あかつきやみ                          日向 夕子


 館の高きをゆく風は、身を切るほどの冷たさはなかったが、年間を通して変わらぬ涼風で、一歩も動けない身にはこたえた。
 白亜の館の端、塔の尖端に、青年はかろうじて足をかけていた。
 負ったばかりの傷は、もう痛いのかどうかすら分からなくなった。熱でも出てきたのだろうか、頭が朦朧としてくる。
 ほとんどない足場、装飾の柱に身をもたれて、ようやくのこと立っているのだ。ここで失神でもしたら、確実に足をふみはずして落下し、死んでしまうだろう。
(…まあ、あの方にとっては、私が死んでも何らの不利益はないだろうが…)
 青年は、折檻のために彼をこの場に置いていった主人のことを、虚ろに考えた。

 この世界は太陽を持たず、ふたつの月だけが天球をめぐっている。
 そのため、「暗き世界」という名で呼ばれていた。その謎めいた闇を恐れる他界の者には、「魔界」とも蔑称される。
 この地に住まうほとんどは、「暗き世界」の王、銀の混合物から生命を与えられた者たちだったが、中には例外もあった。
 青年と、彼の主人たる堕天使である。
 神々のもとから離反し、魔界に身を投じた主人は、しかし銀の混合物にまつろうこともなく、不羈の「白き霊王」として名を知られていた。
淡い金髪に澄んだ碧眼、白い翼をその背に持つ霊王は、この世界では稀有な容姿である。
強大な力を持ちながら、居館「白陵の館」から滅多に姿を現さない霊王は、他の住人にしてみると、畏怖の対象、心中を量りがたい人物であった。
それは、霊王の従僕である青年にとっても同じことだった。

 青年の仕事は、主に館の管理である。
 料理から掃除、火床の手入れまで、とにかく家内のことは一手に引き受けていた。彼と主人以外、この館に住む者はないからである。
 ただひとつ、灯の管理だけは、彼の管轄外だった。
 白陵の館の中は、いつでも明るい。「霊王」の異名をとる主人に誘われて、死者の霊魂が集まり、淡い光球として館内をさまよっているからだ。
 週に一度、食料や日用品が館に届けられる。それらを受けとるとき、彼はフードを目深にかぶり、運搬してきた者とはできるかぎり顔をあわせないようにする。
 霊王は、従僕の存在や素性を、他者に知られたくはないのだ。
青年はほとんど、主人以外の者と口をきいたことがない。

「ネルティス様、お茶が入りました」
 彼が茶器を運んでいくと、主人は定位置でいつものように霊と語らっていた。
 真剣なのか恍惚としているのか、わずかに目を細めてひとつひとつの光球を掌にのせていく。
 彼は主人の邪魔をしないように、ゆっくりと茶の用意をした。
 霊王が何のために霊魂を呼び集めているか、彼は知っている。
 亡くした友人を探すためだった。
 天使には、血縁も性別も問わずに、長い人生を共に生きる相手を求める習慣がある。比翼の鳥であるふたりは、ごく自然に惹かれあうという。
 霊王の死んだ片割は、彼の親友であり、伴侶であり、半身であった。
 だから霊王は、今でも親友の魂を探している。
「………」
 そのことを考えると、青年は時々、悲しくなった。
 彼の髪は長く、蜂蜜のように明るい金色をしている。瞳は瑪瑙を削ったような碧眼である。霊王が、天使に多い特徴をもたせて、彼を創ったからだ。
 天使を模した擬似生命体。
 しかし、霊王に創られたにも拘わらず、彼はけして主人の心を得ることはできない。
 霊王は、若くして不遇の死を遂げた親友のためだけに、生きているのだから…。
「苦い」
 湯が顔にかかって、はっと彼は我にかえった。
 霊王が、眉間をよせて空のカップを持っている。中身は、たったいま従僕にすべて浴びせてしまったようだ。
「も…申し訳ありません」
 騒音を立てないことにばかり気を使いすぎて、抽出時間が長すぎたようだ。慌てて淹れなおしてこようとするが、主人は不機嫌にそれを留めた。
「もう要りません。それより、館の外に何かいます。どうにかなさい」
「は…?」
 一瞬、何のことかと思ったが、青年はすぐに了解して、急いで茶器を片づけた。
 厨を出て表口にむかいながら、窓のむこうを覗く。なるほど、庭園の中で、何か得たいの知れない生き物がいる。
 普段は装飾にしか使われていない、軽量の弓をとって、青年は色素に乏しい草木の繁る庭園に足をふみいれた。
「出て行きなさい。ここはお前が逃げ込むところではない」
 青年が現れたのを見て、足をひきずって身を隠そうとしたのは、大きな鼠のような生物だった。手負いのようだが、かえって獰猛な性が目つきに表れている。
 どうやら、銀の混合物とその民に反する一族のようだった。彼らはいくらか前に根絶やしにされて、長かった戦争も終わったというのだが、こうして残党が隠れていることがある。
 彼は、弓の間合いぎりぎりのところから、威嚇として一矢放った。
荒事は得意ではない。こうして追い払えるなら、願ったりなのだが。
「!」
 しかし、そう甘くはなかったらしい。大鼠は青年の害意を見てとると、手負いなりの素早さで襲いかかってきた。
 危うく後退して、今度は中てるつもりで連射する。しかし矢は大鼠をかすりはするものの、戦意を喪失させることはできず、青年は外壁まで追い込まれた。
「くっ…」
 手負いと侮っていたかもしれない。矢筒に残った矢もあと一本、焦りで掌に汗がにじんだ。
 そのとき。視界の隅で何かが光ったかと思うと、大鼠の眉間を貫いた。
「ぅあ…っ!」
 痙攣して大鼠が倒れると同時に、青年も悲鳴をあげた。
 大鼠の頭を撃ちぬいたのは、館で使っている銀器のナイフだった。それが、彼のわき腹までも斬って、壁に刺さっている。
「ネルティス様…」
 銀器は、主人が投げたものに違いない。
 彼が苦戦しているのを見て、助勢したのだろう。それにしても、助ける相手まで傷つけるのは、手加減を知らないのか、それとも僕のことなど気に留めてもいないのか。
