見上では何のかわりもありませんよ。えーと、クローブさんとローリエさんでしたっけ?」
 リッズは相変わらずニコニコしながら、二人を指さしつつ呼んだ。名乗った覚えはなかったが、夕べ呼び合っているのを聞いて名前を覚えたらしい。
「オ、オレ、このまま悪魔になっちゃうんですか?」
「そうですねーっ、ずっと闇王様に仕えていたらそうなってしまいますね。闇王様色に染まってしまいますよ、今現在闇王様に生かされているそちらの透き通ったお友達なんか、もう七割がトコ染まってますよ」
 笑顔でぞっとするようなことをリッズは言った。

「…も…もう治らないんですか?それ…って」
 カタカタと震えながらクローブが聞くと、
「いや別に、闇王様から離れれば戻りますよ。染まりきったところで日常生活に何の不便もないし」
 と、気の抜けるようなことをリッズは言った。
「え?そ、そうなんですか?」
 てっきり、十割闇に変化したら人外のものにでもなってしまうものと思いこんでいたクローブは、肩を落としてほーっと息をついた。
「そーですね、不便があるとしたら…」
 ふむ、と考えてから、リッズはクローブの手を取った。
「この紋章に触れなくなるくらいのことでしょうか」
 そしてその手を、壁にあった紋章の側に持ってくる。自分の手がネルティスの紋章に触れた途端、クローブはそこに電流のようなものが走るのを感じて悲鳴を上げた。
「あちーっ!」
 あわててリッズの手を振り切り、紋章から離れる。
「な、何…!?なんで?」
 今まで何度も目にしてきた、そして勿論触っても何ともなかったはずの紋章が、今は自分にとっての脅威と化していた。そういえばさっきも、図書館から出る時に同じような経験をしたと思い出す。
「ローリエさんも、半径一メートル以内には近付けないと思いますよ」
 クローブが振り向いて視線で聞くと、ローリエは頷いた。
 先ほどリッズが言った、闇の性質に染まっているというのがその原因なのだろう。
「え…じゃあ、闇の性質のものが触れないってことはあの悪魔も…。いや、もしかしてこの紋章って」
「そう、これは、あの闇王様をこの地下に閉じ込めておく目的のものなんですよ」
 にいっと笑いながら、リッズは言った。

 クローブは、あの黒い悪魔の元に行く途中の扉にもこのネルティスの紋章が描かれていたこと、また、リッズが来たあといくつかの紋章がハッキリとその姿を誇示したものに塗り替えられていたことを思い出した。
 先ほどリッズが紋章に向かってなにやら呪文を唱えていたことも。
 頭の中で、全てのことが一本に繋がったような気がした。
「じゃあ…リッズさんがここに来た目的って」
「ええ。闇王様がここから逃れるのを防止することですよ。封じ込めの紋章を強力に書き換えて」
 全ての紋章をくっきりとさせれば、確実にあと100年はエルディークを閉じ込めておける…と、リッズは言った。
 エルディークが、リッズが目的を果たしてしまえば意味がないと言ったのも理解出来た。要するに彼はクローブとローリエに、自分がここから解放されるための、手助けをさせようとしたのだ。

