プロローグ


 強い風が彼の頬を打った。
 体の中に残る衝撃の余韻と、口の中にかすかににじむ血の味が、彼の敗北を示していた。
 急に風がやみ、パサリと長めの前髪が彼の顔に影を落とす。彼は一つ息をついて、自分の首にまとわりつく長い黒髪を背中に追いやった。
 マントも黒。黒ずくめの男だった。
「…私の負け、ということだな」
 彼のセリフに、勝者となった目の前の人物は、唇に薄い笑みを浮かべながら呪文を唱え始める。敗者をさらに封印の中にと縛り付ける呪文。
「もって100年、だぞ」
 今は負けたとしても、その呪文が自分の動きを止めていられるのはせいぜい百年。
その後のことは無論念頭に置いているのだろうな、と、黒髪の男は敗者に似つかわしくない、余裕に浸った表情で笑った。
「百年あれば私にも、あなたを凌ぐいい知恵が浮かびます。それ程の間、あなたを屈辱の檻の中に封じ込めていられるとは、考えただけでも笑いが止まらない」
 そのセリフがこの戦いの中で発せられた最後のものになった。
 呪文が完成し、目に見えない強大な力が黒ずくめの男を覆った。
 そうして、男の意識は闇の中に、彼の眷属である闇の中へと落ちていったのだった。



 その建物は、「聖ネルティス神官学校」と言った。
 全寮制の学校で、生徒の数は少なく約200人。これでも長年に渡る布教活動で生徒の数は増えた方だ。
 この大陸には11もの国があり、ここはその一つ、「信仰国」とも呼ばれるエイルランスの人里離れた山の中だった。このエイルランスにはいくつもの神殿や神官学校があり、そのそれぞれが神や精霊をまつっていた。
 この話の舞台となるこの学校で、主と崇め奉っているのは、いくつかその姿が伝えられている天使たちの一人、癒しの天使ネルティスだった。
 気持ちのいい初夏の日差しに包まれ、学校は白く輝いていた。回りには日の光に濡れた緑がさわさわとかすかな風に身を任せ、学校の裏手にある湖は、さらに自己主張するかのように輝いている。

 
 ここ数日で、すっかり夏らしくなってきた空気に、生徒たちは知らず浮き足だっていた。
 山中にあり、湖のほとりに建つ学校のことで、季節感がはっきりしているのは当然だが、中でも冬の寒々とした冷気は、木陰のおかげでいっそうこたえる。そのため余計に、夏になると心が湧きたつのだ。
 前庭の一角にあるスペースは、生徒たちの人気の場所だった。日当たりのよいベンチがいくつか並んでいる。座ると、学校のシンボルである大時計が、実によいアングルで仰げるのだ。
 そのベンチのひとつに、今はふたりの少年が座っていた。
 陽の光をぜいたくに浴びながら、何かの話題で盛りあがっているらしい。時折にぎやかな笑い声をあげ、あるいは声を落として内緒話をする。
 ひとりは、肩にかかりそうなほどの金髪、青い理知的な目をした、14、5歳の少年。
 もうひとりは、短めの茶色の髪に、深い茶の瞳。年は隣の少年と同じほどだが、その友人とは対照的に、こちらは活発的な性格を全身で表していた。太陽に負けじとするように、朗らかに笑っていた。 「でもなー。どうしてあんな夢ばかり見るんだろ
うな」
 茶色の髪の少年は、腕を組んで、大きく首をかしげた。
 「クローブ、だから、その夢ってどんな夢なの?」
 金髪の少年が焦れたようにうながす。クローブと呼ばれた少年は、そこでようやく、親友に夢の内容を話していなかったことに気がついた。
「あ、言ってなかったっけ」
「聞いてないよ」
「ごめん。ローリエだったら何か分かるかな。最近、毎晩同じ夢を見てる気がするんだけど…」
 どんな、とローリエは無言で尋ねる。
「夢の中で俺は、暗いところにいるんだ。手に灯りを持っているから、周りは一応見えるけれど、はっきりはしない。目の前に、小さな扉があるんだ…大きさは、俺の胸くらいかな。大人だったら、そうとう身をかがめないと入れないような、正方形の
扉。俺はその扉を開けて、中に入っていくんだ」
「ふぅん…?」
 クローブは、扉の大きさや、それを開く様子を身ぶり手ぶりで見せながら、熱心に夢の描写をしていく。
 知力よりも体力を頼りにする、神官志望の生徒にはめずらしい友人が、快活に語って聞かせるのを、ローリエは頷きながらじっと見ていた。
「開けると、目の前には下りの階段が続いてるんだ。地下に下りるんだな、と俺は何でだか分かるんだな。それで、下りていく。入り口は小さかったけど、中に入るとそれほどでもないんだ。階段はずっと続いていて、時々また扉がある。それを俺は開けながら進んでいって…」
 そこで、クローブは何もない空間を見つめ、少し黙った。
「クローブ?」
 心配そうにローリエが声をかけると、何でもないというように、少年はまた語りだした。
「最後に、真っ黒な扉が現れるんだ。俺は、それが最後の扉だって分かるんだ、夢の中で。それで、開けようと思うんだけど…」
「分かった。そこで、目が覚めるんだ」
 ローリエが笑って言うと、クローブはふぅっと肩から崩れていった。
「そうなんだよ。どうしても、扉を開けるとこまで夢が続かないんだ」
「へぇ。面白い夢だね、毎晩見るなんて。予知夢かもね?」
 ローリエが面白がって言うのに、クローブは目を見開いた。
「予知夢? 先のことを夢に見ること? そんな夢、本当に見る人いるのかなぁ」
 さあね、とローリエは首をかしげる。