(後者だろうな…)
 彼はわき腹を押さえながら自嘲した。主人が、被造物のことなど案じているはずがない。
 つくづくと、瞬殺された大鼠を眺める。これを門外に運んで埋めるのは、今の身では大仕事だ。とにかく燃やして、嵩を減らすことにするか。
 青年は痛みをこらえながら、魔術による火種を大鼠に放った。その四方に、火の精霊を制する紋を打っておいて、延焼を防いでおく。そうしてようやく、館の中に戻った。
「役に立たない子ですね」
 広間で、主人は呆れたようすで従僕を待っていた。
「申し訳ありません…。お手数をおかけしました」
「まったくです。私の庭を、あんな下卑な者の血で汚すとは」
「………」
 霊王は、つかつかと従僕に歩み寄ると、そのわき腹の傷に手をのばした。
 癒しの術をかけるつもりではない。経験から、青年は身を固くした。
 深くはないが血の溢れる傷に、主人は容赦なく爪を突きたてた。
「っあ……!」
 脳内に稲妻が走ったような激痛に、彼は喘いだ。
「あなたは私の命だけ聞けばいい。だから私の命令には逆らうことも、不可能と言うことも許されないのですよ」
 そんなことは重々承知していた。
 だが、答えようとしても、痛みのあまりろくな声が出ない。
「分かりましたか、リッズ?」

 そして、この塔の上に置き去られたのだ。
 この高みから独力で降りることはできない。霊王が許す気になって降ろしにくるか、さもなくばその前に力尽きて転落死するかだった。
(ああ…私が死んだら、また館が汚れたといってネルティス様が怒ってしまう)
 そして霊王は、また新しく従僕を創るのだろう。今度はもう少し役に立つ者を。
 霊王は彼にとって主であり父にも等しかったが、優しい言葉をかけられた記憶などなかった。友人がいない世など何の価値も見出せない霊王は、いつでも世界の不条理を呪っている。
(あの方にとっては、私など道具のひとつに過ぎないのか…)
 彼は、主人が時折、ひとりでいるときに不思議なほど穏やかな表情をしているのを見たことがある。
 おそらくそれは、逝ってしまった親友のことを想っていたのだろう。いつも陰鬱な主人が、ふと顔を和ませる瞬間だった。
(私は…何のために生きているのだろう)
 もう、足元の感覚も怪しくなってきた。
 視界がぐらりと揺らいで、眩暈なのだか重心を失ったのだか分からない。
 意識が暗転する直前に、彼は白いものが近づいてくるのを見た。
(ネルティス様……)


 目を覚ましたとき、あたりはまったく見も知らぬ光景になっていた。
 真っ先に目に入ってきた空は青く澄みわたり、鮮やかな叢中にとりどりの花が妍を競っている。甘い香りと鳥のさえずり、耳元を撫でていく微風が、五感を楽しませる。
(何だ…ここは…)
 これほど色彩豊かで暖かな場所は、「暗き世界」にはない。空がこうも明るいことさえ、月と星しかない世界ではありえなかった。
(あのまま落ちて、死者の国にでも来てしまったんだろうか)
 茫然と目を見開くリッズに、誰かが声をかけた。
「あ、起きたな」
 ぎょっとしてふり返る。そうしてみてはじめて、彼は何か長毛の獣に身体を預けていたことを知った。
 いつのまにか、隣に大柄の男が立っていた。
 赤い髪が無秩序にのび、身にまとう衣類は旅装束のようだが薄汚れていて、どう見ても無頼漢だった。男が簡素な鎧と長剣を携えているのに気づき、リッズは身を固くした。
「やー、よかった。気がついたらくっついてきてて、目は覚まさないし、ちょっと困ってたんだ」
「はい…?」
 訳の分からない言葉に、頬をひきつらせながら、リッズはこの男が誰なのかを察し、愕然とした。
(赤き、破壊王か?)
 がっしりとした長身、赤の蓬髪、放浪癖をもつ百戦錬磨の武人。闇の世界の大将軍、赤き破壊王の姿は、以前、一度だけ遠目に確認したことがあった。
 どうしてこんな状況になったのかは分からないが、よりによって赤き破壊王に会ってしまうとは。
 主人からはいつも、他人に姿を見せてはならないと命じられてきた。ことに霊王と並ぶ実力者たる「赤き破壊王」と「黒き闇王」、それにその麾下には、と。
(それを、赤き破壊王その人に…!)
 青ざめるリッズのようすに気づかない破壊王は、なにやら集めてきた石を並べながら、喋りつづける。
「ちょっと待ってな、今かまど作るから。あ、俺はブレイヴァー。お前は?」
「え…」
「名前なに?」
「……リッズです」
 口を開いたものの、とっさに偽名も浮かばず、霊王が授けてくれた本名を告げた。
「リッズか。後で、家まで送ってやるからな。安心しとけ」
「はあ…」
 困惑していると、何かがリッズの耳を舐めた。
「わっ」
 上体だけで飛びのくと、自分が背をのせていた動物と目があった。
「………」
 どうやら、大きな犬のような獣である。毛はふさふさと長く、きれいな白色をしていた。黒く濡れた目が、リッズをいたわるように見つめている。
 しばし見惚れたリッズだったが、その獣が身じろぎするので、ずるりと地面に両手をついた。
「え…? なに……」
 地面に腰を落とすリッズに、獣は鼻を近づけてくる。彼など一口で飲み込めるだろう大きな口に、食べられるのだろうかと、リッズは首をすくめた。
「何、どうしたんだ? 白毛」
 獣のようすに、破壊王もリッズを覗きこむ。そうして、納得したように手をうった。
「あちゃあ。お前、怪我してたのか。じゃあ飯の前に手当てだな」
「え…」
 言われてようやく、わき腹に痛みが戻ってきた。そういえば、銀器で傷を負ってから、塔の上で気を失うまで、何も手当てらしいことはしていない。
 考えるとまた意識が遠のきそうになった。まだ思考能力がよく働かないのも、熱があるからなのかもしれない。
(でも寒くはないな…こんなに外気が暖かいなんて)
 ここはどこなのだろう?