「…じゃあ…リッズさんって…」
「え?」
 自分を見上げながら震えた声を出すクローブに、リッズは首を傾げて聞き返した。
「リッズさんって、いい人なんですね!」
「は?」
「ここに、解放されかかっている悪魔を、再度封じ込めに来たんでしょう?悪魔払いの人か何かなんですか?」
「…悪魔払い?」
 リッズの顔が奇妙な形に歪んだ。どこか、おかしいのを我慢している様にも見えた。
「リッズさん…オレ、協力したいけど…オレ…」
 ローリエのことを思い、クローブは顔を伏せた。
 今の自分は、悪魔に親友を人質に取られていて、正義であるリッズの邪魔をするしかないのだ。なんということなのだろう。
「オレ…ッくそっ悔しい!神官学校生なのに!」
 その時、
『クローブ』
 静かに、しかし迷いのない響きで親友が彼の名を呼んだ。
「え?ローリエ…?」
『いいんだ…ボク…覚悟を決めたよ』
「ローリエ!?」
 ローリエは、すでにあきらめの境地に入ったような、何の欲もない清々しい表情で、ハッキリと自分の思いを語った。
『ボクだって、神官学校生だ…ボク一人のためだけに悪魔を解放させるなんてそんな…そんな身勝手なこと、いや、クローブにそんなことボクのためにさせられないよ』
「ローリエ!」
 顔色をなくし、クローブは叫んだ。
「何言い出すんだよ!?」
『いいんだ、ボクは死んだって!リッズさん、早くその紋章を全て復活させてください!』
「そんな、だめだよローリエ!し、死んじゃうんだぞ!?」
『それによって悪魔が再び封じられるなら構わないよ!それがネルティスさまのご意志だ』
 クローブは諦観に達した親友の顔を見て、大きな悲しさとやるせなさ、そして無力感に胸を打たれ、涙をこぼした。
 何故、親友のはずの自分が彼にしてあげられることが、何もないのだろう…力がない自分が恨めしい。
「…あのー」
 何か言いかけたリッズの顔が、急にこわばった。恐怖の色が表情に表れ、金縛りにあったかのように動作も止まっている。

「随分面白い話をしているな」

 急に背後から聞こえた声に、凄まじい恐怖と圧迫感を感じてクローブはそっと振り返った。
 かくしてそこには、黒い悪魔の姿があった。
(何故…?紋章があるからあそこからは出られないはずだったのに…?それともリッズさんが間に合わなかった…?)
 頬を、冷たい汗が流れ落ちていくのを感じる。
「クローブさん!?あなた」
 突然リッズがクローブの二の腕を掴んだ。
「背中に何をつけているのですか!?」
「えっ?」
「これは、闇王様の紋章…!」
「そっそんなまさか」
 クローブは慌てて服を脱ぐと、生地の背中の部分を見た。そこには黒く禍々しい形の文様が、掌より一回り小さい程度の大きさで描かれていた。いや、描かれていると言うよりその形に焦げ付いて黒ずんでいた。
「そんな、いつの間に!?」
「さっき、御面会頂いた時にちょっとな」
 かすかに微笑み、闇王は満足そうにクローブを見下ろした。
「じゃ、じゃあ、もう、解放された…の…!?」
「いえ」
 リッズは首を振った。
「そちらの闇王様は、実体ではありません…意識体のみです。御本体はまだ、地下に封じ込められたままになっているはずです」
 そう言われてよく目を凝らしてみれば、わずかだが向こう側の景色が見える。しかし、それはローリエの半透明な姿とは違い、かなりしっかりとしたものだった。

「リッズよ」
 闇王は艶然とした笑みを浮かべたままリッズに向かって進み寄った。
「命が惜しかったら、格上のものには逆らわない方がよいと思うぞ?」
「闇王様」
 少しの間、笑顔を忘れていたリッズも、ようやくいつもの笑い顔に戻ると、目つきだけは恐怖に彩られたまま自分より背の高いエルディークを見上げた。
「わたくしにも主人に従う義務などございまして」
「ほう」
 ほんの短いセリフにも、圧倒的な威圧感が含まれている。意識体だけだというのに、その存在感はその場にいるもの全てを恐怖で震わせる力を持っていた。
「じゃあ、私よりもお前の主人に従うというのか?リッズよ。お前の主人の言葉は、私より力を持っていると、そう言うのか?」
 返答次第によっては分かっているだろうなと、刃物を喉に突きつけるかのような恐ろしさを含んだ目つきが、リッズの臓腑をえぐるかのように彼を探る。
「闇王様…そう言うわけでは」
 口元の笑みをわずかずつ失いながら、かすかなふるえを持った声でリッズは答える。
「しかし、私にとっては主人の命は絶対なのです…私の存在理由なのです」
「魔界では力が全てだリッズよ」
 それがルールだ、と闇王の目が言外に語る。
「私の住まう館内に、魔界のルールは通用しないのです」
「ここはお前の居城ではないぞ」
「私の生まれた場所で生まれた契約です、私が生きている限りその緊縛はこの身と心臓につきまといます」
「…では」
 闇王の片方しか見えていない目が、スッと細められた。逆に燃ゆるような赤紫の瞳が、ぼうっと色を増して光る。
「お前は使命を諦めてここを去る気はないと言うのだな?」
「…はい」