 すると、クローブはなぜか、ふっと楽しそうな笑いを顔にうかべた。
「そうだ、俺、もしかしたら天使ネルティスの宝が、そこにあるんじゃないかとか、考えたんだー」
「はぁ?ネルティス様の宝? 何それ」
 突拍子もないことを言われて、金髪の少年はぽかんと口を開けた。反してクローブはますます勢いがよくなり、ぴょんとベンチから立ち上がると、不ぞろいな石畳の上を、行ったり来たりしながら自分の推論を述べる。
「だってほらー、ネルティス様の伝説って色々残ってるじゃないか!その昔、ここで流行り病をなくしてくれたとかさ」
「『かくて黒き病、とこしえに失われけり。尊き御天使のお心がゆえなり』ね」
「涸れていた湖を呼び戻したとか!」
「『清き水、こんこんと湧きけり。かくて湖、尽きぬことなき潤いに満ちぬ。尊き御天使のお心がゆえなり』」
「天界の宝を、ここの人間に預けたりさ」
「それ、経典にないよ。ふもとの町の人が勝手に伝えてる話でしょう?」
「極悪の悪魔を倒したりさ」
「それも眉唾だよ。先生方、そんな話したことないじゃない」
 クローブがこんなことを言い出すのは、ひとつには彼が学校で経典の勉強をきちんとしていないということがあるが、もうひとつには、つい胸が躍るような物語を求めてしまう、少年らしい思いのためらしかった。
 優等生のローリエは冷静に切りかえすが、どうやらクローブの情熱はそれで消沈するものではないらしい。
「いや、宝はあると思うな!きっとこの建物は、それを守るために建てられたんだよ!それで、宝は地下にあるんだ。俺があの階段を下りていくと、最後に宝があるんじゃないかと思うんだ」
「でも、地下に下りる夢を見ただけで、何でそんな話になるの?」
 ローリエに訊かれて、クローブは「どうして分からないかな?」という表情になる。
「だから、扉の紋章だって」
 ローリエは軽くため息をついて、空を仰いだ。紋章の話など、先の夢の解説には出てこなかった。この分だと、クローブはずいぶん夢の内容を省略しているんじゃないかな、と危ぶんだのだ。
 しかし、それどころではなかった。ローリエはそのまま体をこわばらせ、息をのんだ。
「どうした?」
 親友の突然の驚きに、クローブが怪訝そうにする。
「クローブ…!休み時間、終ってるよ!」
「ええっ!?」
 クローブも、それまで背にしていた大時計をふり返った。大時計は非情にも、授業開始を10分も過ぎた時刻を指していた。
 ふたりは慌てて校舎に駆け出した。
「何で!? 始業の鐘なってないじゃないか!」
「あの時計、やっぱり壊れてるんだよ、もう骨董品なんだから…!」
 裏切り者の大時計を毒づきながら、ふたりは説教をくらうべく、力のかぎり教室に急いだ。
  「すぐに、年に一度の祝祭だと言うのに…。この時期は、一年のうちでも特に気をひきしめて、厳粛な気持ちで日々を過ごさなくてはならないのですよ。ネルティス様のご加護を感謝して…」
 遅刻したふたりは、教師のカルダモンに手ひどく叱られたが、そのときに大時計の鐘が鳴らなかったことを進言したため、罰は掃除だけですんだ。僥倖と言っていいのか悩むところだ。  放課後になると、カルダモンは清掃用具と地下倉庫の鍵をふたりに渡し、「終ったら、鍵を返しに来てくださいね」と微笑んだ。
 容赦のないその笑みにため息をついて、地下倉庫にむかう。すれちがう同級生たちが、「あれ、どこに行くの?」「ほら、昼の授業に遅れたからさ」と言いあうのが、なお恥ずかしい。
「あ〜あ。頑張って早く終らせよう」
「そうだね」
 普段出入りすることの少ない地下倉庫は、建物の奥まったところにある。滅多に歩かない区域を行き、日当たりの悪い階段を下り、重そうな緑の扉の前に来たときには、外の明るさが嘘のような薄暗さになっていた。
 クローブが、手早く鍵を開ける。
「待ってね、今、灯りを」
 点けるから、とローリエは言いたかったのだが、その前にクローブは扉を越えて入ってしまっていた。
 止めようとしたが、遅かった。すぐに、クローブが転んで何かにぶつかったらしい、派手な音が地下室に響いた。
「うわあ…」
 困った顔をして、ローリエがランプを灯して下を覗きこむと、入り口を入ってすぐにある、数段の階段をやや離れた床に、ほこりにまみれたクローブが転がっていた。
「いたたたた…くそー、なんでここ、こんなに汚いんだ!?」
 安心したことに、大事無かったらしい。茶色の髪を灰色に近くしてしまった少年は、憤慨して言った。
「こうなったら、気合入れて掃除してやる!」
 汚れたことで、かえってやる気を出してしまったようだ。ローリエはこっそり落胆した。それほど力を入れて掃除する気は毛頭なかったからだ。しかし、クローブはやると言ったらやる。
「とりあえず、あれ!俺がぶつかった戸棚をやっつけてやる!」
「何をどうやっつけるの」
 床の表面が出ているところのほこりを、とりあえず掃いて集めながら、ローリエは呆れたように尋ねた。
「この棚の裏とか上とか中とかに溜まってるほこりを、やっつけるんだよ!ローリエ、棚動かすの手伝ってくれよ…っ」
 力んだその声に、ローリエはぎょっとして友人のほうを見た。案の定、クローブはすでに、ひとりで棚の片方を押して動かそうとしていた。
「危ないよ、クローブ!」
 忠告は今回も遅かった。片側から力を加えられた棚は、バランスを失って倒れてしまった。