 破壊王がどこかに水を汲みにいっている間、リッズは傷の具合を確かめるために服を脱いでみたが、素肌にも風は冷たく感じられなかった。
「…これは本当に、あちゃあだな…」
 脱いだ服を見ただけで、リッズは嫌な気分になった。傷口からはがすようにした時点で予想はついていたのだが、血が固まって赤黒くなっている。傷本体のほうは直視したくなかった。
 破壊王が今までリッズの負傷に気づかなかったのが不思議なくらいだ。それとも、いつも戦場にいたおかげで、多少の血色は目に入らないのだろうか。
「水持ってきたぞ。まずは洗おうか」
 なみなみと水をたたえた鍋を運んできた破壊王は、かまどの近くに置いてあった荷物からさらしや塗り薬らしきものを取り出していく。
 破壊王の動く手を見ながら、リッズはぼんやりと尋ねた。
「ここは、どこですか…?」
「ここ? ここは百花の森。『守護せし世界』の」
「『守護せし世界』…?」
 やはり、とリッズは内心で嘆息した。「暗き世界」でないことは承知していたが、あらためて言われると、ますます混乱する。
 「守護せし世界」は精霊たちの故郷である。どうした理由で、そんな遠地まで来てしまったのだろうか。
「はい腕あげてー」
 言われるままに傷を負ったわき腹をさらすと、破壊王は無造作に水をかけ、乾いた血をこそぎ落とそうとする。
「…っ! いったぁ!」
「我慢がまん。もうちょっと」
 思わず悲鳴をあげるが、破壊王は気にしたふうもなく、傷口を洗っていく。その手は怪我人に対する容赦がなく、あまりにも繊細さに欠けていた。
「〜〜〜〜〜っっ!!」
「そんな悩ましい声出されると困るな」
「な、悩ましくないです! いたたたっ、断末魔です!」
 目が白黒した。さすがは「破壊王」の異名をとるだけはある、この無自覚な乱暴さ。
 薬をぬって包帯を巻きおえたときには、もうリッズは息も絶え絶えだった。
「じゃ、飯つくるから、ちょっと待ってな」
「………」
 破壊王が離れていってから、リッズは恐る恐るわき腹を見た。
 包帯の巻き方は、そうひどくはない。さすがに慣れているのだろう。しかし、先ほどまで乾いていたはずの血が、もう滲み出てきている。
 脱ぎ捨てられた服は、洗っても落ちないだろう血糊でひどいさまになっていたので、とても着なおす気にはなれなかったのだが、破壊王が自分のマントを貸してくれた。
(なんだ…? ネルティス様、私に愛想がつきて、破壊王様に売りとばしたのか…?)
 ぐったりと獣に身をよせていると、破壊王は手際よくかまどに火をおこし、どこからか調達してきたらしい野菜や肉を刻んでいく。
「あの…私はどうして、ここにいるんでしょうか」
 破壊王が具をすべて沸騰した鍋の湯に入れてから、ようやくリッズは尋ねることができた。
「ん? ああ、俺もここに来るまで気づかなかったんだけど、リッズ、白毛にしがみついてたんだよね」
「え…」
「精霊界について俺が白毛から降りて気づいたんだ。なんかがっしりつかんで放さなかったけど、よく落とされなかったな」
 長毛の獣をふり返る。そういえば、この獣はふたりの人を乗せてもなんないほどの巨躯である。鞍や轡のたぐいは一切つけていないが、破壊王の騎獣なのだろう。
「白毛は空を翔けるんだ。どこで拾ってきたんだろうな。『暗き世界』で、っていうのは間違いないけど」
「そう…ですか」
 では、あの塔の上で、意識を失いかけた瞬間、偶然にもこの獣と破壊王が通りがかったおかげで、自分は助かったのだ。
「………」
 あのとき、ちらりとかいま見えた、白いもの。霊王だと思ったのは、この獣だったわけか。主人と信じて、とりすがって放さなかったとは、己でも苦笑せざるを得なかった。
(結局、ネルティス様は来てくれなかったのに…)
 愚かしい延命をしたものだ。
 塔に置き去りにされたときの、惨めな気分がよみがえってきた。
(ネルティス様…。きっと、私など死んでしまったら次の日にはもう忘れている)
 今までも些細なことで機嫌を損ねては打擲されたが、今回のような危うく命に関わるところで放置されたのははじめてだった。
(道具として扱い、役立たずと詰るくらいなら、はじめから創ってくれなければよかったのに)
 そんなことを思っていると、鼻の奥が痛くなる。
「うぇ…」
「えっ、なんで泣いてるんだリッズ。そんなに腹へってたのか?」
「ち、違いますっ。傷が、痛いん、です」
 反論しながらしゃくりあげると、白毛が慰めるように鼻をよせてくる。その首のあたりに顔をうずめて、仔犬のふりをして丸くなった。
「あとちょっとで飯できるからな。辛抱しろよ」
 破壊王は心配の色も見せず、鍋をかきまぜている。本当に空腹で泣いていると思っているのだろうか。おかげで、それ以上言い訳も考えずに、心ゆくまで涙することができた。
「飯だぞー」
 ややあって破壊王が木椀についで渡してくれたものは、スープとも煮物ともつかない、いかにも勢いで作ったらしい料理だった。
「ありがとうございます…」
 熱い木椀を両手で包んでいると、どうやら人心地ついてきた。吐き気さえ誘っていた傷の痛みも、次第におさまってきている。
 やはり木でできた匙で具の芋をかじっていると、また嗚咽がこみあげてきた。
「うわ、泣くほど不味いのか」
「いえ…」
 はっきり言って美味くはない。具の大きさもばらばらで、脂もやけに多く浮いている。具材と香辛料の質がいいので、なんとか素材にたすけられていた。そもそも消化によくなさそうなので、怪我人の食べるものではなかった。
それでも、他人がつくった食事は久しぶりだった。