 途端、リッズ、クローブ、ローリエの三人は、鳥肌が立つような恐怖感を感じて震え上がった。
 ここにいたら殺される、と思うのに、身体が指一本動かない。
 逃げなきゃ、逃げなきゃ、と、そればかりを考えて、気がついたら身体中から力の抜けたクローブは、その場に尻を落としていた。手足の震えが止まらない。
「…リッズよ…」
 闇王は笑ったが、その場にいる全員が分かっていた。その微笑みと裏腹に、黒き悪魔のはらわたは怒りに満ちているのだろうということが。
「そんなに融通が利かないようでは、いつか命を落とすぞ…?」
「そんなに軽く融通を通すようになってしまっては、私の命がある意味すらありませんから」
「…ふふ…」
 闇王は含み笑いを漏らし、リッズに背を向けた。そして、すうっと消えた。

「…………………」
 残された三人は、身のうちに残された恐怖に冒されたまま、しばらくの間ガタガタと震えていた。
 やがて、急にクローブは立ち上がると、自分の部屋に向かって駆けだした。
「クローブさん?」
 リッズの声も無視して走り続ける。
『待ってよクローブ!』
 ローリエも、こわばった表情のまま親友を追いかけた。
 クローブは自室に辿り着くと、手に持っていた自分の服に、ランプから油を引っかけた。引き出しの中に顔をつっこんで、マッチを取り出す。
『クローブ?』
 ローリエの声も耳に入らないかのように、クローブは金ダライに油くさくなった服をつっこんで、マッチで火をつけた。
 あっという間に炎が広がり、服に描かれたエルディークの紋章が消えていくのを、クローブは小さく震えながら見守った。

 


 憂鬱に一日は過ぎた。
 リッズが目的を果たしてしまえば、エルディークは封じられてローリエをとり戻すことはできない。しかしその目的が叶わなければ、この世に悪魔が復活してしまうのだ。
 何よりやるせないのは、どちらに与しようとも、結局クローブやローリエにできることはないという事実だった。
 途方もなく怖かった。紋章をうけた自分の服。闇王に染まっているという自分。
 悪魔ばかりではない。その闇王にはむかうリッズをも、やはり奥底では怖く感じていた。
 自分はもう生きて人間に交わることはないと諦観したのか、ローリエは口数が少ない。夕食の際にふたりで沈んだ面持ちでいると、パプリカはおろか、ヴァニラやオレガノ神官までが、見かねて声をかけてくれた。
 そうして、前の晩とは比べられないほど不安な心持で床につく。