 ふたりの少年の頭上にまで、ほこりが舞い上がった。
「クローブ…! 大丈夫?」
 咳きこみながらふたりは一度扉の外まで脱出して、もうもうとほこりがたちこめる倉庫内をふりかえる。
「俺は大丈夫。それより、あの戸棚がまずいかも」
「そんなの当たり前だよ」
「なんか、倒れる直前の感触だけど、あの棚って下を固定されてたんじゃないかな」
「はぁ?」
 ほこりが一通り落ち着いてから中に入って倒れた棚を見てみると、クローブの言うとおりに、棚は金具で床に固定されていた跡があった。しかし長い間忘れ去られ、手入れもされていなかったらしいその金具は疲労し、ゆるんで役にたたなくなっていた。クローブが力を加えた程度で壊れてしまうのが何よりの証拠だ。
「う〜ん、これは…先生呼んできたほうがいいよね」
 重そうな棚を眺めつつ、ローリエは提案したが、クローブからの反応がない。
「クローブ?」
 クローブは、信じられないというような顔で、壁を凝視していた。彼が倒した戸棚が、それまで背にしていて、隠れていた壁だ。
「…まさか」
 ローリエもそこに視線をやって、息をのむ。
 そこには、小さな両開きの扉があった。中央に、この学校のシンボル、つまり天使ネルティスを示す紋章が入れられていた。


「この階段、どこまで続いているのかな…」
 クローブとともに一つ一つ段を下りながら、ローリエは呟いた。小さな呟きが、細長い空間の中でこだまを伴ってぼやけた響きを作り出す。
「さあ…でも、分かるのは…ここまではまるっきり、昼間話した夢と同じってことだ…」
 すでに二人はいくつかの扉を通り抜けていた。その度にクローブは自らの見た夢のことを、ローリエはクローブから聞いた話のことを、思い出した。果たしてこの向こうに何かがあるのか、それとも階段が続いているだけなのか…これまでのところ、扉の向こうはクローブの夢のとおり、階段がただ延々と続いているだけだった。一体何階分の階段を下っただろうか。
 クローブの夢のとおりであれば、この薄暗い階段の行き着く最後の場所は、黒い扉の前であるはずだった。そして、その先の情報は、夢のような不確かなものでさえも全く持っていないのだ。
 ローリエはそろそろ好奇心に不安が勝ってきていた。このまま進むのが果たして自分と親友にとって良いことなのだろうか?この階段の先には、なにか恐ろしいものが待っているのではないだろうか…。
「ねえ…クローブ」
 やっぱり引き返して先生に言おうよと、ローリエが口に出しかけた時、先頭に立っていたクローブがピタリと歩を止めた。急なことに衝突しかけたローリエが抗議の声を上げようとすると、クローブはすっと手を上げそれを制した。
「…何…?」
 クローブに促され、自分たちの前に立ちはだかっているものを見て、ローリエは絶句した。それは、昼間に聞かされた、また、ここに来るまでの間、ずっと目前にするのを予感していた物…暗闇に浮かび上がる、闇よりも黒い扉だった。
 その扉は、ずいぶんと大きなものだった。2メートルはあるだろうか。ふと思い返すと、ここに来るまでの間、いくつかの扉を通ってきたが、それらの大きさは少しずつ違っていた。一番初めの胸までの高さの、正方形の小さな扉…次にあったのは、かがまずともギリギリ通れる、いくらか大きい、わずかに長方形の扉。その次はまた少し大きな扉。
 それを繰り返し、次第に大きくなっていく扉の最奥に現れたのは、正方形を縦に二つ並べた形の、外見はとても重そうな扉だった。一体材質は何で出来ているのだろうか。
 ふとローリエは、その扉に妙なまがまがしさを感じ、背筋をヒヤリとした物が通り抜けた。
---封じ込めている---
 ふと、そんなイメージがローリエの脳に飛来した。今までは、扉がだんだん大きくなっているように感じていたが、この場に立ってみると扉は遠ざかるに連れて小さくなっているようにも見られる。ここまで来る途中にあった扉は、何かの強大な力を無理なく押さえ込んでいるような、そんなようにも取れた。
「クローブ、やばいよ」
 ローリエは、前に立つ親友の耳に囁いた。
「ここ、なんかやばいよ…帰ろうよ」
 こうして立っている今この瞬間にも、闇色の扉からヒシヒシと恐怖にも似た圧迫感が感じられる。この感覚を持っているのが、自分だけであるはずがない。
「これ…開くかな」
 クローブは、信じられないようなことを言った。
「はあ!?」
 ローリエは耳を疑って声を張り上げた。何を言っているのだろう、この友人は。
「何、バカなこと言っているのさ!?冗談じゃないよ、この向こうに宝があるなんて、本気で信じているの!?この先にあるのは、何か恐ろしいものだよ。それがわからないの!?」
「何でそんなこと分かるんだよ?」
 クローブは眉間にしわを寄せ、ヒタリと扉に掌を充てた。
「見ろよこれ」
「?」
 ローリエはクローブが手を当てたあたりに目を凝らした。
 そこにあったのは癒しの天使……ネルティスの紋章だった。

「ほら、夢で見たとおりだ。この扉は、ネルティス様の管轄だよ。恐ろしいもののはずがないだろ」
「扉は…ね」
 勝ち誇ったようなクローブの言葉に、しかしローリエの不安は解消されることはなかった。
闇色の扉に、見慣れた天使の紋章を見つけてさえ、そのまがまがしさはぬぐえない。
扉はネルティスの管轄かもしれない。だが、その奥は?