(小さい頃は、ネルティス様がご飯を用意してくれたのだろうか…。まあ、誰か通ってきていたのかもしれないけれど…)
 まだ創られたばかりで、本当に何の仕事もできなかった頃。他に使用人もなかったということは、とりもなおさず、霊王がリッズの教育係だった。
 厳しい教師ではあったかもしれないが、今のように自分の存在に自信が持てなくなるようなことはなかった。
いつから、こんなにも卑屈になってしまったのだろう。
天使たちの比翼の文化を知り、霊王とその半身の繋がりを実感してからだろうか。
「リッズ…鼻水おちるぞ」
 破壊王がようやく心配そうな声を出したと思ったら、そんな一言だったので、思わず吹き出した。
「破壊王様…!」
「えっ、何だよ」
「…いえ。顔を洗ってきます。水場はどこですか?」
 傷をかばいながら、破壊王が指さす方向に歩いていくと、木々の間に、小さいながらも清冽な泉がわいているのを見つけた。
 近づくと、軽やかな女性の笑い声とはねる水しぶきが、精霊の存在を教えてくれる。リッズは少々目を細めた。
「こんにちは。お水を分けてもらえますか」
 風にまぎれる精霊の少女たちに乞う。彼女たちはにっこりと笑ってリッズを迎え入れてくれた。
「どうぞ、異界のお客人」
「ブレイヴァー様のお友達なのね」
「え…ええと」
 お友達ではない。だが、破壊王と連れ立っているところを見たなら、そう映るだろう。否定するのもはばかられた。
「さっき、お会いしたばかりです」
 少女たちは気にしたふうでもないが、自分の泣きはらした顔を見せるのが恥ずかしく、リッズは丁寧に顔を洗った。熱くなった目に、泉水がひやりと気持ちいい。
「…破壊王様は、どうして精霊界にいらしたんでしょう」
 尋ねると、精霊たちはおかしそうに首をかしげた。
「どうしてってことはないわ。破壊王様は、いつもあちこちの世界を漂泊しているもの。精霊界は特に気にいられてるけど」
「へえ…」
 ならば、リッズとは大違いだ。彼はほとんど白陵の館を出ることもなく、素顔で他人と話すこともなかった。彼の世界は、あまりに狭かった。
 破壊王のところへ戻ると、彼も精霊と会話を楽しんでいるところだった。
「あはは、それがカーディーラスとはこないだ喧嘩したばっかりだから、城には近づけないんだ」
「そのようですね。あれから、闇王様がいらしたときも精霊王様はなかなかご機嫌をなおされなくて…」
「心が狭い奴だよなー」
 リッズは白毛の横にことんと腰を下ろして、冷えてきた椀の中のものをほおばった。
 どうやらこれは昼食のつもりだったようだが、そろそろ陽も西に傾いてきていた。色が淡くなっていく空を、リッズは名残惜しく見つめた。
(こんな世界は、知らなかった)
 知識として、精霊界のことも青い空も記憶してはいたが、それはすべて、遠いどこかの話だった。だが本当は、こうして自分の足で踏むことができる場所だったのだ。
 曰く言いがたい解放感が、リッズを包んだ。
(ネルティス様が、私など必要でないというのなら…私は、このままどこかへ行ってしまってもいいのかもしれない)
 破壊王は、見も知らぬ彼にも、どうやら破壊王なりに親切にしてくれている。痛い目もみたが、それは悪意によるものではないはずだ。
 このまま、連れて行ってくれと頼めば、どこへでも運んでくれるかもしれない。ネルティスも、消えた従僕を探すようなことはすまい。
(そう、探すはずがない。私はご友人ではないのだから)
 それを思うと胸が痛んだ。だが真実だ。
 今、帰路をたどらなければ、リッズは帰る場所を失う代わりに、自由になる。
(そうすれば、もうネルティス様の歓心を得ようと、心悩ませることもない…)
 うっとりとした淋しさが、胸にわきおこった。
 それがどんな淋しさなのかは、自分でも判じがたい。寄る辺を失う心許なさなのか、白陵の館においての切なさなのか。
「リッズ?」
 ふと気がつくと、破壊王がリッズの顔を覗きこんでいた。
「どうした? 眠いのか?」
「あ、いえ…」
 精霊たちはもういなくなっていた。もしくは、薄暮になってきたために目に映らないのかもしれない。
 破壊王が食器やかまどを片づけているので、リッズも手伝った。いくらなんでも「暗き世界」の最高地位にある軍人の手を、これ以上わずらわせるわけにはいかない。
「あ、そうだ。リッズ」
 何か思いたったらしい破壊王が勢いよくふりむいたので、彼が手にしていた鉄鍋が、遠心力を得てリッズの頭にあたった。
「ぐぁっ」
「あっ…ごめん」
 思わず倒れそうになったが、その前に破壊王は片腕で軽々とリッズの体重を支え、地面に立たせた。
「軽いなリッズ。もっとよく食べて、太ったほうがいいぞ」
「す、すみません…」
 どうもここで自分が謝るのは筋違いのような気はしたが、リッズはとりあえずそう言っておいた。ついでに破壊王から数歩離れる。近づきすぎると危険だと分かった。
「白毛も腹がへってきたっていうから、こいつが腹ごしらえするまで、送ってくの待っててくれるか?」
「はあ」
 リッズは、立ち上がって伸びをしている獣を仰ぎ見た。この大きな犬は、何を食べるのだろう。
 そんな彼の心中を見抜いたように、破壊王が先導して進みながら言う。
「こいつは意外にも魚好きなんだ。少し歩けば河があるから」
 破壊王はそこまで徒歩で行くつもりらしい。リッズも後に続こうとすると、白毛が顎で止めた。
「?」
 何だろう、と戸惑ったが、今度も白毛の意図を察したのは破壊王だった。獣が鼻を鳴らしているのを聞いて、納得の体で戻ってくる。