 嫌な夢から目が覚めたとき、今日が聖癒祭であることはすぐに頭に浮かんだ。窓から陽光がしきりにこぼれ、日和としては最高である。これで、課外活動でもあるものなら、やる気もでようが、今日は一日屋内で祈り続けるのだ。
「おはようローリエ」
 ローリエは変わらず透けた姿で、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
「おはよう」
 覇気のない声で返されると、気持ちが沈んで、とてもいつものように二度寝する気にはなれない。クローブは起きだして身支度を始めることにした。
 ややあって扉をたたく音がした。昨日に引き続き、パプリカがクローブを起こしに来たのだ。
「もう起きてるよー。今行くよ」
 パプリカは、クローブのはっきりした返答が、少なからず意外だったらしい。失礼な話だが、日頃の行ないを顧みればしかたがない。
 今朝は校舎の前の校庭で、聖癒祭の開式が行われる。昨夜の連絡では、大時計が夜までに直りそうなので、この開式のときに修理済みの時計を祝おうということだった。
 生徒たちが三々五々、校庭へと集まりだす。
 正面玄関を出るところで、クローブとパプリカは校舎に入ろうとするグリッセとすれ違った。どこか焦っている様子である。
「あ、お二人とも…校長先生を見ませんでしたか?」
「え?ううん」
「校長がいないの?」
 パプリカが尋ねると、黒髪の級長は困ったようにため息をついて頷く。
「ええ、先生方も探しているのですが…私は中を探してくるので、お二人はかまわず、校庭で整列してください」
 グリッセはせわしなく背をむけて行ってしまった。クローブとパプリカは顔を見あわせ、ローリエはその頭上で小首をかしげたが、とにかく言われたとおりに並んでいることにした。
 校庭には生徒たちと教師、それに教師にまじったリッズの姿があった。教師たちが少々落ちつかなく見えるのは、ターメリック校長が現れないからだろう。
 オレガノ神官もいなかった。どうやら校長を探しに行っているのだろうとは容易に想像できた。
 生徒たちは、ほとんどの者が校長の不在には気づかないようで、今日一日の過ごし方などを、列の前後で語らってる。100キロを超える巨漢は、いないと思うと場が空いているように感じるが、そう意識しなければ、気になるものでもないようだ。
「校長先生、どうしたんだろうねえ…」
「さあ。今日の断食にそなえて、どこかに食べ物を隠しに行ったのかも」
 パプリカの冗談はすこし辛口だ、とクローブは苦笑した。
 大時計を見上げると、全体に大きな幕がかけられている。そこから何本かのロープが下がって、周囲の木に結ばれていた。なるほど、このロープを切って覆い幕を落とし、公開する趣向らしい。
 そろそろ開式が始まる頃に、オレガノは教師群に戻ってきた。周りの教師たちに首をふりながら何か言っているのだから、校長は結局見つからなかったか、出てこられないのだろう。
 いつのまにかグリッセも戻ってきていた。ヴァニラの横に並んで、少し疲れた顔をしている。
 式がはじめられた。
 校長がいないことについては、まずは何も触れられなかった。オレガノが開式のあいさつをして、簡単な祈りの言葉を唱和する。
「…では、ここで、職人のカーオン・テルメオツさんが修理してくれた大時計を、おひろめしましょう」
 オレガノが笑顔で言ったのを合図に、ロープが全て切られた。かかっていた幕が下に落ちていく。
 しかし、そこにあったのは、見慣れた時計盤ではなかった。

「何……」
 その場の誰もが、笑顔を凍りつかせて絶句した。
 いつでも白く陽をうけていた文字盤は、何か別のもので隠されていた。
 赤いもの、いや、赤黒く汚れた僧衣。力なく垂れた四肢。人型をしているが、けして生命が感じられないもの。
 変わり果てた姿の校長その人が、文字盤の前にぶら下がっていた。

 呆けた人々の上に、澄んだ鐘の音がふった。
八時を示す朝礼の鐘は、たしかにこの惨劇の只中でなければ、時計職人が約束したように心地よく耳に響いただろう。
 鐘の音は時計ばかりでなく、凍りついたその場の時間を動かした。低い悲鳴がいくつか上がる。
 茫然自失していた者たちが、今度は軽い恐慌状態におちいっていた。
「校長先生が…!」
「死んでる…?死んで、どうしてあんな…」
 ローリエは我にかえると、何故だか分からないがとっさに、教師の中にまぎれたリッズに視線をやった。
 彼を視界にとらえるまでに、色々な人間の顔が、ローリエの目に飛びこんでくる。
 パプリカはあたかも無表情のようだったが、その目に浮かぶのは確かに驚怖。
 グリッセは青ざめ、まばたきを忘れて死体を凝視していた。
 ヴァニラは恐怖に全身を震わせ、今にも地面に崩れ落ちそうだ。
 教師群では、カルダモンがとうに失神して倒れていた。
 カルダモンをかろうじて支えるオレガノも、ひきつった口元で何度も天使の名を呟いている。
 しかしリッズは、その中にあって異様なほど平然としていた。
 わずかに上げられた片眉が、驚きを表しているだけだった。誰もの目が死体に釘づけになっているのにもかかわらず、彼はあっさりと時計から注意をはずし、周りの人間を眺めていた。
 まるで死体が現れた反応をうかがうように。
 ぞっとして、ローリエはクローブに身をよせた。
「ロー…」
 クローブが色を失った唇を震わせて、親友の存在をたしかめようとする。
 ヴァニラのか細いうめきが、二人の耳に届いた。
「いったい誰が…こんな…」
 その言葉の後に続くものが、クローブとローリエには手にとるように分かった。
 いったい誰がこんな、悪魔的な所業を。

続く