「もし…あの伝説が本当だったら、どうするのさ」
「宝?」
「違う。悪魔だよ。この奥に、悪魔がいたら、どうするの」
 口に出すと、その恐怖は真実味を帯びて、ローリエを襲ってきた。この扉のむこうに、何かが息づいているのでは…。
 そんな友人の心中に気づかず、クローブは何でもなさそうに扉に手をかけた。
「まさか。今時、本当に悪魔なんているはずがないだろ」
「それは…そうだけど」
 馬鹿にしたようなクローブの声に、ローリエは平素の感覚を少しとり戻して、恥ずかしいような気分になった。悪魔などいるはずがない。
 クローブは今にも扉を開けようとしていた。
 こうなると、彼の意志は強い。止めようがない、と観念したローリエは、最後の譲歩を申し出た。
「待って。じゃあ、僕が安全を確認するから。もし扉が開いても、クローブはそれまで入らないで。いい?」
 浮かれているクローブのことだから、何があるかも分からないところへ駆け込むかもしれない。先刻、地下倉庫に飛び込んだように。それはさすがに防ぎたい。
「…分かったよ。じゃあ、一緒に開こう。ローリエがまず中を見てくれ」
 クローブはその条件をのんだ。
扉には取っ手がない。ふたりはそれぞれ扉の片方に手をかけ、目で合図して同時に押した。
 音もなく、扉は動いた。
 想像したよりも重くはなく、かと言って軽くもない。まるでどれだけの力をこめても、そう開くと決まっているような一定の調子で、扉は開いていった。
 ローリエは、わずかな隙間から、注意深く奥をうかがった。
 緊張で心臓が早鐘のようになった。しかしどんなにじっと見ても、その奥は闇しかなかった。
「待って…」
 ようやく人ひとりが入れるくらいまで開くと、ローリエは友人を止めて、あらためて手に持ったランプの灯りをかざした。倉庫にそなえつけてあったものを、拝借してここまで使わせてもらったのだ。
 光をむけられてなお、暗闇は不気味に横たわっていた。火の光など、食い尽くしてみせるとでも言わんばかりに。
「見通せないな…」
 落ち着こう、と深く息をすったとき、ローリエはふとあることに気づいた。
 臭いがしない。
 校舎の地下には、湖につながる地下水脈が通っている。ここがどれほど深いかは知らないが、地下室なのだから、その水脈の影響でもっとかび臭くなっていてもおかしくない。
 だが、ここは何の臭いもしないのだ。空気はずっとこもっていたはずなのにもかかわらず。
「………」
 隣から、クローブが無言で催促しているのが分かる。ローリエは覚悟を決めて、慎重に一歩をふみだした。
 つま先が、おそるおそる扉のむこうの床に触れた。何か軽い抵抗のようなものを感じたが、それはたとえば冬の朝に水面にはる薄氷のような、もろいものだった。
「ローリエ!?」
 次の瞬間、クローブはぎょっとして親友の名を叫んだ。唐突に、ローリエの姿が消えたのだ。
(何で!? どこかに落ちた!?)
 だがそんな兆候はなかった。本当に、音もなく掻き消えたのだ。
「ローリエ!ローリエ!」
 灯りさえもなくなっている。クローブは恐ろしくなって何度もローリエの名を叫んだが、その声はいっさい反響しなかった。
 緊張のあまり、ずいぶん長いように感じたが、彼が親友の名を呼び続けたのは、ほんの数秒の間だった。実際、それは扉のむこうに入っていこうと発想することもないほど短い間だった。
 何もしていないのに、黒い扉が勢いよく全開になった。
「!?」
 クローブが身をすくませると、彼の目前の闇に、いくつもの青白い光が灯っていく。
 光は、何重もの円を描いていた。
 おそらくそれらは、天井から見れば同心の正円。
 そしてその中央に、黒い人影があった。

「………だ………」
 誰、と聞こうとするまでに、クローブはなけなしの勇気をふりしぼったが、たった二文字のその言葉すら、言い切ることはできなかった。
 闇に慣れた目に、その人物の姿が徐々にはっきりしてくる。
 青白い光に照らされなければ、闇に溶けてしまいそうな黒髪は長く、濡れているかのように艶やかだ。
 薄明かりの中に浮かぶ、死人のように白く細い顎。
 右目は髪に隠れて見えない。切れ長の左目は、この場に唯一の色彩を添えるような、赤紫。
 首から下を見失いそうなほど、服装は全身黒ずくめだ。円の中、地面に直接腰をおろし、膝元に何かを持っている。
 クローブは、その男が口元に薄い笑みをうかべたのを見た。
「…人間か」
 低く、それでいてよく通る声が、その笑んだ唇から漏らされた。
 クローブは、びくりと体を強ばらせる。
 そのとき、彼はこの黒ずくめの人物が抱えているのが、自分の親友であることに気づいた。
「ローリエ!?」
 あの金髪は間違えようがない。ローリエは、クローブの呼びかけにも反応せずに、黒ずくめの男の腕に頭をあずけたまま、ぴくりとも動かなかった。
「ローリエ!」