「そうだ、怪我してたんだったな」
「あ…」
 幼子を抱えるように容易くリッズを持ち上げる。慌てて白毛は地に伏せて騎乗しやすいように姿勢をつくってくれた。破壊王なら、立ったままの白毛にリッズを放り投げることもやりかねないと知っているのだろう。
 獣の柔らかい背中に座らされて、リッズは移動することになった。
「あ、ありがとうございます」
「いやー。傷を治してやればいいんだろうけど、俺、治癒の術って下手なんだよね」
 いたく納得のいく言葉だった。

 河につくと、白毛は喜んで水流に入っていって、川魚を捕まえはじめた。
 川岸でそれを眺めるリッズは、迷いながら隣の破壊王に声をかける。
「破壊王様…」
「んー?」
 破壊王は、座りこんで何か足もとを探っている。
 何と言ったものかためらい、視線をさまよわせた。
「あの…私を…」
(連れて…逃げてくださいじゃないしな…)
 結局、口をつぐんでしまう。まず何の前置きもなく頼むのが無理なのだ。それらしい話題を探すことにした。
「ええと…これから、どこへ行くおつもりですか?」
「だから、お前を送りに、『暗き世界』行くけど」
「いえ、その後」
 破壊王は、少し考えるそぶりを見せた。
「そうだな、こっそり妖精界に行こうかと思ってるんだが…穴場の小界を見つけたって噂を聞いたから、そこを見に行ってからにしようかな」
「穴場の、小界?」
「ああ。精霊とか放浪癖のある神が、そういう情報を聞かせてくれるんだよ。神の中には、知られざる秘境を求めてあちこち飛び回ってる人がいてな」
 目も眩むような話だ。
 それにしても、そんなに奔放に出歩いていて、破壊王の本業はいいのだろうか。
「破壊王様は、いつも『暗き世界』で全軍の指揮をとっているのではないのですか?」
「ああ、戦時中にはな。けど、平時は軍も縮小っていうか、実質解散してるし。執政官らにしてみると、むしろ俺がいないほうが楽みたいだしなぁ」
 ずいぶんな発言にどきりとした。赤き破壊王は「暗き世界」の英雄である。その彼が、国政の担い手たちと対立しているというのだろうか。
「な、なぜですか?」
「なんか、俺が通った後は、必ず何かが壊れてるって信じられてるみたいだな」
「…ああ、なるほど」
 権力争いといったこととは、無縁らしい。
「それに、俺はもともとあの世界の一員だっていう意識が乏しいから、好きなときに好きなところに行くのが性になってるんだよ」
「『暗き世界』の一員ではない…?」
 自らの地位を韜晦するような破壊王の物言いに、リッズは怪訝に眉間をよせる。
そんなはずはない。破壊王はもうずっと昔から、月下の世界の武人として名をはせており、最古最大の砦自体が彼の居城となっているのだから。
「ああ。俺は精霊たちに育てられたからな。エルディークが俺を見つけて、月下の民だって教えてくれたんだが、はじめはよく分からなかったな。だから、今でも俺の中では、あの世界の生まれなのは自分の半分くらいなのさ」
「そう…なのですか」
 それだから、将軍職が閑なときにはこうして各地を漫遊するのが、彼の当然の生き方なのだろう。
 とても自由な在り方に映った。
 だが、そんな破壊王でも多くの時間を「暗き世界」での職務に割いているのだ。それだけ、生まれた地、心の半分が帰属する故郷には拘束力があるということなのか。
「では、軍務になどつかなければよかったと、思うこともあるのではないですか」
 そうすれば、どんなときでも自由に遊行できる。
 しかし、破壊王は磊落に笑って首をふった。
「いや、さすがにそれはないな。だって、俺はあいつらが好きだから戦うことにしたんだから」
「…え……」
 なぜだか、その一言はリッズに大きな衝撃を与えた。
 唖然として破壊王を見つめるリッズの表情を、どうとらえたのか、本人は照れるでもなく晴れやかな口調で続けた。
「そこを故郷と思っていなくたって、友達を守ろうと思ったら、軍にいてもおかしくはないだろう?」
「…………」
 何も言うことができず、リッズは穏やかでない胸に手をあてた。
 今、破壊王はとても重要なことを教えてくれた。そう胸中で何かが訴えているのだが、理性ではそれを整理しきれなかった。
「でーきた。ほら、いい匂いだぞー」
 ふいに、破壊王が立ち上がって何かをリッズの頭上にのせた。
「…?」
 ふわりと、夕さりの風に甘い香りがまざった。
「あ…花冠ですか?」
「そう。リッズの髪にあわせて黄色い花で」
 手をやってみると、たしかにいくつもの花が冠に編まれていた。
 粗忽な武人だとばかり思っていたが、意外な特技があったらしい。リッズは花細工の作り方など知らなかった。
 暮れる夕陽に、破壊王の燃えるような色の髪は、不思議と優しく映えていた。
「…どうして、空が赤くなったのでしょう。さっきまでは青かったのに」
 なんとなく、見たことのない天の移ろいに首をかしげると、破壊王は困ったように眉間に指をあてた。
「あー…昔、理屈は聞いたことあるんだが、よく分からなかった。でも『暗き世界』でも、地平に近い月は赤みがかったりしてるだろう?」
「ああ、そういえば」
 故郷の空を思い出して頷いていると、白毛が河から上がってきた。それを見た破壊王は、なぜか騎獣から離れてリッズの陰に行く。
「?」
 何を、と尋ねようとした瞬間、白毛がぶるっと大きく身震いした。
「…!」
 水しぶきがリッズの全身にかかる。
「破壊王様…」
 背後で破壊王が小さく笑っていた。彼よりも小柄なリッズが、盾になるはずもない。油断しているリッズに悪戯をしかけたのだ。
「ははは、よく濡れたなあ。白毛も冷たくなって。火の精霊に撫でてもらえよ」
 くしゃみをすると、どこかから忍び笑いが聞こえて、何かが暖かい手でリッズに触れた。破壊王が言うとおりに、火の精霊が湿った衣類を乾かしてくれているのかもしれない。
 ふっと、その暖かな感触がなくなる。
 もう濡れてはいなかったが、夜気がせまってきたのだろうか、軽く寒気を感じた。
 白毛に近づいて触れると、こちらも長い毛は乾いていた。首のあたりを撫でると、気持ちよさそうに目を細める。
「夜が早いな」
 破壊王が独りごちるので見上げると、まだ陽の名残りが強い空に、小さく一番星がのぼっていた。
 妙に心細くなる。
「…帰りたい…」
 知らず、呟きがこぼれた。
 それが聞こえたのかどうか、破壊王はリッズの肩を軽く叩くと、白毛に笑いかけた。
「じゃ、そろそろ行くか」


 帰りの道は、来たときと同じ経路をたどっていくと破壊王は言った。リッズをどこで拾ったのか分からないからだと。
「家の近くまで来たら教えろよ」
 そう言われて、リッズは当惑した。自分が白陵の館の者だと知られるのは、かなりまずい事態だ。
 しかし、ごまかそうにも、白毛の通る道がまた問題だった。
 破壊王が言ったように、この大きな犬は空を翔ける。こんな高さを行く獣に、いったいどこからしがみついたと言えるだろうか。館の周辺に、他に高い場所など思いあたらなかった。
(まあ、なんというか…この人だったら、知られても大丈夫な気はするな)
 そのときになってからどうするか決めよう、とリッズは腹をくくり、空中散歩を楽しむことにした。
「落ちるなよ」
 破壊王が、傷を負っていないほうの腰を支えてくれるので、恐る恐る下を覗きこむ。
「何だろう…砂沙漠ですか?」
 足下には、何もない暗い平野が広がっているように見えた。
 しかし、砂漠にしては、何か奇妙だ。時はわずかに欠けた月が、昇りだして数時間といったところなのだが、その月光を照りかえしてさざめいているように映る。
「海だよ」
 破壊王が当然のような口調で教えてくれるので、リッズは驚いた。
「海…?」
 言われてみれば、あの細かな光の散りようは波か。
 リッズはぐるりと四方を見渡した。あちらに見えるのは町の光、陸だろう。その反対側のゆるい弧は、では水平線なのだろうか。
「海、はじめて見ました」
「そうか。この世界では、海へ涼みにくることもないからな」
 リッズの好奇心に応えようとしてか、白毛は高度を下げて、ゆらぐ海面に近づいた。
 独特の香りがする。月影を照り返してもいたが、波の下でも何かが光りうごめいているようだった。
「光る草や虫が棲んでるんだよ。あまり開発はされないけど、海は戦場になることもほとんどなくてな、平和なところだ」
「そうなんですか…」
 精霊界にも仰天したが、故郷であるこの世界でさえ、リッズには知らないことばかりだ。
 見知らぬ土地のことを思うと、今まで覚えたことのない高揚感があった。どんなに面白く珍しいものが、世界には溢れていることだろう。
(それなのに、どうして私は帰ろうとしているのだろう)
 思案するリッズの頭から、花飾りが落ちた。
「あっ…」
「あー」
 手をのばしたが、とうに後方へ流されていってしまった。惜しそうにするリッズの頭をぽんぽんと叩いて、破壊王は「また作ってやるから」と約束する。
 だが、また破壊王に会えるはずもない。
 浜を過ぎて、陸地の上に出た。空中を行くと、かなりの距離も一息に進んで、すぐにリッズは見覚えのある地形を見つけることができた。
(…どうしよう)
 この際、怪しまれようとも、適当な平地で降ろしてくれと頼むべきか。
 悩んでいたのも束の間だったが、その数秒で白毛は空を駆け下り、地上に足をつけた。
「えっ?」
 どういうつもりだろうといぶかしむと、そのまま草地を駆け、白陵の館のほど近くでぴたりと止まる。
(…あう……)
 懸念するだけ無駄だった。どうやら、リッズを拾った場所が分からないのは破壊王だけで、白毛はしっかり覚えていたらしい。たしかに、飛行中、自分に人ひとりがしがみついてくれば、気づかないはずがない。
「ここでいいのか?」
 破壊王が含みなく尋ねるので、リッズも頷くほかなかった。
「ああ、あの塔に登ってたのかな」
さすがに、塔の窓ではなく、先端に立っていたのだとは想像できないらしい。
白毛が身を低くしてくれたので、リッズはひとりで降りた。
「破壊王様…」
「ん?」
 この人の言葉の何が、自分をあれほど驚かせたのだろうか。おそらくはそのために、この館へ戻ってきたのだが。
「あの…」
 破壊王が自分と同じ立場だったなら、どうするのだろうか。
「破壊王様が、今の役職を退かされたら、どうしますか」
「今の役職?」
「軍に必要ないと言われたら…」
 そんなことは起こりえない。それでも、訊いてみたかった。
 破壊王は、さして考えるふうでもなく、即答した。
「遊ぶかなー」
「遊ぶ…?」
「ああ、今日みたいに。いつもとあまり変わらないと思うけど」
 あまりにあっけらかんとしているので、リッズは拍子抜けした。将軍職に未練はないのだろうか。
「…『暗き世界』から、出て行ってしまいますか?」
「いや、けっこう立ち寄ると思うけど。だって出不精が多いからな、エルディークとか、銀の混合物とか。それに、せっかく皆が砦を住みやすくしてくれたしな」
 銀の混合物。月下に住む者の、父にして主。
「銀の混合物が…主人がいるから…?」
「いやあ、あの人って王様っていうか、単なるいい人だよな」
「………」