 クローブは思わず友人に駆け寄ろうとしたが、敷居を越えようとした瞬間、目に見えない何かが彼をはじきとばした。転びこそしなかったものの、よろけて壁に手をついた。
「ローリエに何をした!」
 恐怖はいったん横に置くことにして、クローブは黒ずくめの人物にくってかかった。
「お前は誰だ!?」
 問いかけられて、その男は、動かないローリエを横抱きにして静かに立ち上がった。そうしてみると、背の高さと長い黒色のマントが余計に目についた。
 ガシャン、とローリエの手から、ランプが落ちる。とっくに火は消えていた。
「私の名は、黒き闇王―エルディーク」

「…黒き…闇王…」
 ゴクリ、と、クローブは唾を飲んだ。聞き覚えのある名前だった。
 …教典で。もしくは、古い伝説で。
 詳しい所は知らなかったが、非常に有名な悪魔の名であることは確かだった。
 ---------現実なのか…?これは。
「あっ…じゃあ…本当だったのか」
 クローブは、先ほどの親友との会話を思い出し、思わず声に出した。
「…何がだ?」
 興味があるのか、黒ずくめの男…エルディークは、その言葉を聞きとがめ、先を促した。
「ネルティスさまが、悪魔を封じ込めたって話…お前、ネルティスさまに封じ込められた悪魔なんだろう…!」
 すると男は、何とも意地悪そうな笑みを浮かべた。
「ネルティス様ね…。その、ネルティス様が悪魔を封じ込めた話とやらを、もう少し詳しく聞きたいな…」
「だっ、誰が悪魔と話なんか…それより、ローリエを返せ!」
 いきりたってクローブが叫ぶと、エルディークは楽しそうに微笑み、横抱きに抱えていたローリエの身体を足下に下ろした。
「我ながら、こんな下品な小僧とのやりとりを楽しむなど酔狂とは思うが、何せ100年ぶりの会話だ…。相手が虫けらでもそれなりなものだ」
 クックッと肩で笑い続けるエルディーク。クローブは力任せで行くしかないと決意し、エルディークの元に走り寄ろうとした。しかし、どうしても見えない壁に遮られてしまう。
「ローリエを返せ!」
「滑稽だな」
 エルディークは口元に笑みを浮かべながら、自分の羽織っている黒いマントを操り、その裾で目を閉じたローリエの身体を、すうっと撫でた。その瞬間、ローリエの身体はかき消えた。
「ローリエ!ローリエ!?」
 背中が泡立つような恐怖を感じ、クローブは見えない壁に張り付いて声を張り上げた。
 …なんてことだ…。今、自分が対峙しているのは紛れもない本物の悪魔だ。恐怖がクローブの身体を支配し始めた。膝が笑い、足をつけて立っているはずの地面の感触がやけに遠くなっていく。
 ローリエは、この世から消えてしまったのだろうか?
 もしかすると、自分もあんな風に消されてしまうのか…?
(逃げよう)
 そう思ったのに、どうしても足が動かない。友人を取り返さねばという義務感などよりも、指の先まで、今まで感じたこともないような恐怖感が充ち満ちていた。どうかすると自分は床に座り込んでそれきり動けなくなってしまうかも…いや失神してしまうのではないかとすら予感した。
「お友達を、返してほしいか?」
 しばらくしてから、黒衣の男は口を聞いた。相変わらず口元に笑みが張り付いたままだった。
 クローブは、何を言われたのかしばらく自分の中で反芻してから、それからはじかれたように何度も頷いた。
 …取り返しがつくのなら。
「ローリエを!ローリエを返して」
 クローブは透明な壁にすがりつくようにして、エルディークに懇願した。
「…では、私の言うことを、一つ聞いてもらおう…」
 少々残酷な響きを伴ったその声は、それ自体が呪文のような存在感を持って、渦巻くようにクローブを取り巻き始めた。言葉が脳に入り込んでくる、と、クローブは感じた。
「もうすぐここにリッズという男が来る…長く淡い金髪に三白眼、いつも作り笑いをしている、とりとめのない性格の男だ…その男がこの建物を訪ねてきたら、エルディークの名において、すぐにその男を追い返せ」
「エル…ディークの…名において…?」
「そうだ…自分はエルディークのしもべだと名乗れ。エルディークの名において、その男にこの地を去るように命じろ。分かったな」
「そしたら…そうしたら、ローリエを返してくれるんだな!?」
 我に返ったように、クローブはわめいた。
「あとからそんな約束は忘れたなんて、い、言ったら許さないから…ッ…」
「…………」
 短い沈黙が訪れ、クローブは自分の言葉に彼の気分を害するような部分があったのだろうかと不安になった。ゾワッと背筋を寒気が通り過ぎる。
 しかし、そうではなくエルディークはやはり笑っているのだった。
「……何…笑って…」
「前褒美がほしいか?」
 動いた唇が、そこだけ赤い残像になって暗闇に浮かんでいるかのように、クローブの脳にビジョンが残った。…怖い…
「半分だけ、返してやろう…」
「………!!!」
 あまりの恐怖に、いても立ってもいられなくなりクローブは、立ち上がり、エルディークに背を向けた。
 殺される…ここに居たら殺される!