 あらゆる世界においても最強に数え上げられる存在を、子であり臣である破壊王が、「出不精」だの「単なるいい人」だの言ってもいいのだろうか。
 たしかに霊王も銀の混合物のことは「自ら覇権を放棄した愚か者」と酷評していたが、それとこれとは話が違う。
 しかし、リッズは呆れると同時に、破壊王の屈託ない笑顔の中に確かな解答を見出していた。
「破壊王様…ありがとうございます」
「ん? うん」
 何のことを礼されたのか、破壊王は分かっていないだろう。
 リッズは白毛の正面にまわって、その鼻面を撫でた。この獣にもずいぶんと慰めてもらった。
「ありがとう、白毛」
 白毛は、礼に応えるように、ぺろりとリッズの頬を舐めた。
「じゃ、ネルティスによろしくな」
 リッズが白毛から離れるのを確認して、破壊王はそんなふうに別れを告げると、ふたたび空に戻っていった。
「………」
 破壊王は、リッズが生粋の月下の民ではないと、気づかなかっただろうか。それとも、何もかも分かっていて、知らないふうを装っていたのだろうか。
(…前者かな。何も考えていなさそうだ)
 飛び去っていく破壊王と白毛の姿が見えなくなるまで、その場にたたずんで彼らを見送ってから、リッズは館の門をくぐった。
 霊王は、しばらく消えていた自分をどう思うだろうか。今度こそ本当に追い出されるかもしれない。そうでなくとも厳しい叱責は免れないだろう。
 だが、何を問われても、破壊王のことは隠しておこうと決めた。
「ネルティス様…」
 表口から入って、リッズはぎょっとした。そこに自分の主人が立っていたからだ。まるで、彼を待っていたかのように。
 いつものように儚い光に包まれて、足元を眺めていた霊王は、リッズの帰宅した気配に顔をあげた。
 その顔に、少なくとも明らかな怒りは見てとれないことに、リッズはほっとした。
「ネルティス様…あの、申し訳ありませんでした」
 おどおどと謝る従僕に、霊王は意外に安堵の声をかけた。
「リッズさん」
「えっ」
 その呼び方に違和感を感じて、リッズは主人を凝視する。
「…ネルティス様?」
 いつもの主人とは違う。常に世のすべてを拒絶していたような霊王が、今は柔らかく、人を想う目でリッズを見ていた。
 彼の戸惑いを察したのだろう、霊王は困ったように少し笑った。
「私は、あなたの主人ではありません」
「………」
 何を言っているのか分からない。
 もしかしたら、リッズが罰の途中で勝手にいなくなったことを怒って、もうお前など従僕でさえないと告げているのだろうか。
 絶句するリッズに、霊王は近づいてくる。
「私は、あなたの主人、白き霊王ではありません」
「え…だって」
 どこからどう見ても、彼は白き霊王ネルティスだ。これほど酷似した別人があるはずがない。
「ネルティスです。霊王ではない、もうひとりのネルティス。…霊王は、私の心の同居人です」
「…え……?」
 理解するのに、少々時間を要した。
「…心がふたつあるというのですか? どうして…」
 自分は霊王ではないから、リッズとは主従関係にない、と言うネルティスは、淋しげな微笑をうかべる。
「昔…私は、半身と故郷とを、同時に失いました。とても悲しく、憤ろしかった。それは苦しく、ひとりの身には余る感情でした」
 それはリッズも知っている。天使というものは総じて、目の前のネルティスのように穏やかであるはずなのに、霊王はその別離のために変わってしまった。
「だから、私の心は、ふたつに分かれてしまった…。その一方が、怒りをもって復讐を誓う、白き霊王となりました」
「では…あなたは?」
 どんな心情を担うというのか。
「私は…ただ、待つだけの者です。何もできなかった私をあの人が許して、この手に帰ってくることを、信じて待つだけ」
「………」
 あの人。ネルティスの亡き友人。
 では、今まで主人の顔つきがいつもと違うことがあったのも、単に気分を和ませていたのではなく、人格が入れ替わっていたのだ。
「本当は、あなたに会うつもりはありませんでした」
 主人とまったく同じ姿でそんなことを言われ、リッズはつくづく奇妙な気分になった。
「でも…あんなところに置き去りにしてしまって、いなくなったことが心配で…。帰ってくるとは思わなかったので、つい声をかけてしまいました」
 リッズに右手をのばしてくる。今は、その手が恐ろしいものには感じられなかった。
 ネルティスの手が額にあてられると、ひやりとしたその感触に、慣れすぎて気づかなかった倦怠感と頭痛が吸いとられた。ずっと続いていた熱がおさまったようだった。
「…もうひとりの私が、こんなことをして…すみません」
 包帯をまかれているわき腹に手をやると、その傷も癒える。その手腕は、さすがにかつて「癒しの天使」と呼ばれただけのことはあった。
「ネルティス様…あの…霊王様は、何をするおつもりなのですか…?」
 ネルティスが先ほど口にした、「復讐」という一言が気にかかった。
 たしかに霊王は様々なものを恨んでいた。親友は神々に殺されたのだと、かつての故郷である楽園を。そして、かつては天の使いであった自分が身を落とさねばならなかった、闇の世界を。
 ネルティスは沈痛に首肯した。
「彼は…銀の混合物を弑して、この世界の全権を握るつもりでいます。その後、神々に戦いをしかけるために」
「え……」
 あまりに凄絶な計画に、リッズは唖然とした。
 魔界と楽園を戦わせようというのか。神々への復讐のために。
「ですが、そんなことを闇王様がたが許すはずがない…!」