 クローブは目の前にあった黒い扉にぶつかるように突進すると、ノブをガチャつかせて開けた。
 さっきまで下ってきた階段が目の前にある。そこを登る。
 早く…早く早く早く!一刻も早くあの悪魔から離れるんだ!
 また扉が現れる。また開ける…階段を駆け上がると、また扉が…
 それを何度か繰り返しているうちに、小さな正方形の扉をくぐり、見覚えのある明るい場所に出た。
 ほこりっぽいその空間は、さっきまで掃除させられていた地下倉庫だった。もう、
さっきのことがまるで何年も前のことだったかのように思える。
 何も、変わっていない。階段を下りていく前と。
 ただ、ローリエだけが居なかった。

「ローリエ……!」
 ふりかえると、そうした覚えもないのに、扉は閉じられていた。
「…………」
 絶望的な気持ちで、クローブは事務的な行動に出た。倒れた戸棚を直し、掃除用具を片付けに行く。
 どうしよう…。
 同じ言葉が、くりかえし頭の中を横切る。そのためクローブは、自分の名前が何度も呼ばれていることに、しばらく気づかなかった。

「…クローブ!クローブ、聞こえないの?」
「えっ…、何?」
 肩をたたかれて、ようやく気がついたクローブの前にいたのは、赤い髪の少女、級友のパプリカだった。
「どうしたの?怖い顔して」
 不思議そうに尋ねてくる。とりつくろうとしても笑顔をつくれず、クローブはそのまま俯いて答えた。
「何でも…ちょっと、疲れただけ」
「ふぅん。罰掃除終った?ローリエ知らない?」
 ぎくりとしたが、それを面に出さないように努める。
「知らない…」
「借りてた本があるんだけど、クローブ、同室だよね?返しておいてくれる?」
「うん」
 手よ震えるな、と念じながら、クローブはパプリカから本をうけとった。これを元の持ち主に、返せる日が来るのだろうかと思うと、涙が出そうだ。
「そいえば、先生方、やっぱり時計の職人さんを呼んだみたい……って、どうしたの」
 クローブがあまりに辛そうな顔をしていたのだろう。パプリカが心配そうに覗き込む。
「何でもない」
「…何か知らないけど、元気出しなよ」
 うん、と頷いて、クローブはのろのろと部屋に戻った。
 パプリカと分かれたのに、まだ自分の名を呼ぶ声が追ってくる。
(ローリエの声だ…)
 ぞっとした。乱暴に扉をしめて、ベッドに突っ伏して布団をかぶっても、その声は聞こえてきた。
『クローブ…クローブ…』
「ローリエ…ごめん、ごめん…俺があんなこと言い出さなかったら…」
 ガタガタと震えながら謝っていると、ローリエの声がしだいに怒気を帯びていくのが分かった。
『クローブってば!泣いてないで起きてよ!いいかげん怒るよ!』
「なっ…」
 これは幻聴か何かではないのだろうか。クローブがローリエの声の調子に動揺していると、今度は少し離れたところからそれが聞こえてきた。
『いいかげんにしないと、このあいだのテストの点数読み上げるからね。クローブ・ガーリック、国語32点!法律8点!歴史12点!…』
「わーっ!ちょっと待った!」
 あまりのことに、クローブはベッドの上に跳ね起きた。
 視線が、見慣れた友人の青い瞳とかちあう。
 一瞬、さきほどのことは全て夢だったのだろうかと思った。ローリエはここにいるじゃないか。
『クローブ』
 しかし、よく見るとローリエは生身ではなかった。背後にある木目の扉や壁が透けている。声も、やけに響いて、ぼんやりしているのだ。
「ローリエ…お前、足がないじゃないか…」
『うん、びっくりしたよ』
 クローブは情けない声を出しているが、比べてローリエはあっさりしている。『あの悪魔が、半分だけ返してやるって言ったら、こんなふうになってたんだよ。はじめは怖かったけど…クローブが騒いでるの見たらかえって落ち着いちゃったよ』
「半分…ああ、言ってたな…左半分とか、上半分とかをよこされるのかと思った…」
『だったら死んでたね。まあ、今も生きてるんだか死んでるんだか分からないけどね』
「し…死んではいないだろ?元に戻れるだろ?」
『…あの悪魔が、もとに戻してくれたらね』
 ローリエが、ふっと息をついて、肩をすくめる。それを聞いて、クローブははたと思い出した。ローリエを返すために、あの悪魔が提示した条件。
「なんて、言ってたっけ、あの悪魔…リッズ…とかいう男が来たら、出て行けって言えって…」
『うん、僕にも会話は聞こえた。金髪の、いつも笑っている男だって言ってたよね。エルディークの名において、ここを去るように命じろって』
 こんな状況にあって、よくこれほど冷静でいられるな、と思いながら、クローブは親友を眺める。そんな彼の心中を知らないローリエは、眉をよせて何事か考えていた。
『ねえクローブ…怖いけどさ…僕、元に戻りたいから、…がんばってくれる?』
「あ、当たり前だろ!見捨てたりしないよ!」
 自分が怖じ気づけば、ここにいるローリエは本当に死んでしまうのだ。そんなことにしてはならない。
『ありがとう』
「そんな…俺が悪かったんだ、あんなとこに、降りなければよかったんだ…ローリエは嫌がったのに、無理に行って」
『でも僕も悪魔が本当にいるなんて思わなかったし。黒き闇王って、有名な悪魔だよね。魔界の覇権を争うくらいの…』
「そんな強い奴なのか?」
 しかし、そう言われるとかえって現実味がなくなり、クローブは客観的にものごとを見ることを思い出した。
「そうだ、後で図書室で調べる。悪魔についての本も、あるよな」
『うん、僕は物に触れないみたいだから、頼むよ』
 ああ、と頷きながら、クローブはベッドの上に、さきほどパプリカから渡された本が転がっているのに気づいた。
「この本、本棚に入れておくな」
『うん。ありがとう』
 ふたりとも、互いが大分落ち着いてきたと感じた。廊下から、級友たちの生活の音が届いてくる。今まで耳に入らなかったのだ。
 誰かが扉を叩いた。
「クローブ、ローリエ、夕食の時間ですよ」
「あ、グリッセだ…。今行くよ!」

 聞き慣れた級友の声に、本を入れようと本棚に向かっていたクローブは、はじかれたように扉に向き直った。戸を挟んだ廊下の方から聞こえてきた声は、彼らのクラスの級長、グリッセ・ニートロの声である。
 ついいつものように扉に手をかけ、開けようとしてクローブははたと凍り付いた。
恐る恐る後ろのローリエを見やる。
 …この、透き通ったローリエを、グリッセに見せてもよいものか?