 銀の混合物を弑殺するというが、その前に立ちはだかるものは大きい。何より黒き闇王・赤き破壊王が、黙って霊王に討たれるはずがなかった。
「ええ、勝算はきわめて低い。闇雲に攻めても、返り討ちにあうだけでしょう」
 ネルティスは冷静に評した。それでも声の険しさは変わらない。
「しかし…彼は時間をかける覚悟があります。そして、どんな愚行であろうとも、彼がこの世界を制しようとしたなら、被害は小さいものでは済まないでしょう」
 たしかに。異邦者にして三大実力者の称賛をうけ、手段は選ばないであろう霊王のことだ。反逆は失敗しても、そこにいたる過程は、どんな悲惨なものになろうか。
 まかり間違えば、破壊王が銀の混合物の代わりに死ぬことくらい、あるかもしれない。
「………」
 自分は、そんなことの手助けをしに、帰ってきたのか。
 恐ろしい想像に黙りこんだリッズに、ネルティスはためらいがちに声をかけた。
「…リッズさん。あなたは…どうしますか」
「え…?」
 どういう意味か、とリッズはゆっくり瞬いた。
「今なら、あなたがもう一度その身を返して、この館を出ていっても…霊王には気づかれません。彼は眠っていますから。…でも、これからも彼のもとに残るのなら、あなたも今以上に危険な命令を下されることになります」
「………」
「任務のために命を落とすかもしれない。弑逆の大罪人と誹られるかもしれない…生粋の月下の民ではないあなたに、人々の目が厳しいだろうことは想像にたやすい…」
「では…出て行けと?」
 ネルティスはゆるく首をふった。あなた自身で選ぶことだと。
「………ネルティス様のところに、残ります」
「リッズさん…いいのですか?」
 重く頷いた。
「謀反の手駒になりたいわけではありませんが…」
 破壊王が言っていた。自分は半分ほどしか「暗き世界」の住人ではない。だが、そこに住む人々が好きだから戦うのだと。
 銀の混合物も、主人だから従っているのではない、ただ好きだから守るのだと。
 リッズにとって、ネルティスはひたすらに厳しく、恐ろしい主人であったが、同時に離れがたい引力を持っていた。
 それは、服従意識のような拘束力のあるものではなく、強迫観念でもない。刷り込まれた盲信でもなかった。しかし同時に、それらすべてでもあったのかもしれない。
 ひたすらに、リッズは霊王を慕わしく感じた。
 主人の何が、彼を惹きつけるのかは分からない。
 思い返しても、優しい部分など浮かんでくることもない。主人がリッズに見せたのは、狂気的なまでの怒り、呪い、失望、嫌悪と、深い苦しみだった。
 心休まる思い出などない。それでも、主人の悲痛に歪んだ表情を思うと、リッズは戻らずにいられなかった。
 破壊王の単純さを見るといい。
 理由など要らない、理屈など必要ない。どんな新世界よりも、あの主人のところに帰ることを、自分の心が求めてしまったのだから、仕方がない。
 諦めるほかはなかった。
「…私は、霊王様のお側を離れることはできないようです」
「……」
 ネルティスは、リッズの思惑を理解したのかどうか、戸惑ったように言葉をつなぐ。
「…謀反の手駒にはなりたくない、と言うのなら…」
 何か考えごとでもするふうに、リッズから離れて広間を歩む。
「彼を止めてみますか?」
「止める…?」
 あいかわらず、ネルティスは儚いまでに穏やかだ。それでいて、消えてしまいそうな風情はない。霊王と共存していても、負けることのない芯があった。
「私は、何もできない者です。でも…彼の愚かな計画は止めたい」
 リッズは、わずかばかり目を見開いた。
 そう、霊王のもとに戻るということは、何も霊王に盲従するということではない。
 たとえば、側近く仕えながら、裏切りつづけることもできるのだ。
 他でもない、霊王のために。
 なぜなら、リッズは霊王に従属したいがために、戻ってきたのではない。霊王のことが好きだから戻ってきたのだ。
 霊王を誤った道からひきもどそうと、己の意志に従ったとして、何の不都合があろうか。
「ええ…止めましょう。あなたがそう仰るのなら」
 リッズが放心したように呟くので、ネルティスはやや苦笑した。
「ですが、私にはあなたに命令する権限はないのですよ?」
 それこそ愚かしいこだわりだった。
「では、命令でなく依頼を。たしかに承りました、ネルティス様」
 今は、目前のネルティスは、主人とははっきりと別人に見えた。
 そして、自分自身が何者であるか、どの道を行くのかも、間違いようもなく明らかになり。
(破壊王様、もう一度、お礼を…)
 リッズは不敵に笑んだ。
 故郷など、帰属する場所など、もう不要だ。
 この身もこの命も、なにを惜しもう。
 胸中にただのひとつ、想いをそそぐ人があれば、すべてはこと足りるではないか。指針も行動原理も、そこから生まれてくる。

 もう、自分を憐れんで泣くことは、ない。

 了  



あとがき:「聖子羊学園〜」に比べて、ちっとも肝がすわってないしヘタレて青二才のリッズでした。
      タイトルつけるとき、ちょっといい話。
      魔界の話だから、「赤くて白くて暗くて月っぽいタイトルにしたいわな」と思っていたのですが、

      それ全部満たしたら、えらい長い題になるし、こんなショボい内容の掌編につける気にならん。
      「ぎょうあん」あたりで手を打つか…と、国語辞典で「暁闇」を見てみたら、
      「あかつきやみ」って読み方が載ってたんですばい。
      あかくて、やみくて、つき(=しろ)です!
      感動しました!岩波の神様ありがとう!