「ど…どうしよう…」
 悩んでいると、またグリッセの催促の声が聞こえてきた。
「クローブ、ローリエ。また遅刻したら、カルダモン先生に叱られますよ?」
 そんなこと言われても、ローリエは身体がないのだ。食事には行けない。
 オロオロと狼狽えていると、「何しているんですか?入りますよ」という声と共に、クローブ達の部屋のドアが開けられた。こうなってはしょうがない。クローブは、隠すつもりなどない!という意思表示で胸を張り腕を組んだ。後ろには半透明のローリエがぷかぷか浮かんでいるはずである。
「…どうかしたんですか?」
 グリッセはそんなクローブを見て、首をひねった。
 彼らの級長はれっきとした男性だが、激しく女顔である。華奢な体つきと相まって、黙っていると女の子のように見える。いや、声も高く澄んでいて、へたするとハスキーな女性よりも美しい声を出す。長い黒髪を首筋でまとめ、後ろに垂らしている。
 そんな彼が今にもローリエを見て叫び出すだろうと、クローブは覚悟して、目を閉じた。
「早くしてください、クローブ。私も怒られるんですよ」
 クローブの予想に反し、グリッセは何の動揺もない様子でクローブの腕を掴み、引っ張った。
 驚き、クローブは振り返って後ろのローリエを見た。ローリエがとっさにどこかに隠れたのかと思ったのである。しかし、彼の親友は、相変わらず緊張感のない様子で、透き通って空中にぷかぷか浮いていた。
 さては、グリッセがこういう事態に慣れているのか?と思ったが、そうでもないようだった。
「ローリエは?あなたのルームメイトはどこです?」
 グリッセは部屋の中を見回して、目の前にいる生き霊の実体を探している。
「え?ローリエ…見えない…?」
「見えませんよ…あ!また、私をからかおうって言うんですね?もう…」
 グリッセは顔を巡らせるのをやめて、憤慨したように口をとがらせた。
「お二人のいたずらには、いつもいい加減うんざりなんですよ、さ、早く食事に行きましょう、ローリエを呼んできてください」
『いたずらはたいてい、クローブの単独犯だよ!』
 ローリエが抗議の声を上げたが、級長の耳には届いていないらしい。
「クローブ?」
 困り果てて宙を睨むクローブを、グリッセは不思議そうに見ている。
 どう誤魔化せばいいのだろう。まさか、本当のことは言えまい。
「じ、実は…」
「はい?」
「ローリエなんだけど…お、お父さんが急病だとか…さっき知らせが来て、大急ぎで実家に」
「え!?本当ですか!?」
 グリッセは驚いて目を見開いた。
「ローリエのお父様が!?それは大変です…いつ頃帰るなどもまだ分からないのですか?」
「う、うんちょっと…。ごめん、みんなに言うヒマなくて…何せ急で…。き、危篤だって」
『なんてこと言うのさクローブー!?』
 苦し紛れのクローブの嘘にローリエはカンカンになったが、勿論グリッセの耳には届かない。心痛めたらしい優しき級長は、胸を押さえて目を閉じた。ひそめられた眉の下の、かすかに震えるマツゲには、涙までにじんでいる。
「それは、大変でした…。…ローリエ…気を落とさなければいいのですが…。分かりました、先生方には私から言っておきましょう」
「あ、うん、助かる〜〜…」
 内心舌を出しながら、クローブはグリッセに頭を下げた。
 月並みな嘘をついてしまったが、しょうがないだろう。相当大変な事態になっているのは変わらないことなのだ。
 どうやら、透き通ったローリエの姿は、クローブにしか見えていないようだった。
 食事中のクローブに向かって、ローリエは散々嫌味や文句をたらたら流し続けたが、返事をするわけにもいかないクローブはそれを延々無視していたし、他の級友にとってもその晩餐は、一人メンバーが抜けているというだけでなんら日常とかわりはなかった。幽霊のようになってしまったローリエは、茶の髪と瞳を持つ彼の親友にしか見えていないのである。
 大食堂で、生徒と教師達、総勢215人での食事を終え、クローブは部屋に戻ることにした。とりあえず、今は考えなくてはならないことが山のようにある。
 部屋に向かう階段で、グリッセに声をかけられた。
「クローブ。よかったら私の部屋でお茶を飲んでいきませんか」
「えっ」
「ローリエのお父様のことについて、もう少し聞きたいし」
「あ、うん…」
 助けを求めるように親友を見ると、つーんとそっぽを向いている。助け船など出してくれる気はないようだ。
 断るのも変だと思い、クローブは言葉に甘えてグリッセについていった。扉に「1」と書いてあるのが、我らが級長の部屋となる。グリッセがノックをすると、中から彼のルームメイトが返事をくれた。
「ヴァニラ。食後のお茶に、一人増えてもかまいませんか?」
 部屋に入りながらルームメイトに聞くと、これまた見慣れたクローブの級友であるヴァニラが相好を崩した。
「クローブ。今日は大変だったね」
 育ちのよさそうなおっとりした声とともに、彼はクローブに視線を向けた。
 背の高いすらりとした細い体躯に、けぶるような金髪。時々浮かぶ笑みはふんわりした柔らかい印象を見る者に与える。
 このクラスメートが級長とティータイム、というのはまことにもっともなイメージで、クローブはそこに混じった自分がひどく場違いのような気がして苦笑した。
 「お砂糖はいくつ入れますか?」
 自分が砂糖のような笑みを浮かべながら、グリッセが聞いてくるのに、冗談で「20」と答えると、ヴァニラが「およしよ病気になるよ」と本気で心配してくる。そんなクローブの忍耐を試すようなお茶会が始まってから、水が湯に沸くほどの時間が経っていた。クローブは空のお城に住んでいるような人たちに挟まれ、自分のルームメートがこの二人のうちどちらかでなくて、ローリエで本当によかった…と心の中で自らの幸せを噛みしめていた。
 ローリエは、未だに不機嫌な表情を見せたままクローブの後ろに浮いている。時々グリッセやヴァニラの後ろにまわったり、部屋を散策したりするのがまったく落ち着けず、クローブはビクビクしながら半透明の親友を見守っていた。
「ところで、ローリエは…。やはり、聖癒祭には間に合わないのでしょうか」
 少し寂しそうに、グリッセが呟いた。
「ローリエ…どうかしたのかい?」
 ヴァニラが首を傾げる。
「なんでも、お父様が危篤で…それで、夕食も…」
「ああ…そうなのか、それは大変だ…」
 ヴァニラも、痛々しい…といった様子でうなだれる。
「そういえば、明後日だっけ、聖癒祭」
 クローブは宙に浮かぶローリエの方をうかがいながら、二日後に迫った行事に思いを馳せた。
 聖癒祭とは、「癒しの天使ネルティス」がこの世に初めて降臨し、人々をいやした日を記念して一年に一度行われる祭りなのだが、祭といっても節度ある宗教的な物であり、どんちゃん騒ぎとはまったくもって程遠い。毎年、ネルティスに感謝して断食し、ネルティスに感謝してお祈りし、ネルティスに感謝して歌を歌い、ネルティスに感謝して慎ましく過ごす、といった、遊び盛りの少年達にとっては地獄のような一日である。
 それでも早朝、断食の前に、普段は食べられないような豪華な朝食を屋外で食べられるので、楽しみにしている者も居た。クローブは、このあとの断食とか歌とか祈りさえなければなあ、と常々思っている口であるが、勿論、聖癒祭の朝食は毎年楽しみにしてもいる。どうせならこの食事を一番最後に持ってくれば、断食やその他の苦行(彼曰く)も耐えられるのに!などと思っているのだった。
「お父さんが…僕は父が居ないから分からないけど、辛いだろうね、ローリエ」
 ヴァニラが寂しそうに言う。
「お父様、居ないんでしたっけ」
 意外そうにグリッセがヴァニラを見た。
「うんまあ…。一応、育ててくれた人はいるけどね…」
「私も似たようなものですけど」
 グリッセは、カップを口に運びながら苦笑している。
「え?グリッセ、お父さん居たじゃん?入学式に見たよ」
 クローブが言うと、グリッセは急に冷たい表情になった。
「あんな男、父ではありません」
「えっ???」
 初めて耳にする、グリッセの氷のような冷たい声に、クローブは戸惑って口ごもった。
 グリッセはしまったと思ったのか、軽く相好を崩すと、ティーポットを持って立ち上がった。
「お湯を、もらってきますね」
 静かな足運びで部屋を出ていく。
 グリッセが部屋から消えたのを確認すると、ヴァニラが声を潜めて「やばいよ」と言った。
「グリッセ、お父さんとすごく仲悪いみたいなんだよ」
「えっ…意外……」
 クローブは知らなかった級長の一面に、思わず目をしばたたかせた。
 
 クローブ達がお茶会をしている頃。
 聖ネルティス神官学校を訪れた一つの人影があった。
 蜂蜜色の長い髪を背に流し、大きな目には異常なほど小さな瞳と、挑発するような不適な笑みをたたえた口元を持つ男だった。白くゆったりした異国の服に、同色のマントを羽織っている。
 彼は学校の入り口に立ち、建物を見上げた。
「ここに、あの人が居るというわけですね…ああ怖い怖い」
 口では怖いといいながら、声色にも表情にも恐怖の色はカケラも現れていない。
「さて、入りますか…早く仕事を片付けないと、あの人に怒られてしまいますからね……」
 独り言をぼやきながら、その男---リッズ---は、学校の、来客用の呼び鈴を鳴らすのだった。
 それは、招かれざる事件の幕開けの合図でもあった。


続く

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